小説 『復楽園』

 原稿用紙換算 百八十五枚                                                     


 

  「驚いてはならない。時が来ると、墓の中に居る者は皆、人の声を聞き、善を行った者は復活して命を受ける為に、悪を行った者は復活して裁きを受ける為に出てくるのだ」 ―ヨハネによる福音書よりー


 優しい母と兄の夢。これ以上の悪夢があるだろうか。

 淋しい時や心細い時、私は決まって家族の夢を見る。

仰向けで寝たまま泣くと、涙が耳に流れて溜まっていく。いつのことかは覚えていないが、多分小学生か中学生の時に、そのまま涙を流しっぱなしにしていたら、耳の中の奥の方まで入り込んでしまい、プールの後みたいな違和感を感じたことがあった。

 私は枕元にあるティッシュペーパーを出して、まずは鼻をかんでから涙を吹いて、その後に両耳にティッシュを詰めた。いつもの私の涙の処理の段取りはこうである。

 独り暮らしのアパートの一室で、泣きながら目覚めた。

 夢の中の二人はいつも決まって優しい。だからこそ苦しいのだ。

私は一週間分の精神安定剤と睡眠薬を手に取った。 

 神様、どうかお願いです。何もかも全ての記憶を消して下さい。このまま二度と目覚める事無く、永遠に私を眠らせて下さい。

 私はそれらの薬をビールで次々と流し込んだ。

 昔のドラマや漫画や小説だと、このまま死んでしまうのが通例だが、現実はそう甘くは無い。

 確かに死んだ様にぐっすりと眠れはするが、万が一発見された場合は救急搬送されて、病院で胃洗浄を施される。その時に鼻から管を入れられるのだが、その痛みは深く眠っていても感じるほどの痛みである。

 私はその痛みが嫌で仕方がなくて、去年の胃カメラでの検査では、鼻からカメラを入れるのを拒んで、口からカメラを入れてもらって検査したくらいである。多くの人の話では、鼻からのほうが楽だと言うが、どうも信じがたい。他人の言葉なんかよりも、実際に味わった実体験の方が確かだと思うのだ。

 そんな私は何度目かの薬の大量摂取、所謂オーバードラッグをして再び目覚めた。いつもは気がつくと救急病院なのだが、今回は誰にも発見されずに済んだので、自室で目が覚めた。

 やはり、たかが一週間分の薬では死ねないものだなあと、呑気にそう思いながら布団の横にある、ウーロン茶の飲み残しを口にした。二リットルのボトルをそのまま口にして、ぐびぐびとと飲んだ。精神安定剤や睡眠薬は適量の服用時でも喉が渇くものなので、過剰摂取をするとひどく喉が渇く。半分くらい残っていたウーロン茶を飲み干してから、スマホを確認した。まずは日付、そして時刻。メールの着信はあったが、見るのは後回しにした。

 スマホのカレンダーによると、オーバードラッグした日から、丸二日以上過ぎていた事がわかった。今は四月某日の朝七時半である。

 トイレに行って用を足してから再び布団に戻り、眠気がまだ残っていたので、二度寝をしようとして、うとうとしだしてから急に固定電話が鳴ったので、ちょっとびっくりした。

 私はその電話を最初は無視した。スマホでなく固定電話にかけてくるのは、セールスや面倒な友達か何かが殆どで、出てもいい気分にはなれないものが多かったので。

 留守番電話のついていない、古い型の電話器はけたたましく鳴り続けた。十回、二十回…いつもならこの辺りで切れるのだが、いつまで経っても電話は鳴り続ける。相手は誰だかわからないが、どうやらこちらが出るまで鳴らすつもりなのだろう。私は電話線のコードを抜いてしまおうかと思ったが、電話に出て怒鳴った方が早いと思い、受話器を取って暴言を吐いた。

 「うるさい、バカ!今何時だと思ってるのよ?真昼間じゃないのよ」

 一応相手を確認してから、もう電話をしてくるなと言おうとした。

 「花、あたしだよ、あたし」

 『あたし』じゃ判らないと言おうとしたが、その声とイントネーションには聞き覚えがあった。私は思わず息を飲み、暴言を吐いたことを後悔した。

 「誰?」

 しかし、確信はないので、一応電話の主に名乗るように促した。

 「グランマだよ、花。久しぶりだね」

 電話の主は、数年前に死んだはずの祖母だと名乗った。私は薬の飲みすぎで変な夢を見ているのだと思い、話を合わせた。

 「え、何?グランマ?お祖母ちゃん?」

 「そうだよ。ああ、花はいつも声だけは元気そうだね」

 「今どこ?何で電話してんの?」

 「蒲原の交番で電話を借りてるのさ。長話は後にして、とにかく着替えと靴を持って迎えに来ておくれよ」

 「蒲原って、お墓のある所だよね。あの花屋さんの向かいの交番から電話してるの?」

 「そうだよ。とにかく今はお金も持ってないし、服も無いから花の所に自分で行けないんだよ。お願いだから服と靴、何でもいいから持って来て。いいかい?」

 「それはいいけど…今、服が無いって、何を着てるの?」

 「白装束のままじゃ、気味悪がられて電車に乗れないだろう?」

 「まあ、そうだけど…って、グランマ、もしかしてオバケ?」

 「その話も後、後。とにかく早く蒲原の交番に来てくれよ。じゃあ、頼んだよ」

 「ちょ、ちょっと…今、私。薬で頭がボケてて、その。夢なのはわかるけど」

 私が言い終わらないうちに、電話は切れた。

 ぼんやりとした頭のまま、布団から半身を起こした。カーテンの隙間から入ってくる光を見つめていると、細かい埃が反射していた。

 やはり今の電話は夢だったに違いない。

 主治医に足りなくなった分の薬を処方して貰う為に、つい先ほど置いた受話器を再び持ち上げ、予約のアポイントメントを取った。

 

 八十をとうに過ぎた主治医は、私が簡潔にオーバードラッグの話をすると、大きくため息をついて言った。

 「命があるっていうのは、本当に有難いものなんですよ。福島や神戸の震災を知っているだろう?戦時中は日本全体があんな風だった。せっかく平和な時代に生まれてきてるんだから、もっと命を大切にしなさい」

 そう言うと、主治医はカルテに何かを書いて、お決まりの「お大事に」の一言で私を追い払った。オーバードラッグは今回で何回目だろうかと、思い出そうとしても思い出せない。

 私は主治医から「命を大事にしろ」と言われても、ぴんと来なかった。

 確かに私は恵まれているのだろう。世界一平和で安全な国である、現代日本に生まれ育った事を感謝しないといけないのだろう。

 今まさに、世界中のあちらこちらで紛争や戦争、飢餓に苦しむ人は大勢いて、死にたくない人が次々と死んでいっているのだ。それはわかっている。

 それでも私は死にたかった。自分が何故生きているかに疑問を持たざるを得ない理由が私の心の中にはある。あの悪夢から逃れたくても逃れられなくて、とても苦しい。あんな夢を見続けるくらいなら、死んでしまいたいのだ。

 神様は一体いつになったら、私のこの苦しみを救ってくれるのだろうか。実際に、神様なんて、本当にこの世にいるのだろうか。

 あの悪夢がある限り、何万人何億人の命が犠牲になっても、私の心は救われないように思う。

 

 

 

 「花、遅い」

 私はあれから帰宅してからも、のんびりとしていたが、夕方の六時過ぎ頃に、また祖母から電話がかかってきた。今度はちゃんと起きているのに電話がかかって来たので、とうとう私も幻覚幻聴の症状を持つ、統合失調症を発症したかと思って愕然とした。

 とりあえず、医学的解釈をすれば病気を疑うべきだし、オカルト的な解釈をした場合は、死んだ祖母が私に会いたがっていると言う事になる。どちらにせよ、蒲原に着替えを届けなければいけない気がしたので、私は祖母に言われるままに着替えと靴を紙袋に詰めて、蒲原方面の電車に乗った。帰宅ラッシュに巻き込まれてしまったが、二つ目の急行の停車駅で運よく座れたので、ほっとした。薬の過剰摂取の影響で少し貧血気味だったので、蒲原までの一時間半の道のりは少しきつかった。

 夢でも幻覚でも何でもいい。とにかく祖母に会いに行こう。会えても会えなくてもいいから、蒲原の墓地へ墓参りに行こうと思った。蒲原方面の電車に乗る前に、駅前のコンビニで買った線香とライターを見ながら、少しわくわくした。

 祖母の墓参りは実に三年ぶりである。体調が悪かったり、気が乗らなかったりして、祖母の三回忌までで足が遠のいていた。

 夜中に墓参りだなんて、何だか肝試し染みていて怖い気もするが、とりあえず蒲原に行けば何かいい事が起こる様な予感がした。

 夜の八時半頃に蒲原の駅に着いて、間もなく空腹に気づいたので、コンビニで菓子パンを二つと牛乳を買って食べた。菓子パンを一つ食べてお腹がいっぱいになったので、残りはビニール袋に入れて取って置いた。店頭に仏花が売っていたので、供える花も必要かなと思い、一束買った。

 蒲原は東京から一時間半だが、ちょっとした田舎である。あちらこちらに雑木林があるが、みんな自然に生えっ放しになった木々が何種類もひしめいている様な、手付かずの林ばかりだ。東京の公園やなんかの林は飼い慣らされた感じがするが、蒲原の林は本当に、原生林と呼びたくなる様なものが多い。

 暗い道を歩きながら、交番を目指して歩くと、花屋を始めとする寂れた商店街の店は、みんな閉まっていた。その向かいの交番だけ、ぽつんと明かりが付いていた。

 「あんたが花さん?」

 交番を覗き見ると、一人のおまわりさんと目が合い、即座に質問されてびっくりした。

 「なるほど、似てるね。でも、孫にしちゃあ大き過ぎるなあ」

 「祖母がお邪魔してるって、本当ですか?」

 そう訊いてから、交番の中を見ても、祖母らしき人物は居なかった。ああ、やっぱり夢だったのかと、一瞬がっかりした。

 「今、トイレに行ってるよ」

 おまわりさんがそう言った後、すぐに交番のトイレから、薄汚れた白装束を着た女性が出てきた。

 これが祖母なのか…随分と若返って出てきたなと思った。古いアルバムの中の、モノクロの三十代位の時の写真の祖母が、そのままそっくりカラーになって出てきた。

 「ああ、花。久しぶりだね、会いたかったよ。春とは言え、冷えるねえ。着替えと靴は?サイズは花と同じだったろう?」

 「え、あ、はい。これ」 

 色々と釈然としない事が沢山あったが、とりあえず『幽霊』の言うとおりに、着替えと靴を渡した。彼女が奥の部屋を借りて着替えている間、おまわりさんにこう言われた。

 「あの人はお姉さんかなんかなんだろう?孫に電話するだなんて言ってたけど。あの格好は、何か今時のコスプレかい?悪趣味もたいがいにしなさいとは言っておいたけど。どうも言ってる事が変だから、カウンセラーか医者かに診せた方がいいと思うけど」

 「すみません。どうもお世話をかけました」

 私はとりあえずそう言って頭を下げた。そして、着替え終わった祖母らしき人を連れて交番を出た。

 「なんだい、その花は」

 彼女は私が持っている仏花を見てそう言った。

 「え、えーと。お墓参りだから」

 「誰が墓参りに来いって言った?あたしゃ着替えと靴しか頼んでないよ」

 何と言い返していいか分からなかったので、黙り込んでしまった。彼女の歩く方向に付いて行った。コンビニの袋を確認した彼女は、私が食べ残したパンを齧りながら、バス停まで歩いた。袋の中の線香とライターを見て、彼女は言った。

 「ああ、分かった。あたしが化けて出たと思って、墓に行こうとしたんだね。説明がまだだったね。墓に行っても無駄だよ。あそこにはあたしはいない。ここにいるのがあたしだから。つまるところ、あたしは棺おけから出てきたんだよ。蓋を蹴破ってね。上に土が盛られてるから、重いのなんのって」 

 「棺おけから出てきたって…グランマはゾンビなの?」

 「まあまあ…人聞きの悪い。昔あんたに教えただろう?ヨハネの福音書の文言さ。覚えてないかい?」

 うちは無宗教というか、一応浄土真宗だったが、祖母は中年期にクリスチャンになっていた事を思い出した。子供の頃に訳あって、私は四ヶ月くらいアメリカの祖母の家で同居していたが、その時、たまに聖書の言葉を少しばかり祖母から伝え聞いていた。

 「覚えていないかい?あんたに約束したじゃないか。時が来て楽園が復活した暁には、死者が甦るって。今がまさにその時なんだよ」 

 今のこの世の中のどこが楽園なのか…むしろ地獄ではないかと突っ込みたくなったが、どう言えばいいか分からなくて、バス停の前に立ち尽くした。彼女は私の腕時計を見て、バスの時刻表を確認した。

 「野火行きのバスは…最終バスまであと二十分くらいあるね」

 「え、今から海に行くの?」

 「せっかく東京から蒲原くんだりまで来たんだ。海を見に行こう」

 「海って…今から行ってのんびりしたら、終電がなくなっちゃうよ」

 「ああ、だったら、その後、深夜喫茶か何かで朝まで粘ればいいだろう。野火にはファミリーレストランがいくつかあったと思ったけど…花、気分でも悪いのかい?顔が少し青いね」

 彼女はそう言って、私の額に手をあてた。ひんやりしてはいるが、ちゃんと血の通っている感触がした。

 「オバケじゃないの?」

 「だから、生き返ってきたんだよ。オバケでもゾンビでもない、本物のグランマだよ」

 確かに、昔祖母から、失われた楽園はいつか神の力によって復活すると言う迷信染みた話を聞いた様な気がする。

「本当に?本当にグランマなの?」

「ああ、そうさ。来てくれてありがとう、花」

 そう言って彼女…祖母は私を抱きしめた。私はそのぬくもりに驚き、この幻とも現実とも分からない感覚に混乱したが、理由の無い、見つからない涙が溢れ出て来た。

 

 蒲原にも住宅があり、近年東京のベッドタウンになりつつあるが、予算の都合なのか、ちゃんと『原生林』を整備しないままに建物を建ててしまう傾向が見られた。色んな種類の木々や蔦や草木が混ざった中に、ぽつぽつと新しい建物が建っているのが見られる。

 蒲原から野火までのバスは一時間に一本しかない。野火の海は海水浴が楽しめる様な海ではなく、浅瀬が少なくて岩場ばかりだ。砂浜は年々狭まっている為、砂遊びやキャンプが出来る場所も少なくなったと聞いている。

 野火行きの最終バスの中には、乗客は私と祖母の二人きりだった。

 「花、少し寝な。どうせ終点まで行くんだから」

 祖母はそう言って、私に寄りかかるように促した。

 「病気で具合が悪いのに、呼びつけて悪かったね」

 「どうして私に?お母さんとか伯父さんには電話しなかったの?」

 「あの子達じゃ話にならないだろう?花でさえ、二回も電話して、やっと来てくれたぐらいなんだから…『驚いてはならぬ』と言っても、無理は無いね。死人がウロウロしてたら、仏教徒なら気味悪がるだけだろうしね」

 「クリスチャンでもびっくりするんじゃないの?ねえ、本当に今は楽園なの?この世の中は。世界情勢は良くないし、景気も悪いし。蒲原のお墓は土葬だったね。皆、生き返って来たなら、今頃、町中ゾンビだらけで大変な事になってない?」

 「さあ?あたしが目が覚めた時は、他の人は見なかったね」

 「じゃあ、グランマだけ?」

 「うーん、どうだろうね」

 「そっか。じゃあ、まだ本当の楽園の時が来た訳じゃないんだね」

 「いいや、少なくとも、あたしには楽園だよ。さっきのアンパンは美味しかったし、ちょっと辛気臭いけど、この花束もなかなかきれいだし。ひとつだけ文句があるとしたら、花が元気じゃない事だけだね」

 「ごめんなさい」

 「なあに、病は罪じゃないよ。こうしてグランマがついてるんだから、じきによくなるさ。さあ、少し休みな。疲れただろう」

 「ううん、大丈夫。そういう顔なの、薬で顔の表情が変みたい。元気だよ、少なくとも今日は」

 「無理させたみたいだね…やっぱり途中で降りて、東京にこのまま帰るかい?次は久留米浜駅前だね」

 そう言って、祖母はバスの停車ボタンを押そうと手を伸ばしたが、私は止めた。

 「いいよ、行こう。終電ギリギリだから、海を見るのは…三十分くらいしかないけど。ファミレスで夜明かししてもいいし。グランマ、お腹空いてない?」

 「あたしはさっきのパンで十分だよ」

 「野火は朝日がきれいなんだよね…ねえ、どうせなら朝日を見ようよ、ネットカフェかカラオケボックスで泊まってもいいし」

 「野火の駅前にそんなのあったかね」

 「無ければ久留米浜まで、電車でひとつでしょ。久留米浜なら、なんでもあるよ」

 「花はお腹空いてないかい?」

 「うん、大丈夫」

 そう言うと祖母は私の頭を撫でた。少し眠くなった私は、まどろみ始めた。しかし、頭の中の質問箱はいっぱいになっていた。

 ねえ、グランマ。どうして生き返ってきたの?まだ『時』は来てないはずなのに。どうして私の所にだけ楽園が復活したの?神様には私、永遠に眠らせてってお願いしたのに。もしかして、すでにこれは全部夢なのかな。ずっと私はこの夢から覚めないでいられるかな。だとしたら、こんなにいい夢はないかも知れないね。

 そんな頭の中の質問箱の中身を心の中で読み上げながら、私は浅い眠りについた。

 

 

 

 野火の海は真っ暗と言うよりは真っ黒だった。海風が強く、波が少し高かった。国道を挟んで海岸があるが、やはり年々浅瀬が狭まっている感じがした。祖母は道から海岸への階段を降りて、一番下の段で座り込んだ。私は携帯のライトをかざして、慎重に階段を下りて浜に立った。満潮なのか干潮なのかはわからないが、波打ち際まで二メートル位しかないように見えた。

 「こりゃ、あたしが日本にいた時の半分位の広さだね、砂浜が」

 向こう岸の明かりが、ぽつぽつと光っていて、星の様に瞬いていた。

 「寒いね、花。それ以上海に近づいちゃダメだよ、流されちまうからね」

 「夜だと、本当に何にも見えないね…」

 私達はしばらく海を眺めた後、どちらからと言う訳でもなく、海を後にして国道沿いのファミレスに向かった。

 丸二日も寝ていると、さすがに眠れないものだと言うか、死者が甦って来たりなんかしたら、眠れないのは当然かもしれない。その夜、ファミレスのドリンクバーで祖母と夜明かしして、日の出前にまた海岸に出ることにした。

 グランマ、と私が祖母を呼ぶには訳がある。小学生の頃、四ヶ月間だけ、祖母の暮らすアメリカに住んでいた時の事だ。当時の祖母はお祖母ちゃんと呼ばれるのが嫌だったみたいなので、小さい私は、苦肉の策で隣の日系移民のおばさんから習った英語…つまりグランマと呼べば少しはましかと思い、そう呼ぶようになったのだ。確かに六十代でも、お祖母ちゃんとは呼ばれたくないのは、女心だったのかもしれない。

 祖母は戦時中に伯父を、戦後に母をと、それぞれ別の父親との間で産んだ。一番目の夫、つまり伯父の父親が戦死したので、その三年後に祖母は母は別の夫とで母を産んだ。その後一家を養うために、花柳界のスカウトを受けて芸者になり、そのつてで米兵と懇意になり、そしてアメリカに出稼ぎに行った。祖母は祖母の母、つまり私の曾祖母の葬式に一時帰国したが、それきりつい十数年位前まで、帰ってこなかった。伯父の父親である最初の夫…正式には婚姻関係にはなっていなかったが…が奇跡的にフィリピンで生存していたと祖母が知ったのは、アメリカに行った後だった。母の父親が誰なのかは、親戚中で色んな憶測が飛び交っていたが、とうとう本当のことは祖母が死んでもわからないままだった。

 親戚一同、祖母が一生帰ってこないと思っていたが、やはり生まれ故郷で死にたいと思ったのか、帰国してから貯金を叩いて蒲原に墓を買い、松輪市の中心街である大麦通りの長屋で老後を過ごした。帰国直後は日本語に不自由をしていて、ルー大柴みたいな英語混じりの喋り方をしていたが、一、二年ですっかり日本語を取り戻した。でも、その代わりに耳が不自由になり、次第に老い衰えていった。認知症が始まって、間もなく七浦の老人ホームに入所して、五年目で亡くなったのだが、なぜか今はここにこうして生き返ってきて、ドリンクバーの野菜ジュースを飲んでいる。

 「ねえ、なんでまた、そんなに若返って生き返ってきたの?」

 「さあ?ヨボヨボのまんまじゃ、なんの役にも立たないしね」

 「確かに、昔、なんかのテレビでやってたね。生まれ変わると二十歳ぐらいになるってきいたけど」

 「二十歳なんざ子供さ。あたしは三十代が一番良かったね。花はそう思わないかい?もうすぐ三十だろう?」

 「うーん、なんか微妙。確かに二十歳は色々と社会的に子供扱いされてはいたね」

 「あたしにとっちゃ、一番いい時だったから、神様がこの年したんだろ」

 そういうもんかなあと思いつつ、アイスコーヒーをおかわりしに、ドリンクコーナーへ行った。帰ってくると祖母が何かを握らせた。

 「これは…」

 それは生前祖母が大事にしていたオパールの指輪だった。

 「花はつくづく欲のない子だね。沢山あった貴金属も全部花にって、遺言書に書いておいたのに」

 「そうなの?」

 「そうともさ。葬式にも顔を出さないし、墓参りに来たのも死んでから半年も経ってからだったけど。良枝さんが花に知らせなかったのかい?」

 良枝さんとは、私の母の従兄弟の妻で、一家の面倒ごとを嫌々ながらも引き受けてきた人間だ。一応良枝おばさんと私は呼んでいる。

 「うん…十一月に亡くなったって、四月になって電話したら言ってた。どうして教えてくれなかったのよって訊いたら、花は病気だし、お母さんとは縁を切ってるから、お葬式には来れないでしょって」

 祖母は、ちっと舌打ちをした。

 「ははん、そういう事かい。良枝さんは苗子の天敵だしね。坊主憎けりゃ袈裟まで憎いってのはこう言うことさね」

 苗子と言うのが、私の母の名前である。良枝おばさんとは天敵と言えばそうなるかもしれない。経済的に親戚中を困らせていた母だったが、そんな母を伯母は、いつも「~してやったのに~」とか「普通は~なのに~だから」とか、何かにつけ文句を言っていた。また、祖母を引き取る為に大きい家を借りたのだが、その時の引越し費用数十万円のお金が返せないと兄が言うと「そんなはした金も出せないの?」と鼻で笑って嘲笑したと言う話だ。

 当の良枝おばさんはそんなことはないと言っていたが、私がおばさんの息子である、はとこの清くんよりも偏差の高い大学に入った時、たまたま、清くんが合格したの大学にたまたま受からなかった事を言えば、高笑いする様な人だったので、きっと兄が言い分が正しいのだろう。

 「で、この指輪は私が十月生まれだからって、良枝おばさんが郵送してくれたんだけど…私、グランマから直接貰ったわけじゃないし。まあ、とにかく指輪が無いのは可哀想だから、四月に蒲原にお墓参りした時に、墓石の下に埋めといたんだけど」

 祖母は、野菜ジュースをずるずると吸いきって、コップを握り締めた。

 「あたしの死を花に知らせなかったのは、皆財産を花にって書いた遺言状をもみ消して、良枝さんや苗子や晴美さんが遺産を山分けしたかったんだろうよ」

「え、そうなの?」

 「じゃなきゃおかしいだろう?病気って言っても、意識がしっかりしてるんだし」

 「まあ、確かに。どうして十一月に電話した時は何も言わなかったのに、良枝伯母さんから年賀状が来るんだろうって…変だなとは思ったけど」

 「全部、あの子らが花に行くはずの貴金属類も、野火の家の権利書も、二万ドルのナショナルバンクの預金も、持って行っちまったみたいだね。汚い子達だとは思ってたけど、ここまでとはね。どれ、せっかく生き返ったんだ。杉並と横浜と千葉の三軒の家に出かけてって脅かしてやろうかね」

 祖母はそう言って、黒い笑いを浮かべた。 

 「やめようよ、グランマ」

 二万ドルというと、一ドル百円換算で二百万円かと計算したが、今更、良枝おばさんや母の苗子や晴美伯母さん達に文句を言っても、無駄の様な気がした。

 「だって、悔しいじゃないか」

 「グランマが花ばっかりに財産を遺すから、かえってこうなったんだよ。もういいよ、今更おばさんたちやお母さんと関わるの嫌だもん。それに、一番欲しかったものはちゃんと取っといてあるから、大丈夫」

 私はそう言って、祖母の手に指輪を握らせた。

 「なんだい、欲しかったものって」

 「帰ってから見せるよ。それより少しお腹が空いたね。ポテトでも食べない?」

 私は祖母がそんなにも私を想ってくれていたとは、想像だにしなかった。財産の殆どを私に遺そうとしていたとは、考えてもいなかった。

 「生前は耄碌してて、何もしてやれなかったね。花が病気になったって知ったのも、七浦のホームで苗子から聞いてはいたけど、身体も頭も衰えきっちまって、助けたくても出来ない有様で」

 「いいよ、そんな事。今、こうして約束どおりに生き返って来てくれたじゃない。それに、アメリカから帰って来て、横浜のお母さんとお兄ちゃんとで住むはずだったのに、直前になって嫌がって、一人暮らしをするって言い張ったのは、私が一緒じゃなかったのを知ったからでしょう?お母さんとはアメリカにいた時からうまくいってなかったから、多分ダメになると思ってた。あの時、私は東京の大学に行くために、新聞屋で下宿してたから。一緒に住むべきかなとも思ったんだけど。あの時の私は、自分の事で精一杯だったから。本当に自分の事しか考えてなかった。グランマの事を考えてる余裕がなくて。ごめんなさい」

 「そんな事気にするんじゃないよ。二人の子供と甥一人がいて、何で苦学している孫の世話になんなきゃなんないのさ。それより、学費を出してやれなかったね。カリフォルニアのオレンジ畑が売れたのは、花が卒業した年だったし。二万ドルにしかならなかったけど、花が嫁に行く時に渡そうと思って、ナショナルバンクに入れておいたんだけど。その頃は、もう随分ボケが進んできてしまってね、書類をどこに仕舞ったかも忘れちまって。気がついたら、七浦の老人ホームだったのさ」

 なるほど、老人ホームに入るまで、もしくは死ぬまで二万ドルは見つからなかったのか、と私は推測した。

 「私、七浦まで行こうかとも思ったんだけど…その数年前に大叔母様に会った時、認知症が進んで、私が花だって分からなかったから、凄く悲しかったの。まるで十代の少女みたいになってて。グランマもそうなのかと思ったら、私が判らないなら、行っても意味が無いように思えて。でも、死んだって聞かされた時には、一目会っておけばよかったと後悔した。本当にごめんなさい」

 「いいよ、そんなの。確かにあんたと暮らしたかったけど、苦労して夜学に通う孫に面倒はかけられなかったからね。それに東京は性に合わないよ。やっぱり生まれ育った町である大麦通りで余生を過ごせて幸せだったよ。一人ぼっちではあったけど、自由だし、病院も近かったし。今思えばあたしらしい老後だったさ」

 そうこう話しているうちに、夜明けが近づいてきた。私と祖母は明るくなり始めた窓の外を見て、座りっ放しで腰が痛いねと言い合った。

 「さて、そろそろ。野火の海岸の日の出を見よう」

 そう言って、立ち上がり、腰を叩きながら伸びをした。ファミレスを出て、紫色の夜明けの海岸沿いの道路をゆっくりと歩き、適当な所で砂浜に下りた。

 対岸から昇る太陽を見て、祖母はぱんぱんと手を叩き、手を合わせた。

 「いいの?クリスチャンなのにそんな事して」

 「日本人なんだから、いいんだよ」

 二人で日の出に合掌してから、暫く狭い砂浜を歩いたら、あっと言う間に六時半を過ぎた。

 「そろそろ、通勤ラッシュが始まるから、行こう。野火の家、見たい?」

 私がそう言うと、祖母は首を振った。

 「もうとっくに売り払っちまって、他人様の家になったんだろう?今行っても何も面白くないよ。あたしが植えた寒椿の生垣も、花の見頃は過ぎちまったからね」

 私も実は、野火の家を見るのはあまり気が進まなかったので、少しほっとした。

 「アロエの花も咲き終わっちゃったもんね。でもさ、東京のアパートには、藤棚があるから、そろそろ見頃だよ。つつじの生垣もあるし。確かに、野火ほどいい所じゃないけど」

 「そりゃそうさ。こんなにいい所はなかなか無いさ。野火にしろ蒲原にしろ、あたしには楽園だよ」

 確かに祖母の言うとおり、ここはまるで楽園の様だ。空気の味が全く違うし、ここに居るだけで随分と身体も楽な気がする。

 「さて、名残惜しいけど電車に乗らないとね。日本の満員電車は若返った身体でも、

嫌なもんだからね」

 祖母は小石を一つ海に投げ込んで、ぱしゃんと言う音をさせてから、そう言った。

 

 

 

 東京のアパートに祖母が来るのは初めてだった。世田谷区にあるアパートの庭にはつつじが咲き始めていた。

 「花の季節だね、今は」

 「グランマはつつじは好き?」

 「うん、まあね」

 「お母さんがね、昔つつじは下品な花だって言ってたの。こういう色の口紅を買ってきて付けてたら、つつじみたいに下品だって言われた事があって」

 「そりゃあ苗子の思い込みさ。どんな花だって、それぞれ生きてるんだから…これが藤棚かい?もうそろそろ咲きそうだね」

 「うん、ちょっと生やしっ放しで頭に引っかかるけど。結構見事に咲くんだよ」

 「そうかい、楽しみだね」

 私はアパートの鍵をポケットから出して、一階の部屋のドアを開けた」

 「散らかっててごめん。すぐ片付けるから」

 「あたしの家よりはましだよ。苗子に似なくてきれい好きみたいだね。輝彦さんに似たのかねえ…あの人は潔癖症だって苗子が嘆いていたけど」

  輝彦とは離婚した私の父である。三歳の時から別居していて、私は父に育てられた記憶は無い。そればかりか、父のせいで自分たちは苦労しているのだと教え込まれた。

 「グランマ、お腹すいたでしょう。ご飯炊くから待ってて。布団があるから、疲れたら休んでていいよ」

 私はワンルームの部屋のキッチンにある炊飯器に、無洗米を三合と水を入れてボタンを押した。コーヒーかお茶を入れようとポットにお湯を沸かそうとしたら、後はやると祖母が言ったので、お茶を淹れて貰った。

 「疲れてるのはあんただろう、花。適当に何か作るから、布団に入って寝てな。冷蔵庫はこれかい…卵にハムにトマト…ちゃんと食べ物を作ってるとは、たいしたもんだね」

 「今、働いてないから、カツカツだもん。自炊って言っても、ご飯に生卵とかばっかりだよ。料理らしきものなんて、そうそうしてないよ」

 私は疲れ切ってふらふらだったので、敷きっ放しの布団に横になった。

 「何が食べたい?」

 「てか、グランマ、料理できたっけ?」

 「こら、馬鹿にするんじゃないよ。アメリカにいた時、ちゃんと作ってやっただろう?」

 「作ったって…タイソンのフライドチキンとコーンフレークとベーコンエッグしか食べた記憶無ないよ」

 「そりゃ、花が偏食してたからだろう。肉の煮込みとか野菜炒めだって、作っても食べなかったじゃないか」

 「だって…」

 「まあ、アメリカには美味しいものはあんまり無かったのもあるけどね。あの時は大人達が皆、花の偏食に悩まされてたさ。あまりにも食べないから、心配したよ」

 「そうだっけ?」

 「ああ、もういいから寝てな。グランマが日本食作るから」

 「本当に作れるの?」

 私はあくびをしながら、祖母を疑った。

 「ポテトとトマトとハムと玉ねぎがあるし、チーズもあるから、ポテトピザにしよう。いいかい?」

 どこが日本食なんだと言いたかったが、眠くてだるくて、うとうとしてしまった。

 台所の包丁の音を聞きながら、布団の中で眠りについた。心地よいその響きは、春の陽だまりにぴったりのBGMだと思った。

 

 何時間かして目が覚めた時、台所には誰もいなかった。

 ああ、やっぱり夢だったのか、と寂しくなった。

 しかし、台所のコンロを見ると、フライパンがのっていて、蓋を開けると熱々のポテトピザが出来ていた。炊飯器からは僅かに蒸気が上がっていて、保温モードになっていた。蓋を開けてみると、ご飯が炊けていた。所謂『小人』の仕業かなと思った。 

 風呂場から、水音と鼻歌が聞こえてきた。私はドアをトントントンと叩き、声をかけようとしたが、どう声をかけていいか少し迷った。

 「おや、もう起きたかい。もうすぐ出るよ。先に食べてていいよ」

 「グランマ?」

 「うん、なんだい、花」

 「えーと、なんでもない」

 やっぱりまだ祖母はここにいる。夢なのか幻覚なのかは、この際だから置いておいて、祖母が風呂から上がるのを待って、一緒にご飯を食べようと思った。

 時計を見ると、午後一時過ぎだった。幽霊が出るには相応しくない時刻である。私は朝の分の抗欝剤と精神安定剤を飲んでから、ご飯を少しつまみ食いした。ついでだからおにぎりにしようとして、冷蔵庫から梅干と佃煮を出した。

 「着替え、何か貸してくれるかい」

 「あ、うん。下着は買わないとね。パンツは紙パンツがあるけど、ブラは私のじゃきつそう…後で買いに行こうよ」

 バスタオル一枚で出てきた祖母は、姿見の前で自分の身体を見て嬉しそうだった。

 「ナイスバディで良かったね、グランマ」

 「うふふ…あたしも捨てたもんじゃないね。ボーイハントでもして、花に伯父か伯母でも作ってやろうかね」

 「やだ、それは嫌」

 「冗談だよ。やっぱり年下の伯父とか伯母なんてダメかねえ。一人で寂しくないかい?」

 「グランマがいるからいいよ」

 私はおにぎりを丸めながらそう言った。すると、祖母は私を後ろから抱きすくめた。

 「嬉しい事言ってくれるじゃないか」

 「てか、グランマ一人で十分賑やかだよ」

 「なんだ、けなしてたのか」

 「ほらほら、風邪引くから、早く服着てご飯にしようよ」

 この幽霊がいつまで私のところにいてくれるのかは分からないが、もしも聖書の文言通りに、楽園が復活して死人が生き返り、永遠の命が叶っているならばいいなと思った。

 

 遅すぎる朝食を食べた後に、私達はバスで渋谷に出た。二四六号線を上るだけで渋谷に着くので、通勤通学には便利である。

 「人が多いね。平日の昼間に若い者が、何しにこんな街に来るんだろうね」祖母はあきれたように呟いた。

 「それを言うなら、私達だってそうだよ」

 センター街を抜けてデパートに行こうとしたが、ちょうど下着屋があった。色とりどりの、まるで水着みたいなデザインの下着ばかりで、安そうだが実用的には見えなかった。

 「花、あの店を見よう。安いよ、上下で二千円だって」

 「もっと普通のにしようよ。これから夏なんだから、薄手のシャツでも透けないようなベージュとかの」

 そう私が言っている間に、すたすたと祖母はその下着屋に入っていってしまった。あっという間に店員につかまってしまい、さっさとメジャーでサイズを測って貰うまでになってしまった。

 こうなる事は予測しておくべきだったが。アメリカに人生の半分以上もいると、感覚が日本人離れしてしまうものらしい。確かに生前、八十過ぎても大麦通りの長屋のベランダには、赤のレースの下着が干してあったのを思い出した。

 「花、予算はいくらだい?」

 「洗い替え込みで一万円までだよ」

 「なら、三~四組は買えるね。ついでだから、花も新しいの買いなよ」

 「いいよ、今回はグランマのだけで」

 「店員さん、一万円はたくから、彼女の分ワンセット込みで何枚くれるかい?」

 「まあ、姉妹でらっしゃるの?仲がよろしくていいですね」

 「えーと、はい。姉は海外から帰ったばっかりで…」

 私は祖母に話をあわせるように目くばせした。祖母はうんとだけ返事をして、店員と交渉を始めた。

 結局、祖母のを上下セット三組と下だけ三枚、それと私の分の上下セット一組を一万円で買うことが出来た。見切り品だったので、柄が派手だったりダサかったりしたが、祖母は満足そうだった。

 夕暮れの渋谷の街の人ごみに、祖母は溶け込むようだった。 

 「はあ、喉が渇いたね」

 「スタバでも行く?」

 「いいよ、水だけで。そこの販売機のミネラルウォーターがあるだろう。日本も水を買う位の世の中になったんだねえ」

 祖母に百円玉を渡すと、嘆かわしそうにそう言った。

 「水道水も飲めるよ」

 「あら、そうかい」

 そう言ってエビアンを口にする祖母は、もったいなさげに手に取った。

 「アメリカではいつも、水を買ってたね」

 「飲めたもんじゃないからね、あっちの水は」

 私は八十円のクリームソーダを買った。二人でセンター街を歩きながら、辺りを見て回った。

 「日本が不景気なんて、嘘じゃないないかい?こんなに物が溢れてて」

 「どうなんだろうね」

 ビル街に沈む夕日を見てから、私は帰ろうと言って、バスターミナルの方向に足を向けた。

 

 

 

 また固定電話に、誰かから電話がかかってきた。夜の十一時過ぎだったので、祖母と二人で深夜番組を観ている最中だった。

 出ないで無視し続けると、二十一回目で呼び出し音がやんだ。

 「花、出なくていいのかい?」

 布団を並べて二人でごろごろしていると、祖母がそう訊いた。 

 「携帯は三ヶ月くらい前にスマホにして、番号も変えたけど、家電は学生時代から変えてないから…お母さんとかだとやだし。こんな時間にかけてくるのはリストカッターの知り合いか、酔っ払っいか。ここは渋谷から近いから、今頃かけてくるのは、終電を逃したから泊めてくれとかの電話とか。とにかく、ろくな電話じゃないのは確かだから」

 私は溜息をつきながら、冷蔵庫を開けた。

 「さ、ビールでも飲もうよ。アメリカではバドワイザーをよく飲んでたけど、老後は一番絞りが好きだったでしょ」

 私がそう言って祖母にビールを渡すと、祖母は目を丸くして言った。

 「なんでそんな事知ってるんだい?」

 「昔、大麦通りのグランマの長屋の冷蔵庫に、一番絞りが一本入ってたから」

 「あんたはなんでもよく覚えているねえ。そんなに記憶力があったら、辛い事も忘れられないだろう?」

 「まあ、そうかも。グランマが来るまでは、私、自分が生きている事そのものに疑問を持ってたから」

 「なんでだい?」

 祖母は私からビールを取り上げると、お酒はダメだと言った。

 「あ、ずるい。グランマ、独り占め?」

 「あんたの代わりに、あたしが飲んでやるよ。明日からは飲まないよ。頭の薬にはアルコールは厳禁だからね。いいかい、酒は病気が治ってから飲むんだよ」

 私は渋々頷いた。

 「ところで花は、何で生まれてきた事に疑問なんて持つんだい?」

 「だって…私が生まれる前から、お父さんとお母さんは仲が悪くなってて、既にお父さんには愛人がいて、お母さんがお父さんを引き止める為に私を作ったって言ってたし」

 「苗子は本当に愚かな女だね。輝彦さんが女性関係が派手なのは、結婚前から分かっていた話だし。あたしは、女好きの男はよしあしはともかくとして、苗子に扱えるはずがないと思ったから、結婚には反対したけど。苗子のお腹にはもう真広がいたからね」

 確かに、いわゆるデキ婚だとは聞いていたが、父が結婚前から女にだらしがない人だと知っていて、なんであえて結婚したのかが、よく分からなかった。でも、兄の真広が既に母のお腹にいたのなら、あの母ならきっと堕ろさずに産んでいたと思う。たとえ父が認知しなくても。

 「私、あの家には本当は、お父さんとお母さんとお兄ちゃんだけでよかった気がするの。私は単なるお父さんを家に繋ぎとめる接着剤だった気がして…」

 私は言い終わらないうちに、涙がこぼれそうになった。

 「私はただ可愛くて馬鹿ないい子でいれば、お母さんは喜んでくれるけど、ちょっとでも悪い事…お母さんの考えから外れた途端に、自分の子供じゃないって言われてて、辛かった。お兄ちゃんはどんなに悪さをしていても、決してよその子供扱いされなかったし。私はよくお父さんに似てるって言われてたけど、お母さんは機嫌が悪いと『平家の落人の血筋の子』って、言ってた。でも、ちょっと上品な靴やなんかを買うと『やっぱりうちの子だね』って。私、どっちの子も嫌だなあって思ったよ」

 私の話を祖母は、寂しそうに悲しそうに、ただ何も言わずに聞いて、一粒だけ落とした私の涙を見ると、すかさずティッシュの箱を差し出してくれた。暫く沈黙が続いた。

 「確かに、アメリカで四ヶ月の間暮らしてた時も、花は苗子に大事にされてない気がしたね。まるで人形を扱うみたいに、八つ当たりしたり変に猫かわいがりしたりとね。真広は要領がいいから、あたしと苗子が喧嘩をすれば、寝室に行ってゲーム機で遊んでいたね」

 「グランマとお母さん、なんで仲が悪いの?お母さんはグランマを随分と恨んでいたみたいだけど。少なくともグランマはアメリカで一生懸命働いて、月に何百ドルも送金してて。お母さんは東京のいい女子高、伯父さんたちはそれそれいい大学に進学させて貰って。しかも、大人になって会社に入ってからも、結婚しても送金して貰ってたって聞いたけど。なんでそこまでしてくれた親を恨むのか、訳わかんない。確かに傍にいてくれなくて寂しいのは分かるけど」

 「親子でも、全てが完全な愛情じゃないって、花は思わないかい?」

 「うん、確かに親子でも別の人間だもんね」

 「相性って言うのか…子供の頃から苗子はとにかく我儘で甘ったれで僻みっぽい子だったよ。兄貴の義男が優秀過ぎたもんだから、学校じゃ比べられて苗子も可哀想だったね。まあ、原因も責任も親であるあたしにあるのかもしれないけど、実際は自分の問題として受け止めて、自分自身で乗り越えないといけないんだよ。親は神様じゃないんだし」

 大人って言うのはただ単に、子供が大きくなっただけだと何かで聞いた。よく、親になって一人前みたいに言う人がいるけど、半人前でも親にはなれるんだと、私は両親を見て思った。

 「そういや、花。真広に顔に痣が出来るまで殴られたって、良枝さんから伝え聞いたけど、本当かい?」

 良枝おばさんは何でも喋っちゃうから、いい人みたいに見えるけど、実際は普通の底意地の悪い…いや、老獪なオバサンなんだと私は思っている。

 「うん、まあね」

 「何が原因で殴られたんだい?」

 「えーと。私、虫歯が酷くて耐えられなかったし、当時は受付譲をやってたから、前歯に虫歯があると、みっともないでしょう?うちは借金に追われてたみたいで、住民票は私が中学の時のままで、保険証がないまま、転々と引っ越してたから。一回の治療で一万円なんて、私の安い給料じゃ払えないから、医療事務の人に教わって、私の分だけ住民票を別にして保険証を作ったら、いきなり殴りつけられたの」

 「そりゃ酷い話だね。歯は一生ものだから、あたしが親なら、働いたりしてなんとかしてやるのに。真広は大人しそうに見えて、随分と乱暴な子だったんだね。実は、その話を良枝さんから聞いた時、あたしゃ怖くて苗子と真広とじゃ暮らせないって思ったよ。今度殴られるのはあたしじゃないかってね」

 やはり、と私は思った。

 「家を出たのはお兄ちゃんだけのせいじゃないよ。お母さんはいつもお酒を飲んで八つ当りしたり、お父さんからちゃんと生活費を貰ってるのに、私のバイト代、殆ど毟り取られたりしてたし。高校は受かっても、通学する交通費も無くなっちゃうから、辞めずにはいられなくなっちゃったし。うまく就職出来ても、ちょっと面白くなかったり、保険証を作った時とかも、会社に電話して上司にある事ない事言われて、会社に居たたまれなくされたり…正直、私はもうお母さん達を捨てたの。少しずつ遠ざかって、縁を切ったの」

 そうだ、母を愛する事が出来なくなったのは、中学に上がるよりも前だった。あのあたりから私の方から母を求めることをやめたのだ。先に降りたのは私の方だ。

 「そう仕向けたのは苗子だろう?花が病気になっても、見舞いにも来なかったんだろう?輝彦さんの籍に変えたって聞いたけど」

 「お父さんはお母さんよりも酷いよ。私が就職すれば同居を勧めたし、進学すれば同居はしないって言うし。病気になった途端にアパートの保証人はやめるし、せっかく入れた戸籍を外せ外せって言い張るし。言う通りに外して、少しして電話したら若い女の人が出たよ。何人目の妻なんだか…こんな事なら、籍なんか移さないで、お母さんの苗字のままの方がよかったよ」

 なんだか、人の悪口を言うと口が曲がるって言われそうなので、あまり家族の話はしたくなかったが、祖母が私を理解しようとして色々訊くので、自然と悪い事ばかり言ってしまった。

 「輝彦さんて、確か今六十五ぐらいだっけか。その年で若い女房作るなんて…ある意味凄いけど、子供からしたら嫌だろうね」

 「お母さんも子供の頃、グランマがアメリカ人のボーイフレンドを家に連れてきた時は、びっくりしたし、何だか嫌だったみたいだよ」

 「そうかい…親も人間なんだけどね」

 「うちのお母さんのお父さん…お祖父ちゃんてどんな人?」

 「松輪の土建屋の息子だよ」

 「お母さんは、自分に汚い商人の血が混じってるとか言ってたけど」

 私が言い終わらないうちに、また電話がかかってきた。もう十二時を過ぎたのにかかってくるなんて、友達の中でもたちの悪い部類だと思って、無視しようとした。

 「出ないのかい?」

 「どうせくだらない用件だろうと思って。酔っ払いかリストカッターとかだと思う」

 「それでも、花に何か助けを求めて電話して来るんだろう?出るだけ出ておやり」

 私は数年前に祖母を亡くした直後に、相次いで親友の直美を自殺で亡くした。以来、誰の死に目にも会いたくなくって、同じ鬱病の友達を放って置かなかった。だが、皆甘えるだけ甘えて、何も変わってくれないし、私自身が疲弊したので、三ヶ月前に携帯電話をスマホに変えてから、電話番号とメールアドレスを変えた。つまり、人間関係を断捨離したのだ。古い友人や知り合いだけは固定電話にかけてくるので、近々ナンバーディスプレイ付きの新しい電話機を買おうと思ったが、そのお金は祖母の下着やなんかに消えてしまった。

 電話はまだ鳴り続けていた。私は仕方なく受話器を取った。

 「もしもし?今、何時だと思ってんの?」

 嫌味を込めても通じない相手であろうとは思ったが、とりあえずそう言ってみた。

 「ああ、花。俺だ、俺。今、渋谷なんだけどさ。飲み会が長引いて帰れなくなってさ。今から行くから、泊めてくれ」

 「俺、って誰?」

 私は念のために相手を確認した。

 「八田部だよ、八田部豊和」

 「…ハチ?」

 「うんそう、ハチだよ。とにかく行くからな」

 「残念ながら、来客中。ネカフェでもカラオケボックスでも行ってよ」

 「金があと千円ちょいしか残ってないんだよ。これから深夜バスで向かうから」

 「だから、来客中だって」

 「男じゃないだろう?助けると思って、風呂場でいいから寝かせてくれ」

 「嫌だよ。お客さんが嫌がると思うよ」

 「俺とそのお客さん、どっちが大事なんだよ」

 「お客さんに決まってるでしょ」

 「あ、バッテリーが切れる…とにかく行くからな、じゃあ」

 「ちょっと、ハチ…」

 ハチはブツリとスマホを切った。こちらに向かってくるらしい。

 「ハチって誰だい?」

 「元彼」

 「モトカレ…?ああ、前の恋人かい。なんでまた」

 「渋谷で終電逃したって。ここは渋谷から近いから、この手の電話がたまにあるんだよ。ハチにはもう付き合わないって行ったんだけど、何だかんだ言っても分かってくれなくて。俺には花が必要だとかなんだとか調子のいい事言って」

 「ふうん。それなら、あたしが話を聞いてやるよ。そのハチって男が花に相応しいかどうか、見てやる」

 「いいよ、もう寝よう。明かりを消して、ハチが来ても出ないようにしよう」

 私はテレビを消して、歯を磨きに行った。祖母も磨くと言って、洗面台の色違いの歯ブラシで、しっかりと三分間歯磨きをした。   

 

 ハチが来襲してきた。玄関の呼び鈴を何十回も押して、どんどんとドアを叩き、ドアを開けろとハチは言い続けた。

 五分か十分我慢して二人で布団に潜っていたが、お隣りの人が見かねて出てきた

ので、居留守はかなわなかった。

 「ハチ、すごい迷惑」

 「ごめーん。お邪魔します」

 「誰が入れって言った?」

 「今言った」

 私はしまったと思い、ハチが勝手に部屋に入るのを止められなかった。

 「こんばんは、いらっしゃい」

 祖母は穏やかにハチを迎え入れた。お茶を新しく淹れてやり、クッションに座らせた。

 「はじめまして、八田部です」

 「花のアレだろう?話は後々聞いてやるよ。しかし、なんだね、その格好は。平日の夜に飲み歩いて…仕事は何をしてるんだい?」

 祖母はハチの身なりを見てそう言った。ハチはこの日もカラフルなTシャツにジーンズという、まるでミュージシャンか何かみたいな服装だった。

 「えーと、今は仕事をしてなくて…」

 ハチは珍しく言葉に詰まった。私にこの人は誰だと聞いたので、祖母だと答えてやった。本当は姉だとか従姉という事にしようとも思ったが、本当の事を言って、ハチがどう反応するかが見たかったのだ。

 「え、アメリカのお祖母さんですか…随分とお若いんですね」

 祖母はかいつまんで、生き返ってきた事を話した。ハチは首を捻りながらも、納得した振りをしているようだった。

 「ところで、仕事をしていない男が、なんで平日っぱらから飲んで、うちの孫の部屋に押しかけて来るんだい?まだ若くて元気そうに見えるけど」

 祖母はハチの痛いところを次々とついた。ハチは狼狽してしどろもどろになった。

 「実は僕は、糖尿病と精神の病がありまして。去年までは大学に行ってたんですが…今は親の援助で生活しています」

 「ふうん。病人なら、酒はやめとくんだね。あたしも昔、糖尿だったけど、それでも人様の倍は働いてたけどね。あんたは一生親の金で暮らしていくんだろう?」

 「いいえ、もう一度復学して、卒業したら親の会社を継ぐ事に…」

 「見たところ、三十代後半だろう?大学とは結構だけどね。一見立派そうに聞こえるけど、そんなのが親の会社に入ったって、潰すしかないだろう。あんたんちの財産がどんだけかは知らないが、その身なりなら、少なくとも大富豪ではなさそうだ。きっと、親は今頃大変な思いをしているだろうね。大学もまともに卒業できない人間が自営業なんて、無理、無理」

 ハチは顔を赤くして、反論した。

 「あなた、失礼ですね。アメリカのお祖母さんだとか言ってたけど、その人なら何年か前に死んでるし、第一、こんなに若いはずはない。一体、あなたは花のなんですか?花が天涯孤独なのは俺は知ってるんだ。確かに花とは似てるけど本当は…そうだ、腹違いの姉かなんかでしょう。あの花の父親ならありえる」

 ハチは珍しく、真っ当な見解を述べた。確かにこの祖母が実物の人間なら、父の隠し子と言う可能性を疑うのが自然かもしれない。でも、この祖母は父とは似ても似つかない。

 「あんたんちはカソリックだって話だけど、復楽園説は聞いたことが無いのかい?ヨハネの福音書だよ」

 「あんなの科学的におかしいだろ」

 「聖書は科学的におかしいと言われてるけど、実際の最近の研究じゃ、科学的に合ってるところが沢山あるんだよ」

 「じゃあ、アダムの肋骨でイブが出来たってのは?どう考えてもおかしいだろ」

 「肋骨は骨膜が残っていれば、再生する機能があるんだよ。アダムの肋骨が二十四本のうちの一本でイブが出来たけど、ちゃんとその後再生したのさ。だから人間の肋骨は二十四本あるんだよ」

 祖母とハチの言い合いは白熱した。私は何も口が挟めずにいたが、こうしてハチに対して物を言ってくれる身内がいるのは、すごくありがたかった。私はハチとその母親に昔、酷い事を言われ続けたが、こうして私を守ってくれる祖母がいてよかったと心から思った。今までずっと、こうして私の味方をしてくれる身内がいなかったので、なおさらだ。

 「とにかく、あんたは花には相応しくない。花の病気はそのうちよくなるし、本来の花は、頭が良くて粘り強くて働き者だ。夜学をたった一人で卒業したんだしね。親の脛を齧っても卒業できないで、休学と称して遊び歩いてる奴とじゃ釣り合わないね。確かにあんたには金があるかも知れないが、金以外はなんにも持ってなさそうだね。うちの子を貧乏人扱いして馬鹿にしきっていたって言うじゃないか。あんたんちはどうせ、成金だろう?うちは豊後藩の上級武士の家だよ。源平合戦からの古い家柄さ。義男が巻物を売っぱらっちまったみたいだけど。日清日露、第二次大戦じゃ砲術師範だった、生粋の武士の家さ。八田部なんて、どうせ商人の家柄なんだろう?」

 「グランマ、それは時代錯誤だよ」

 「花は黙ってな。うちがちゃんとした家だって事を知らないから、こうしてなめられるんだよ」

 祖母はハチを殴らんばかりに罵った。

 「とにかく、今は春だし、公園ででも夜明かしするんだね。男なら一人でも危なくないし。花、そこの新聞紙を渡しておやり。新聞紙を身体に巻くとあったかいからね」

 「グランマ、ハチが風邪引くよ。ハチ、今日はもう帰って。電車が無いなら、お金を貸すから、ファミレスで…」

 「ファミリーレストランなんてもったいないよ、この男には。男なら野宿が当たり前だよ。日本の男はだらしがなくなったもんだね」

 「ハチは病気で…」

 「腐っても鯛って言うだろう?腐っても男なんだよ。でも、腐った鯛は食べられやしない。それよか、食べられるシシャモや鰯の方がずっといい。意味分かるかい?花」

 「それは分かるけど、でも」

 「いいよ、もう。花、千円貸してくれ。俺、ファミレスに行くよ」

 ハチがそう私に言ったので、私は財布から千円札を渡した。ハチはそれをもぎ取るようにして、黙ってアパートを出て行った。

 「花、なんで金なんか渡すのさ」

 「だって、これで風邪なんかひいたりしたら、私やグランマのせいにされるし。後々面倒だから」

 「あの男、また来るね」

 「え…」

 「今度来たら、玄関を開けるのよそう。関わっちゃいけないよ」

 「うん…そうする」

 「あの男は口が巧いみたいだね。しかも、人の同情を引くのもお手のものと来た。今、こうして引き下がったのも、恐らく自分を被害者にする為さ。変に頭の回る、厄介な男だね」

 確かにそうかも知れないと私は思った。でも、どうしてほんの一時間やそこら話しただけで、そこまで見抜けるのかが不思議だった。年の功だろうか。

 「さあ、塩撒いたら寝よう」

 「なんか、塩さえももったいない気もしてきた」

 私がそう言うと、祖母はふんと鼻を鳴らして言った。

 「だろう?でも、気味が悪いから、お清めは必要だよ…おや、塩が残り少ないね。まあ、明日スーパーマーケットに行って買えばいいだろう」

 祖母はそう言って、袋に入った食塩をそこらじゅうに撒いて、空になった袋をゴミ箱に捨てた。もう塩はコンロの横に置いてある小瓶の中にしかない事になる。

 私と祖母は一息ついてから明かりを消して、布団にそれぞれ入って寝た。

 私はその五分後に寝る前の薬を飲むのを忘れた事に気づいたが、だるくて眠くて薬が飲めなかった。暫くしてから浅くはあるが、朝まで眠る事が出来た。

 

 

 

 ゴールデンウィーク前には、アパートの藤が満開だった。祖母は見とれているのか、いつまでも藤棚の下に佇んでいた。

 「きれいだね、花。写真機はないのかい?」

 「スマホにならついてる。一枚撮るよ、いい?」

 私は藤の花びらが舞う中で笑っている祖母を撮った。

 「車の音がうるさいけど、この藤だけは見事だね。東京も捨てたもんじゃないかもね」

 「グランマ、私出かけなきゃ。友達と会う約束してたから。夕方までには帰るから、何か本でも読んで、ゆっくり留守番してて。いい?」

 「分かったよ。久しぶりに幼馴染と会うんだろう?もっとゆっくりしてきてもいいよ」

 「相手は主婦だから、夕飯までには帰さなきゃ…渋谷に行ってくるからね」

 「はいはい、行ってらっしゃい。車には気をつけるんだよ」

 

 昼前に渋谷のモアイ像の前に着いた。数分して幼馴染の美月ちゃんが現れた。

 「久しぶり、花」

 「美月ちゃん、変わりはない?」

 「別に、普通だよ。花は今日は元気そうだね。何かいい事あった?」

 「うん、まあね。それよりランチしようよ、混む前に。カラオケボックスとかの方がいいかなあ」

 「今日は同人誌の打ち合わせメインだから。ボックスの方が安くて長くいられるよね」

 「ボックスのご飯て、不味くない?」

 「店にもよるよ。とりあえずあっちの方の店に行こう」

 そう言って美月ちゃんはセンター街の奥へと歩いて行った。

 「あの店なら、ピザが美味しいよ」

 「じゃあ、そこ。そこに決まり」

 美月ちゃんがよく行くと言うカラオケボックスに入ると、店員さんが笑顔で迎えてくれた。「作り笑いでも笑顔には変わりないから、いつも笑っていなさい」と言ったのは、確か生前の祖母だった事を思い出した。

 部屋に入ってピザを頼んでるうちに、一、二曲歌いながら待っていたら、美味しそうなピザが運ばれた。そして冷めないうちにと食べてから、同人誌の打ち合わせに入った。二人で『忍者丸サスケ』というアニメののパロディ本を、今年の夏のコミケで売る予定だ。

 美月ちゃんはそこそこ売れている同人作家で、子育てをしつつ、年に二、三冊本を出しているし、ネット上でもホームページのアクセス数はかなりのものだ。

 同人誌に出すのは今回が初めての私は、彼女に原稿を渡して、後は殆ど美月ちゃんにやって貰う形になっている。

 「花、ここの台詞の関西弁は違うよ。『間違ってる』じゃなくて『間違ごうとる』だよ。」

 「あ、そうか。つい…」

 私の原稿に細かくチェックを入れている美月ちゃんを見て、同人作家としてではあるが、売れている理由が改めて分かった気がした。要するに、プロ意識をを持って書いているかどうかなんだと思った。

 「でも、花の原稿、前よりも良くなったよ。前は明るい話でも、書いてるのが辛そうだったから。オリジナルも書き始めたってメールくれたけど、どのくらい進んだ?どんな内容?」

 「うん、今はまだ見せられないけど、八十枚くらいは書けたかな、一週間くらいで」

 「えらくハイペースだな、身体壊すなよ」

 「うん、ねえ、美月ちゃん。聖書の文言に『楽園が復活したら死者が生き返る』って話があるんだけど。本当に死者が墓から出てきたりしたら、どうする?」

 「なんだ、それ」

 「美月ちゃんは死んだお祖父さんやお祖母さんに会いたい?生き返ってきたら嬉しい?」

 「そりゃ、嬉しいけど。物理的に無理がありそうだし、現実離れした考え方だよね」

 「いきなりゾンビじゃないけど、もしも自分の身にそんな事が起きたら?どうリアクションする?」

 「うーん、やっぱり科学的に見れば幻覚だし、オカルト的に見れば幽霊だよね。死者が現れるって言うのは。聖書の事はよく知らないけど、信じたい気持ちはわかるよ」

 「結局、幻なのかなあ…」

 「何、幽霊でも見たの?」

 「うん、まあね。もしかしたら統合失調症とかになったのかもだけど。病院にそれ用の薬を貰って飲んだら消えるのかと思うと、主治医にも相談できなくて」

 「でも、何だか前より元気そうだから、暫く様子見たら?あたしだって子供の頃、お祖母ちゃんの幽霊見て、一緒に遊んだもん」

 「そうしようかな」

 「薬で解決する前に、薬で解決出来ない問題が沢山あるでしょ、花の場合。まあ、昔の映画みたいに、幽霊に生気を取られてる感じは全くしないし、かえって元気なんだから、いいんじゃないの?何が本当かよりも、何を信じるかの方があたしは大事だと思うよ」

 「美月ちゃん。私、変かなあ?」

 「病気は今に始まった事でもなし。人格がまともだから…いや、まとも過ぎるから生きづらいみたいだから、楽しんじゃいなよ」

 「幽霊とダンスしたり?」

 「うん。そりゃ面白そうだ。新作のネタになるじゃん」

 私はこの賢い友人が昔から好きだった。小学生の時にアメリカから帰ってきた時に入った学校で同じクラスだったが、彼女は勉強はそれほど出来る方ではなかったものの、人として賢い人だったし、精神的に強い人である。身体はあちこち弱くて、腰だの肩だの足だのが痛いと、年寄り臭い事をしょっちゅう言うが、心が健やかである。

 「とりあえず、今回出す本には、これとこれの短編小説にしよう。対談でも入れようか。ボコーダー持って来たけど」

 彼女はそう言って、鞄から小さな録音機を取り出して言った。

 「私、『忍者丸サスケ』はあんまり詳しくないから、何を話せばいいかわかんないよ」

 「そう?これだけの小説を書いてるのに?」

 「私には二次制作は筆慣らしで、作品にはたいして愛があるわけでもないから。でも、美月ちゃんを私がインタビューするとかならいいかも」

 「『徹子の部屋』っぽく?」

 「うん。私が黒柳徹子で、ゲストが美月ちゃん」

 「やっぱり、ルールルッルルル~って歌わないとね」

 「そうだね、それポイント」

 二人で、こんなくだらないやりとりをしていたら、あっという間に二時半過ぎになったので、『徹子の部屋』ならぬ『花の部屋』の収録を急いだ。

 

 

 

 「どうですか、調子は」

 主治医は何の感情も見せずに、そう私に訊ねた。毎回同じパターンの繰り返しに、そろそろ飽きてきてはいた。

 「友人からは元気そうだと言われています」

 「確かに顔色がいいですね。ちゃんと眠れていますか?」

 「はい。祖母…いえ、家の者が居候してきたので、自然と規則正しい生活にはなりつつあります」

 「おうちの方?」

 「あ、はい。姉、が」

 主治医はすかさず私の初診時のカルテの、家族構成のページをめくった。私は慌てて付け足した」

 「義理の姉です、父親違いの」

 私のその言葉に納得したのかどうかは分からないが、主治医はひとつ溜息をついた。

 「そう、お姉さんね。仲が良いんですか?私は初診の時、あなたは天涯孤独だと聞きましたけど」

 「長く海外にいまして…私のところに」

 どこまで嘘をついていいのかわからないが、とりあえずなるべく言葉少なくして嘘を見抜けないよう努めた。

 「そう、そうですか。頼れる身内の方がいて、何よりですね。次回はお姉さんを連れて受診してください。じゃあ、お大事に」

 そう言って主治医はカルテを隣室の方へ置いて、次の患者をマイクで呼んだ。

 

 私は困った事になったと思い、帰ってから祖母に相談した。

 「なんでまた、同居人がいるなんて言ったのさ。黙ってればいいのに」

 「ある程度本当の事を言っとかないと、薬を増やされたり減らされたりして、何かと後々不都合で、体調が悪くなるから」

 「うーん、そうかい。まあいいさ、要は輝彦さんの隠し子だって話だろう?任せとけ」

 大丈夫かなあと思いつつ、平和にご飯をよそって、夕飯にありつく日常にありがたみを感じた。今夜は私の作った鯛のあらを塩と昆布で煮た物と、きんぴらごぼうである。

 祖母は結局のところ、日本食は作れないのだった。それでも、日本の食材の素材がいいので、何とか食べれるものを作ってくれるのだが。

 「そうだ、ねえ、花。あたし、何か働こうかなと思って…スーパーの隅にあったアルバイトニュースを貰ってきたんだけど」

 祖母は食べ終わると、フリーペーパーを私に見せた。

 「確かに二人で食べてくのは苦しいけど…でも、老人をこき使うなんて、そんな」

 「あたしのどこが老人なんだよ。見たところ、三十そこそこのピチピチギャルじゃないか。体力なんて、花の倍はあるつもりだよ?」

 確かに、肉体は若くはあるが。中身が世間離れしているから、どうも社会に出すのは躊躇われる。

 「身分証明書とかは?死人には戸籍が無いんだから、作れないじゃない。今時、身分証明書がないと、どこも雇ってくれないよ」

 「うーん。じゃあ、花のを借りるよ。運転免許証はあるかい?」

 「いや、車を運転しちゃいけない病気だから。住基カードしかないよ」

 「それでいい、お貸し」

 「大丈夫?写真でばれないかなあ」

 「似てるから大丈夫だろう。さて、何の仕事をしようかねえ」

 祖母は、わくわくした様子でアルバイトニュースのページをめくった。

 「人とあんまり会わない、倉庫とかの軽作業がいいんじゃない?グランマは喋ると妖しい人だから」

 「そうかい?まあ、アメリカ帰りって事で納得して貰うようにするさ。履歴書まで付いてるなんて、気が利いてるね」

 「一応、私の生年月日を暗記してね。干支も…学歴は、中学を出てからずっとアメリカだって事にしたら?グランマは日本の常識に疎いから」

 「はいはい、中学は野火の中学でいいんだね?高校からはアメリカで…ついでだから、UCLA卒って事に」

 「ダメダメ」

 「冗談だよ。特技は、射撃と英会話かな」

 「特技は何か資格がないと」

 「車の国際ライセンスがあったけど、今はライセンスカード持ってないしねえ」

 祖母は楽しそうに履歴書の下書きを始めた。

 「ねえ、やっぱりいいよ。障碍年金と保険金があるし。グランマだけに働かせるの、嫌だよ」

 「そうは言っても、生きてくには、働かないと。花は家事でもしながら、マイペースで物書きをしてればいいさ。今はまだ身体が完全に治ってないんだから、無理するんじゃないよ。あたしはこんなに若くて元気なんだから、働いて当たり前だろ」

 「本当に大丈夫?」

 「グランマを信じて。花は芥川賞でも直木賞でも、目指すだけ目指しな。食べる分はあたしが稼いでやるから」

 「あ、芥川賞と直木賞で思い出した」

 私は卓袱台の上を片付けながら、そう呟いた。

 「なんだい?」

 「グランマの遺産…一番欲しかった物は貰ったって話。ちょっとそこの押入れの下の段に、冷凍おせちの箱があるでしょ。それなんだ」

 「なんだい、随分とぼろい箱に入ってるけど」

 「グランマが大伯母様宛てに書いた、アメリカからの手紙の束だよ。良枝おばさんに貰ったの」

 「おや…こりゃまた懐かしい」

 祖母は箱を開けて中身の何十枚ものエアメールを見て、目を輝かせた。

 「あたしが書いた手紙を何で花が?」

 「いつか、グランマが自分の自伝を出したら、面白いんじゃないかって言ってたから、私が代わりに書こうかなって。紫色のファイルにに月毎にファイリングしてるんだけど、日付はあっても年が分からなくて。しかも、四十年以上もの手紙でしょう?なかなかさばけなくて」

 「なんだか恥ずかしいけど、嬉しいよ」

 「曾お祖母ちゃんの葉書もあるんだよ。でも、にょろにょろの文字で読めないんだよね。グランマの手紙は、そこらの小説よりも面白いよ」

 祖母は一通一通手に取り、じっくりと眺めた。

 「なんだか日記を見られてるみたいだけど…よく遺してくれたね。花が受け継いでくれたなんてね…ありがとう、花」

 少しだけ涙ぐみながら、祖母はエアメールの束を箱に戻した。そして、食後のお茶をゆっくりと飲んだ。

 

 

 

 祖母が日雇いの軽作業の仕事に出始めて数日が過ぎた。週に二日以上は休むように言ったが、どうやら元気を持て余しているらしく、毎日働きたいと言って、一週間後までアルバイトの予約を入れてしまった。

 私の方は体調の波があるものの、オリジナルの小説の執筆に取り掛かった。この奇跡の様な日々を小説と言う形にして閉じ込めたかったので。前に、美月ちゃんに報告した時はまだ八十枚くらいだったが、今は百枚以上書き進めた。

 だが、問題があった。この物語をどう終わらせるかだ。永遠の命を得た後、楽園でずっと暮らし続けられるのか…リアリティがないので、何だかファンタジー染みているなと思いつつ、パソコンを打つ手が止まってしまった。

 午後三時にタイマーが鳴った。干した布団を取り込む時間である。私は時間が守れないのか、守りたいのか自分では分からないが、うちには目覚まし時計やキッチンタイマーが合計五つある。特に文章を書いていると寝食を忘れがちなので、以前使っていたガラケーに、『忍者丸サスケ』の声で朝から晩まで、何時に起きて何時に食べて薬を飲むかなどの時間を細かくセットしているが、あまり守れずにいる。サスケの声よりも、祖母のペースに合わせて生活する方が、ずっと確実に、しかも楽に規則正しい生活が出来るものだ。

 二人分の布団を取り込んでから、洗濯物を確かめたがまだ少し湿っぽいので、もう少し干しておくことにした。乾くまでの間にスーパーに行こうと思って、何を買うかをメモ書きし始めた。コーヒーを淹れながら、今週のだいたいの献立を考えた。

 まずは春キャベツを一玉、アスパラガスも旬だからベーコン巻きにしてもいいかなと思った。魚はスーパーの特売品にして、その他は…と買いたい物を紙に買いて、それからだいたいの予算を電卓で計算した。コーヒー豆と塩と砂糖も、安かったら買い置きしよう。

 五月に入って、ゴールデンウイークの真ん中である。私は温泉にでも行きたいなと考えた。野火の温泉は銭湯みたいなところだが、その先の永沢には、小さな温泉旅館があったのを覚えている。まだ今でもあるだろうか。それに、七浦まで足を延ばせば、海の家が沢山あるし、ホテルもある。夏休み頃には祖母と旅行したいなと思った。行き先は別に松輪市じゃなくても、どこでもいい。きれいな空気と風景があればどこでもいいなと思った。

 商店街のスーパーで買い物を済ませた後に、八百屋で苺が安く売っていた。私はとちおとめとあまおうを一パックずつ買って、祖母と食べ比べをしようと思ったのだ。

 

 重い荷物を持って帰ったら、アパートの前で煙草をふかしている人物がいた。

 「よう、お帰り」

 「ハチ…」

 アパートの玄関先にハチが立っていた。スマホを弄りながら、煙草の火を消して、吸殻をその辺に捨てた。

 「何の用?」

 「こないだの千円を返しに来た。今日はあの変な姉ちゃんはいないみたいだな」

 私はなんだか嫌な予感がして、背中があわだった。

 「そう、じゃ。返したら帰って。夕方には帰ってくるから」

 「一緒に住んでるのか?」

 「そうよ、今はバイトに出てる」

 ハチは千円札を私に渡すと、スマホをポケットにしまって、アパートの部屋に私の後ろについて入り込もうとした。

 「ちょっと、帰ってよ」

 「ちょっとぐらいいいだろう?花の好きなシュークリーム買ってきてやったぞう?麻布のあの店の。春の限定苺シュークリームと桜シュークリーム」

 「いらない。持って帰って食べれば?自分で」

 「俺は糖尿だから、甘いものはダメなんだよ。知ってるだろう?」

 「たまには白金の実家に帰って、お母さんや弟さんや妹さんにでもあげたらいいでしょ。ほら、帰ってよ」

 よっぽど「お前は母ちゃんと結婚しろ」と言いたかったが、波風立てたくなかったので、この時は言わなかった。

 ハチは超のつくマザコンで、毎晩十一時頃には必ずお母さんと三十分以上は話し込むほどである。祖母にハチの話をあれやこれやを話したら、

 「糖尿にマザコンに精神病?病気持ちすぎだろ、そりゃ」

 と言っていたので、きっとマザコンも病気のうちに入るのだろう。

 「お姉さんが帰るまでには帰るからさ。頼むからコーヒーでも淹れてくれよ。花の淹れるコーヒーは絶品だからな。流石は母親がカフェやってただけはあるよ。一緒に暮らしてた時は、毎朝、花の淹れるコーヒーが飲めたのになあ」

 「白々しい。ある日突然ヒステリー起こして、ろくな荷物も持たせずに、タクシー呼んで強制的に追い出した癖に」

 「まあまあ…」

結局、私がアパートのドアの鍵を開けると、ハチは入るなと言うのも聞かずに上がり込んだ。

 「相変わらず片付いてるな。又、俺の部屋の掃除も頼むよ。バイト代は手厚く出すからさ」

 「前に引き受けたら、結局お金払わなかったでしょ。しかも、自分でその場で汚したトイレまで…ハチの世話はもう懲り懲りだよ。バイトなら他にいくらでもあるから」

 そんなんだから、ハチは実家の健康食品会社の社員とも上手く行かなくて辞めたのだった。従業員を召使い扱いするわ、次期社長だとか言って、実力も無いのに威張ってばかりだったと話は聞いている。

 ハチは赤坂のマンションで月数十万…少なくとも五十万円は仕送りして貰っているが、それさえもすぐに使い切ってしまい、カードローンや何かを次々と組んで、母親を困らせている。父親を高校生の時に亡くしたと聞いているが、それならそれで母親の支えになればこそ、何故こんな風に心配をかけているのが不思議でしょうがない。そこが病気と言うのだろうか。私には文字通り、人格障碍にしか見えない。

 私も双極性障碍者で年金暮らしだが、同じ精神の病でもこれだけ違うなら、知らない人には、一緒くたに思われたくないと思った。

 ハチはクッションの上に座り、卓袱台の下の来客用の吸殻入れの缶を見つけると、煙草を吸いながら、コーヒーはまだかとばかりにのんびりしていた。

 私はあの三年間、どこが良くてこの人と結婚を考える程、又、小説を書くのを辞めてまで、この人を愛していたのか、もう思い出せなくなっていた。毎日寝る間も惜しんで、ハチの身の回りの世話をして、仕事に明け暮れた三年間は一体なんだったのだろうと自問自答した。

 ハチが大学を出たら、健康食品会社を任せられるから、その時に結婚しようと言う話だった。又、私が兼ねてから大学院に行きたがっていたので、父親から受け継いだ遺産で進学させてくれると言う話もいつの間にか立ち消えになった。

 ハチ自身は大学は四年経っても単位不足で辞めてしまうし、親の会社もめちゃくちゃにしてしまった。今は毎日インターネットに夢中になっているか、それが飽きるとカフェ巡りをしたり、週に何回かはオフ会と称して飲み歩いてばかりだそうだ。絶えず新しい家電製品、所謂スマホやタブレットだのなんだのの『オモチャ』を買っては毎月破産している。

 「ハチ、あんまりお母さんを泣かせないようにしなよ。前に電話で、どうしたらハチのお金遣いの荒さがなくなるかしらって、相談されたよ」

 「うるせえなあ。他人の事は放っとけよ。お前みたいな年金生活者に言われたくねえな。どうせそろそろ生活保護者になるんだろう?国家のダニにとやかく言われる筋合いはないな」

 私はその言葉にカチン、と来て思わず言い返した。

 「まともに働いたことの無い、親の脛齧りに言われたくないよ。親の金で威張り腐って、人を顎で使おうとする人間なんて、最低」

 「何だと、この野郎!」

 ハチは私の左頬を叩いた。あまり痛くは無かったが、涙が滲んだ。

 「そうやって、妹さんや弟さんを虐待してたんだね。いくら父親に虐待されたからって、自分よりも弱い者を虐待するなんて人間のする事じゃない…もう、あんたの事は同情なんかしない。あんたの母親は、息子よりも長生きするって言ってた。つまり、ハチが一日も早く死んでくれるのを待っているんだよ。亡くなったお父様のアルコール中毒の時も、占い師に離婚しようかって相談したって聞いたよ。占い師に『旦那はもうすぐ死ぬから待ってろ』って言われたからそうしたって話だよ」

 「嘘だ、やめろ、デタラメを言うのは」

 ハチは立ち上がって、卓袱台を蹴倒し、私を足げにして、背中を蹴った。

 頭の悪い人間は簡単にこうして暴力を振るうのだ。ハチも兄も、同じ人種なんだと思った。

 「お前の親の方がもっと酷いだろうが。うちの母ちゃんの悪口言うな!」

 「悪口じゃない、本当の事よ。ハチがお父さんに虐待されてる時、なんで放って置いたのかって聞いたら、病気の親と精薄の兄の介護で大変で、ハチどころじゃなかったって言ってたよ。いい?『豊和どころじゃない』って、どういう意味か。だいたい、何で病気じゃない弟さんや妹さんは白金の実家に同居させてるのに、病気のあんたがマンションに一人暮らしなのか。普通は病人が実家で、健康な子供は独立させるはずよ…」

 「それ以上言ったら、殺す」

 ハチは私の胸座を掴んで、往復ビンタを何回も喰らわせた。私は痛みで訳が分からなくなり、それ以上は何も言えなかった。

 ハチは鬼の形相で仁王立ちになり、私の両手をベルトで縛り上げた。

 「何する…のよ」

 「お前に分からせてやる。お前なんか最低な淫売だって事を思い出させてやる」

 ハチが私を強姦するつもりなのに気づいたが、声が出なかった。必死で抵抗するが、抵抗すればするだけ、殴る蹴るを繰り返すので、次第に抵抗する元気が無くなり、無理やり挿入されて数分もしないうちに射精された。

 私は呆然となり、体中の力がぬけたまま横たわっていた。両手に縛られていたベルトをハチが外したが、ぐったりしていて、反撃も出来なかった。うっすら目を開けると、ハチがズボンを直して、部屋を出て行ったのが見えた

 ほんの数年前までは愛しかったハチの存在が、この日からおぞましい存在へと変わっていった。

 

 ハチが帰って、一時間くらいしてから祖母が帰ってきた。下半身を脱がされ、ボロボロになった私を見た祖母は、一瞬にして状況を察した。

 まずは私に水を飲ませてくれた。何があったかを訊く前に、大丈夫か、どこが痛いかと訊いてきた。

 「あのハチって男かい?」

 「うん…」

 「ダメじゃないか、家に入れちゃ」

 「勝手に入ってきたんだよ。まさか乱暴されるとは思わなかった」

 「警察に届けよう、いいね?」

 「やだよ、そんな事したら、強姦された女ってレッテルを貼られるし、相手は中小企業とは言え、お金持ちだから腕のいい弁護士がついてるだろうし。しかもハチは病気だから、きっと病気のせいで無罪にされるよ」

 「とりあえず、証拠だけは残しとかないと」

 私は下半身からドロリとした物が出てくるのを感じて、吐き気がした。

 「アフターピルも処方して貰わないとね。そんなに嫌かい?でもね、花。戦わないといつまでもあの男みたいな奴に、いいようにされ続けるだけなんだよ?とにかく、一一〇番通報するからね」

 祖母が通報した後、私は救急車に乗せられ、警察署だか病院だかの、どこかの冷たそうな部屋で、全身の痣の数を数えられ、昔のジョディ・フォスターだかキム・ベイシンガーだかの映画よろしく、足を広げさせられて、強姦相手の陰毛や精液が残っていないかと、随分な時間をかけて調べ上げられた。そして、少ししてから、看護師らしき人物にアフターピルを飲まされた。また十二時間後にもう一錠飲まされるらしいが、副作用で吐き気がしても我慢するようにと言われた。

 私が警察へ行くのが嫌だったのは、世間体でもハチの事だけでもなかった。祖母の正体を警察に知られるのが嫌だったのだ。

 「グランマ、大丈夫だった?」

 「ああ、姉だって言ってあるよ、腹違いのね。身分証はなくしちまって今は無いって言ったら、いいってさ」

 私は警察病院に何日か入院することになった。病室のベッドで寝ていると、やっと事情聴取が始まった。若い女刑事と初老の刑事の二人だった。

 「犯人は八田部豊和、三十五歳。住所は港区赤坂で間違いないですね?元彼?」

 「はい」とだけしか私は答えられなかった。

 「何でそんなに?前から暴力はありましたか?」

 そんな様に矢継ぎ早に質問されたが、私は疲れていて、あまりうまく話せなかった。

 祖母が私の常備薬を持ってきてはくれたものの、入院に必要な他の物はまだだった。

 取調べが終わってからも二時間くらい、祖母はずっと私の手を離さなかった。

 私は入院道具を持ってきてまた明日来て欲しいと言ったが、祖母はずっとついていると言った。

 私はもう一度だけ、また明日、入院道具を持って来て欲しいと言った。一人になって泣きたかったので。祖母は私の気持ちを察してくれたのか、やっと手を離してこう言った。

 「花、本当に一人で大丈夫かい?」

 「うん、大丈夫。ここは安全だから。じゃあ、シャンプーとかパジャマとか下着とか、お願い」

 「明日は仕事休んで来るからね、花。いいかい、何も考えずに早く寝ちまうんだよ」

 そう言い残して、祖母は帰って行った。最終電車に何とか間に合うだろう時間だった。

 

 その日の朝方に、ハチは自宅で寝ていたところを警察に捕まったという話だった。ハチは私が警察に届けるとは思ってもみなかったらしい。すぐにお約束のお母さんと弁護士を呼んで、ハチは自分の無罪を主張した。しかし物証は残っているし、目撃した近隣の人からの情報もあったのだが、『あれは花の方が誘った。SMプレイだった』と言い逃れをしたらしい。だが、有罪が色濃くなってきたら、ハチのお母さんが示談を持ちかけてきた。

 「花、どうする?あんな奴は檻にぶち込んだ方が世間の為かもしれないけど。檻の中でタダメシ食らって、病人だからって楽させるよりは、いくらかでも搾り取ってやった方がいいんじゃないかい?告訴したらニュースになっちまうなんてねえ…被害者の人権はどこ行ったんだか…」

 「グランマ、ハチの母親はいくら出すって?」

 「二百万円だとださ。馬鹿にしてやがる」

 私も確かに安すぎるなと思い、暫く考えた。

 「二千万。それ以下なら受け付けない。そのくらいの額、簡単に用意できる家だからね。簡単には許さない…」

 私はアフターピルの副作用からやっと解放されて、明日には退院出来るまでになった。

 「分かった。二千五百万からスタートして、妥協する形で交渉してやるよ。あたしに任せときな。アメリカは訴訟の国だからね。こういう事件はザラだよ、悲しいけどね」

 そうして、数日後。二千万円が口座に振り込まれた。実は、この私が何故二千万と言ったかは、ハチの父親からの遺産がそのくらい残っていたのを知っていたからである。

 これで暫くは、ハチも遊びまわる事が出来なくなり、少しは働いたり勉強したりするだろうかとも思った。祖母が私の提示した金額よりも多くを請求したのは、ハチのお母さん自身が息子を甘やかさないようにする為だと言っていた。

 それでも精神的なダメージは大きく、私は寝込む事が多くなった。祖母は暫く仕事を休んでくれたが、家でじっとしているのが性に合わないみたいで、つい昨日からまた職場に復帰すると言った。ハチからの二千万があるのなら、特に急いで働くことも無いだろうとも思ったが、祖母は貧乏性なんだと言った。

 

 「花、このアパートを引き払おう」

 そして、六月のある日の夕方、仕事から帰ると、祖母は言った。

 「なんで?」

 「またあの男が来るかもしれないし。ああいうのは逆恨みして汚い嫌がらせをしてくるもんだよ」

 「そうだね、近所の人も皆知ってるみたいだし。ここも二人じゃ狭いもんね」

 「花…蒲原に住まないかい?野火でもいい。もう東京にいる意味は無いだろう?こんな環境の悪い所じゃ、治るものも治らないよ」

 私は暫く考えてからこたえた。

 「ねえ、グランマ。永沢の温泉旅館に行かない?あそこに少し泊まって、蒲原や野火が、本当に私に必要な場所か…この目でもう一度確かめてから、引越しの事は考えようよ」   

 

 

 

 梅雨の真っ最中に、私達は永沢の温泉に三泊四日の予定で旅行に出かけた。旅行と言っても東京から一時間半しか離れていないのだが、それでも私の気分的には旅行である。

 ハチからのお金は一千万円は定期預金に入れて、残りの一千万円だけを少しずつ使おうと言う祖母の提案のもとで決まった。つまり、今までと余り生活を変えずに生きていくと言う事である。

 「本当は、ぱあっと使っちまいたいところだけどね。どんな金でも、金は金。嫁入りまで取っておこう」

 私は祖母のその言葉に頷いた。車窓から次第に都会らしさが消えていった。蒲原に向かって電車に乗り、バスで野火まで行ってから私鉄で永沢と言う具合である。

 私が永沢のこの旅館に泊まるのは初めてだった。祖母は昔、この旅館で一時期仲居として働いたことがあると言っていた。すぐに花柳界にスカウトされて、中心街の大麦通りの置屋から高級料亭に通うようになったと言っていた。

 「懐かしいねえ…今の女将はハツさんの娘さんかい」

 玄関から廊下に通されて、客間へと案内されている間、祖母はそう呟いた。それを聞いて訝しげに見る女将さんと若女将さんだった。

 「私達の祖母が、大昔にこちらで仲居をやっていたらしくて…すみません」

 と、私は何とかフォローした。 

 「あら、そうでしたか。先代はもう二十年前に亡くなりましてね。ハツと言う名前まで聞かされたんですか?」

 「なんでも、同じ小学校だったとか」

 祖母はにっこりと笑いながら、調子に乗った。

 「そうですか、不思議な縁ですね」

私は呆れてものが言えなかったが、この古びた文化財風の建物を懐かしそうに見る祖母を責められなかった。

 「はあ…もう。どきどきしたよ、グランマには。もう少し、自分の立場を考えてものを言ってよ。身が持たないよ、こっちは」 

 部屋に着いて、仲居さんが引き上げた後に、私はそう言って祖母を睨んだ。

 「まあまあ、細かい事、気にしなさんな。ほら、窓から海が見えるよ。この柱も昔のまんまだし。もう少ししたら、露天風呂に入ろうね」

 とりあえず、もう夕方過ぎたので、荷解きが終わった後すぐに入浴する事にした。海が見える露天風呂には、客が他にいなかった。夏休み前の平日に、ましてやこんな穴場に旅行に来る人なんていないんだなと思った。と同時によくこの旅館が潰れないものだと感心した。閑古鳥が鳴いているというのに。

 「夕日は見れないけど、やっぱり朝日に期待なんだね、この海は」

 私は身体を洗いながらそう言った。祖母はシャンプーしながら海をもう一度眺めた。

 「あたしは朝が好きだね。段々と明るくなってくる空を見てると、何だか心まで明るくなってくるみたいになるからね。空気も一日の中で一番澄んでるし」

 お風呂でそんな他愛の無い話をしてたら、私はのぼせそうになったので、髪を洗わずに、早々に風呂から出た。

 

 夕食の地魚は絶品だった。私は鰯が苦手だが、新鮮なものなら食べられるので、喜んで沢山食べた。野菜も七浦産の大根やキャベツ等の地産のものが美味しくて、言う事なかった。

 ビールでも飲みたいなと思ったが、あの事件以来、更に薬を増やされたので、アルコールは絶対禁止だと言われた。

 夜になると星空が広がっていった。対岸の明かりはまるで地上の星の様に瞬き、波の音も静かに耳に届いた。

 仲居さんが布団を敷いてくれた後に、私達は布団の上でうつ伏せになり、おかきをつまみながら、ごろごろとしていた。

 「明日は早起きして、野火の朝日を見ようかねえ」

 「ええっ。私はゆっくり昼まで寝ていたいよ。野火は明後日にして、七浦の水族館に行きたいな。イルカとアシカのショーがやるんだってさ」

 「そういや、アメリカにいた時、サンディエゴ水族館に行きたがってたね。近かったから、連れて行きたかったけど」

 「サンディエゴ、ショーユーヒア…とかってテレビCMが流れてたんだよ」

 「いいよ、じゃあ明日は七浦にしよう」

 「じゃ、おやすみ…」私はそう言って、夜の分の薬を飲んだ。

 「歯を磨かないと虫歯になるよ…ああ、せめてお茶でブクブクして寝な」

 そう言って、祖母は私にお茶を差し出し、自分は歯を磨きに行った。

 

 その夜、私は夢を見た。本当は毎晩のように見てはいたのだが、ずっと気にしないようにと努めていた。だが、眠るのが恐ろしい反面、起きていてもだるいので、自分でもどうしていいか分からなかった。

 所謂、フラッシュバックなのだろう。あの日の恐ろしいハチが、夢の中で私を犯し続ける。あの時は痛みしか感じなかったが、夢の中のハチは私に女の肉体的な快楽を与える存在として出てくるのだ。それがとてもおぞましくて仕方が無いのだが、逃れたくても逃れられなくて、又、心のどこかで犯される事が心地よいと感じているらしい自分がいて、それがとても恥ずかしかった。こんな自分を誰にも知られたくない。特に祖母には知られたくないと思った。

 以前より強い薬を処方されている割には、いつも三、四時間で目が覚めてしまう。悪夢を見た後は、いつも汗がびっしょりなので着替えるのだが、今日は浴衣なので、持ってきたTシャツと半ズボンに着替えた。

 隣には、祖母が安らかな寝息を立てていたので、少しだけホッとした。また布団に潜ったが、目が冴えてしまったので、窓際に行って夜風にあたろうとした。

 小波の音と星の瞬き…永沢の夜は私の涙を拭うように風が吹いていた。旅館の庭に咲く紫陽花が微笑んでいるように見えた。 

 午前三時過ぎて、また少し眠くなったので、窓を閉めてから布団に戻った。

 

 

 

 次の日は私の希望通り、午後から七浦の水族館で、色とりどりの魚達を観た後に、夕方の最後の回でのイルカとアシカのショーを観た。イルカに水をかけられて笑われたが、楽しい思い出になった。

 夕食は子供の頃何度か行った、いけすに入った魚を釣るとそれをそのまま食べさせてくれる店で、名前もよく分からない魚を釣っては、お刺身にして貰って沢山食べた。

 そしてその次の朝は、朝四時に起きて、永沢の旅館から一時間近く国道を歩いて野火の海岸に行った。

 到着すると、既に日が差していた。

 「やっぱりいいね、この朝日は」

 祖母はそう言いながら伸びをして、犬の散歩をしている人に挨拶をすると、犬を撫でさせて貰っていた。その後砂浜に腰掛けて、砂浜で貝殻でも探しているようだった。

 私は波打ち際に行って、サンダルを脱いで海水に浸かった。ひんやりとしていて気持ちが良かった。

 「昔よりはきれいになったよ、この海は。私が小さい頃は汚水が垂れ流しみたいでさ。川ではコレラ菌まで発見されたんだよ」

 私がそう言うと、祖母は苦笑いをした。

 「そうかい。あたしが住んでた昭和の始め頃は、もっときれいだったけどね」

 私は祖母のその言葉を聞いて、きっとこの海が汚かった時期…日本経済の高度成長期を知らずにアメリカで働いていたのだと実感した。

 スマホで近くの病院を検索したら、主治医が言っていた大病院がヒットした。地図で見たら、この先久留米浜方面へ徒歩三十分以内だと出た。

 「野火の不動産屋さん、見に行こうか。旅館で朝ごはん食べたら」

 私はそう言った。祖母はいい貝殻が見つからなかった様子で、小石をぽんぽんと海に投げ込んでいた。

 「そうだね。駅前に不動産屋なんてあったかね。無ければ久留米浜まで行けば、不動産屋なんか沢山ありそうだけど」

 問題は保証人の要らない物件があるかどうかと言う問題だが、保証人協会にお金を一、二ヶ月分くらい払えば、保証人を引き受けてくれるだろうとも考えた。

 「海の見える家がいいね。庭を畑にして野菜を作ったり、花を育てたり…猫が飼える所だったらなおさらいいね」

 「猫かあ…またミミちゃんて名前つけるの?」

 「メスならね。オスならタマで充分だろ」

 祖母は猫が本当に好きで、昔からよく病気や怪我をした猫を拾っては介抱していた。アメリカの家では、家猫五匹と外猫二、三十匹くらいを養っていた。毎日朝晩に大きな皿に 

キャットフードを大盛りにして、庭に出すと沢山の野良猫がわらわらと食べに来ていたのを今でも覚えている。

 母と兄も猫が好きで、よく野良猫を拾っていた事を思い出した。

 「なんだかさ、私。グランマがいると弱くなっちゃいそうな気がする。守ってくれる人がいると、一人じゃ何も出来なくなりそうで怖い」

 私は色々な事を思い出して、何となく辛くなって涙が出そうになった。

 「花、人間てのはそういうもんなんだよ。皆誰かに頼ったりして生きているんだから、気にする事はないさ。確かに自立してた方が格好はいいけど、自分の弱さや情けなさを知らない人間は、他人に優しくなれないもんさ。昔の…病気になる前の花は、確かに格好良かったかも知れないけど。あたしゃ、今の花の方が好きだね」

 「私、優しくなんかないよ」

 「そんな事ないさ。優しいってのは人を憂えるって書くだろう?ちょっとお金を貸したり、席を譲ったりするのは親切って言うのさ。人の悲しみや苦しみを心から憂える事が出来て、初めて優しいと言えるんだよ。この指輪が何よりの証拠だよ。花はあたしを憂えてこの指輪を墓に返したんだろう?いくら安物でも、売っぱらっちまえば何か自分の欲しいものが買えただろうに」

 私は祖母のはめているオパールの指輪を見たが、どう見ても安物には見えない。多分何十万かはするメキシコ産のファイアーオパールだと思うのだが。

 「でも、私。お母さんや伯母さんたちの悪口ばかり言ってるし」

 「そりゃ、言いたくもなるだろう、あいつらが相手じゃ。愚痴ぐらい吐かないとやってけないよ」

 「でも、私がいい子じゃないから…病気だからお母さんもお父さんも」

 「そう言うのは、本物の愛情じゃないよ。もう忘れてしまいな、家族の事は。もう花も苗子が親になった年を越えたんだし。親が完全じゃないのが分かってるなら、今度は勘弁してやる努力をする事だね。よく許せって言うけど、許すなんてのはそうそう簡単に出来るもんじゃないからね。苗子がああいうヒステリー持ちの性格になったのは、あたしがしっかり育てられなかったからかもしれないけど。原因と責任と問題は別さ。謂わば、交通事故みたいなもんだね」

 「交通事故?」

 「家族ってのは、本当に交通事故みたいなもんだからね。車にはねられて怪我して、慰謝料を貰ったって、自分で病院に行って治さなきゃ意味無いだろう?親のせいでグレたからって、自分自身でいい人間になろうって思わなきゃ、いつまで経っても子供、でかい赤ん坊さ。花は家族を忘れ始めてはいるみたいだけど、やはり古傷が痛むんだろう。新しい人生を楽しんで、記憶を上書き保存しないとね」

 「グランマ、パソコンできたっけ?」

 「ん、倉庫のアルバイトで覚えたよ。嫌な過去はデリートして、要らない機能はアンインストールしないとね」

 そう言って、祖母は少し微笑んだ。

 朝日に照らされてる二人の顔は、少し赤みを帯びているのだろうと私は思った。

暫く海岸通りを久留米浜方面に歩いていたら、黄色い木造の小さな建物に出くわした。私が子供の頃、よく親に連れて行って貰ったカフェだった。今はやっていない様子で、貸家兼貸店舗の張り紙がしてあった。張り紙には「野火不動産」と言う会社名と電話番号が書いてあった。

 「おやおや、こんな辺鄙な海辺でカフェなんて、来るお客なんているのかねえ」

 祖母はそう言うと、まじまじとガラス戸の向こうのガランとした店内を物色した。店の横に階段があり、二階が住居なのが分かる。

 「昔、お母さんと近所の人達とで、よくここのお店に来たよ。確か、私が三歳だか五歳だかの時だと思う」

 「ふうん。一応住宅街からもそう遠くないみたいだし。どうだい、花。あのお金でここでカフェでもやらないかい?」

 祖母は不動産屋の張り紙を剥がしながら言った。

 「え、二人でカフェをやるの?ここで?ここに住んで?」

 「ここならいい暇つぶしになるだろう。いくら病気でも、家に閉じこもってばっかりじゃ、良くなるものもよくならないだろう。なあに、お客が来たらコーヒーだけ淹れて、後は放っときゃいいのさ。それこそ、カウンターで書き物でもしてさ」

 「それじゃ、採算があわないよ。やっぱりちゃんと売り上げにならないと、家賃が払えないじゃない」

 「なら、モーニングのトーストと卵でも付けて、五、六百円くらい取ればいいだろ。昼はサンドイッチかおにぎりでも出して。そのくらいなら、花一人だって出来るだろう?」

「私一人でやるの?」

 「ああ、二人も居てもしかたないだろう?あたしゃ地元の工場でも倉庫でも、また働くさ。まあ、混んでる日は手伝うけどさ。こんなちっちゃな店に二人も居たんじゃ、それこそ採算が合わないだろう」

 「私、出来る日と出来ない日があるんだよね…」

 「出来ない日は休んだっていいじゃないか。身体慣らしにやってみないか、花?」

 私は暫く考えた。確かにコーヒーを淹れるのも得意といえば得意だし、ただ家に居るだけじゃ何となく生きている実感がないのも確かではある。こんな素敵な店でのんびりお店をやるのもいいかなと思った。

 「自信は無いけど。確かにあのお金はもともと無いものなんだし。倹約だけじゃなく、投資も必要って言えば言えるよね。でも、そうなると、猫を飼うのは難しくなるけど、いいの?」

 「それはそれだよ。最近じゃ猫カフェなんてのもあるっていうじゃないか。どうだい、花、ただ単に家を借りるよか、こっちの方が生産的じゃないかい?」 

 いきなりでなんだか少し戸惑ったが、祖母はつくづく行動的な人なんだと思った。昔、終戦後のあの時代にアメリカに出稼ぎに行った時も、こんな風に積極的に行動したのだろうなと思った。

 

 その日の午前中に、件の張り紙を持って二人で駅前の不動産屋に行った。恐らくその店は、私が住んでいた時にもあったと思われる。木の枠のガラス戸を開けようとすると、少しばかり建て付けが悪かった。

 不動産屋の主人は、私の両親と同年代だと思われる、六十代位の男性だった。遠近両用眼鏡をかけていて、私達が扉を開けると、ゆったりとした様子で奥から出て来た。

私がまずは挨拶を交わして、剥がしてきた張り紙を見せて言った。

 「すみません、三丁目の海岸を歩いていたら、偶然見つけまして。メモ帳が無かったので、張り紙を剥がして来てしまいました」

 そう言って私が頭を下げて謝罪すると、店の主人は、にこりと笑って言った。

 「いえいえ…あのカフェの物件ですよね。あなた方がダメなら、またなにかのついでに貼りに行きますから…お二人は姉妹なんですか?二人でカフェを?」

 私はその質問が来るのを予想していたので、用意していた対応をした。

 「いいえ、姉はもうすぐ海外に戻ります。今日は東京から、たまたま旅行で永沢の温泉に来ていまして」

そう言うと、私の後ろに居る祖母が店主に軽く会釈をした。私はまた、旅館の時のように、祖母が余計なことを言うのではないかと心配でどきどきしたが、祖母は黙ったまま、にっこりと笑顔を見せ、店主に勧められるままに、客用の緑色のソファに座った。私もおずおずと座ったが、この店を出るまでは油断できないと思い、気が気でなかった。だが、祖母は終始穏やかに『姉』を演じ切ってくれた。

 

その海辺の貸店舗は、『シルバームーン』と言う看板が錆付いたままになっていて、一年位前に閉店したと言う話だが、埃こそうっすら積もっているものの、内装はきれいなままに保たれていた。薄汚れてはいるが、何となく前のオーナーが愛情こめて手入れをしていたように感じた。何となくいい雰囲気がする。

 「どうだい、花。何だかいい感じのする建物だねえ」

 祖母も私と同意見の様子だった。

 私はどこか懐かしい感じがして、店内を見回した。一番奥のテーブル席の前に立つと、ここに来るのが初めてではない事に改めて気づいた。昔、ここで家族と近所の人とで食事をしたのだと思う。

 記憶の中には広い店というイメージがあったが、実際にこうして来て見ると、せいぜい十席程度の小さな店だった。

 「この製氷機、まだ使えるのかねえ」

 祖母がカウンターの中に入って言った。

 私もカウンターに入ってみた。シンクがきれいに磨かれたままの状態で眠っている様子だった。私は『眠れる海辺のカフェ』と言うフレーズが浮かんだ。私達は眠れる森ならぬ眠れる海辺にやってきた王子の様な役割なのかと、ふと思った。

 

 そのカフェの物件資料を貰って、野火駅の近くの個人でやっているレストランで昼食をとりながら、祖母と話し合った。

 「花、オムライス一口くれるかい?」

 祖母はハンバーグセットを食べながら、物欲しげに私のオムライスを見ながら言った。

 私はオムライスを一口、ハンバーグの横に置いた。 

 「確かに、素敵な物件だけどさ。スーパーまで十五分。駅まではバスだよ?」

 「でも、病院まで五分足らずだろう?具合が悪くなった時に、いつでもいけるほうが良いだろう」

 「コンビニまでも二十分だよ?」

 「花はものぐさだねえ。東京が異常なんだよ、あんなにコンビニだのファーストフードだのばかり。だから病気になるんじゃないのかい?」

 「それじゃ、東京の人に失礼だよ」

 「東京で生まれて育った人は別だよ。花みたいに野火で生まれた人間には、東京はきついだろうって話だよ」

 「まあ、そうだけどさ」

 「どうする、花?」

 「私が決めていいの?」

 「もちろん、あんたの店だもの。よく考えてから決めな」

 そう言って資料を私に預けると、祖母は私が分けたオムライスをぱくりと食べてから、自分の分のハンバーグを頬張った。

 

 結局、海辺のカフェを借りることにに決めてしまった。早速書類を受け取り、旅館からスマホで、保証人協会に電話した。家賃三か月分で引き受けるという事になったので、明後日に世田谷のカフェで書類のサインとお金の受け渡しをする事になった。世田谷のアパートも、今月末で引き払う事にした。

 旅館であれこれと事務的な事を進めてしまったので、夕食までに温泉に入れなかった。

 今日は地鶏の焼き鳥と寄せ鍋だった。祖母はビールが飲みたいと呟いたが、私が頼もうとしても、頑なにも飲まずにいた。

 「いいよ、私に付き合わなくたって。元気な身体なんだから、グランマ、飲みたいでしょ」

 「花の病気が治るまでは、飲んだって楽しくないよ」

 「それより、家賃が十四万円かあ。私の年金が六万ちょっとで、保険金があと数十万で、ハチからのお金が一千万円まで使えるとして、何年暮らせるのかな」

 「またあたしが働きに出るよ」

 「こんな田舎に求人なんてあるかな」

 「贅沢言わなきゃあるだろう。こっちのフリーペーパーを貰って帰ろう。花は、明日帰って、そのまま病院に行くんだろう?」

 「うん、こっちの病院に紹介状を書いて貰わないといけないからね。引越しまで一ヶ月しかないんだから、色々と忙しくなるね。引越し業者も選んでおかないと…ふう、疲れた」

 「少し休みな。引越し業者はあたしが電話帳で探すし、保証人協会とのやりとりも、あたしが行ったっていいんだから。花は不動産屋だけでいい。区役所の転出届けもあたしがやっとくよ。色々と忙しいけど、ひとつひとつ、ゆっくりやりな。倒れたら倒れたで、引越しを延ばしたって死にはしないさ」

 それもそうだと思いながら、私は食べかけのまま、疲れて少し横になった。

 「花はせっかちだね。誰に似たんだろうねえ…それとも、今の日本人はみんなそうなのかい?」

 「そうかも。私も何だか、今までは何でも早く早くって、考えてたよ。周囲が急かす時もあったけど、本当はゆっくり丁寧に生きた方が結果的に効率がいいみたいだね」

 祖母はまだお腹が空かないと言いながら、間取り図を私に見せながら言った。鍋の火は消しておく事にした。

 「引っ越したら、カーテン生地を買わないとね。青はダメだよ、欝っぽくなるからね。明るい色で、適度に光を通す生地じゃないと。朝日を浴びて目を覚まさないと、身体に悪いからね。店の裏庭には、猫が通ってくる様に、毎日ミルクと餌を置こう」

 二人で美味しそうなご馳走をそっちのけで、新居の話が続いた。気がつくと夜の九時を過ぎていたので、慌てて焼き鳥と鍋を食べてお膳を下げて貰って、お風呂に入りに行った。今度は湯あたりしても大丈夫なように、髪の毛を先に洗う事にした。

 

 

 また固定電話に電話がかかってきた。ちょうど引越しの準備中だったので、その関係の業者か何かからの電話だと思って出たら、父からだった。

 「花。お前、野火で店をやるんだってな。そろそろ俺にも楽をさせてくれよ」

 何故父がこの事を知ったのかは分からないが、一瞬ぞっとした。

 「前に電話した時、女のひとが出たけど?また新しい彼女なんでしょう?その人に食べさせて貰ったら?」

 私は、父の声を聞くのも話すのも嫌だった。どのつてで店を借りたことを知ったのかと逡巡したが、思いつかなかった。戸籍は私が発病してから、父に言われた通りに外したが、もしかしたら保証人協会か不動産関係からの情報が漏れたのかもしれない。

 父は一瞬ひるんだように言葉を詰まらせた。しかし、ハチよりもずっと年配で老獪な人間なので、どう追い払おうか私は慎重に考えた。自営業者はサラリーマンよりも一筋縄ではいかない相手であることは、社会に出て学んだ。何もかもを自分でやらないといけない立場にあると、人間は出来てしまうものだし、出来なければ食いっぱぐれるだけだ。

 「こんな爺さんに彼女なんか…」

 「もう戸籍も抜いたし。戸籍を抜く時、言ったじゃない。借金抱えているし、この先、花に面倒をかけたくないって言ったのは自分でしょ」

 「花、俺はお前の父親だぞ」

 「父親…誰が?よその女のひとをとっかえひっかえし続けた自分が悪いんでしょう。さよなら、もう電話してこないで。店にも絶対に来ないで」

 私は冷たくそう言うと、受話器を置いた。

 我ながら、よくあの父親の言うなりにならなかったな、と思った。心臓がどきどきして、息がつまった。緊張のあまり、呼吸をするのを忘れていたようである。

 「なんだい、輝彦さんかい?」

 祖母は、ダンボール箱にガムテープで箱を組み上げていた手を休めて、私に訊いた。

 「うん。ああ、そっちの本は後で仕分けして、いらない漫画とかは古本屋に出すから、まだ置いといて」

 私はその場で少し座り込んだ。まだ息が切れている。

 「大丈夫かい、花」

 「うん…」

 私は気分が悪くなり、過呼吸気味になった。

 「花?具合が悪いのかい?布団を敷いてやるから、少し横におなり」

 私は祖母の敷いてくれた布団に横になった。祖母が水を汲んできてくれたので、頓服の精神安定剤を飲んだ。しばらくすると、薬が効いてきたのか、やっと話せるようになった。

 「私って、こんなに汚い人間の血を引いてるんだね。つくづく自分が嫌になるよ」

 「そんな事を気にするんじゃないよ。ちゃんとあたしの血を引いてるじゃないか」

  私は何も言えず、涙がこみ上げていた。

 「花、『蓮は泥より出てで泥に染まらず』って、ことわざを知らないかい?」

 「蓮?」

 「そうさ、蓮根だよ。泥から生まれて育つけど、蓮の花は綺麗で、根元の蓮根も綺麗に洗えは、食べられるだろう?花は蓮なんだよ。どんな親から生まれてきてても、花は花さ。こんなにいい子に育ってるんだから」

 「私、いい子じゃないよ」

 「いい子だよ、花は。例えいい子じゃなくても、花はあたしの自慢の孫だよ」

 そう言って、祖母は私の頭を撫でた。

 「さあ、少し休もう。コーヒーでも淹れようかね?」

 「ううん。コーヒーは私が淹れるよ。もう少し待って」

 「そうだね。花の淹れるコーヒーは世界一美味しいからね」

 「そんなオーバーな」

 「あたしにとっては、世界一だよ。少なくとも」

 少し休んで泣きやんだ私は、卓袱台にある電気ポットに、ペットボトルの水を入れて沸かし、コーヒーを淹れる用意をした。

 カフェをやるにあたって、最近コーヒーのブレンドのチャレンジを日課にしている。コーヒー豆を十種類くらい買ってきて、ブレンドの研究を始めた。 

 今日はモカベースでマイルドなタイプを作ってみた。詳しい調合は企業秘密だ。毎日ノートにブレンドの調合と淹れ方と感想を記録している。
 ちなみに昨日は、コナをベースに作ったが、酸味が強く出すぎたので、二杯目は豆の蒸らし時間を短縮してみたら、酸味が和らいだ。だいたいコーヒーは三十秒豆を蒸らすのが基本だが、私は酸味の強いのが余り好きではない。だが、祖母は美味しいと言ってくれた。

 更に言うと祖母は猫舌なので、その分はたいてい濃い目に入れてから、ミルクで薄めて出す様にしている。

 ミルクも、牛乳と生クリームとスキムミルクとで、味がだいぶ違う事や、砂糖もコーヒー用のブラウンシュガーとグラニュー糖と蜂蜜などなどでと、それぞれ違うことも分かった。今回は昨日買った黒糖とスキムミルクで出してみた。

 「で、輝彦さんは何の用だったんだい?」

 「野火で店を始めるくらいなら、金を出せだってさ」

 祖母は目を丸くした。

 「おやおや、どこで情報が漏れたんだろうねえ。宝くじが当たると、寄付だの知らない親戚だのから金の催促があるは、よく聞く話だけど」

 「さあ…不動産屋にしても保証人協会にしても、守秘義務があると思うし。警察が…例の事件で私の事調べた時にばれたのかも。どっちにしろいいのよ、もう。戸籍を抜け抜けって言ったのはあっちの方なんだから」

 私は溜息をついて、コーヒーを慎重に淹れた。朝は三十秒豆を蒸したが、今日は二十秒にしてみた。

 「ああ、花のコーヒーはいつも美味しいね。飲む人間の好みをちゃんと考えてるんだろう?」

 「まあ、グランマは猫舌だし。ミルクたっぷりで甘さ控えめが好きなんでしょう?ミルクは何が一番美味しい?やっぱり牛乳でカフェオレもどきかな?」

 「うーん。カフェオレも好きだけど、あたしゃスキムミルクやコーヒークリームよりも、やっぱり生クリームがいいね。その次に選ぶなら、スキムミルクだね」

 「そか、やっぱり本物の生クリームか」

 「なんだか、わくわくするね。これだけコーヒーに拘った店なら、常連客がすぐに付くだろうよ。きっと繁盛するさ」    

 祖母はにこにこと微笑みながら、コーヒーを美味しそうに飲んでくれた。

 「だといいけど。でも、一人一人のお客さんの好みに合ったコーヒーが淹れられるようになりたいな。どの豆でどの味が出るかが、いまいち正確に出ないんだよね。同じ豆で同じ淹れ方でも、微妙に味が違うから」

 「女の味覚は、月のものの周期で変わるものなんだよ。女の料理が飽きないのは、同じ味が再現できないから、飽きないのさ。男の料理は確かにパワフルだし、腕もいいのがいるけど、やっぱり毎日食べたいとは思わないだろう?」

 「へえ、そんなもん?」

 「そんなもんだよ」

 祖母がいてくれると、自分が弱くなると思っていたが、ああして父からお金の催促の電話があっても、何とか対処出来た。前は言われるまま出したり、出せない事を謝りたくも無いのに謝ってたりしていたが、こうしてちゃんと自分の意思を通せた事は、自分でも進歩だと思った。弱くなるかと思いきや、逆に強くなれたのかもしれない。ずっと一人で物事と戦っていて、味方がいるという経験が少なかったので、何だか新鮮な感じがする。

 明後日の引越しを前に、人間関係の整理をする事に決めた。今回、父が私にお金が入ったことを知り合いの誰かが知らせた可能性があるし、自分が困った時しか連絡して来ない友達とは縁を切る決意をした。固定電話の番号は引っ越せば変えられるとして、携帯も明日、祖母の分のスマホを契約する時に、私の電話番号も変える手続きをする事に決めた。信用できるのは恐らく美月ちゃんぐらいだろう。

 

 引越しの前日、その美月ちゃんが、わざわざ手伝いに来てくれるとメールが来た。十年間住んだ家ではやっぱり荷物が多いし、私は早くも夏バテでひよひよだったので、手が足りないだろうと親切にも来てくれたのだ。

「はじめまして…花のえーと祖母です。美月さんには、孫がいつもお世話になっているそうで」

 祖母にしては珍しく、真っ当な挨拶をした。

 「はじめまして、お祖母さんですね。お話は花から伺っています。花とは小学校時代からのつきあいでして」

 祖母が右手を差し出すと、美月ちゃんは握手に応じた。彼女はポーカーフェイスなので、祖母の事をどう思っているかは私には分からなかった。だが、祖母に話を合わせて、引越しの作業をしてくれた。思いのほか、二人は仲良さげである。二人じゃないと出来ないような作業もちゃんと協力して行っていた。私は疲れやすいので、殆どその日は祖母と美月ちゃんにやって貰った形になってしまった。

 

 夕方近くになり、美月ちゃんが帰る時間になったので、私は駅まで送って行くことにした。

 「ねえ、グランマの事、どう思う?」

 「うーん、私が見た限りでは、オバケでも幻覚でもないね。血のつながりはある感じもするし。お祖母さんの隠し孫とかじゃないの?案外」

 「それって、隠し子の子供って事だよね?」

 「うん、今までの花の話とか聞いてると、そう考えるのが一番自然じゃないかな。花のお祖母さんて、昔何人かの恋人がいたって話だったでしょ。そのうちの一人の孫とかかもよ」

 「でも、それならなんで『従姉です』って話にならないんだろう?」

 「自分をお祖母さんだと思い込んでる病気とかなんじゃない?作話とか」

 「作話?」

 「記憶障碍の一種だよ。所謂『正直な嘘』ってやつ。無意識に嘘をついちゃうみたいな感じかな?」

 なるほど、とも思ったが、私はもしそれが本当ならば、ちょっと残念だと思った。

 「まあ、一応、今までどおり『グランマ』でいいんじゃない?前にも言ったけど、自分が信じたい事を信じればいいよ。今回に限ってはね」

 美月ちゃんはそう言って、伸びをした。地下鉄の改札の手前で足を止めた。

 「じゃあ、今日はありがとう。暫く会えないけど」

 私がしょんぼりと言うと、美月ちゃんはそれに構わず、トートバックからSUICAを出した。

 「お盆とか正月に実家に帰る時には、そう遠くないから遊びに行くよ。東京から一時間半か二時間なんだし」

 「うん、元気でね」

 「花もな」

 そう言って美月ちゃんは、手を振りながら改札を通って、上り方面のホームへと歩いて行った。

 

 

 

 引越しが無事に済み、住民票も本籍地も移動した。梅雨が明けて夏休みになったが、店の準備はまだまだである。とりあえず店よりも住居の片付けを先にした。

 東京の蒸し暑さよりも、こちらの方が海風があるせいか幾分ましで、夏に弱い私の体調も日に日に良くなってきた。体調が良くなると、気分的に悪い事も考える回数も減ってきた。でも、やはり時折、悪夢を見る。けれども、泣きながら目が覚める事は少なくなった。

 祖母はやはり行動力のある人で、引越しも片付けも、まるで業者のようにてきぱきとこなしてくれて、三日目くらいで住居の片付けは済んだ。祖母がベッドが欲しいというので、北久留米浜の大型家具店で、ちょっとお高いベッドを二つ買った。ついでに布団も新しく新調して、羽根布団も買う事にした。シーツはそれぞれ好みの柄のものにした。祖母は赤系のアジアン柄で、私はガーゼ地の白にした。祖母は「白いシーツなんて病院みたいだ」と文句を言ったが、汚れた時に漂白剤で落とせるし、ガーゼの肌触りが好きだったので、祖母の反対を押し切って自分の分を買った。

 そして、店の準備が始まった。

 店の名前は『PR』にした。パラダイス・リゲインド、つまり復楽園の略である。

 ホームセンターで買ってきた木の板に、アクリル絵の具で適当に『PR』と書いて、上にニスを塗っただけの看板を店の入り口に飾った。 

 店全体はやはり一年前までやっていたせいもあって、思ったほど直すところはあまりなかった。業者に頼んで壁紙を白から黄色に張り替えて、カウンターの椅子とテーブルセットを北久留米浜の大型家具店で買い、木製のテーブルセットをペンキで青に塗った。食器類もアウトレットショップで安くて可愛いものがあったので、まとめて買って配送して貰う事にした。

 インターネットでコーヒー豆の卸売り業者をあたったが、久留米浜駅前の商店街のコーヒー屋さんでオリジナルブレンドの豆が売っていたので、買って飲んでみて美味しかったので、そこの店の豆も使うことにした。

 運よく業務用スーパーが自転車で十五分くらいのところにあったので、祖母と二台の電動自転車で食料の買出しをした。坂を越えての先だったので、自転車を電動にしたのは正解だったと思ったが、炎天下での大荷物は辛かった。

 時々、私達は六時前に起きて、簡単なサンドイッチを持って海岸で朝食をとる。すると、いつも決まって八時前には、かん高いエンジン音のするオートバイが通ることに気づいた。後であのオートバイのエンジンが二サイクルエンジンと言うものだと知ったが、その時は、海と空のきれいな風景の中で風になるのは、なんだか気持ち良さそうだなと思っただけだった。

 ある日、私がとんびにサンドイッチを持っていかれてしまったら、祖母は大笑いした。ぼんやりしているからいけないと言って、自分の分のサンドイッチを分けてくれた。

 

 やっと店が開店になったのは、八月の終わりに近い頃だった。

 ひまわりは咲き終わり、ぐったりと首をもたげて残暑をしのいでいるようだが、タチアオイはまだまだ真っ盛りだった。

 海水浴客も少なく、近所の住宅街からは、スーパーやコンビニやバス停に行く道とは反対方向なので、お客さんは一向に来なかった。私は暇なうちにパソコンで店の案内チラシを作った。三百枚くらいプリントして、手分けして近所にポスティングしたが、それでも開店三日過ぎても、誰も来ない。

 だが、ある日曜日に、毎朝店の前の海岸線を走るオートバイの主が、うちの店の前で停まって店の様子を見ていた。私は開店準備をしていて、まだ店のドアを開けてなかったので、カウンターからその様子を見て、急いで店を開けようとしたが、オートバイの主は、店の入り口のチラシを持って、すぐに去っていってしまった。フルフェイスのヘルメットだから顔は分からないが、恐らく若い男性だろう。

 「花、自動販売機でも置かないかい?ジュースとかのさ」

 「本末転倒だけど、それも考えなきゃね。一週間以上経つのに、誰も来ないし」

 「また、チラシを刷っておくれよ。今度は駅前で配ろう」

 毎朝七時開店、夕方六時閉店で、しかもノンアルコールでは、やはりお客は来ないだろうと、半ば諦めてかけた頃に、やっと一人だけ来客があった。毎朝八時前に海岸線を通るあのオートバイの主である。

 ヘルメットを脱ぐと、やはり若い男性だった。二十五から三十歳くらいだろうか。童顔な感じで、身長は百七十あるかないか位だった。

 彼はアイスコーヒーをオーダーしたので、まずは私が研究した、オリジナルアイスコーヒーを淹れた。普通よりも酸味が少なく、香りが強めでかつマイルドなのものを出してみた。

 私は彼がコーヒーを飲んでいる間に、外に出ているオートバイを見に行った。黒いタンクに赤いラインのデザインの真ん中には「RZ250R 」と書かれていて、きれいに磨かれているが、よく見るとタンクにへこみがあった。素人目に見てもかなり古い車種だと分かる。このオートバイも、もしかしたら眠り姫の様に眠っていたのではないだろうか。彼がきっとどこかの倉庫で眠っているのを起こして走らせたのではないかと思いながら、しげしげと見つめた。

 その日の彼は、アイスコーヒーを半分飲んだところで、ガラムという変わったハーブとミントの匂いのする煙草を吸いながら、残りをゆっくり味わって飲んで、割とすぐに会計を済ませてを店を出た。

 それから、カフェ『PR』の客は暫く彼一人だった。毎朝七時半頃に来て、オリジナルアイスコーヒーを飲んで、ガラムを一本だけ吸って出て行ってしまう客である。私が彼から五百円玉一つを受け取って彼を見送ると、祖母が洗濯を済ませて店に降りてくるので、祖母は彼の姿は知らないが、ガラムの残り香だけ知る事になった。

 

 

 

 九月に入り、祖母は北久留米浜のパン工場で働き始めた。店には例のRZの主しか来なくて暇だったので。

 私は毎朝パン焼き機でパンを焼き、それを切ってモーニングのトーストを作っていた。卵も毎日五個は茹でたが、全て私と祖母の夕食になっていた。

 RZの主とは、そのうち目が合うと挨拶をするようにはなった。いつもアイスコーヒーを飲むだけなのだが、ある日、思い切ってトーストと卵を出してみた。

 「これ、サービスです、よろしかったらどうぞ召し上がってください」

 おずおずと私がトーストとゆで卵を出すと、彼は一言礼を言って、食べてくれた。

 「いい店ですね。コーヒーは美味いし、パンも。自家製?」

 「はい」

 「PRって何の意味?自己PRじゃないでしょ?」

 「パラダイス・リゲインドの略です」

 私がそう言うと、彼は首をかしげた。

 「楽園の…何?」

 「楽園の復活です。失楽園の反対で、復楽園です」

 私の説明を聞くと、彼はくつくつと笑った。

 「いいね、ポジティブで。ごちそうさま」

 彼はそういい残して、いつもの様に五百円玉を置いて、店を出て行った。

 

 祖母がパン工場にバイトに出るようになると、なぜか店にお客さんが来るようになった。

 朝のモーニングはだいたい、『彼』を入れて三、四人。昼のランチは一、二組。ティータイムには午前午後合わせて十組ぐらい来るようになった。駅前でクーポン券を配ったせいだろう。内、半数以上はリピーターである。

 『彼』はアイスコーヒーの他に、三日に一度くらい、モーニングセットを頼むようになった。いつも窓際の席で、文庫本を読んでいるか、ガラムを吸いながら海を見ている。今時、携帯もスマホも弄らない、しかもi Podやなんかも聞かない人は珍しいなと思いつつ、他のお客さんの相手をしながら、私はその様子を見ていた。

 そのうち、常連客が出来た。近所の酒屋のおじさんと、そのお友達のおじさんたちである。少しして、私の名前を覚えてくれて「花ちゃん」と呼んでくれるようになった。

 皆、一様にコーヒーが美味しいと言ってくれるので、嬉しくなった。しかし、若い客は依然として『彼』だけだった。

 この町は老人が多い。東京などで働いていた人が、老後に家を買う人が多くなったとも聞いている。老人ホームもいくつかあるし、朝晩海岸を走ったり散歩したりしている人も、どちらかと言うと、やや年配者が多いような気がする。

 人間、やることが出来ると、どうにかなるらしく、開店してからまだ定休日の木曜日以外は休んでいない。確かに「今日は休みたいな」と思っても、パン焼き作業を始めていくうちに、コーヒー豆のチェックをしてしまう習慣がついた。

 

 その三日後ぐらいに、RZの主である彼は、珍しく夕方に来店し、ホットコーヒーを注文した。彼がこの店のホットコーヒーを注文するのは初めてだった。当店オリジナルコーヒーで、私が三ヶ月間研究してブレンドしたものである。

 「ミルクとお砂糖は、こちらからお好きなものをどうぞ」

 私はトレイにホットコーヒーの他に、四種類の砂糖類と、三種類のミルク類、それからシナモンパウダーとナツメグパウダーとレモンスライスをのせて、彼に出した。

 「え、何だこれ。蜂蜜に角砂糖に、コーヒー用のブラウンシュガーに黒糖、ですよね?こっちはいつもの生クリームで、こっちはスキムミルク?あと、これは一体何なんですか?」

 彼は驚いたように、トレイにのせられたそれらを見て、私に訊いた。

 「こちらのあったかいのは、温めた牛乳です」驚く彼の反応を楽しみながら、私はなるべく平然を装った。

 「へえ、なるほど。しかし、シナモンとナツメグは分かるけど、レモンは意外だなあ」

 「レモン味になさるなら、ミルクはなしの方がお勧めです」

 「確かに。ガキの頃、紅茶にミルクとレモンの両方を入れて飲んだ事がありますから、わかります」

 私もです、と言わなくても二人で笑い合うだけで、伝わったのが分かった瞬間だった。

 「で、何でこんなに砂糖とミルクにバリエーションが?」

 「試飲した時に、色々試しましたが、どれも美味しかったので」

 「つまり、店員さんは選べなかったんですね?」彼は笑いを堪えながら、そう言った。

 「はい…私、優柔不断なんです」

 「いやいや、よく物を考える人なんでしょ。拘りがある店だとは思ってましたけど、こう言う変化球の拘りをする店は珍しい。ますますはまりそうです、この店に」

 「ありがとうございます。あの、コーヒーが冷めちゃいますから、どうぞ」

 「猫舌だから、ちょうどいいです」

 「あ、だからいつもはアイスコーヒーなんですね」

 「ピンポーン、正解です」

 彼はそう言うと、どの組み合わせにしようかと迷っている様子だった。

 「…ちなみに、お勧めは?」さんざん迷ったあげく、彼は私にそう質問した。

 「全部がお勧めです」私はちょっと意地悪を言ってみた。

 「うーん、じゃあ。今日、店員さんは何の組み合わせで飲みました?」

 「黒糖とスキムミルクでした」

 「なんで?」

 「黒糖は血糖値がゆっくり上がるので、ちょっとした空腹の時に満腹感が得られるし、スキムミルクはカルシウムだけでなく、コラーゲン入りのがあったので、栄養補給にと思いまして」

 「ふうん、なるほど。じゃあ、そうするか」

 「あ、すみません。瓶に書いてありますが。スキムミルクは熱湯だとダマになり易いので、お気を付けください」 

 彼はスキムミルクの瓶にある注意書きを読んで、なるほどと呟いた」

 「なんか、ガンコ親父のラーメン屋みたいですね」

 「すみません、煩くて。次回からはオーダーの時に、お好きな物をお聞きしますね」

 「その方が効率はいいかも。でも、自分が来た時は、このまま出して下さい。コーヒーを冷ましている間に組み合わせを考えるのは楽しそうだから」

 この日を境に、彼は朝だけでなく、時折夕方にも来店して、アイスコーヒーとホットコーヒーをランダムに注文するようになった。

 ちなみに、私がアイスコーヒーにはこういったバリエーションを加えなかったのは、試飲した結果、普通のガムシロップと生クリームだけの方が美味しい事に気づいたので、あえて豆のブレンド以外は、普通の店とあまり変わらない出し方をしたのである。

 

 そんな中、九月も終わりに近いある日、祖母が工場で転んで足を怪我したと連絡があった。一応、私名義のスマホ二台のうちの一台を持たせておいたのだ。私が病院に迎えに行くと言って病院の名前を聞くと、「友達に送ってもらうから大丈夫。ただの捻挫だから」と言っていたので、店を一時間早仕舞いして、祖母の帰りを待った。

 「なんだ、花姐さんの家、PR だったんだ」

 祖母を送ってきてくれたのは、他でもない『彼』だった。

 「グラン…いや、お姉ちゃん、大丈夫?」

 私は、彼に二人とも『花』である本当の理由を知られないようにと、必死で嘘を考えた。

 「花って…二人とも花なのか?」

 「え、ええ。私達、異母姉妹で…父親が女なら花だって決めてたから、それぞれのお母さんが花って名前にしちゃって。気づいたら、姉妹で同姓同名」

 私は自分でも驚くほどに、嘘をすらすらと話した。

 「ふうん」

 彼が納得したかどうかは分からないが、とりあえず納得してもらうしかなかった。

 「優人、送ってくれてありがとうよ」

 祖母のこの礼の言葉で、初めて彼の名前が『優人』だと知った。

 「あの、ご飯食べていってください。お腹がお空きでしょう?」

 私はカウンターに入って、パエリアにピーマンとトマトを加えて、再び火にかけた。

 そうして、三人で窓際のテーブルにつき、パエリアを囲んだ。

 

 

 

 それから、たまに彼…優人くんは夕方のラストオーダーでコーヒーを飲みに来るようになった。週に一、二回くらいは祖母と帰りが一緒になるので、オートバイで送り届けてくれるようになった。二人は工場で仲良くなったらしく「花姐さん」「優人」と呼び合っている。

 そのうちに、毎週のように、昼のランチの残りを三人で食べるようになった。彼はお礼にと、毎週仕事が休みの日には、業務スーパーへ買出しに行ってくれるようになったので、助かった。

 そんなある日、七浦の手前のカフェバーが閉店するので、ジュークボックスを譲って貰う事になった。オーナーだった人は、酒屋のおじさんの友達だとかで、軽トラックでうちの店まで運んでくれた。

 「へえ、こんなのまだあるんだ」

 祖母は店の奥に置いたジュークボックスに、百円玉をひとつ入れて、ボタンを押した。フランク・シナトラの『ナイトアンドデイ』がかかった。

 「なんか、お酒なしで六時閉店の店には似つかわしくないかなあ」

 私がそう呟くと、優人くんは物珍しそうに、ガラムをくわえたまま、ジュークボックスに近づいていった。

 「アメリカの映画みたいだ」

 優人くんは、三十曲しかない曲のタイトルをひとつひとつ読んでいる様子だ。

 アメリカに憧れているらしい彼は、祖母と仲良くなったのも、祖母が帰国子女で、来年アメリカに旅行するにあたって、色々とアメリカの話を聞くようになったと言う話である。

 

 そしていつしか、優人くんは夕方の帰り際に、ジュークボックスに百円玉を入れて、ボタンを押すのがきまりとなっていた。いつもパーシー・スレッジの『男が女を愛する時』を選んでいる。

 私はどこかで聴いたことがあるなとは思ったが、歌の内容は分からないままだ。たかが四ヵ月では帰国子女とは言えないなと思うので、人前ではあまりアメリカに住んでいた事は言わないことにしている。英会話はだいたい出来るが、歌をそのまま聴いて訳すなんて高等技術は私には出来ない。 

 

 そんな中、近所の酒屋のおじさんから、町内会の秋祭りがあるから、おいでと言われた。縁日や花火があるから、お姉さんと一緒に来るといいと言ってくれた。

 私がそう言うと、祖母はどうせなら浴衣を作ろうと言い出したので、久留米浜駅前の商店街にある呉服屋に行った。

 「浴衣ななら、たくさん持ってたんだけどね。みんな義男たちが売っぱらっちまったみたいだねえ。手染めのいいのが沢山あったのに」

 「ねえ、グラン…ううん。お姉ちゃん、この藍色のやつなんかいいかな?ベーシックで。」 

 「これ、本物の藍染じゃないだろう?どうせならいいのを買おう。藍色がいいなら、藍染のものにしよう」

 「え、高いんじゃないの?」

 「店員さん、二人分買うから、少しはおまけしてくれないかい?あたしのも手染めのを頼むから」

 また、下着屋の時のように、祖母は値切り交渉を始めた。

 店員さんは少し困った様子だったが、渋々対応してくれた。

 「本物の藍染は虫除けになるんだよ」

 「へえ、そうなんだ」

 

 そしてその二週間後に、秋祭りが始まった。夕飯は冷麦だけにして、町の広場に行った。 そこでは小規模ながら、屋台が並んでいて、盆踊りがやっていた。

 「踊ろう、花」

 「私、踊った事ないよ」

 「あたしが前で踊るから、花はそれの真似をすればいいじゃないか」

 祖母は躊躇うことなく、踊りの輪に入って踊った。私も入って踊ったが、どうもうまく踊れずに、二曲、三曲と音楽が過ぎていくばかりだった。

 楽しそうに踊る祖母を残して、そっと踊りの輪から出て、ラムネを飲みに行ったら、優人くんが焼き鳥を食べているのが見えた。優人くんがこちらに気づいて手を振った。

 「なんだ、花。もう踊らないのか?」

 「うん、なんだか難しいし…」

 「姐さんは楽しそうに踊ってるのに」

 「私は踊りは苦手だから」

 「そうか?結構うまかったと思うけど」

 「え、見てたの?」

 「うん、最初から」

 私は思わず赤面した。

 そして、曲が一旦終わると、祖母はこちらにすぐに気づいて、近寄ってきた。

 「なんだ、優人も来てたのかい」

 「うん、町内会は違うけど、バイクで走ってたら音楽が聞こえてさ。花たちもいるかなと思って」

 「その浴衣、加賀友禅のだろ。高かったんじゃないのか?」

 私の藍染の浴衣を見て、優人くんは言った。

 「あ、うん。久留米浜駅前の店で仕立てたの。グラ…お姉ちゃんのもそうだよ。なんでわかるの?」

 「うちの実家の近所に加賀友禅の工場があってさ。二月の寒い時期に川に布をさらして洗うんだよ」

 「へえ、優人くんは金沢が実家なんだ」

 「うん、まあね。おっと、そろそろだな。お楽しみが」

 「え、何がお楽しみなの?」

 「ちょうど七時からだって聞いたからさ」

 「花、綿飴買ってきたよ。半分こしよう」

 祖母はいつのまにか綿飴を買ってきたらしい。

 綿飴を半分にちぎっていた祖母の後ろの方から、いきなり花火が上がった。

 その音にびっくりした祖母は、綿飴を放り出して、私にしがみついた。

 「グ…お姉ちゃん?」

 「ああ…花火だったかい。てっきり爆弾か何かだと思ったよ」

 「姐さん、大丈夫か、どうした?顔が真っ青だぞ?」優人くんも祖母の様子を心配していた。

 「大丈夫、大丈夫。ちょっとびっくりしただけだよ」祖母はそう言いながらも、しがみつく手が震えたままだった。

 花火は次々と上がっていたが、祖母はそれを見上げることはなかった。

 私は祖母から戦争やなんかの話は聞いたことがなかったし、大変な目にあったとも聞いていない。もしかしたら、口に出せない程の事が、過去の祖母にはあったのかもしれないと、その時思った。

 

 「なあ、そろそろ本当の事、聞いてもいいかな?」

 そして、秋祭りが終わった、ある十月の始めの休日の夕方、優人くんは買い物の荷物を降ろして、ガラムに火を付けて言った。私は彼のお気に入りのアイスコーヒーを淹れながら、思わず口をつぐんだ。祖母は今日、工場に休日出勤していて、まだ帰って来ない。

 「私が近くの国立精神衛生センターに出入りしてること?」

 私はとりあえず、とぼけてみた。

 「そんな事じゃねえよ。花が病気かどうかなんて、どうでもいい。お前ら…花姐さんと花、本当は姉妹じゃないだろ。姐さんがアメリカ帰りなのは分かるが、情報がどうも古臭い。姐さんは何者なんだ?」

 優人くんは大学を出た後に東京の大手メーカーに就職したが、お父様のオートバイでの事故死がきっかけで、「人間、いつ死ぬかわからないなら好きなことをして生きよう」と決意して、月に三百時間の激務から逃れるべく会社を辞めて、今のパン工場でバイトを始めたと言う。来年にはお父様の夢だったカリフォルニアに長期ツーリングに行くと言っていた。優人くんの愛車のRZは、お父様が亡くなった時に乗っていたものを修理して乗っているとの話だった。

 「言っても信じてもらえないと思う…私も半信半疑だから」

 「花の言う事なら信じるさ。花がたとえ病気でも、まともな奴だって、俺には分かるから」

 まっすぐな目で、優人くんは私を見た。

 「誰にも言わない?」

 「うん」

 「本当に?」

 「もちろん」

 「ものすごく現実味の無い話なんだけど、それでも信じてくれる?」

 「本当の事なら、それが現実なんじゃないのか?」

 「じゃあ、お姉ちゃん…ううん。グランマが帰って来たら、三人で話す。それでいい?」

 「ああ、分かった。確かに本人がいた方が話は早いな」

 私は六時になったので、閉店作業をしながら、祖母と優人くんの好きなタイメシを作るべく、冷蔵庫の中身を確認した。

 

 祖母が帰って来てから、三人でガパオライスを食べた後、優人くんに訊かれたことを私は祖母に話した。

 祖母は動じずに『本当の事』を優人くんに話した。墓から出て来てから私と同居していることを。

 優人くんは、目を丸くはしたが、それでも真面目に聞いてくれた。

 「だから、パラダイス・リゲインド…復楽園な訳か。なるほどなあ。うちも親父が生き返ってきて、金沢の墓の辺りをウロついてるのかなって思うと、希望がわく話けど。まあ、つまり聖書の…ヨハネの福音書だっけ?で言うところの楽園の復活が本当に、花のところには叶ったって訳か」

 「やっぱり信じられない?」

 「いや、信じたいから信じる事にするよ。『忍者丸サスケ』を見ると元気になるのと同じで、神様がいるって信じた方が幸せだからな」

 優人くんといい、美月ちゃんといい、私はこういった賢さを持つ人間が好きだ。

 「まあ、優人一人がゾンビだ幽霊だのって叫んだって、誰も信じないだろ。ちゃんと足は着いてるし、実態もある。無いのは戸籍ぐらいだからね」

 「俺はばらさないよ」

 「知ってる」

 祖母はそう言って、優人くんからガラムを一本貰って吸った。

 

 

 

秋の長雨が続いたので、衣替えをしたが、冬服を買わないと足りないことに気づき、街まで出かけた。

 「ついでに下着も買い換えないとね。もうボロボロでしょ、春から一枚も買ってないんだから」

 「やっぱり安物だからかねえ。半年着ただけで、もうワイヤーが出てくるし、ほつれてきたよ」

 「今回はちゃんとデパートでメーカーものの下着を買おうね。幸い、お金は沢山あるんだから」

 二人で赤い電車に乗って、松輪市最大の繁華街である大麦町にに出た。駅前には大きなデパートがあった。子供の頃、デパートと言えばここしかなかった。

 「グランマ、ここで買おうよ」

 「お待ち。隣のショッピングセンターでワゴンセールがやってるって、広告が電車にあったから、まずはこっちから見よう」

 「三流品なんじゃないの?」

 「アウトレットだとさ」

 「ちゃんとした正規品にしようよ。やっぱりデパートの方が安心だよ」 

 雨の中、駅前の交差点でそんなやりとりをしていたら、十二時を知らせる鐘が鳴った。

 「はあ…お腹空いたね。とりあえず、先にお昼にしよう。食べてからゆっくり考えようよ」

 「そうだね。大麦三番通りに美味しい定食屋があってね…」

 「あ、もしかして、私が大学生だった時に、一緒に行ったところ?二人でカツ丼食べたお店?」

 「そうそう。なんだ、覚えてたかい」

 「グランマってば、食べ残しを包んでもらって持って帰ったでしょう。今度は残さないでよ?」

 「ああ、今はピチピチだから、あそこのカツ丼なら二人前は食べられるさ。あの頃は年取ってて、食べ切れなくてね。蕎麦とかなら食べれたんだけど」

 「なんで蕎麦じゃなくて、カツ丼にしたの?食べ切れないの分かってて」

 「そりゃ、花と同じものが食べたかったからさ」

 私はふと、五歳くらいの時に憧れていたハーフの男の子の事を思い出した。昔、あのカフェで家族と近所の人達とで食事に行った時、何が食べたいかと訊かれた時に、恥ずかしがりながら「クライブくんと同じものがいい」と言った事を思い出した。

 さすがに赤面はしないものの、生前祖母が私を思ってくれていた事に気づかされた。確かにあんなにボリュームがある脂っこいものを老人が食べるなんて、今考えるとだいぶ無理があったように思える。

 私は場所を覚えてないので、祖母の後について行った。繁華街から少し離れた大麦三番通りにある、日の出屋と言う古そうな定食屋だった。

 中に入ると、すでに店内はお客さんで賑わっていた。私と祖母は奥の座敷に通された。

 「何食べる?花は」

 「うーんと、お蕎麦」

 「あたしゃ天丼にするよ。久々に海老天が食べたいからね」

 その祖母の言葉を聞いても、別にがっかりしなかった。一緒じゃなくても相手を信じあえるようになったんだな、と思った。

 食事を終えて早々と店を出ると、雨が上がっていた。

 「長屋に寄ってもいいかい?」祖母はふと言った。

 「え、なんで?」

 「長屋で餌をやっていた猫はどうしてるかと思って」

 「もう十年くらい前の話でしょ。もういないよ、猫の寿命から考えたら」

 「ミミちゃんの孫あたりがまだいるだろうから、会いたいんだよ。ねえ、花。少しだけ長屋に寄らせておくれよ」

 私は仕方なく、分かったと言って、祖母が生前住んでいた長屋の方に歩いた。

 何となくあまりいい予感がしなかったが、祖母の気持ちを大事にしたいと思って、長屋へ行くことにした。

 「あれ、長屋が無いよ」

 大麦五番通りの角を曲がった突き当たりには、ぴかぴかのマンションが建っていた。

 私達はしばらく立ち尽くして、そのマンションを見上げた。

 「帰ろうか、花」祖母は元気なく言った。

 「うん…じゃなくて、服と下着を買いに来たんだからさ。やな事は忘れて、ぱあっと今日は買い物しようよ。ほら、万札十枚も入れてきたんだよ?」

 「靴も買っていいかい?」

 「うん、冬のコートも買うから、多めに持って来たよ。足りなければATM で」

 「ジバンシーのコートが欲しい」

 「そこまではダメ。ユニクロまではいかないけど、ジバンシーじゃお金が足りなくなっちゃうから。十万あるから、私が二万で、グランマの分が八万まで好きに買って…ね?」

 「花も同じだけ買おうよ」

 「私は去年のがあるから、二万あれば充分だよ。ね、機嫌なおしてしてれっつ、しょっぴんぐ!」

 私はその日祖母を元気付けようと色々と気を遣ったが、やはり欲しいものが一つでも買えるほうが効果があったらしい。ジバンシーのセーターが二割引になっていたので、それを一枚買ったのをきっかけに、祖母は何とか笑うようになった。

 そう言えば、大麦五番通りの長屋の近くの大きなビルが、祖母の生家があった所だと昔、聞いたことがある。

 年をとると、大事にしていたものが、こうして変わって行くのを呆然と見ないといけないものなのかと思うと、せめて蒲原と野火は変わらないで欲しいなと思った。

 

 

 

 トラブルは忘れた頃にやってくるものである。

 ある波の高い日に、思わぬ客が来た。私は海岸道路まで津波が来るかもしれないと思い、店を早仕舞いしようとした。今年最後であろう台風が近づいてくるとの予報だ。

 「いらっしゃいませ…すみません。台風が来ているので、今日はもう閉店なんですよ」

 そう言って振り返ると、どこかで見たような、三十代半ばの男性が入ってきた。

 「花…か?」

 「お兄ちゃん…?」

 その男は私の三歳上の兄の真宏だった。会うのは実に十年くらいぶりである。

 くたびれたTシャツにGパンとGジャンと言う出で立ちだ。

 「お前、俺達がどんな目に遭ってるか、知ってるだろう?金があるなら、うちの借金を助けようって思わないのか?また、お前は自分さえよければそれでいいんだな」

 兄が私を殴ろうとしたので、私は腕でガードしながら叫んだ。

 「暴力振るったら、今度は警察呼ぶからね!傷害で訴えるんだから。昔は、訴えたりしたら生活に困るし、DV の知識が無かったから泣き寝入りしたけど…今の私は違うんだから」

 そう叫んでも、兄は私の腕を引っ掴んで殴った。

 「母さんが死んだよ、先週」

 二、三発拳を振りかざすと、兄はそう言った。

 「嘘でしょう?お金目当てでまた、そんな嘘を言ってるんでしょう?」

 昔、学生時代に、母が病気で倒れたから病院代を振り込めと言われたが、下宿していた新聞屋の社長にお金を借りて飛んでいったら、ぴんぴんしていたことがあった。

 今度は葬儀代として、いくらかお金を搾り取ろうとしているのだと、私は思った。

 「バカ、本当だ。肝臓癌だったんだ」

 「病院には行かなかったの?」

 「そんな金無いのは知ってるだろう?うちには借金があるから、住民票も変えられなくて、健康保険にも入れないんだから」

 「どうしてここが分かったの?なんでここに来たの?私が病気になった途端に消えたくせに」

 私はもう十年以上も経つのに、まだ借金で逃げているいたと知って、呆れてしまった。野火の家と二万ドルと貴金属やなんかは、一体どこへ行ったのかと思った。それに、三十代のいい大人の男がGパン姿だなんて、まだアルバイト生活なのか、それとも喪服一着も持てないほどなのかと、情けなくなった。

 「帰ってよ、お兄ちゃん。何の用があるの?お金ならないよ。こんな田舎でカフェやってて、大金がぽんと出るような余裕はないよ」

 「海に用があるんだよ。母さんの遺骨を海に巻いて欲しいって、生前言ってたから」

 そう言うと、兄は大きなリュックから紙袋に入った骨壷を出した。骨壷は風呂敷に包んで抱えるものだと言う常識はないのかと、また情けなくなった。

 「今日は台風で波が高いから海には近づけないよ。散骨でもなんでも勝手にして。私にはもう関係ないんだから」

 「この店を売れば、借金が返せるんだが」

 「ここは貸店舗だよ。親の借金は相続放棄すれば、子供は返さなくていいって言う法律があるの、知らないの?中卒なのはお兄ちゃんの勝手だけど、生きる為の勉強はしないと、迷惑だよ」

 「なんだと、この!」

 また兄は殴ろうとしたので、私は背中を向けて、スマホをポケットから出し、警察にと一一〇番を押した。

 「言ったでしょう。私は本気で警察呼ぶって。すでに腕が赤くなってる。そのうちあざになるだろうから、証拠になると思うよ。もうすぐパトカーが来るよ」

 「花…お前はやっぱり自分の事し考えられない奴なんだな」

 「それ、そのまま返すよ。中学出て五年もニートやってた人が。妹の歯がぼろぼろでも平気でゲームに嵌って、毎日笑ってた人間に、そんな事言われたくないね」

 私がそう言って、携帯をかざすと、微かに電話口から、オペレーターの「もしもし」と言う声が聞こえた。

 「くそっ。お前って奴は昔から卑怯だよな」

 「それもそのまま返すよ。もう理由は言わない。話の通じない人間とは話したくないから、さっさと出てって。そして、もう二度と来ないで。伯父さんや伯母さん達にも、花が皆と関わらないって伝えて」

 そう言い終わると眩暈がして、私は少しよろけた。兄はそれを見ても、なんの反応もせず、黙って骨壷を持って逃げるように店を出て行った。

 私はそれを見送った後、がくんとその場に座り込んでしまった。暴力に一人で初めて戦ったことで、緊張の糸が張っていたのが、一気に切れた感じだった。まだ心臓がばくばくして、息が苦しい。手もがたがた震えて止まらなかった。

 謂れのない暴力に立ち向かい、勝利したことは、自分でもびっくりすることだった。いつか兄とは、こんな風に再会するとは思っていたが、随分早くその時期が来たものだと思った。

 暫くは戦いに勝ったことに気をとられていたが、兄が言う母の死が本当なのか、嘘の骨壷をわざわざ持って金をせしめに来たのかが、まだ半信半疑だった。

 兄が去った後、すごく嫌だったが、東京の良枝おばさんに電話で確認したところ、母の肝臓癌での死は本当だった。

 その二時間後あたりに台風がやってきて、祖母がずぶ濡れで帰ってきたが、母の死を伝えるべきかどうか、少し迷った。が、伝えない訳には行かないと思って、夕飯の後のコーヒータイムに、思い切って打ち明けた。

 「苗子が肝臓癌で…?本当かい、花。真宏がここに来たのかい」

 「うん、散骨するって言って来たけど、この天気じゃね」

 「そう、そうかい。苗子が…」

 何があっても飄々としていて、いつも落ち着いていた祖母も、今回ばかりは心の動揺を隠せない様子だった。

 一方私の方は、この日は母の死がまだ実感できなくて、ぼんやりといつも通り家事をして、いつもの薬をいつも通り飲んで寝た。

 やっぱり私は薄情な娘なんだなと思いつつ、いつまで経っても母の死を信じきれずにいた。

 

 その次の日から一週間、店を忌引き休みにした。気持ち的にではなくて、対面上そうしないといけないような気がしたので、とりあえず喪に服してみた。

 もう十一月に入ったので、喪中葉書の用意をその間にした。あまりにも落ち着いている自分がいて、それがかえって悲しかった。悲しくない、悲しめない自分に絶望した。

 数年前に親友の直美を亡くした時は素直に悲しめたのに、こんな風に形だけ悲しんでいる振りをする自分が恥ずかしかった。

 

 一週間ぶりに店を開けたら、常連さんにお香典を貰ってしまったので、お返しの海苔の詰め合わせセットを久留米浜の駅ビルまで買いに行った。酒屋のおじさんとそのお友達二人と、ランチ客のおばさん三人に香典返しをした。

 私は変わらずに元気で過ごしたが、祖母は元気が無かった。前みたいなパワーはないし、食欲も余りないし、なにより口数が随分と減った。

 優人くんと会ったのは、店を再開してから二日経った日だった。ちょうど寒くなる前に金沢に里帰りしていたとのことだった。お土産に俵屋の飴と九谷焼のお茶碗を貰った。

 元気の無い祖母を送ってくれた彼に、事情を話した。祖母は夕飯も食べずに、二階の自分の部屋に篭ってしまったので、仕方なく一階のカフェの窓際のテーブルで、優人くんと二人で秋刀魚の塩焼きを食べる事になった。本当は三人で食べようと六尾買ってきたが、二人で三尾ずつ食べる羽目になった。私は二尾でお腹がいっぱいになったので、残りの一尾を明日の祖母のお弁当に入れようと思い、ラップして冷蔵庫に入れた。優人くんは三尾全部、美味しそうに食べてから、食後の一服のガラムに火をつけて言った。

 「まあ、自分の子供の死は辛いのは確かだよな。でも、自分自身が生き返ってるんなら、もう少し楽観しても良さげだけどな」

 「グランマはクリスチャンだし、死者の復活を信じているけど…実際はやっぱり悲しいんだね。私、全然悲しんでないんだけど、おかしいよね」

 「んー…そうだな。花の話は姐さんから聞いたことがあるけど。十年以上も会ってなかったんだし、いい思い出があんまりないなら、そんなもんなのかとも思うよ」

 「そう思うと私の不幸って、悲しめないこと…つまり、母の死を悲劇として受け入れられないことそのものなのかな。肝臓癌だって話だけど、アル中だったから仕方ないなとは思ったし」

 「俺だって、親父が死んでも泣きはしなかったさ。何ヶ月かはぼーっといつも通りと言うか。葬式だの喪中葉書だの四十九日だのが終わって、いつもの日常に戻ってから、ある日、ぶわっと泣きたくなって泣いたかな。花も、今は心が麻痺しているだけなんじゃないのか?心なしか、コーヒーの味がいつもと違うし。まあ、あんまり難しく考えるなよ。花の悪いところは、物事を難しく考えすぎるところだと思うぞ。よく物事を考えられるのはいいことだけど。考えるより、体調崩さないように気をつけろよ」

 「体調かあ…このところ、普通だな。寧ろ調子いいみたい」

 「いきなり落ちたり上がったりするとやばい病気なんだろう?暫くはランチタイムで店閉めて、海にでも散歩するなりしろよな」

 「そんな、常連さんも来るんだし。いつも通りに日常が送れないと、かえって調子崩しそう」

 「花の悪いところはもう一つ。自分を大事にしないところだって、姐さんが言ってたぞ。まあ、無理するなよ。よく言うご自愛下さいの自愛が足んないんだよなあ、花はな」

 優人くんはそう言って、私の頭をぽんぽんと軽く叩いた。そして、帰り際にいつも通りにジュークボックスに百円玉を入れた。今日もまた、いつもの曲だった。『男が女を愛する時』。

 「好きなの?その曲」

 私は何気なく訊いてみた。

 「まあ、ね」優人くんは溜息をひとつついてから、私を見て苦笑した。

 「どうかした?」

 「いや、別に。じゃあ、またな。秋刀魚、美味かった。ごっそさん」

 「バイク、気をつけてね」

 「サンキュ、おやすみ」

 「おやすみなさい」

 優人くんを見送った後に、店のシャッターを閉めて、私はおにぎりを三つ作った。祖母の好きな梅干と昆布と明太子の三つ。

 「グランマ、入るよ」

 私は奥の六畳間の祖母の部屋に断ってから入った。電気がついていなかったので、ちょっとびっくりしたが、慌てずに電気のスイッチを入れた。

 「グランマ、大丈夫?これ、おにぎり。グランマの好きなものばかりにしたよ。秋刀魚もまだあるから、欲しかったら言って?」

 私はこうして、まるで自分の分まで悲しむような祖母を元気付けるような役目は、正直嫌だった。私だって、悲しめるものなら悲しみたい。

 「花は悲しくないのは分かるよ。苗子には、随分なことをされて育ってるからね。でも、あたしには娘なのさ。酷い難産だったし、しょっちゅう泣いてばかしだったし、育ったっていじけてばかりの可愛くない子だったけど。それでもあの子は、あたしの娘だったんだよ」

 祖母はそう言って、ぽろぽろと涙をこぼした。私はティッシュの箱を持って来て、それを差し出すことしか出来なかった。

 「娘って言っても、もう六十代のいい年した大人だけどさ。肝臓癌だって言っても、無類の酒好きだったし、不摂生だから、いつかこんな死に方するとは思っていたけどさ。それでも、こんなに早く死ぬこたないだろうに」

 私は黙ってベッドに腰掛けている祖母の横に座った。

 「あんな娘でも、確かに苗子はあたしが死ぬ気で産んで育てたんだよ。酒を飲みすぎるな、飲んでばかりじゃなくて、ちゃんと食べて真面目に働けって言っても聞かないから」

 泣きながら話し終わった祖母は、私にしがみついて号泣した。私はただ抱きしめることしか出来ない。

 「花、苗子は本当に悪い母親だったかい?なにひとつ愛情が無かったわけじゃないだろう?」

 祖母のその問いに、私は暫く困惑した。返答に困る問いに、私は言葉を詰まらせた。

 「ごめんなさい、グランマ。私、覚えてない…思い出せないの、お母さんの事。思い出すと辛くて、思い出したくないの。確かに小さい頃は、お母さんらしさがあったと思うけど。どうしても、自分が愛されていたはずだって考えれば考えるだけ、苦しいの。素直に悲しめないし、喜べもしないの。ただ、もうお母さんからお金の無心をされたり、暴力を受けずに済むとか…そんなことしか考えられない。私、やっぱり薄情なんだよ。お母さんが死んで悲しくないなんて、人格がおかしいんだよ、きっと」

 私は涙一つこぼさずにそう言った。それしか言えなかった。自分の事しか考えられないような自己中心的な、薄情な自分が情けなかった。こんな自分を祖母に知られたくなかった。今度こそ祖母に嫌われるのではと思った。

 「花、あんたは悪くないよ、ちっとも。皆、苗子の自業自得なんだから。こんな風に母親の最期の別れをしなくちゃならないあんたが、ひたすら哀れだよ」

 「ごめんなさい…ごめんなさい」

 私は泣きそうになりながら、謝り続けた。
 「真宏に連絡はつくかい?散骨に立会いたいよ」

 「ごめん、お兄ちゃんにはもう連絡取れないと思う。て言うか、もう関わりたくない。暴力振るわれたし。今度来たら警察呼ぶって、啖呵切っちゃったし」

 「また真宏は殴ったのかい?大丈夫だったかい?」

 「うん、平気だった。それに、グランマがお兄ちゃんと会ったら、大変な事になると思う。『この人誰?』って話になると思うし」

 「確かに真宏には、あたしがあたしだって分からないだろうね…殴られたところ、痛かったかい」

 「うん、でも大丈夫だから」

 「もう、真宏にも会えないね」

 「仕方ないと思う。私、もう謂れのない暴力には屈しない。血の繋がりも否定はしないけど、しがみつくのはやめる。私の欲しい愛情の形を持ってるのは、グランマだけだと思うから。グランマがいれば、私は大丈夫…」

 と、私は言い終わらないうちに、涙が出た。優人くんが言っていたように、ぶわっと一気に涙が溢れ出た。

 

 

 

 十一月のはじめ辺りから、クリスマスソングがラジオなどから流れるようになり、久留米浜駅前の商店街の街路樹には、青いイルミネーションがもうすでに飾られている。

 祖母と優人んと私とで、久しぶりに外食をしようと駅前に来た。真冬に備えてうなぎでもと優人くんの提案である。

 駅前のバスターミナル前の銀行の前で待ち合わせだ。

 「寒いね、花」祖母は秋に買った本皮のコートのジッパーを締めた。

 「そうお?東京よりはあったかく感じるけど」

 「そのカシミアのコートがあったかいんだろう。いいコートだねえ。でも、何年同じの着てるんだい?袖口がもう擦り切れてきてるよ。秋にデパートに行ったときに、新調すればよかったのに」

 「そんなにボロボロかなあ?気に入ってるんだけどね、このコート」

 「年明けには、初売りにでも繰り出して買うんだね。なんなら、クリスマスセールでも」

 「ええ、やだ。私、人ごみ嫌い。満員のデパートになんか行きたくないよ。通販でいいよ、安いし」

 「やれやれ。そんななのに、よくあの東京に十年も暮らしてたもんだね」

 約束の五分前に、優人くんのオートバイの音がした。駅ビル裏の駐輪場へ向かう姿が見えた。

 無事に合流した後、三人で商店街の奥の方にある、老舗のうなぎ屋さんに入ったのは、午後六時半前だった。

 「しかし、もうクリスマスムード満載だな。まだ十一月なのにな」

 優人くんは、ノンアルコールビールを飲みながら、ガラムをくゆらせていた。

 「クリスマスが終わればすぐ年末、そいでもってお正月…早いね、一年が。優人くん、本当に行っちゃうの?アメリカに」

 私もノンアルコールならと思って飲みたがったが、祖母が「癖になるし、0.009パーセントぐらいはアルコールが入ってるだろう」と言って、飲ませてくれなかったので、仕方なく、祖母と二人でオレンジジュースを飲んでいる。

 「うん。なんだ、花。俺がいなくなったら淋しいか?」

 優人くんは、にやりと笑いながら言った。

 「別に。グランマがいるもん。どうせ春には帰ってくるんでしょう?ねえ、グランマ。優人くんなんていなければ食い扶持が減って、かえって助かるよね?」

 私がそう言い返してから祖母に話を振ったが、祖母は、ただぼんやりとうつろな目をして、私を見ているだけだった。

 「グランマ、どうかした?珍しくぼーっとしちゃって。やっぱり、優人くんがいないと淋しい?」

 私がそう言うと、祖母は少し作り笑いをした。

 「まあ、あんた達と別れるのは淋しいね」

 「ん、あんた達?」

 「あ、ううん。違った違った、言い間違えた。確かに優人が無事に帰ってくるといいなと思って。優人、あんた、あんまりかっ飛ばすんじゃないよ。アメリカの道路は広いこた広いけど、ダウンタウン辺りは、渋滞したりもするからね。まあ、日本ほどじゃないけど。くれぐれも気をつけるんだよ」

 「姐さん、もしかして、俺の事ラブ?」

 おちゃらけてそう言う優人くんの言葉に、一瞬胸が詰まった感じがした。

 「馬鹿お言いでないよ。なんでこんなガキを相手しなきゃなんないのさ」

 「おうおう。こっちだって、本命は花だもん。花、愛してる」

 優人くんはそう言ってじっと私を見て微笑んだ。

 私はその言葉を真に受けてしまい、一瞬顔が熱くなって、暫くものが言えなかった。

 「グ、グランマに振られたからって、なによ、調子のいいこと言って。私だって、もっと大人の人が好きだもん」

 必死でそう取り繕うと、私はジュースを口にした。

 「なんだ、花は大人の男が好きなんだ」

 ちょっと残念そうに優人くんは呟いて、二本目のガラムに火をつけた。ひと吹かしした後、なにか鼻歌を歌った。

 「うぇなままーん、ラブずうぉーまん。きゃんきぷひずマイン、おんなっしんえるううす、ひどぅちぇえいいんじざわある、フォーザ、ぐっしんぐひずふぁうんど…」

 音程がめちゃくちゃで、何を歌っているか分からなかったので、私は笑い転げた。優人くんは、それに構わず、歌い続けた。半分意地になっている様子である。

 そんな二人を、祖母は遠くを見守るような目で微笑んでいた。

 そのうち、その下手くそな鼻歌は、やっと来た美味しそうなうな重にかき消された。

 

 

 

十二月に入って編み物を始めた。私と祖母と優人くんの三人分のマフラーを。新しい主治医が手芸は脳のリハビリにいいと言っていたので、店が暇な時間を見つけて、コツコツと編んでいる。私が白で、祖母が赤。優人くんにはモスグリーンの毛糸を選んだ。もちろん、二人には内緒である。

 細めで長いものがいいだろうと思ったので、十五目を取って、長さ一メートル五十センチくらいになるまで、ひたすら黙々と編んでいる。毛糸は奮発して、カシミヤとシルクの混紡にした。編み針は十二号のやや太めのものにして、細めの毛糸をざっくりと引っ掛け編みで編んでいる。端は編みっぱなしなので、初心者の私でも、時間と根気があれば簡単に編めるものだ。

 主治医の言うように、脳が活性化したのか、編み物の合間に、件の小説を書き進める事が出来た。祖母だけ年を取らずに、他の皆が年を取り、また主人公である孫がすっかり年老いたある日に、本当の楽園が復活すると言う内容にした。

 

 今日も優人くんが、夕食を食べに来た。祖母は今日は残業だったので、二人でオムライスを食べた。

 食後の一服のガラムを吸いながら、「淋しくなるな」と優人くんは一言呟いた。

 優人くんも、私と同じように祖母と私を親しい存在と見てくれているのだろうと思い、少し嬉しくなった。出会って数ヶ月だが、私にとって優人くんは兄か弟のような存在だと密かに思っていたので。

 「たった三ヶ月じゃない」と、私は自分の分のキリマンジャロのブレンドにスキムミルクとダイエットシュガーを入れながら言った。

 「そうじゃなくて…いや、うん。そうだな、花と姐さんと離れて暮らすのは淋しいな」優人くんは何か訳あり気な様子でそう言ったので、私はこう問いただした。

 「もしかして、アメリカに永住するの?」

 「いや、ちゃんと帰ってくるよ」

 それでも優人くんは浮かない顔をしていた。私がその様子を不審に思った表情を読み取ると、優人くんは話題を変えた。

 「そうだ。姐さんと昨日、休み時間に話してたんだけどさ。クリスマスの二日間は、俺と花と姐さんの三人で過ごそうって話してたんだけど。花、俺、ここに泊まってもいいかな?」

 「クリスマスはかきいれ時で、工場が忙しいんじゃないの?」

 「うん、二十三日は残業で帰るの九時過ぎになるけど、二十四日は休みを貰ったから、三人でぱあっとやろうよ。二十四日は店閉めようって、姐さん言ってたぜ」

 「うーん、そうだねえ。まだ貸切とか予約とかは入ってないし」

 「どうせ、クリスマス一日休んだって、大して売上げには影響ないだろ。な、花。三人でいい思い出作っちゃおうぜ。バイクでコケて死んでも、悔いが残らないようにさ」

 「やだ、縁起でもない。変なこと言わないでよ」

 「いや、コケてどうたらは冗談だよ。クリスマスに独り身は淋しいじゃん。花、ケーキとチキン焼いてくれよ」

 「味は保証しないよ?」

 「花の飯はいつも美味いから大丈夫だろ。俺、ケーキはチョコの奴がいいな。ほら、丸太の形のあれ…なんだっけ」

 「ああ、ブッシュドノエルとか言う、あのケーキ?」

 「うん、コーヒー味とかにはならないかなあ。出来る、花?」

 「やってみないとなあ。何回か実験しないとね」

 「試作品を店に出せばいいじゃん」

 「失敗作は出せないよ」

 「花は妥協しないよな、本当に。出来ればでいいから、頼むな」

 「うん。お酒飲むなら買ってきてね」

 「おっけ。決まりだな」

 そう言うと、優人くんは、ポケットの小銭入れから百円玉を出して、ジュークボックスに入れて、いつものパーシー・スレッジの曲をかけた。

 「この曲、どういう内容なの?」私は何の気なしに訊いてみた。

 「ググれば分かる…花、お前本当に帰国子女かよ。分かんねえかなあ…」

 「たかが四ヶ月じゃ、基礎単語の聞き取りと簡単な英会話しか出来ないよ」

 「まあ、俺がアメリカから帰ってくるまでには、ググるなり訳すなりしとけよ。ごっそさん。おやすみ、花」

 「おやすみなさい、気をつけて…」

 

 

 

 そして、クリスマスイブのイブがやってきた。つまり、天皇誕生日だ。私は今日、店を閉めてチキンとケーキを焼きながら、マフラーを編んでいた。二人が帰って来る一時間前にやっと最後まで編み上げた。チキンはグリルの中で保温して、ケーキは冷蔵庫で冷ました状態で、サラダとスープを作った。

 「メリークリスマス、花」

 二人は九時半過ぎに帰ってきた。優人くんは何やらギターケースを担いでやって来た。ギターなんか弾くのかと思ったら「姐さんへのプレゼントだよ」と言っていた。はて、祖母はギターなんか弾けただろうかと、と考えたが、中身はギターではなかった。

 優人くんは祖母に三味線を、私にはアンティークのオパールのネックレスをプレゼントしてくれた。祖母が元芸者で三味線が得意だと聞いていたので、リサイクルショップで買ってきたと言っていた。ギターケースはカバー替わりに値切って買ったと言っていた。

 祖母は優人くんに、近くの神社で交通安全のお守りと血液型が彫ってあるシルバーのネックレスをプレゼントしていた。私には紫の薔薇の鉢をプレゼントしてくれた。本当は青い薔薇を買いたかったが、鉢植えでは紫までが限界なので、店で一番青に近い紫の薔薇にしたと言っていた。夢が叶うようにとの祈りを込めて、春になったら店先に植えるようにと祖母に言われた。

 私はチキンとケーキををテーブルに用意しておいた。二人に食べる前に、マフラーを渡したら、とても喜んでくれたので、昨日徹夜して一生懸命仕上げた甲斐があったなと思った。

 祖母が工場から貰ってきた肉まんを食べようと言ったので、ケーキとチキンはどうするのかと聞いたら、明日のクリスマス本番に食べようと言うことになった。肉まんの他にあんまんとピザまんとチャーシューまんもあったので、お腹いっぱいになりながら、テレビのクリスマス特番を観た。二階居間のこたつの中で三人でごろ寝してしまい、そしてそのまま朝まで眠ってしまった。だが、次の日の昼過ぎに目を覚ますと、何故か私はベッドにいた。祖母が優人くんに運ばせたらしい。前の日眠っていなかったので、ぐっすり眠ってしまった私は、その事に全く気付かなかった。優人くんは、まるで死んだように寝てたと言っていた。

 クリスマスイブは、昼過ぎからまたパーティーを再開した。優人くんが持ってきたスパークリングワインとシャンメリーを空けて、珍しくいつもは飲まない祖母が、この日だけはと言って、うわばみのように飲んだ。三本あったスパークリングワインが底をつき始めたのは、イブの夕方過ぎだった。やっとチキンとケーキが解禁になったので、三人でもりもり食べた。コーヒー味のケーキは無理だったのだが、一生懸命作ったブッシュドノエルを二人に喜んで貰えた。

 「姐さん、なんか三味線で弾いてよ」優人くんがそう言った。

 祖母は、三味線のチューニングをした。よく手入れされた三味線だと言いながら、何かの小唄だかを歌った。だが、私も優人くんもいまいち馴染みがなくて、良さがわからなくて、ぼうっとして、なんとなく拍手をした。

 「やっぱり、若いのは、こういうのの方がいいかねえ…」

 そう言って、祖母はビートルズの『ア・ハードデイズ・ナイト』の間奏部分を軽々と三味線で弾いてみせた。

 「おお、すげえ。さすがはアメリカ帰りの元芸者!」

 優人くんは感動して拍手をした。私も思わず、祖母のテクニックに驚いた。

 「ふふん。何かリクエストはあるかい?」

 祖母はにやりと笑い、私に訊いた。だが、私は最近のJ-POPしか浮かばなくて、戸惑っていた。

 「あれ、俺のテーマソングは?パーシー・スレッジのやつ」

 「ああ、あれかい」

 「俺、あれ歌いたい」

 「うーん、どんな伴奏だったかねえ…適当に弾くから、優人、歌ってみな」

 「やだあ、優人くんの歌はジャイアン並みの破壊力なんだから、耳が壊れちゃうよ。やめてよ」

 私はけらけらと笑いながら言ったが、二人は真剣に打ち合わせをしていた。

 そして、ジャイアンリサイタル並みの優人くんのリサイタルが始まった。

 「うぇなままーん、ラブズ、をーまん。きゃんきぷマイン、オンナッシングえるす。ひどちぇいんざわあある、ふぉーザグしんぐひずふぁうんど…」

 私は笑いながら耳を塞いでいたので、優人くんが途中で「鈍い女」とぽそりと言ったのには気付かなかった。

 

 

 クリスマスイブの夜、三人で楽しく騒いだ後、祖母が「海が見たい」と言い出した。私は寒いから嫌だったが、優人くんも行こうと言い出したので、渋々とコートを着込んで、三人で色違いのお揃いのマフラーをして、海岸沿いの道路を歩いた。

 「苗子はここに眠ってるんだね」と、祖母はぽつりと呟いて、真っ黒な海を眺めた。

 「もしもお母さんが生き返ってきたら、すぐに店に来れるね」と私が言った。

 「生き返ってきてまで、娘の幸せを妬んだり恨んだりはしないだろうよ」と祖母は言って、また歩き出した。

 すると、いつしか雪がちらついてきた。

 「海辺のホワイトクリスマスかあ。雪が降っても、海に溶けちゃって、なんだかちょっと味気ないね」

 私はそう言いながら、前を歩く二人について歩いた。

 「この辺りで雪なんて降るの初めて見たよ。こんなにあったかいのに降るんだな」

 優人くんは上を向いて雪を食べようと、口を開けていた。

 「金沢の雪って、どんな?」私は何気なく訊いてみた。

 「そりゃもう、寒いよ。三十分ごとに天気がころころ変わるし」

 「波の花って、綺麗?」

 「うん、まあね。一度遊びに来いよ、金沢に」優人くんはそう言って笑った。

 祖母はバス停のところで立ち止まり、時刻表を確認していた。もうあと三十分くらいで蒲原行きのバスが折り返してくるらしい。

 「花、あんたに言ってなかった事があって…いいかい、落ち着いて聞いておくれよ」

 私は、うんと頷いた。優人くんは祖母の話の内容をあらかじめ聞いていたらしく、少し離れたところで、ガラムを一本吸い始めた。

 「花、ごめんよ。今夜であたしは蒲原に帰らなきゃならないんだ」

 私は一瞬、我が耳を疑った。優人くんを見ると、私を見守りながら、黙って頷いていた。

 「なんで?なんで…楽園が復活したんでしょう?どうしてグランマが…優人くんは知ってたの?」

 「こないだ聞かされた。工場には、アメリカに帰るって話にして、昨日付で仕事を辞めたんだよ。姐さんは」

 優人くんは、ゆっくりと諭すように私に言った。

 「なんで?なんでグランマは帰っちゃうの?楽園が復活したって言ったじゃない。嘘でしょう、グランマ。ねえ、嫌だよ。私、グランマがいないと…もう一人で生きるのは嫌だよ」

 私はぼろぼろと泣きながら、涙声で訴えた。しかし、祖母は淋しそうに微笑んでこう続けた。

 「あたしが生き返ってきたのはね、花。お前があまりにも可哀想で心配で…自分をちっとも愛さないから。死んでからも、ずっと神様にお願いし続けてたんだよ。少しの間でいいから、あたしに命を下さいってね。毎日毎日、花のところへ行かせて欲しいってお願いしたら、あの春の日に、神様が期間限定であたしたちだけに楽園を復活させてくれたのさ。ただし、クリスマスまでには帰って来なさいって、条件付きでね」

  祖母は私の頭に積もった雪を払いながら、優しく撫でていた。

 「じゃあ、楽園の復活は叶わなかったんだね」私は寂しくなってそう呟いた。

 「いいや、花。楽園はこの地上にあるんだよ、あたしがいなくなっても、楽園は花、あんたのところにある。優人がいて、カフェのお客さんがいて…」

 「グランマがいなきゃ、やだ。嫌…お願い、私も蒲原に連れてって」

 祖母は私を抱きしめて言った。

 「まだ墓に入るのは早いよ。本当の楽園の復活を信じて、気長に待ちな。それまで、自分の小さな楽園をしっかり守るんだよ。なあに、そんなに長くはないよ。本当の楽園は必ず復活する。その時にまた会おう、花。これを持ってなさい」

 そう言って、祖母はオパールの指輪を外して、私に握らせた。

 「これはグランマの大事な指輪じゃない。淋しくないの?何も持ってなくて」

 「大切なのは気持ちだよ。このマフラーもあるし、あたしの心には、花、あんたが生きているから大丈夫。自分が遺した手紙まで花が持っててくれたし」

 「本当の楽園なんて、来るの?」

 「ああ、もうすぐ来るとも。世界中の厄介事が終わって、やがて地上には『時』が来て、楽園が復活するのさ」

 「その頃には、私、お婆ちゃんになってない?」

 「なってたっていいじゃないか。どうせ、その時は若返るんだから」

 「私が生きてるうちに叶うかなあ…」

 「叶うとも。約束だよ、花。それまで、自分で自分の楽園を大切にするんだよ」

 「私の楽園て、何?」

 「花のコーヒーを飲んだ人が、ああ幸せだなあって思うだろう?それが本当の楽園さ」

 「グランマ、私、まだお嫁にもいってないよ。グランマに曾孫の顔も見せてないし…」

 「そんな表面的なことはどうでもいいじゃないか。まずはもっと自分を大事にしなさい。優人、泣き虫の世話は任せたよ。無事にアメリカから帰って来ておやりよ」

 「分かってるよ、姐さん」

 祖母は私の背中を押して、優人くんにパスして、やって来たバスに乗り込もうとした。私は声をあげて泣いた。

 「花、お前は小さい時から声をあげずに泣いていたね。でも、こうして素直に泣ける花が見られて安心したよ。これからは泣きたい時にはこうして声をあげて泣いていんだよ。赤ん坊のようにね…そうだ、もう一つ。イザヤ書にこんな事が書いてあった。『女が自分の乳飲み子を忘れて、自分の胎の子に同情しないことがあろうか。いや、女は忘れるかも知れない。けれども神は人間を忘れない』…だったかね、うろ覚えだけどさ。苗子は花を本当に忘れたのかどうかは、わからないけど。でもね、もし忘れられたとしても、神様はお前を必ず顧みて下さるだろうよ。あたしがこうして復活してきたんだから、信じられるだろう、花?」

 私は泣きながらも必死で、この別れを受け入れようと考えた。

 祖母が生き返ってきて、私は多分初めて人に心から愛される喜びを知ったのかも知れない。よく自分を愛せない人間は、他人をうまく愛せないと言うが、私はこうしてやっと、祖母を通して、自分を愛せる事ができるようになれるのかも知れないと思った。

 母が祖母とうまく愛し合えずにいたから、母は娘の愛し方を学べなかったのだと、今にして思う。神様が祖母を生き返らせたのは、親娘三代に渡る負の連鎖に歯止めをかける為に、一時的にでも楽園を復活させたのだと、私は思った。いや、思うことにした。

 そう考えたら、自然と気持ちが落ち着いた。そしてやっと涙を拭いて顔をあげて笑うことが出来た。

 私は祖母にあるものを渡そうと思いついた。

 「グランマ、これ」

 私はポケットにあった、赤いがま口を祖母に手渡した。中には小銭が千円分以上入っている。

 「私が電話に出れなかったら、今度は自分でここにバスに乗って戻ってきて。バス代とお腹がすいた時のパン代だよ」

 祖母はにこりと微笑んで、がま口を受け取った。

 「確かに。今度は白装束じゃないし、マフラーもあるから、真冬に楽園が来ても寒くないね。ありがとう、花。あったかいよ、このマフラー」

 「うん。真夏だったら、Tシャツを下に着てるから、コートとセーターを脱げばいいだけだもんね」

 「じゃあね、二人共。優人、花を頼んだよ。養える甲斐性が出来るまでは、下手に手を出すんじゃないよ。分かってるね、お前」

 「はいはい、姐さん。楽しかったよ、本当にお世話になりました」

 優人くんは軽く頭を下げて、手をあげて言った。

 バスの運転手が、発車の時刻を告げたので、祖母はなごり惜しげにもバスに乗った。

 「またね、花。優人。楽園で必ず会おう」

 私は涙を流しっぱなしにして、顔をぐちゃぐちゃにしながら、見送った。

 そうして、祖母を乗せた蒲原行きの最終バスは、走り去っていった。窓からは祖母が手を振りながら、見えなくなるまで私たちを見守っていた。

 

 

 

 クリスマスが終わると、一気に年末がやって来た。東京と違ってこの辺は田舎だから、ちゃんと年末年始の買い物をしておかないと、お正月に食べるものに困るよと、ランチ客のおばさんがアドバイスをしてくれた。

 その年末年始の買い物を優人くんがしてくれたので、私はこうしておせちの用意を始める事が出来た。今日はなますと松前漬を作っている。

 祖母がいなくなって、気分が落ち込む事もなく、また逆にハイになる事もなかった。祖母の言葉を、約束を信じているからだろう。

 優人くんは年末で仕事を辞めて、正月明けの成人の日の次の日に、アメリカに旅立つ予定である。パスポートと切符の手配はもう済ませてあり、バイクも船便でアメリカに送った。今はサブマシンの赤いスクーターで移動している。

 永沢にある優人くんのアパートを見たが、結構なボロアパートではあるが、きちんと掃除している様子だった。生ものはマーガリンや調味料だけだったが、三ヶ月も放っておくわけにはいかないだろうと思い、ゴミに出した。

 そして、私がたまに空気を入れ替えに来ると言って、優人くんのアパートの鍵を預かった。大家さんにも、私がたまに来ると言っておいた。

 でも、そうそうしょっちゅう来れないので、ノートパソコンやスクーターなどの貴重品はうちで預かる事になった。木造アパートのペラペラなドアの鍵は、なんだか頼りなかったので。郵便物も、カフェの方に転送するように、郵便局に手続きをした。

 「なんか、結局、花には世話かけちまったな」

 優人くんはそう言いながら、今夜もまた夕食を食べに来た。最近はアメリカでは食べられないだろうものを出している。今日は子持ちカレイの煮付けとひじきごはんと、青菜のおひたしと豆腐の味噌汁である。

 「別にいいよ、そんなこと。今回もたくさん買い出しに行ってきてくれて、本当に助かったんだから」

 優人くんがいなくなったら、自分ひとりであの坂の向こうの業務用スーパーまで買い出しに行かないとならなくなるので、年明けからは定休日をもう一日増やすことにした。今までは木曜のみだったが、今度は月曜も休むことにした。ただし、開けたいときはいつでも開けることにしようと思う。

 私は年末年始を優人くんに、一緒に紅白を観て二年参りしようと提案した。優人くんは快く承諾してくれたので、おせちを増量した。何かリクエストはあるかと聞いたら、辛子蓮根が食べたいと言っていたので、ネットで作り方を検索して作ってみた。茹でて半日干して辛子味噌を詰めて一晩寝かせてから衣をつけて揚げると言う手間暇はかかったが、試食させたら、本場の味に負けてないよと、優人くんは言ってくれた。

 優人くんが大晦日のお昼に、久留米浜駅前のお蕎麦屋さんに連れて行ってくれた。二人で天ざるを食べながら、他愛のない話をしたりした。

 「そういや、姐さんの墓の掃除は?年明けてからにするのか?」

 「うん。年末だと伯父さんや伯母さんとかと鉢合わせしそうだからね」

 「俺も行っていいか?」

 「いいけど。行くのは優人くんが出発する日だよ。荷物あるのに大丈夫?」

 「なんだ、見送りには来てくんないのかよ」

 優人くんは、ちょっとつまらなそうに呟いた。

 「夜の便でしょ?朝お墓に行って、そのまま蒲原の駅で待ち合わせて、空港まで一緒に行こうかなって思ってたんだけど」

 「荷物なんか、みんな船便だよ。手荷物のリュックひとつだけだから。それよりも、いいのか?今夜から花ん家に泊まって?」

 優人くんはにやりと笑って言った。

 「グランマに釘刺されてるから大丈夫でしょ」

 「さあな。死人に口なしだから、分かんねえぞ?」

 優人くんはそう言いながら、よだれを垂らす仕草をしてみせた。

 「そうなったら、またグランマが帰ってきて、優人くんを懲らしめに来るから、いいよ」

 「うわ、こわっ」

 優人くんは、顔を青くしながらも笑っていた。

 祖母について、こんな風に自然に笑いながら話せる日が、こんなに早く来るとは思わなかった。これも優人くんが、まるで空気のように傍にいるからだと思った。

 

 

 

 そして、年末年始を二人で楽しく過ごしていたら、あっと言う間に優人くんの旅立ちの日がやってきてしまった。

 二人で朝早くに蒲原までバスに乗り、お墓を掃除しに来た。祖母の墓は先祖代々の墓でなく、祖母一人の墓なので、伯父さんや伯母さんが墓掃除に来なかったらしく、少し荒れた様子だった。

 優人くんが雑草を抜いて、私が墓石を洗った。

 私が線香に火をつけると、優人くんは線香の他に、ガラムを一本火をつけて墓に供えた。

 私は花屋で買った仏花と、クリスマスに祖母から貰った紫の薔薇が咲いたので、それを一輪供えた。

 「姐さん、俺は潔白です。年末年始からずっと花といたけど、なんにもしてないから、褒めてやってください」

 優人くんはそう言って半笑いしながら手を合わせた。

 「嘘です、グランマ。お風呂を覗かれそうになりました」

 「あれは不可抗力で…俺が寝てると思って花が風呂に入ったりするからいけないんだ。だいたい、あそこんちはトイレと脱衣所が近いから…」

 「グランマ、優人くんは覗き魔です。早く帰ってきて、成敗してやってください」

 私は笑いをこらえきれずに、墓前で吹き出してしまった。

 「なんか、姐さんが居なくなってしょげるかと思ってたけど。花は強いんだな」

 「だって、グランマを信じてるもん。必ず会えるって信じてる。だから私は一人でも大丈夫」

 私がそう言うと、優人くんはにっこりと笑って、無事に帰って来ると約束してくれた。

 

 空港に行くと、優人くんは何故か土産物屋でくまのぬいぐるみをひとつ買った。

 「なぜ、ぬいぐるみ?」

 私が訝しげに訊くと、優人くんは真面目な顔をした。

 「今日から、こいつが花の弟だ。名前は…くま吉でいいな、うん」

 そう言いながらその、くま吉なるぬいぐるみを使って、優人くんはこう話した。

 「いいか、花。他の男を家に入れるなよ。飯も、客以外には食わせるなよ。飯が残ったら俺が食べてやるからな」

 そう言うと、私にくま吉を渡した。

 私もくまを吉使って、こう言い返した。

 「おい、優人。くれぐれも気をつけるんだぞ。花のことは俺に任せとけ。もし、花が何かで悩んでたら、俺が話を聞いてやるから、安心して行ってこい」

 優人くんは笑いながら、くま吉の頭を撫でて「頼んだぞ、くま吉」と言った。

 フライト時刻になり、ゲート入りする優人くんを見送った。くま吉にバイバイと手を振らせて、見えなくなるまで見送った。優人くんを乗せた飛行機を見送ったら、帰りの電車とバスを逃したので、空港近くのホテルに泊まることにした。幸い、空室はすぐに見つかったので、シングルのおしゃれな部屋でごろごろして過ごした。

 夕飯はルームサービスで、インドカレーとフルーツを頼んだ。ちょっと贅沢だが、たまにはいいかと思って、美味しい食事と夜景を堪能した。

 その夜はなかなか眠れなかったので、私はくま吉を抱きながら、スマホでYouTubeを色々検索して聴いていた。

 そのうちに、優人くんのお気に入りのパーシー・スレッジがヒットした。和訳のテロップ付きの、黒人の太ったおじさんが歌う映像だった。

 

    男が女を愛する時、何事も彼の心に留まる事は出来ない。

    彼は世界と取引するだろう。彼が見つけたものの為に。

    もし、彼女が悪女でも、彼にはそれが見えない。

    彼女は悪い事なんて出来ない。

    彼の親友にも背を向ける、もしも彼が彼女をけなすなら。

 

    男が女を愛する時、彼はこれで最後と言う十セント硬貨を使う。

    彼が必要とするものを手放すまいと。

    彼は全ての安らぎを諦め、外の雨の中で眠る。

    もし、彼女がそうすべきだと言ったのなら。

    

    さて、この彼は彼女を愛しています。

    私は全てをあなたに捧げた。あなたの愛を手放すまいと。

    ベイビー、どうか冷たくしないで。

 

    男が女を愛する時、彼の心の中、彼女がそんな苦しみをもたらすことだって。

    もし彼女が馬鹿にしても、彼は最後まで気づかない。恋は盲目だから。

    そう、男が女を愛する時、私は彼の気持ちがよくわかる。

    なぜなら、ベイビー、ベイビー、ベイビー、君は私の世界だから。

 

    男が女を愛する時、彼は悪い事なんて出来ない。

    彼は決して他の女性に手出しはしない。

    そう、男が女を愛する時、私は彼の気持ちがよくわかる。

    なぜなら、ベイビー、ベイビー、ベイビー。君は私の世界だから。

 

 

 

 今日も私はパンを焼き、コーヒーを淹れる。この小さな楽園にやってくる人々の為に。

 母が死に、祖母がまた再び永眠し、そして優人くんはあれから三日も経つのにメール一つ寄越さない。それでも私は、こうしてPRで皆が帰って来るのをゆったりと待っている。楽園の復活を信じて。

 私はちょうど、パソコンを開いて小説を書き直ししていた。本当の楽園が来るのはまだ先で、祖母は墓に帰り、人々はそれぞれの小さな自分の楽園を大切にして生きていく、と言うラストに書き換え、エンドマークをつけた。

 優人くんは春に帰って来るまで音沙汰なしなのかと思っていたら、四日めにしてやっと、一通のメールが来た。

 「アメリカは広くて何もかもがでかくて開放的です。花が数ヶ月住んだという街に来たけど、海がキレイでいいところだ。ただ、メシがゲロマズイ。花がガキの頃に偏食だったのが、身にしみて分かった。早く日本に帰って、花のメシが食べたい」

 メールはそれだけで、サンディエゴの海岸をバックに、優人くんの愛車RZが写った写真がファイル添付に一枚ついていただけだった。

 私はパソコンを打つ手を止めて、しばらく考えた。そして、こう返事を打った。

 「ご飯炊いて待ってます」という一文だけで、後は昨日の夕食のお刺身の盛り合わせとカニ汁の写真を添付してやった。

 

 そして私は、ジュークボックスに百円玉をひとつ入れて、あの歌を流した。

 「うぇんなうーんまん、ラブズあまん…」

 私は、歌詞を男女入れ替えて口ずさんでみた。

 男が女を愛する時に、最後の十セントを使い切ってしまうなら、女が男を愛する時はどうするのかと考えた。また、雨の中で眠る男に傘をさしかけ、タオルと暖かいコーヒーを用意してはどうかとか色々考えたが、いまいちあのオリジナルの歌の素晴らしさには敵わないなと思った。どうやら私には作詞の才能はないようだ。

 でも、優人くんが帰って来るまであと三ヶ月もあるから、それまでにゆっくり考えようと思い、パソコンを閉じた。

 パンとコーヒーのいい匂いがしてきた頃に、店の入口に看板を出した。海岸を見ると、東の空が明るくなっていくのが見えた。

 祖母の言うとおり、この海はやはり朝日が美しい。

 段々と明るくなる海と空を見ていて、これ以上の楽園が一体どこにあるだろうかと思った。私は今日、ここにあるこの場所と自分を取り巻く人々を愛おしく感じた。

 

「はっきりと言っておく。あなたは今日、私と共に楽園にいる」

            ―ルカによる福音書より―

                      了

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