うわのそらという自由

「うん」と言う代わりに「はい」と言ってみる飛行機雲を目で追っている

未補さん うたよみん2018年11月の作品より

 一読して伝わるものがあります。「うん」「はい」などの呼びかけへの応答の言葉は読むものに強い関心をもたらし、呼びかけられた主になったように歌に入って行けます。加えて、上の句全体で急に冷めた関係性を表しているように思えます。これはわたしの感覚ですが、「うん」は何でも共有しあえる、好きなことも嫌いなことも大体一緒の、ごく親しい間柄でのうなずきで、「はい」は相手のことがよく分からないなかで、どのような話題でも相手に不快感を与えずに済む応答です。「うん」と言うことが自然な状態であえて「はい」と言うのは、変わり目であり、その瞬間を切り取った歌は、シャッターチャンスをとらえた写真のような趣があります。

 なにが主体の心にその変化をもたらしたのか。ひとつの可能性としては、親しくて価値観も一緒で何でも共有しあえると思い込む相手に、そうではないと伝えて相手を責めるニュアンスを含めたと考えることができそうです。もしそうなら、主張する言葉を百も二百も重ねるよりもこの「はい」の切れ味は鋭く、なかなかの戦闘力です。しかしながら「飛行機雲を目で追っている」という下の句により、別の可能性へと開かれているようにみえます。相手を責める緊張感や、意味を圧縮した言葉の戦闘力とは無縁の、うわのそら、とも言えるような心の状態があるようにみえます。

 コミュニケーションには様々な約束事があり、言葉の使い分けはときに、意図するよりも多くの意味を含んでしまいます。外から来る意味のほうに自分を合わせてしまうことさえあります。「うん」から「はい」への転換は、約束事を利用したコミュニケーションかもしれませんが、約束事そのものからの解放と考えることも出来るように思います。こうしないと親しいと思われない気がする、つまらないと思われてしまう、嫌われてしまう、そんな強迫観念の結果「うん」を使う状態から、中立的な「はい」と飛行機雲により解放されて本来の自分が現れます。その後相手は離れて行くことも、本来の自分を知ったうえで共に行くこともあるでしょう。どうなるかを操作する前に、落ちついて自分のことを決められる時間が、今はとても大切な時代だと思うのです。

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