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②『ベルリンは晴れているか』取材写真

ということで続きました。
前のはこちら

2018年1月上旬に、小説の取材のため回ったベルリン。主人公がヴェディング地区の労働者階級出身ということで、作中の「幕間」は主にベルリン東側が中心となりました。

空襲を免れ、19世紀末から20世紀初頭にかけてたくさん作られた集合住宅がいまだに残っているプレンツラウアーベルク。そこにある100年前の暮らし博物館を出て、今度は中心部、ミッテへ向かいます。

それにしても本当に空が広い。
ついでに美味しかったお昼ご飯のキッシュ。フランス風カフェでした。ベルリンはご飯が美味しいんだけどこれはこれでインパクトがあるのでまたちょっと別枠であらためて。

アレクサンダープラッツ駅から

フリードリヒ通り(シュトラーセ)駅へ。

この看板は地下鉄Uバーンだけど、左側にある建物はSバーン、地上線の駅で、両方通っている。フリードリヒ通りはベルリンを調べる・歩く上で重要な通りの一つだと思う。かの有名な「チェックポイント・チャーリー」もフリードリヒ通りにありましたね。

そんなフリードリヒ通り駅を降りてすぐの場所にある銅像。

左の子どもたちは荷物もなく一時収容所から強制収容所へ送られていくユダヤ人の子どもたち。右の子どもたちは、ちゃんと自分たちの荷物を持って学校へ行けるアーリア人の子どもたち。
チューリップが献花されています。隣には、この先は収容所へ通じているであろう線路もしっかりある。
ベルリンにはこういった記念碑があちこちにたくさんありました。

いくつかのインタビューで答えているのだけれど、私は幼稚園から小学校4年生にかけて、近所にあった教会に通っておりまして、そこでユダヤ人に対して行われた迫害と虐殺についてかなり詳しく教わりました。その経験が歴史、特に第二次世界大戦をはじめとする動乱への関心となり、あちこち調べたり観たり読んだりした結果が、今へと通じています。
なにもかもを巻き込んでいく時代の巨大なうねり。人々を死に追いやった、暴力的な歴史があったと知ったこと。
5歳の時に見たベルリンの壁崩壊のニュースのインパクトも強烈に残っていて、ベルリンは言うなれば、私にとって重要な問いである「人類とは一体何なのだろう」が生まれたきっかけの街みたいなものです。

さて、ウンター・デン・リンデンです。
ベルリン最大の目抜き通りである、菩提樹の下通り。

わーいでかーいひろーい

博物館島のある方を向くとこんな感じ。この時は工事中だったので中央は歩きづらかった

「うおおおおおーー復興してるーーー!!!」と戦後73年も経ってるのにひとりで興奮したのがホテル・アドロンを見たとき。

ウンター・デン・リンデンは、『ベルリンは晴れているか』の本章でも触れてますが、とにかくあちこちが焼けて、ぼろぼろでした。「上から見ると虫歯になった臼歯みたいだ」とはアメリカの記者が言った言葉だったか。現フンボルト大学ベルリンの敷地に牛がいたりとかも、本当にあったことです。中央分離帯は焼け焦げた車や戦車など、ごみにしかならないものを片付ける場所になってたり。昔、中央は馬が歩くための道で土のままだったので、耕されて畑になったりしてました。

写真はアーカイヴから…なんですが出典元を失ってしまって申し訳ない。
この左側のぼろぼろになっている建物の中にホテル・アドロンも含まれます。ちなみにこういう写真や資料ばかり見て読んで訪独したので、到着した初日にバスで揺られながらまず感じたのは、ベルリンの街に光が灯っていて、普通に建物が立っていて、人が生きて歩いているという感動でした。タイムマシンに乗ってきたみたいな感動…

そしてブランデンブルク門。

もうすっかり頭の中が戦後と現在とで混乱していたので、通る時は「ここからイギリス領域に入るんだ」とか思いながら通りました。

この先にティーアガルテン、かつて貴族の狩猟場だった森「獣苑」があります。1945年の4カ国統治時代、ブランデンブルク門を境界に、ウンター・デン・リンデン側がソ連、ティーアガルテン側がイギリス領となります。

「イギリス領」側から見たブランデンブルク門。
ちなみにここで、ドイツの(どこだったかなー)大学生たちから「ビデオインタビューをしてるんですが、答えてもらえますか?」と声をかけられました。その質問がですね。
「世界から争いごとをなくすにはどうしたらいいでしょう?」
こっちが訊きたいわ!!!その答えを!!!
まさか人類史上もっとも解決困難でいまだ解答の出ていない質問が、今この状況でぶつけられるとは……とガイドをして下さってたライターの久保田さんとふたりで顔を見合わせました。
……がんばって答えましたけど、けっこうふわっとした答え方になってしまったので、ドイツ特有のガンガン議論ぶっこんでくるスタイルに負け負けだったと思います。でも久保田さんはちゃんと議論されててかっこよかった……!

この先のティーアガルテンにジーゲスゾイレがあるんですけれども、ここは物語の筋書き通り、道を左に折れ、ポツダム広場へ向かいます。徒歩でどのくらい時間がかかるかも確認。

少し遠くにDenkmal für die ermordeten Juden Europas、ホロコースト記念碑が見えます。
印象に残っているのは、この手前にあるイギリス大使館脇を通った時、警備員の数が多く、車止めが整然と並び、車両通行止めになっていたこと。テロ防止のためで、911の直後からこの体勢になったと聞きました。

そしてポツダム広場。

復興してる。当たり前だけど。
『ベルリンは晴れているか』だと、アウグステがカフカを追いかけてやってきて、闇市が開かれていました。

上の写真は、終戦から一年が経って落ち着き始めている時のポツダム広場。こちらは連邦公文書アーカイヴから。とても色々な写真があるのでどうぞ。

五つの道路が交わる場所なのでとても広い。

ここにも壁があった。

さて、ここからジーゲスゾイレへ。

バスでティーアガルテンの前で降りて、林の中を歩き、少しずつ見えてくるジーゲスゾイレ。

何かいろいろ解説が書いてあるけど読めない。

ジーゲスゾイレ、「戦勝記念塔」とは何の戦勝なのかというと、そもそもは19世紀のデンマーク戦争が着工のきっかけで、その後の普墺戦争・普仏戦争の勝利も顕彰されているとか。
ジーゲスゾイレ周辺はぐるっとロータリーになっていて、自転車に乗ったベルリナーが猛スピードで走ってくるので注意。自転車マークのレーンには絶対入ってはいけない…!!

横断歩道のようなものはないので地下道からジーゲスゾイレに向かいます。

もうここから柱とか壁とかぼこぼこです…何のぼこぼこかって、弾痕ですよ。寒気がする。

見えてきた。

大きいです。

しかしそれよりも何よりも目をとめてしまうのは凄まじい数の弾痕と削られたままの台。

戦争終結直前、市街戦でドイツ軍の兵士がここに立てこもり、赤軍と戦った記録があります。そしてこの近くには、赤軍のT34戦車がいまも飾られている。
どちらが正義かを問う前に、本当にこれは何なのだという疑問が何度も頭の中で繰り返される。ドイツ軍はドイツ軍で、赤軍は赤軍で、相手を滅ぼそうと必死だった。戦争をやめる勇気のある誰かが止めるまで。
いったい何なんだこれは。
同じような弾痕が、ベルリンのあちこちに残っている。

さてジーゲスゾイレを去って、ティーアガルテンからツォー、動物園の近くへ。

右側に見えるのがカイザー・ヴィルヘルム教会。『ベルリンは晴れているか』でも登場する、鐘楼が空襲で崩れた教会で、いまもそのままです。

さて、ここからフェーアベルリナー広場駅へ向かいます。なんでって、その近くにヴィルマが住んでいた設定だからです!

ベルリンは駅が可愛くて、タイルがとてもきれい。ベルリンの北西にタイルの生産地フェルテンがあって、そこから根付いたタイル文化なのだとか。

これ↑はツォー駅。そしてこれ↓はフェーアベルリナー広場駅。

この駅の上の建物はあらかた当時のままで…ドイツ労働戦線(DAF)が使ってた建物だったり、保険会社ノース・スターの建物だったり。ヴィルマースドルフという地区でホーエンツォレルン家がどうのとかいろいろ…ある…(ざっくりしすぎ)でも発展したのは1920年以降だとか。

この広場にある建物はだいたいぐにゅっと曲がってる馬蹄形。

ここをざっくり見て、それからカーデーヴェーも見て…

ヴィッテンベルクプラッツ駅のきれいな構内

かの有名な百貨店、カーデーヴェー

この後、同行して下さった久保田さんのご自宅へ伺いました。なんとアルトバウ、つまりジードルング集合住宅にお住まいなのであれこれ見せて頂くことになりまして。写真はばしばし撮りましたが個人宅なので私のカメラの中だけにおさめさせていただきます。その節はありがとうございました…!!

一日目の最後に向かったハッケシャーホーフで締め。

おっしゃれーーーーー

かわいいタイル。素敵なお店やレストラン、カフェがたくさん入ってる。ここで寄ったお店はまた後ほど、番外編で。

ハッケシャーホーフも戦争前からありましたね。
ちなみにこの裏手には、次の日にまた改めて訪れますけれども、作中にも出てくるブラシ工場があります。

ハッケシャーマルクトの字がすごい小さく読めます…

ということでやっぱり2回でも終わらないベルリン取材写真まとめ。続きます…この次は今回に輪をかけて深く暗い部分へ突っ込んでいきます。

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