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ハルモニア  Harmoniā

 風がそよぐ。日の当たる庭では洗濯物がはためいている。白いシーツの下、緑の絨毯の上に寝そべったあなたの頰に、乾きはじめたシーツの先端が触れ、洗濯石鹼の清潔な香りが鼻をかすめる。頭の下からは青々しい芝生と土のにおいが立ち上り、ペールブルーの空から黄金色の光が降り注ぐ。あなたは目を閉じて深く息を吸い、太陽にもにおいがあることを知って、顔を埋めたくなる。

 あなたは別の場所で、橋の欄干にもたれ、風船ガムに息を吹き込む。甘ったるい葡萄味の、薄紫色をしたガムの風船。友人たちもみなガムを膨らませる。夕闇に色とりどりの風船が浮かび、偽物の果実の香りが入り交じり充満する。その柔らかく薄い膜にあなたは前歯を立て、おもちゃのような葡萄の香気が弾け、風に乗り散っていく。

 違う時間であなたは台所にいる。窓には冬の氷がうっすらとつき、あなたはぐつぐつと音を立てる鍋の前にいる。温まった赤ワインとトマトが香り、腹で食欲がダンスする。赤ワインはアルコールを失う代わりにまろやかになり、香りはもったりと重く熟していく。あなたの指先には料理のにおいがしみついている。ハーブ類、にんにく、バター。時と共に染みこんでいく香りに、自身の体臭が混ざったもの。

 雨が降り注ぎ街角をけぶらせる。傘のないあなたは、濡れた砂利と蒸れた服のにおいを振り払うように走って、ガラス張りの温室で雨宿りをする。扉を開けるとたちまち、温室いっぱいの薔薇の香りがあなたを包み込む。赤い薔薇は情熱的な、白い薔薇は青く清冽な芳香を放つ中、あなたは美しい人に目を留める。幾重もの薄い花びらと共にあるその姿に、あなたはのぼせ、目眩を感じる。

 あなたは美しい人とその先の人生を共に過ごす。肌を重ね、その人だけが持つ体温と香りを愛し、時に煩わしく思いながら、次第にふたりのにおいが溶け合って同じものになっていくのを感じる。家は様々な香りで溢れる。煙草、古書、埃、焼いたパン、記念日に買った薔薇、飼い猫の日だまりのようなにおい。あなたは何度か懐かしい香りに出会う。だがいくら愛する人にそれを伝えたくとも、言葉も写真も役には立たず、うまくいかない。香りはあなたの鼻腔と記憶の中だけにある。

 やがてあなたは死の床につく。神の元へ行くためだと焚かれた香は好きな香りではない。最後の暗闇が迫る直前、あなたは一番愛おしい香りを鼻腔に感じ、この世を去る。

あなたを棺に納めた時、その香りはほんの束の間漂い、幻となって消える。


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 出版社の書肆侃侃房が出している無料小冊子、『KanKanPress ほんのひとさじ』vol.11に掲載されたショート・ショートです。テーマは「香」。
 大勢の作家や歌人、俳人、詩人が寄稿しているとても贅沢な冊子。
取り扱い書店などで無料配布されていますが、電子版はこちらで買えます。100円。

http://www.kankanbou.com/honnohitosazi/vol11

これはとても気に入ってるんですけど、収録させる先が当面ないので、書肆侃侃房さんに許可をいただいてこちらで掲載しておくことにします。

こういう、何かの断片みたいな、スケッチ的な文章を書くのが好きです。

タイトルは音楽関係のものがいいなと思ったけど詳しくないので決められなくて、お友達に先に読んでもらってタイトルを考えてもらいました。きれいなタイトルでしょー。ハルモニア、ハーモニー。ふじおさんありがとう!


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