『十三歳の地図』


※第十二回(2023年)文学金魚新人賞最終選考に残していただいた作品です。


 この仕事を始めてから、かれこれ三十年以上になるでしょうか。東京の高校を卒業してから、美術系の専門学校に進学しましたが、在学中から――いいえ、その前から祖父母が経営する写真スタジオを手伝っていましたので、写真撮影のスキルは祖父母仕込みという事になるでしょう。

今は亡き二人の跡を継いだ私の仕事は、スタジオ内での商品撮影がほとんどです。中でもライティングが難しいとされる宝石撮影が得意です。宝石のどこにどうライトを当てれば良いのか、露出はどのぐらいなのか――まるで画家が筆で自由自在に陰影をつけるかのように、私は宝石のどこをどうすれば美しく撮れるかを熟知していると言っても過言ではないでしょう。また、宝石が語りかけてくる、何かの念の様なものをいつも感じ取って、私は写真に封じ込めています。

 そんな私はとても出不精でして、スタジオと自宅を往復する毎日を送っています。買い物でさえも通販や宅配がほとんどで、たまにはスーパーやコンビニにも行きますが、それさえもせいぜい週に一度くらいです。

 先日知り合った人に、「写真をやっている人が出不精だなんて意外だ」と言われました。一般的には、写真を撮る人イコールアウトドア系と言うイメージが強いみたいです。げっそりと痩せこけてこそいませんが、私の肌が不健康に見えるくらいに白いのに気づいた友人は、「どこか広くて開放的なところに行って、風景写真でも撮るべきだ」と言いました。

 私自身はそんなに気にしてはいませんでしたが、他にも心配する声があがったので、「じゃあどこか行ったことのない遠くへ行ってみよう」と思い立ちました。

旅行するとは決まったものの、どこに行こうかと暫し悩みました。どうせなら国内のまだ行ったことのないところにしようと思い、旅行のパンフレットをかき集めました。そしてさんざん迷った挙句、鬱陶しい梅雨がなくて、広くて解放的そうな北海道へ撮影旅行に出かけることに決めました。

 しかし、私はその北海道の宿を急遽キャンセルしました。なぜなら、専門学校時代からの友人が、急性盲腸炎で緊急入院したので、そのピンチヒッターの仕事が舞い込んできたからです。もちろん断ることもできました。しかし、私はせっかくの撮影旅行を中止してまで、その仕事を引き受けました。

 それは、私が二年間しか通えなかった公立中学校の卒業アルバムの写真の仕事でした。なんの因果か、来年の春に卒業する中学生たちの顔写真を一枚ずつ撮る羽目になったのです。

 この依頼を受けたのは、単に懐かしいからではなく、何か因縁めいたものを感じたのが理由です。物理的には近い距離でしたが、寧ろこの撮影の仕事は、私を北海道よりも遠い場所へと誘(いざな)う何かがありました。


梅雨真っ只中の肌寒い六月に撮影は行われました。衣替えをしたばかりの生徒たちは、夏服が寒そうでした。私は長袖のヨットパーカーを着ていましたが、生徒たちはみんな半袖です。こんなに寒いのなら何か羽織るものを着た方が良いのではないかと心配したくらいでした。

確かに私のおぼろげな記憶の中でも、夏服に衣替えした後は、秋までずっと半袖のままでしたが、こんなに寒い日はなかったように思います。

 私は十三歳まで横浜で育ちましたが、中学三年生になる前に、東京へ転校しました。ですからこの学校の生徒ではありましたが、卒業アルバムには私の写真はありません。もしも同級生とばったり会ったとしても、きっと自分のことなんて思い出しては貰えないだろうと思っていました。この町に来るのは、実に三十七年ぶりと言うことになります。

 美大を卒業してから二年目になる、杉野くんと言うアシスタントと一緒に車で来た私は、最初はこの町が、本当にあのS町なのかと我が目を疑いました。山は切り開かれ、新しい家がたくさん建っています。そればかりか、大きなタワーマンションもいくつか建っているではありませんか。

 街のシンボルだと思っていた、樹齢何百年だかの大きな桜の木は伐採されてしまい、代わりに広い道路が開かれていたことには衝撃を受けました。校門から続く桜並木はあのままでしたが、とにかくあの大きな桜がなくなっているのには、本当にがっかりして私は肩を落としました。

 ぴかぴかの新しい体育館と、おそらく私が転校する前に建っていたはずの旧校舎の場所には、近代的なデザインのこれまた新しい校舎がありました。

 武道館は当時のままのようで、かなり薄汚れていました。広々とした野球場やサッカー場もそのままでした。

 裏口のほうに建っていた旧国鉄寮の廃屋はすっかりなくなっていて、六面のテニスコートと公園になっています。

 よく通学路には、車に轢かれた狸の死体がありましたが、今も狸は出るのでしょうか。電線を伝って走っていた台湾リスは? とにかく学校とその周辺は、すっかり様変わりしてしまって、新しい「街」へと生まれ変わっていました。

 今日車を運転してくれている、杉野くんは横浜市の出身であり、中学時代は野球をやっていたそうです。このH中学は昔からスポーツが盛んでしたが、彼に聞いたところによると、今もなおその伝統は受け継がれているとの話です。

 私も車の運転はできますし、この車も私のものなのですが。普段、私本人は使わないで駐車場に放置したままで、私よりも友人知人が使う頻度が高いです。杉野くんもこの車をよく借りる知り合いの一人です。彼の方が横浜の道に詳しいので、今日は運転もお願いしました。

 杉野くんは道々、このH中学校の野球部が、毎年の県大会やら全国大会やらの常連校だと話してくれました。

 私がいた頃も野球部は強かったと思いますが、今はもっと有名になっているとのことです。杉野くんは、中学時代に練習試合で、このH中学校に来たことが何度かある、と言っていました。やはりこれだけの広大な敷地を有していれば、生徒たちも心置きなく存分に練習に励めるということでしょうか。

明け方に東京にある私のスタジオを出発しましたので、朝一番から撮影にかかれました。今日は六クラス総勢二百四十人の顔写真を撮る仕事です。さっさと撮影を済ませないと、今日中には終わりません。みんなまだまだ子供でじっとしていてくれないので、少し手こずりました。もしも今日中に撮り終わらなかったら、また明日東京からここまで来なければなりません。でも、ほんの一分くらいで終わる子も多かったので、撮影はどうにか当日中には終わりそうでした。

しかし、最後のクラスのはじめの方の出席番号の女の子――名前は知りませんが、天然パーマの後れ毛がキュートな女の子がいたのですが、どういう訳か無表情でした。カメラが嫌いなのか、それとも機嫌が悪いのか、一向に笑顔を見せてくれないのです。確かに他にも表情が暗い子もいましたが、こちらが軽い冗談を言えば笑ってくれました。でも、その女の子は手ごわかったです。SNSやネット番組などで仕入れたギャグも通じないだけか、とにかくずっと不愛想なままでした。

一応卒業アルバムに載せる写真ですから、笑顔でないと困ります。さすがのベテランカメラマンの私ですが、中学生という難しい年ごろの子供の写真を撮る仕事については、今まであまり経験がなく、まさかこんな難関が待ち受けているとは思いませんでした。

普段、人物はあまり撮らない私ですが、とはいえそこはプロのカメラマンです。どうにかして撮らなければなりません。普段撮っているライティングが難しいとされる宝石よりも、彼女の笑顔を撮るのは困難でした。どうしたものかとずっと悩んでいましたが、とっさに思いついた古典的なギャグを飛ばして、一瞬だけ笑顔になった瞬間を狙ってシャッターを切りました。

しかし、私が安心したのもほんの束の間でした。その子は私が卑怯な手を使って無理に笑顔を引き出したことを非難するように、一瞬こちらを睨んで、ふいと視線を外して、黙って撮影場所の会議室を出て行ってしまいました。

私はそれを見て、彼女をひどく傷つけたことに気づきました。彼女に謝りたかったのですが、時間もないし次々と生徒達を撮影しないといけないので、そのまま流れ作業の撮影を続けざるを得ませんでした。彼女が傷ついたことを私しか気づいていなかったのは、不幸中の幸いだったかもしれません。

私は申し訳ないという気持ちでいっぱいでした。写真は暴力でもあるのは知っていましたし、大人の都合で勝手に笑顔を作らされるなんて、私が中学生だったら少なくとも、その日一日はふてくされていたでしょう。さんざん子供の頃に、大人の勝手な都合に振り回された経験があったにも関わらず、そんな残酷なことをした自分を心から恥じました。

撮影が終わったのは、ちょうど下校時間でした。あの天然パーマの少女に会って謝りたくて、校門の前に車を停めて待っていました。でも、事情を知らない杉野くんにはその事を知らせたくありませんでした。それにあまり彼の仕事時間を長引かせたくなかったので、雨が弱まってきた数分後には、彼に車で先に東京に帰るように言いました。

「ちょっと母校とその周辺を見たいから。電車で追いかける。悪いけど荷物お願いね」

と言って、一人小さなカメラバッグを肩にかけて私は居残りました。暗くなり始める前まであの天然パーマの少女を待っていました。でも、部活動でもあるのか、それとも気づかないうちに帰ってしまったのかはわかりませんが、とうとうその日は、その少女とは会うことはかないませんでした。

そうして傘が邪魔になるほどに雨が上がった後、商店街の喫茶店にでも寄って休憩してから電車で東京に帰ることにました。商店街は新しい店ばかりで、どこがどう変わったかさえも思い出せませんでした。でも、十分くらい歩いてやっと個人経営らしい小さなカフェを見つける事が出来ました。疲れ果てた私は、吸い込まれるようにその店に入りました。

「あれ? もしかして東郷さん?」

店に入ってすぐに、自分の名前が聞こえたので、一瞬どきっとしました。窓際の席に着く前に、スーツ姿の女性にそう声をかけられたのです。

「え?」

私はまだ状況が呑み込めていませんでした。

「東郷さんでしょ? 東郷浩子さん。覚えてないかな? 同じクラスだった、野口みどりだけど」

野口みどり――確か中学生の時に、クラス委員をしていた女の子がそんな名前だったと、記憶にありました。まさか自分を覚えている同級生がいるとは思わなかったので、とても驚きました。

「ええっ、野口さん?」

「やっぱり! すごい偶然。似てるなあって思ってたら、本人だったんだもの」

「三十年以上会ってなかったのに、なんで?」

「そりゃあ背格好とか髪型とか、独特の雰囲気とかさ。ちっとも変ってないんだもん。やだ、すごい懐かしい! 元気だった?」

元気だったかと訊かれても三十七年ぶりですから、その間に元気だった時もそうでない時もあったので、一瞬返答に困りましたが。とりあえずうん、と返事をしました。

「このお店は? 野口さんちはお肉屋さんじゃなかったっけ?」

「私は中学の先生やってて、旦那が店をやってくれてるの。こっちが旦那」

野口さんがそういうと、エプロンをつけた旦那様が「どうも、亭主です」と、軽く会釈をしてくれました。

昔は二階建ての古い木造の建物だったのが、今は三階建てのきれいな白いタイル張りのものになっています。きっと二世帯住宅に建て替えたのでしょう。

「もしかして、旦那さんは婿養子かなんか? 確か野口さんは一人娘だったよね?」

「ううん、いわゆるマスオさんだよ。サザエさんと同じになっちゃった。」

そう言って笑う野口さんの表情は、あの頃のままでした。

「子供は?」

「中二と高三の息子がいる。もうじき帰ってくると思う」

「H中学だよね?」

「うん、もちろん。次男が中二でハンドボール部だよ。私はK中学の一年生の担任と国語を担当してるの」

「そうなんだ。私は今日、H中学の卒業アルバムの写真撮影の仕事だったんだ」

「もしかしてカメラマン? そのバッグ、カメラケースとかいうやつ?」

野口さんは、私のカメラの入ったアルミ製のバッグを見てそう言いました。

「うん、その他の機材は車で先にアシスタントに預けたんだ」

「へええ……なんか、かっこいい。あ、コーヒーでいい? ご馳走するよ」

「いいよ、ちゃんとお金払う」

「いいって、いいって。アイス? ホット?」

「ありがと。じゃあ、アイスでお願いします」

私がアイスコーヒーを頼むと、旦那さんはコーヒー豆をミルで挽き始めました。いい香りがしてきたので、これは美味しそうだと思って待っていました。

その間に、中学生らしき坊主頭の男の子が店に入ってきました。きっと、H中学校に通っているという、野口さんの家の次男坊でしょう。よく日に焼けていて元気そうな感じでした。

「お帰り、悠太。お客さんに挨拶しなさいって、いつも言ってるでしょう?」

「……あ、うん。いらっしゃいませ」

ちょっと緊張気味に、悠太くんという男の子はそう言って頭を下げました。

「初めまして、お邪魔してます」

そう私が挨拶すると、上目遣いで私を見ながらこう言いました。

「写真のおばさんでしょ? さっきカメラとか三脚とか……レフ何とかいうやつ? お兄さんと、色々道具持ってきてたよね。あの赤いの、お兄さんの車?」

「ううん、私の車だよ。レフ板なんてよく知ってるね。物知りなんだ」

「はい、アイスコーヒーお待ちどうさま」

私は旦那さんにお礼を言って、アイスコーヒーを飲みました。ほろ苦くて美味しかったです。

「悠太、アイスクリームあるけど、一本だけよ。昨日、三本全部食べちゃったでしょう? お兄ちゃんの分が無くなって、怒られたでしょ」

「だって、お腹すいてたんだもん」

「それならパンでも齧ってればいいのに」

「はーい」

そんな野口さんと悠太君の微笑ましいやり取りを聞いていたら、なんだかほっこりしました。ありふれた家庭の幸せそうな日常のワンシーンといったところでしょうか。

「ねえ、マヤが死んだのは知ってるよね?」

「え? なにそれ」

一瞬、何が何だかわからなくて、ストローでずずっと音をたててしまいました。

「松本真矢ちゃん、覚えてない?」

「覚えてるよ、忘れてなんかないよ」

「去年の夏ごろのニュース見なかった? 旦那さんに包丁で刺されて亡くなったの」

私はそのまま硬直してしまいました。

「ニュース……あー、去年の夏は仕事で手いっぱいで。普段からテレビも見ないし。知らなかった」

「悠太と同い年だった子がいたんだけど、その子もケガしてね。随分騒がれてたから、うちの店にテレビ局だかの取材陣みたいなのが来たよ」

「H中学校?」

「ううん、隣のM中学校だったけど。ハンドボール部の子だったから、うちの子と面識あったのよ。練習試合とかでね。マヤの親戚が群馬だか栃木だかにいて、そこに引き取られたとかって話」

「そんなことがあったの……」

私はぼんやりとそう呟くだけしかできませんでした。せっかくのアイスコーヒーの味が、わからなくなっていました。こうして野口さんから事情を聞いても、まだマヤの死を実感できませんでした。

「やっぱり親戚の家じゃ子供でも気を遣うだろうね。苦労するだろうな、あの子……あ、ごめん」

野口さんは悪い事を言ったな、と思った様子でした。

「東郷さんも中二の時に、東京の親戚のところに行ったんだよね。苦労したでしょう?」

「ううん、祖父母にはよくしてもらったから大丈夫。寧ろ、中学までの方がきつかったなあ」

「そうか、ならいいけど」

「あ、連絡先教えてもらっていい?」

「うん」

「これが事務所の名刺。LINEのIDは裏に書いてあるから。もう行かなくちかゃ」

私と野口さんは連絡先を交換しました。彼女にはショップカードの裏にLINEのIDを書いてもらいました。

「今度はゆっくり来るよ。今日はこれからまだスタジオに用事があるから」

「うん、また来てね」

そう言いあって、私たちは別れました。

ちょっとだけ商店街の外れにあるはずの、中学時代にマヤが住んでいたアパートを見に行こうと、大通りから一本入った道に入りました。変わり果てた風景の中でしばらく住宅街を彷徨いましたが、とうとうあの薄いピンク色の古びたアパートは見つかりませんでした。きっと、もう取り壊されてしまったのでしょう。

電車は比較的空いていたので、ぼんやりと座って、外の景色を見ながら帰りました。横浜で降りて渋谷方面行の電車に乗り換えた時には、もう人がいっぱいで混雑していました。

渋谷からK大学駅に向かう時の電車内で、杉野くんに、

「機材を運び込んでスタジオの戸締りをしたら帰っていいよ」

とLINEのメッセージを入れました。彼は、

「高速道路が事故で渋滞していてまだ都内に入ったばかりです」

とすぐにメッセージを返してくれました。

私がスタジオに着いて五分後くらいに杉野くんが帰ってきたので、荷物を受け取ってお礼を言って家に帰るように言いました。それから、今日撮ったデータをパソコンに入れてチェックしようとしましたが、もう夜遅かったので私も家に帰ることにしました。

車を使う距離ではないので、夜道を歩いて帰りました。コンビニに寄っておでんを買おうとしましたが、この時期はやっていないのに気付いて、仕方なくのり弁を買って温めてもらいました。

誰もいない部屋の電気をつけると、ふと妙な淋しさを感じました。男性は四十を過ぎると自分の習慣と結婚してしまうとの話ですが、それは女性も同じです。いつもの何気ない、何の代り映えもしない部屋ですが、今日はいつもよりも淋しく感じました。野口さんが羨ましかったのか、それともマヤの死を知ったせいなのか――それは私にもわかりませんでした。

普段見ないテレビをつけると、深夜のお笑い番組が流れてきました。しかし、私は早々にテレビを消して、AIスピーカーにジャズナンバーをシャッフル再生するように命じました。流れてきたのはチャーリー・パーカーです。

のり弁を食べ終わった後にビールを冷蔵庫から出して、少し行儀が悪いとは思いましたが、そのまま飲みしました。

そして、スマートフォンの着信履歴をチェックした後に、マヤが殺された事件について少し調べました。「殺人事件 横浜 二〇二一年」と検索したらすぐに出てきました。確かに去年の夏の殺人事件の情報がありました。

私は詳しくは知りたくなかったので、それ以上は調べることはせず、スマートフォンを置いて、ソファにごろんと横になりました。

お風呂に入りたいな、とは思いましたが、私は何だか疲れていて、その気にはなれませんでした。しばらくしてから煙草を一本吸い始めました。近頃は外で煙草を吸えないので、こうして自宅に帰ってきてから一本吸うのが自分へのご褒美になっています。

煙草を吸った後に、ふと押し入れの中のあるものが気になりだしました。私は灰皿に吸い殻を押し付けた後に起き上がって、押し入れの奥の段ボール箱を探しました。

小さめの段ボール箱の中には、中学生からつけていた日記帳やアルバムやなんかの思い出の品が詰まっていました。ちょっと黴た匂いのするそれは、ところどころ染みがついて茶色っぽくなっていました。

ノートとノートの間には、画用紙が一枚挟まっていました。半分に折ってあるそれを開くと、中学生の時に私が描いた、あのS町から海へと続く道の地図がありました。

左上には『っァ~アてぃーんズ・メあプ』と大きめにタイトルが書いてあります。最初、これはどういう意味か思い出せませんでしたが、音読したらすぐに謎は解けました。つまり、英語をかな表記にして書いてあるのです。ああ、なるほど。そんな事を当時はやっていたなと記憶が蘇りました。

中学時代の日記の文章は、まるっきり暗号文でした。勉強は嫌いでしたが、何かものを書くのが好きだったので、日記というか、思いのたけをノートにぶつけていたのです。

学校の成績はそんなに良くありませんでしたが、英語だけは高校生並にできました。私は小学校までは学区外のG町で育ったのですが、そこでのお隣さんがアメリカ人だったので、その家の子供と一緒に遊ぶうちに、チェンジレッスンみたいに英語を覚えたという訳です。そのまま英語で普通に書いたら、誰かに――特に母に――読まれてしまうだろうと思い、英語を平仮名とカタカナとを混ぜて書いておいたのです。誰も読めないだろうこの暗号文のノートは、大学ノート五冊分ほどありました。

今の私は英語なんてほとんど忘れてしまいましたから、一読しただけでは読めません。ですから、声に出して、そのノートの暗号文を読んでみました。一番初めのページには、以下のような事が書かれていました。

「えイぷりル、ふぁいヴ。アイはっどあぐっふぃーリン、でぃスモーにん。アイワずこんヴぃせんどふぉーさむリーずん、ざっあいうどぅびいんザさむクラあすアスまヤ。あんざっプリもにえいしょんワズるあいト……」

私はそれらを解読していくうちに、だんだんと自分の心が十三歳へとタイムスリップしていくのを感じました。



中学二年生の四月の始業式の日の事です。その日は珍しくすっきりと目覚める事ができました。それは、ある根拠のない確信のせいでした。今年のクラス替えで、私はマヤと――あの松本真矢と同じクラスになる。何故そう思ったのかは未だにわかりませんでしたが、とにかくそんな予感がしたのです。そしてそれは見事に的中しました。クラス替えの発表が校舎の二階の廊下に貼り出されていましたが、私もマヤも一組でした。

教室に行くとマヤが先にいました。同じクラスになった事を喜び合うべく、私はマヤのいる教室の中央あたりに歩み寄りました。マヤはさっそく新しい友達ができたみたいで、楽しそうに談笑していました。

「おはよう」と声をかけると、マヤは真っ白い出っ歯を見せてくれました。マヤは出っ歯で有名なお笑い芸人に似ているとみんなから言われていましたが、本人はそれをコンプレックスにしないで、寧ろそのお笑い芸人の真似をしたりして、周囲を笑わせていました。それどころか「実はマヤの本当のお父ちゃんはあの人なんだよ」と冗談を言ってのけるくらいでした。彼女にしてみれば、出っ歯も立派なチャームポイントです。

「おはよう、東郷さん。同じクラスだね、よかった」

マヤと私はハイタッチしました。マヤは私を窓際に誘いました。

「前のクラスの子とは離れ離れになっちゃった」

マヤはちょっと残念そうに呟きました。

「でも、マヤなら大丈夫でしょ。いいの? さっき話してた子たちは?」

「うん、大丈夫。美紅が四組でまこきは十二組だって。完全にバラバラ」

「そうなんだ。私は野口さんがいるだけみたいだな。あとはみんな散り散りのバラバラ」

野口さんはすでに席について隣の子と何か話しているようでしたが、こちらに気が付くとにっこりと笑って手を振りました。私はなんとなく恥ずかしくて笑顔は出ませんでしたが、辛うじて軽く手を振ることができました。

そうしているうちに、先生が来たのでそれぞれの席に着きました。席に着く前に、マヤが「帰りに山崎屋に行こう」と耳打ちをしました。山崎屋とは学校の近くの駄菓子屋ですが、たまに野菜や洗剤も売っていて、何屋さんだかわからない不思議なお店でした。

今年の担任の先生は、去年新卒で着任した、森本かおり先生という保健体育担当の若い先生でした。顔立ちは覚えていませんが、おでこがチャームポイントの美人の先生だったと記憶しています。

ホームルームの間中、山崎屋で何を買い食いしようかと考えていました。また、右側一列が当たりになっているくじを引いてみようかと思いましたが、毎回当たりを出したら店のおじさんに警戒されるのではと、捕らぬ狸の皮算用をしていました。

マヤは髪を染めたり授業をサボったり、煙草を吸ったりはしませんでしたが、そうした子と仲良くしていましたし、その先輩とも仲良しでした。美紅とまこきはその仲間です。他にも何人かいわゆる不良生徒はいましたが、マヤの周りにはそうした子が多かったです。今と違っていわゆる不良少年少女は、ファッションで一目瞭然でした。女の子はたいてい、長いスカートを履いて髪を派手に染めたり、パーマを当てたりしていました。

昔の大人は不良かどうかを見分けるのには苦労しなかったでしょう。今はそんな女の子は見かけたことはありません。不良かどうかはわかりませんが、スカート丈が随分と短いです。私には彼女たちが不良なのか、それとも普通の子なのかが見分けがつきません。歳を取ったせいでしょうか。親や先生をやっている人たちは、いったいどうやって彼彼女たちを見分けているのでしょうか。知っている人がいたら訊いてみたいものです。

一年生の時に私は三組、マヤは六組と二人は離れたクラスにいました。そんなマヤと私にどんな接点があって友達になれたのかが、気になる方もいるかもしれません。それに私は学区外からの入学でしたから、同じ小学校の友達はいませんでした。一年生の時に出席番号が近かった野口さんとは自然と友達になれましたが、マヤとは離れたクラスにいました。

マヤと知り合ったのは、ちょうどこの一年前の四月です。「何か部活動でも入った方がいい、ヒロは運動が得意だし背も高いからバスケットボール部に入りなさい」と、母に言われてその言葉の通りに仮入部しました。

本当は文芸部や美術部に入りたかったのですが、親をだますと言いますか――なぜか自分が本当にやりたいことを主張せずに隠しておきたかったのです。そこで同じくバスケットボール部に仮入部したマヤと知り合ったという訳です。これだけでは仲良くなった理由を説明するには不十分でしょう。

初めて会った時のことは忘れてしまいましたが。覚えているのは仮入部の最後の日の事です。その日の部活が終わって並んでいた時に、私は一番後ろに並んでいたのですが、後ろからちょんちょんと頭をつつかれました。振り向くと誰もいないので、おかしいと思うより先に、誰かがいたずらをしている事には気づきました。初めのうちは無視していましたが、何度も何度もいたずらが繰り返されたので、斜め右に立ってわざとらしくそっぽを向いていたマヤの存在に気づき、目が合うと私たちは笑いあいました。それがマヤとの一番古い思い出であり、仲良くなったきっかけです。

結局バスケットボール部には二人とも入部しないで帰宅部になりました。H中学の部活動はとても厳しかったので、楽しんでやれない雰囲気でした。つまり頑張るのが嫌だったのです。母はG町の小学校のミニバスケットボール部とはレベルが雲泥の差なのを知ると、割とあっさりと理解してくれたので、以来、私は部活動には参加しませんでした。

マヤは動物に例えると猿です。小柄ではあるものの運動神経が抜群で、懸垂ができる女の子はクラスではマヤしかいませんでしたし、体育祭でもリレーの選手を務めました。休み時間にバレーボールで遊んでいると、マヤだけふざけてヘディングでボールを受けたりもしていました。そんなマヤといると、私は年相応の子供でいられたように思います。

自己紹介とオリエンテーリングのお知らせみたいなホームルームの次は、大掃除をして帰宅という流れでした。それらが終わると、私とマヤは四組の教室に行き、そこで美紅とまこきと待ち合わせました。

校舎から外に出ると、すぐに桜並木の坂があり、そこを下ると正門になります。このころはもう葉桜で、花びらがひらひら、ひらひらと舞っていました。

山崎屋は校門の左斜めにあるお店です。私はパンや駄菓子しか買いませんが、たまに地元の農家でとれた野菜や果物が置いてありました。買い食いは校則で禁止されていますが、守っている生徒は少なかったと思います。

お店のおじさんとおばさんは、「先生方から、制服を着ている子にはものを売らないでくれ」と言われているらしいのですが、「そんなこと言われても、こっちは生活かかってるからねえ」とよく言っていたのをよく覚えています。

正門へと続く桜並木で、まこきが舞い落ちる花びらを掴もうと追いかけていました。なぜか彼女は左手だけを使って掴もうとしていました。

「さっきから全然ダメじゃん。絶対無理」

と美紅は笑いながらフーセンガムを膨らませていました。顔立ちがはっきりしているので、パーマをあてた段カットが似合っていたように思います。

「なんで片手?」

私が訊くとまこきは、金髪のショートカットの髪をふわふわさせて、こちらを見ないで言いました。

「左手で花びらキャッチすると、願い事が叶うって聞いたから」

まこきは真剣な表情で一生懸命花びらを追いかけました。私も花びらを左手で掴もうとしましたが、花びらは手からふわりふわり、追いかけてもまたふわふわと、と気まぐれな風にのって逃げていきます。

「願い事、何をお願いする? 神様に」マヤがふいにそうみんなに聞きました。

「宝くじ百万円」美紅は即答しました。

「まこきは?」

「彼氏ほしい。かっこよくて優しい彼氏」

「東郷さんは?」

私は葉桜を見上げながら、少し考えました。

「自由になりたい。早く大人になりたいな」

「大人になってどうするの?」

「一人で暮らす」

「それだけ?」美紅が呆れたように私に聞きました。

「うん、とりあえず。マヤは?」

「マヤはねえ……お父ちゃんとお母ちゃんに仲直りしてほしい」

マヤは天然の栗色の髪をポニーテールにしていました。ちょうどこの頃やっと髪が伸びて、結べる長さになっていて、ポニーテールというよりはちょんまげに近い状態でした。出会った頃はショートカットでしたから、制服を着ていないと男の子みたいに見えました。

「マヤんち、離婚するの?」美紅はなんの悪気もなくマヤに聞きました。

「わかんない。最近、よくケンカするようになったからなあ。別れる別れるって、そればっかり」

「引っ越すの? 転校するの?」まこきは淋しがっている様子でした。

「ううん、引っ越しはしないって」

「あ、捕まえた!」

今まで追いかけなかった美紅が、とっさに左手で花びらをキャッチしました。得意げにこぶしを上げています。

「百万円、当たるかな?」

いつになくわくわくした様子で、美紅は握りこぶしをゆっくり開いて、花びらが逃げないように中を覗き込みました。

「まずは宝くじ買わないと」

マヤはその美紅の手の中を見て言いました。

「宝くじっていくら?」

美紅はどうやら宝くじを買ったことがなかったようです。

「百円はするよ、たぶん」

みんながわからないという顔をしたので、前に見かけた宝くじ売り場の看板を思い出して、私がそう言いました。

「山崎屋でパンが買えなくなるねえ」まこきはそう言いながらも、まだ必死に花びらを追いかけていました。」

「買うべきか、買わざるべきか?」

私はちょうどハムレットの台詞を覚えたばかりだったので、軽く冗談を言いましたが、他の三人はハムレットを知らないので、笑いは取れませんでした。

マヤは急に、何を思ったのか正門から山崎屋めがけてダッシュしました。慌てて美紅もまこきも走って追いかけます。私も少し遅れて山崎屋に向かいました。

「早く早く! もうお腹ぺこぺこ」

山崎屋には何度となく行きましたが、この日の葉桜の日のみんなの願い事は未だに覚えています。

パンを買ってそのまま歩きながら食べていると、食べ終わるころには、それぞれの家の方角へと道が分かれたので、私たちはまたね、とか、また明日、とか言いあいながら別れました。

 

当時の私が住んでいたアパートは、マヤの住むアパートとは商店街を挟んで北側にありました。今でいうテラスハウスで、上下階が中で繋がっているものです。建物は古く、風呂場のタイルはひび割れていましたし、柱の木目はくすんでおり、冬は隙間風で揺れるようなものでした。中は一階が和室とダイニングキッチンと風呂場とトイレ、二階には和室が二つありました。四歳上の兄は二階の南側の端の部屋を与えられ、私はその隣の北側の部屋で寝起きしていました。母は一階の和室で寝起きしています。

その日は風が強く、玄関のドアを閉めるときに、うっかり大きな音を立ててしまいました。

「ヒロ! うるさい! あたしが寝てるの知ってるでしょ? 今夜も仕事なのに……」

母は一階の和室にあるソファで横になっていました。毎日ソファで寝起きしていて、テレビはつけっぱなしでした。ローテーブルには缶ビールが三本とウイスキーの瓶がありました。ちょうどビールが終わるみたいで、缶のまま口をつけていました。ウイスキーの瓶は半分くらいまで中身が入っていたと思います。

私は無視して二階に上がり、制服から私服に――確か、去年から着ている白い綿のニットとジーンズだったと思います――をさっさと着て、寝ている母を刺激しないように、隣のダイニングキッチンに向かいました。母は半身を起こすと、煙草に火をつけてだるそうに煙を吐きました。この頃はまだ、小学校の時に兄が美術の課題で作った灰皿を愛用していたと思います。そのいびつで丸い灰皿を見た祖父が、「アクアマリンの色だ」と言っていました。せっかくの青い美しい器が灰皿だなんてもったいないな、と私はいつも思っていましたが、兄からも母からも、その件に関する言及はありませんでした。

「誰のおかげで食べていけると思ってるの! ヒロ、静かにして! 足音がうるさい!」

私が台所で冷蔵庫を開けると、中身はほとんど空っぽでした。あるのはビールと日本酒くらいでした。私は静かに閉めて、棚に入っているカップラーメンを食べるべく、お湯を沸かしました。

「ヒロ、氷持ってきて……ロックアイス持ってきてよ……」

私は母のうわごとの様な言葉を無視しました。

「ヒロ! 氷持って来いっ! 早く!」

私が無視し続けると、今度は、罵声とともにビールの空き缶が飛んできました。まだ中身が少し入っていたらしく、背中に冷たい液体がかかった感触がしました。

母はさも面倒そうにトイレに行きました。台所の反対側にあるので、こちらには来ません。私は早くカップ麺を作って部屋に行こうと思いました。しかし入口付近で、ふらふらになっている母親の言葉を聞いて、私はカップ麺を諦めました。

「トイレが汚い! ヒロ、あんたトイレ掃除も出来ないの? 女性として恥ずかしくないのか?」

私がトイレを掃除したのは朝学校に行く前でしたから、私は使っていません。たぶん、兄が汚したのでしょう。もしくは酔っぱらった母自身かもしれません。

ちなみに当時の兄は、中学を出てから働かずに、家に引きこもっていました。今でいうニートです。二階の南側の部屋からは、さっきからずっとファミコンの音がしています。

私は階段を上がって部屋に戻り、すぐさま鞄を持って家の外へ出ました。弱い雨が降り始めていましたが、急いでいた私は気づきませんでした。

小雨の降る中、私はとりあえず自転車に乗り、コンビニに逃げ込みました。何か食べ物を買おうと思いましたが、財布の中身が三五〇円くらいしかなかったので、菓子パン一個とパックの牛乳だけを買いました。残りは一六〇円くらいだったと思います。ビニール傘は買えないので、そのままコンビニで漫画雑誌を立ち読みしながら、雨宿りをしました。

毎週楽しみにしていた少年漫画誌はその日が発売だったので、本当は買うはずでしたが、今週号は買えませんでした。いつものオートバイが出てくる少年漫画が好きだったので、続きが読めたので気分が少し良くなりました。他のギャグマンガなども読みたかったのですが、お店の人に悪いと思ったので、そのバイク漫画だけ読んでから、また雨の中――もう本降りでしたが――また自転車を走らせて、公園の近くの電話ボックスに駆け込みました。そこでこっそりとパンと牛乳を食べながら、「この先今日はどうしようかな」と考えました。幸い電話をかける人がいなかったので、しばらく雨風をしのげました。ガラスに雨粒が伝って流れるさまをなんとなく眺めながら、雨足が弱まるのを待っていました。

しかし、このまま立っているのも足が疲れますし、どこかに適当な居場所はないかなと考えました。こんな時、お金を持っている大人だったら、喫茶店やファミリーレストランに入りますが、一六〇円では足りません。当時のS町には安いハンバーガーショップなどのファーストフード店がないので、困りました。

マヤも野口さんもそれぞれ今日は予定がありましたし、美紅とまこきの電話番号は暗記していません。ですから、今日は一人で母がスナックに出勤するまでの時間を潰さねばなりません。

そうこうしているうちに電話をかける人が来たので、仕方なく図書館に行くことに決めました。

ちょうど小降りになってきたので、隣町まで国道を一直線に自転車を飛ばしました。水たまりの中の空がやけに青かったのを覚えています。

区立図書館は蔵書数が少なかったので、私は英語の文法書と辞書を借りて、一番端の机に陣取ってノートを開きました。三冊百円の大学ノートとレポート用紙を広げて、ふう、と息を整えました。

缶ペンケースからシャープペンシルを出して、まずは日本語で。それから英文に訳してから音読します。何回か音読したのち、ノートにあの暗号を書き綴っていきました。

「えイぷりル、ふぁいヴ。アイはっどあぐっふぃーリン、でぃスモーにん。アイワずこんヴぃせんどふぉーさむリーずん、ざっあいうどぅびいんザさむクラあすアスまヤ。あんざっプリもにえいしょんワズるあいト……」

まずは今日起こった一番いいことを書きました。今朝は素晴らしく運がよかったことを。

それからへのへのもへじなどの落書きをしていましたが、さっきの母からの理不尽な言動に――今に始まった事ではありませんでしたが――私は憤りを感じていました。

ちょっとイライラしながら、まるで呪うかのように、日本語での下書きをせずに、辞書を片手に乱雑にこう書きしるしました。

「マいマざあげッしっ! アうぃッしゅしぃはどキャンさあアんドダイどフロおむドりんキンとぅーマッちアルコほーるあンしがれッ! ごおてゅーヘル、ふぁっキンううまン!」

要するに、今回追加したのは母の悪口です。でも、すぐに破り捨てて保存はしませんでした。そのせいか、それからは、なぜか悪口は辞書がなくても書けるようになりました。暗号ノートはそうして書かれるようになったのです。



 そこはまるでお化け屋敷というか、何かたくさんのポルターガイストだかが、一気に出て行ってしまったあとような場所でした。

H中学校の隣には廃寮になった国鉄寮があったのですが、どういう訳か住人の家財道具がほとんどそのままになっていて、散らかったまま放置されていました。

木造二階建てでボロボロの廃屋は確か、何棟か連なったり、または並んで建っていたと思います。

今の若い方には国鉄、とだけ言っても伝わらないかもしれません。私が十三歳だったころ、JRは国営鉄道で、国鉄とみんな呼んでいました。それが民営化されたのは私が高校生のころです。

ちなみに電話局も郵便局も公営でしたし、ついでに言えば消費税もありませんでした。消費税がないバブル期を若いころに経験しましたが、得をしたのは先輩たちで、私が社会に出た時は 今ほどではないですが不景気でした。

また、根性論や体罰による教育がまかり通っていて、セクハラ、パワハラ、モラハラ、DVなどという言葉がなくて、学校や職場、家庭などで理不尽な扱いを受けても、それを言語化することができなかったのもあり、泣き寝入りしてしまっていたことが多かったように思います。

私は、もしも神様に「過去に戻してやるから、人生をやり直してみるか」と言われても、ごめんこうむります。いくらバブル経済で今よりも金銭的に豊かで若くても、あのころに戻りたいとは思いません。体力と可能性がいくらあっても、私は子供になんか戻りたくもないです。もちろん、いまの世の中に生まれたくもないとさえ思っています。

でも、こうして十三歳のころを思い出しているのを考えると、私はあのころに戻りたいと思っている節もあるかもしれません。しかし、あの生きづらさをもう一度体験しろと言われたら、死んだ方がましだと思っています。

話を国鉄寮に戻しましょう。仲間内で国鉄寮に入って遊ぼうという話になりました。誰が最初に言いだしたかは覚えていませんが、とにかく新しいクラスに慣れたころのゴールデンウィーク前のある日、私たち四人はそこを探検しようという話になったのです。

校舎の裏の緑色のフェンス越しに見る国鉄寮は、先ほどポルターガイストどうこう言いましたが、そればかりかすっかり人けが無くて、さながら西部劇に出てくるゴーストタウンのようでもありました。庭には雑草が生い茂り、花壇の花々は首を垂れる様にして枯れていました。

ところどころガラスを割られた真っ暗な窓という窓は、まるでお化けの眼みたいに、こちらを見ているようにも見えました。とにかく、水道もガスも電気も止まって久しく、割られた窓から、中の散らかった部屋が見えました。それは校舎の三階からも見えていて、まこきが、「なんか出そうでやだなあ」と不安そうに呟いていたのを覚えています。

美紅は相変わらず、行っても行かなくてもどっちでもいいように、ガムを噛んでいました。

昼休みに校舎の廊下にあるピロティで打ち合わせをしたあと、予鈴が鳴ったので、私とマヤは「じゃあ、放課後ね」と言い残して、三階の一番端にある私たち一組の教室に帰りました

新学期恒例の、くじ引きで決められた席で授業を受ける事になりましたが、マヤと私は窓側の席で前と後ろでした。野口さんは近眼なので前の方の席にいます。国鉄寮探検を楽しみにしていた私たち二人はわくわくしながら放課後を待ちました。

途中、私は「山崎屋でジュースとお菓子を買ってから国鉄寮に行こう」とメモを書き、それを細く折って結んで、前の席にいるマヤの机に、そっと投げました。マヤは一瞬振り向きましたが、私が軽く頷いたので、すぐに前に向き直ってメモを開封しました。

すると、マヤはノートの端を破いて、何か書き始めました。書いた後にそれを四つ折りにして、振り向かずに私の机に置きました。何が書いてあるかを確認したら、「どうせならアイスも食べたい。楽しみだね」と書いてありました。マヤは丸みのある大きい字を書く癖がありましたが、今思うと女の子らしい可愛い字だったと思います。

そういえば、初めて国鉄寮を探検した日は、確か夏日だったと思います。制服の紺色のブレザーが暑くて、みんなそれを脱いで椅子に掛けていたのを今でも覚えています。


国鉄寮を囲む緑色のフェンスの網目は粗く、その穴という穴はちょうど足をかけるのにぴったりの大きさでした。私たち四人組は放課後、意を決して国鉄寮に忍び込みました。

木造二階建てのそれは、全体が灰色に変色していて、旧校舎と同時期に建てられたのだと推測できました。今思うと、私たちは本当に勇気のある子供達だったと思います。あんなに荒んだ廃墟に、昼間とは言え女の子だけで入ったのですから。

割れた窓から建物の中に入ると、中の荷物は――生活に使われていた家財道具たちが――そのまま放置されていて、誰が散らかしたのかはわかりませんが、とにかくゴミとそうでないものがごっちゃになっていました。

何故、元の住人が家財道具を片付けなかったのかの理由は、一階の廊下に貼りだされたポスターでわかりました。そこには「国鉄寮廃止反対」だとか「国鉄民営化反対」と大きく書かれていました。それを見て、国鉄寮の住人が強制的に追い出されたのだと察しました。とにかく、明日からどうやって生きていくつもりなのかと思うぐらいに、生活必需品が放って置かれたままでした。

私はその事は皆に言わず、懐中電灯を持って先陣を切るマヤについて、奥へと歩きました。マヤの後には怖がりのくせに怖いものが好きらしいまこき、その後ろにはいつも飄々としている美紅、そしてしんがりには私と、一列になって暗い廊下を行きました。

一階の窓の殆どは、木の板で塞がれていました。確かに中は暗くて何が出てきてもおかしくない雰囲気はありましたが、廊下を突き当たった所にある階段の窓は開かれていたので、日が差し込んでいて明るかったです。二階に上がると更に明るかったので、マヤは懐中電灯の明かりを消しました。

二階に上がって暫く、四人は思い思いに周囲を見回しながら、廊下を静かに歩きました。 

個室はみんな畳敷きでしたが、やはり荷物がごちゃごちゃでした。でも、そのうちの一室は比較的荷物が少なかったので、そこでみんなで休憩することにしました。ちょうど持ってきたアイスが溶け始める頃です。その部屋は何故か他の部屋と違い、物があまり散乱していなくて――私はきっとこの部屋の住人は当局の指示通りに荷物をきちんと処分してから引っ越したのだと思うのですが――とにかく、私たちが休むには適した場所でした。

「ねえ、この部屋、使えるんじゃない?」そう言いだしたのは美紅でした。

「そうだねえ、ちょっとその辺を片づけてさ」まこきが部屋の周囲を見回しましたが、もう怖くない様子でした。

「ここをみんなの秘密基地にしようよ!」マヤが最後の一口のアイスを残して、立ち上がってそう提案しました。

私はなんて素敵な思いつきだろうと思いました。素敵すぎて言葉が出なかったのを今でも覚えています。

「明日は雑巾持ってこようか。箒はさっき、あっちに落ちてたから」

「レジャーシートも持ってこようよ」

「いいね、私、ゲームとか……」

「テレビ繋げないなら、ファミコンは無理だよ」

「オセロとかトランプとかなら、いくらでも持ってこれるね」

「あっちに将棋盤があった」

誰がどう言ったかは覚えていませんが、とにかく、ここはこの日から私たち四人組にとっての格好の遊び場になったのです。


それからというもの私たち四人組は、毎日の様に放課後には国鉄寮に通うのが決まりになりました。数日もすると、すっかりその国鉄寮の一室はきちんと片付けられて、立派な秘密基地になっていました。

秘密というからには親や先生、他の生徒には内緒での行動でしたが、一度窓から入るときに、付近の大人に見つかりそうになりました。でも、警察や学校には知られていなかったみたいなので、そこは私たちの縄張りになりました。

私は遊び道具だけでなく、怪我をした時の為にと、薬局で絆創膏とアルコール消毒液を買いました。もっと小さな瓶のものが欲しかったのですが、あいにく五百ミリリットルのものしかなかったので、それを買いました。毎日の昼食のパン代のおつりをとっておいて、それらを買ったのです。

一日の小遣いは五百円でしたが、こう聞くと贅沢な子供だと思われるかもしれません。でも、その毎日の五百円で、その日のパンだけでなく本や文房具などをその中から買わないといけなかったので、寧ろ少ないお小遣いだったと言えるでしょう。

その当時の町には、まだ大きなドラッグストアがなかったので、その調剤薬局で私は買い物によく行っていました。

そこの店主の薬剤師のおじさんは、今思えば、随分と変わった人でした。何歳くらいなのかはわかりませんが、とにかく瘦せこけていて、みんなからは骸骨と呼ばれていました。おじさん自身は、自分を薬剤師ではなく、「ヤクザ石」だと自分のことを言って笑いをとろうとしていました。

「やあ、今日は頭痛薬じゃないんだね」

毎回、それも週に一回くらいは頭痛薬や胃薬を買っていましたから、私はおじさんには顔を覚えられていました。

「頭痛薬なら、昨日買いましたし」

「そうだったね。今日は怪我でもしたのかい?」

「いいえ、もしもの為にと思いまして」

「ふうん……毎回毎回、頭痛薬と胃薬ばっかりだけど、そんなにひどいなら、病院に行ったほうがいいよ。おじさんが病院を紹介してあげようか? 家はどこ?」

「ただの二日酔いですから」

「おや、君、お酒飲むの?」

「私じゃなくて母が――」

そう言った瞬間、はっと我に返りました。こんなことを言ったら、母に恥をかかせたと叱られるかもしれないと思ったのです。

「お母さん? お父さんじゃなくて?」

「父はいません」

おじさんはしばらく黙って、空中を見て考えてから、ため息をついてこう言いました。

「お母さんに言っておきなさい。お酒は飲みすぎると病気になるから、ほどほどにしなさいと。まあ、そう言えたら君が薬を買いに来ないかな? 困ったねえ」

「本当に、お酒で人間は死ぬんですか?」

半信半疑だった私は、本当はどうなのかと訊いてみました。

「うん、このペースでいったら間違いなく死ぬね」

「何か月後ですか?」

「うーん……頻度によるけど、まあ死ぬね」

「でも、今、元気に生きてますけど」

「いつかは身体を壊すよ。いいかい、お母さんにお酒を控えるように言うんだよ。それと、今度からはお母さんが直接薬を買いにくるように言いなさい」

「そんなこと言えません」

「お母さんに死んでほしくないなら、そう言いなさい。いいね?」

その時の私は「あんな奴は早く死んでほしい」と思いましたが、口には出しませんでした。

この日買ったアルコール消毒液と絆創膏は、さっそく役に立ちました。まこきが掃除中にガラスで指を切りましたので。

「遅かれ早かれ、負傷者は出ると思ったんだよね」

私はまこきの傷の手当てをした後に、自分の左手の子指の付け根にも小さな切り傷を見つけましたが、血が出ていなかったので、そのままにしました。

箒と塵取りを片付けているマヤと美紅はレジャーシートを敷いて、ごろんと横になりました。私は折りたたみ椅子を引き寄せて、そのレジャーシートの横に腰かけました。

「東郷はいいお嫁さんになれるよ」美紅がふざけた様子でそう言いました。

私はすかさず「結婚なんかしたくない」と答えました。

「なんで?」

その時のまこきの表情は、さも意外だと言わんばかりでした。

「自分の親見てて、思わない? 結婚とか子供とか、そんなにいいもんなのかなって」

「確かに……」私を除く三人は皆、口をそろえて、頷きました。

「でも、マヤは将来一人なのは嫌だから、家族が欲しいな。結婚したい」

マヤは天井を仰ぎ見ながら伸びをしました。天井は雨漏りの跡があって、黒い染みがところどころに出来ていました。たまにその染みが人の顔に見えました。

「だって、帰るところがあったほうがいいじゃん」

マヤはその時きっと、家族団らんの心地よさを思い出していたのでしょう。幸せそうな顔をしていましたから。

私は「帰りたいところなんてない」と思いましたが、口には出しませんでした。

「そういや、マヤの両親、あれからどうなった? まだ別れるとかの話は続いてるの?」

そんな私の様子を知ってか知らずか、まこきが話をそらしてくれたので、少しほっとしました。

「お父ちゃんは昨日、帰ってこなかった」マヤは寂しそうに言いました。

「ほーらね、大人はこれだから。なんでマヤはそんなに家族がいいの?」

美紅の家庭もまた問題を抱えていた様子でしたが、あまりそういった話は彼女自身からは聞いていませんでした。何が問題だったかは今となっては、わかりませんが、美紅にとってはどうでもよいことだったのかもしれません。

私はマヤが、なぜそんなに家族がいいのか、常々不思議に思っていました。マヤの口から家族のいい話なんてあまり聞かなかったのもあります。でも、そういえば、愚痴もそんなに聞いていなかったようにも、今にして思います。

「うーん、そうだねえ。やっぱり皆で食べるご飯が美味しいからかなあ」

マヤのお母さんは料理が好きで、質素ではありますが、毎日欠かさず美味しそうなお弁当を作ってマヤに持たせていました。

一度、家にお邪魔した時にカレーをご馳走になったのですが、うちのカレーよりも辛さが程よくて美味しかったのを覚えています。あのピンク色をした木造の六畳一間のアパートを四人家族で住むくらいマヤの家は貧しかったのですが、なぜか食べ物にだけは困っていなかったように思えて、マヤが羨ましかったです。それに比べて私は、いつもパンやカップラーメンばかり食べていて、母が料理をするのはごくまれでした。そうです、お給料の入った日に母が機嫌がよければの話でした。

たまに私がカレーなどの簡単なものを作るのですが、うちのカレーは辛いもの好きな母と兄に合わせて、大辛のカレールーで作らされます。私の分はいつもミルクを足して、更に生卵をトッピングして辛さを和らげていましたので、中辛よりも甘いカレーは食べた記憶がありません。

その日も、だいたい夕方四時頃には国鉄寮を出ました。いくら私たちが勇気のある子供でも、暗い廃屋には怖くていられませんでしたので。毎回、まこきが腕時計で時間を知らせる係を務めていました。まこきの持っている腕時計はタイマーが付いていて、四時になると小さな機械音が鳴るようになっていました。今思うと、中学生にしては高級品だったと思います。

「あ、西部先輩たちだよ、挨拶しなきゃ」

緑のフェンスを降りた後に、そう美紅が言ったので、私たちは後ろを振り返りました。西部先輩とは、三年生の不良グループの女の先輩で、いつも六人でつるんで歩いていていました。たぶん、私たちも三年生になったら「松本先輩たちだよ、挨拶しなきゃ」と言われるのでしょう。

「あんたたち、国鉄寮になんか遊びに行ってるんだ」

私たちは口々に一人ずつ挨拶をかわしました。つまり毎回、「こんにちは」を六回、先輩六人分を繰り返して言わなければならなかったのです。

「あんまり派手にやるなよ。先公とかならともかく、おまわりにでもばれたら厄介だからね。東郷、煙草持ってない?」

私は前に母がテーブルに置きっぱなしだったそれを持って学校に行って、旧校舎で吹かしていたところを先輩に見つかった事がありました。確か、一年生の終わりごろの話です。以来、隙あらば母の煙草を持ち出していました。自分で吸おうにも、味は辛いし煙たくて吸えませんでしたが、先輩への上納品としてそれは役に立ちました。

私はポケットから煙草を二本、差し出しました。吸うのは西部先輩と中野先輩だけですから、一回につき二本上納すればよかったわけです。先輩はなぜかあるだけよこせとは言ってこないので、煙草はコミュニケーションをとるためには格好のツールでした。

「サンキュー。あんたら、他所の学校の奴にはなめられるなよ? いいね?」

「はい、ありがとうございます!」

今思うと、この中学校の先輩後輩の間柄は上下関係が厳しかったですが、それは部活動に入っている生徒もヤンキーもそうでした。私が東京の中学に転校した時はこんなに厳しくなかったのですから、この学校特有のものだったかもしれません。

 先輩たちを見送った後、いつものように帰路につき、別れていきました。


その日家に帰ると、母が珍しく料理をしていました。機嫌がよさそうに鼻歌を口ずさんでいました。いつもサビしか知らないらしく、私は同じところを何回も何回も繰り返し聞かされていました。

私はこの日はお給料日で、母の仕事が休みだったのを思い出しました。皆と別れた後に図書館に行くのを忘れて、まっすぐ家に帰ってしまったのを悔やみました。図書館なら平日は七時半くらいまで開いているので、それまでは帰らなくても大丈夫だったのです。

今日も部屋でまたあのノートの続きを書こうと思っていたのと、その日発売だった漫画の単行本が手に入ったので、それをゆっくり読もうとも考えていた矢先でした。

「ヒロ、お帰り。今日はお前の好きなお好み焼きよ」

私がお好み焼きを好きだったのは小学生までで、しかも外で食べる山芋が沢山入ったふわふわのお好み焼きです。母が焼いたあの固いお好み焼きを食べさせられると思うと、憂鬱でした。無理に美味しいと言わなければいけないのも嫌でしたが、それでまた母の美味しくないおお好み焼きを食べ続けることになるのがもっと苦痛でした。

「ホットプレート出して、ヒロ」

私が着替えてから居間の棚の一番下に仕舞ってあるそれを出すころには、もう母はビールを飲んで酔い始めていました。大きなボウルにお好み焼きの生地を山のように盛られているのを見て、げんなりしました。

その様子を見ると母は、

「あんた暗いね。そう、いわゆる根暗。せっかくのお好み焼きなのに」

と言ってはいましたが、言いっぱなしのまま「お兄ちゃん呼んできて」と二階の兄の部屋へ行くように私に促しました。

私は嫌々兄のいる部屋へ行き、ドアを叩きました。ドアを叩いても、中から聞こえるファミコンの音は相変わらずでした。

「お兄ちゃん、ごはん。お好み焼き」

「……とっといて」

「お好み焼きだってば」

「うるせーよ」

私は呆れて引き返しました。その時に、和室にいる母から青のりとソースとマヨネーズを持ってくるように言われて、すぐにキッチンに行きました。鰹節を一緒に持ってこなかったので、気が利かないと言われましたので、すぐにまた持っていきました。

「お兄ちゃんは?」

「とっとけってさ」

「しょうがないわねえ」

母はお好み焼きを焼き始めました。私はため息が出ましたが、たまのまともな食事にありつけるだけましだと割切ることにしました――いいえ、割り切らざるを得ませんでした。

「さあ、飲もう、飲もう。ヒロもビール飲みなさいな」

「未成年なんですけど」

「いいじゃない、梅酒は飲むでしょ」

「ビールは苦いから嫌。水でいい」

そう言って、私は台所からコップに水を入れて持ってきました。

「あんた、顔がニキビだらけで汚いわね。ちゃんと顔洗ってるの?」

「石鹸で洗ってるけど」

「不摂生している親不孝者はニキビができるのよ。アロエでも塗っときなさい」

「あれ、痒いからやだ」

「アロエは医者いらずなのよ? 知らないの?」

「薬買いたいから、お金ちょうだい」

「しょうがないわね……はい、明日のお小遣い含めて千円ね。無駄遣いするんじゃないよ」

私一人で母の相手をするのは、本当に気が重かったです。今日はしかも見たい番組もあったので、テレビが観たかったら母のいる居間に居続けなければなりません。でも、私は早く食事を済ませたかったので、テレビは諦め自分の分が焼けたら勉強だと言って、部屋に籠る事にしました。明日学校であの番組の話題になったときに話に入れないことよりも、母から解放されて一人で漫画を読んでいる方がましでした。

国語の書き取りの課題が明日までの宿題だったことを思い出して、私はこれを良いことに、この日はさっさと食べて、部屋に戻ろうとしました。

「ヒロ、お兄ちゃんにお好み焼き持ってって」

私は焼けたばかりのお好み焼きを食べようとしていたら、その皿を兄にと言われて、不意をつかれました。

「やだ、お腹空いたもん」

「お兄ちゃんが先よ、ヒロ、持って行って」

私はそう言われて悔しかったですが、ぐっと堪えて兄にお好み焼きを持っていきました。母のお酒のピッチはいつもより早く、二枚目のお好み焼きが焼ける時にはもう、ぐでんぐでんになって酔っぱらっていました。

突然思い出した様に、母は童謡の『わたしの人形はよい人形』を歌いだしました。途中、私の方を見て「よい人形」を「悪い人形」と替えて、笑いながら歌って、そしてうとうととしだしました。その歌詞はこんな内容です。


わたしの人形は よい人形

目はぱっちりと いろじろで

小さい口もと 愛らしい

わたしの人形は よい人形


わたしの人形は よい人形

歌をうたえば ねんねして

ひとりでおいても 泣きません

わたしの人形は よい人形

 

 今にしてみれば、母にとって私は人形の様な存在だったのかもしれません。この歌を母はことあるごとに歌っていましたから。この歌は私のトラウマになっているのか、未だに聴くたびに気分が悪くなります。

寝息を立てながら転寝ををする母の顔は白くむくんでいて、死んだ魚の腹を連想しました。私はさっさと食べて、母が目を覚まさないうちに部屋に戻りました。

 母が兄を優先するのは、長男だからというだけではなかったのだと、今にして思います。兄は八歳の時に肺炎を起こして、半月くらい入院したことがありました。私は当時四歳でしたが、その間東京の祖父母の家に預けられていたのを覚えています。その時はもう兄は助からないかもしれないとの話だったらしく、以来、母は兄を過剰に甘やかすようになったと、祖父母は言います。学校のプールの授業はもちろん、体育は病気でなくても見学、風邪をひけば熱もないのに一週間は休みでしたし、ちょっと頭が痛いとか胃が痛いと言っただけで学校はサボり放題でした。

一方の私は、目立った疾病がなかっただけでなく、運動神経がよい方でしたので、毎年運動会のリレーの選手に選ばれていました。だから体育の授業は休んだことがなかったです。でも、運動会当日になると、決まって兄の体調が悪くなるので、せっかくリレーの選手に選ばれても、母は兄に付き添って病院に行っていて、応援に来る事はありませんでした。当然のごとく、私がいくら頑張って走っても、母は褒めてくれません。ですから、小学校五年生を最後に、私は全力で走るのをやめました。

勉強も兄よりも私の方が成績はよかったのですが、なぜか兄の方が「頭がいい」というのが母の口癖でした。運動ができる人間は頭が悪く、出来ない人間は頭がいいものだという変な偏見が母にはあって、私は百点をとっても褒められませんでした。私が運動も勉強も頑張らなくなったのはそう言った理由もありましたが、かといって、特別母に褒められたいとは思ってはいなかったと思います。

ただ、何をやってもいまいちの兄に気を遣うのが不満でした。なぜ自分よりも数段劣っている兄を敬わないといけないのかと、いつも口惜しかったです。もちろん、はじめから能力至上主義だった訳ではありません。向き不向きもあると思いますし、私だって、自分よりも能力のある人間に馬鹿にされるのは嫌です。でも、明らかに家庭内で贔屓されている上に、兄らしいことをしたことのない兄からも敬えと言われたら、いい気持ちはしません。

私は漢字の書き取りをしながら、ラジオを聴くことにしました。その後に、やっと手に入れた漫画を読んで、カラーボックスにきれいに並べました。もうあと一冊で全巻揃うので、またパン代をどう浮かそうかとか考えていました。

ノートの一番後ろの背表紙の内側に、毎日五十円貯めれば一週間か十日もあれば買えるという計算をしたメモ書きが残っています。いつも読んでいるバイク漫画のコミックスだったのですが。私は高校生になったら、その漫画の主人公みたいに、アルバイトをしてバイクを手に入れるのが夢でした。蔵書にはバイクカタログもあったと思います。中学生ながら、ツーストロークエンジンよりもフォーストロークエンジンの方が断然燃費がいいのも、知っていました。私が欲しかったのは後者のフォーストロークエンジンの二五〇㏄のオートバイでした。

そうこうしているうちに、電話がかかってきました。玄関先に電話機があるのですが、何回鳴っても母が起きて出なかったので、私が階段を駆け下りて電話に出ました。

「ヒロ、久しぶり。元気かい?」

電話の主は東京の祖母でした。まだ夜の九時ごろだったと思います。

「グランマ?」

私が祖母をそう呼ぶのには訳があります。祖母は昔の人ではありましたが、流行りものや洒落たものが好きな人です。私は何回か祖母の家に預けられていましたが、その時に、海外のドラマか何かで、お祖母ちゃんをグランマと呼んでいたので、その影響で真似をしたのがきっかけです。ちなみに、祖父はグランパです。

「お母さんはいるかい?」

「酔っぱらって寝てる。起こそうか?」

「ああ、そうしてくれ。こんな時間にもう酒で寝るなんて困ったねえ」

「グランマ、今度またカメラ見せてもらっていい?」

「ああ、いいとも。お兄ちゃんは元気かい?」

「呼んでこようか?」

「いや、いいよ。あれは難しい年ごろだからね。カメラをくれてやっても撮ってないみたいだし」

「私にもカメラ欲しい。フィルムとかも」

「おやおや……じゃあ、宅急便でカメラとフィルムと……それと現像代がかかるだろうから、お金も入れておくよ。お金はお母さんやお兄ちゃんに内緒にね。わからないように入れておくから、大事に使いなさい」

「本当? 嬉しい!」

「お前が男なら迷わず、うちの跡取りにするんだけどね」

「カメラマンて、女は出来ないの?」

「出来はするけど、ヒロは将来お嫁に行くだろう?」

「私、お嫁になんかいきたくない」

「ははは。そのうち年ごろになれば考えも変わるだろう。まあ、三十になっても独身だったら、うちの跡取りになるといい」

「三十までなんか待てないよ。学校出たらグランマとグランパの弟子になる」

「はいはい、楽しみにしてるよ。お母さんを呼んできて」

「はあい」

電話に気づいた母が私の後ろに立っていたので、受話器を渡しました。

私は部屋に戻って、祖父母からのプレゼントを心待ちにしてわくわくしていました。

あのノートにも、この日「ざきゃめらイーズかミん、ホーむ! いえあ!」と書いていました。

あの頃はカメラマンになりたいなんて、本気で思っておらず、ただ祖父母を喜ばせたいがための言葉でした。でも、カメラが楽しみだったのは覚えています。あの国鉄寮で四人をどう撮ろうかと思いを巡らせていましたから。


数日後、無事にコンパクトカメラと現像代を手に入れた私は、国鉄寮でトランプをしている皆を撮影しました。五月の終わりでしたから、もう国鉄寮には慣れてしまい、少し飽きてきた頃だったでしょうか。

その時、こんなことをみんなで話していました。

「夏休み、海に行かない? 四人でさあ」

マヤがババ抜きの為に、巧みにトランプをシャッフルしながら言いました。

「えー、どこの? E島?それともM海岸?」

美紅がさっきやった七並べで勝ったので、次はババ抜きという流れになりました。

「マヤが昔住んでた家ね、海のそばだったんだよ。N海岸」

きらきらした目で、マヤがトランプを配る前に言いました。マヤは小学校に上がる前は隣の市に住んでいましたのを私は知っていました。よく、その海の話は聞きました。なんでも、夏には朝鮮朝顔が海のそばの藪を覆うようにびっしりと生えていて、十二月頃まで咲き続けるんだという話を何度か聞いていました。冬にはアロエの花が赤々と咲き、水仙が海岸道路の脇に沢山咲くことも。海水は夏でも冷たい色をしているという話も前に聞いています。

「どこ? それ?」

美紅は怠そうにごろんとレジャーシートの上に寝そべり、ポテトチップスをつまんでいました。

「あー、あそこね。遊泳禁止じゃなかった?」

 まこきはどこからその情報を聞いたのか――年が離れたきょうだいがいたせいか、情報通でした。

「地元の人は泳いでるよ」

「子供だけで海とか、親に言ったら反対されるよ」

 私はちょっと現実的なプランではないなと思ったので、そう言いました。

しかし、いつかはマヤの故郷の海に行ってみたい気持ちは前からありました。私自身は海水浴に行ったことがないのもあり、いつか本物の海を見てみたかったというのもあります。でも、どうやって――どう大人を説得するかを考えても、いい案が見つかりませんでした。

「内緒で行けばいいじゃない」

マヤはどうしても故郷の海に行きたかったみたいでした。それも四人だけで。大人の誰かに頼んでではなく、この四人で行く事に意義があったと言った方がいいでしょう。

美紅とまこきはちょっと驚いたのか、しばらく黙り込みました。

「そうしたらお金はどうするの?」

 私は現実的にどう目的を果たすかを考えました。その結果、まず経済面で無理があると思ったのです。ほんの数時間くらいなら、外出も可能です。でも、問題は交通費や食事代です。それをどうクリアするか、私には考えられませんでした。

「どうにか、お小遣い貯めてさ。交通費は五百円くらいだから、二千円あればなんとかなる」

「お昼ご飯は?」

「食べてからすぐに電車に乗ろう」

「なるほど」私はその手があったかと、感心しました。

「とにかく、一人五百円あれば海に行ける」

「使い道がばれたら怒られるよ」

「なんとか作ろうよ、四人で二千円」

「どうやって?」

「マヤにいい考えがある」マヤはにやりと笑いながら、妙案を話し出しました。


その次の日から放課後に、私たちは国鉄寮に行かずに、毎日商店街を歩きまわるようになりました。

「おじさーん、このコーラとビールの瓶、持ってっていーい?」

マヤは八百屋さんの店先で、そう店のおじさんにそう声を掛けました。

「ああ、持っていきな。奥にもあるから、四人で持っていけ」

商店街の店先にある、ビール瓶やコーラの瓶をもらって酒屋で換金するという、マヤのアイデアは素晴らしかったです。一日一周商店街を回れば数百円くらい稼げましたから、三週間もすれば二千円は楽にため込むことが出来たのです。

瓶をくれるおじさんたちも、私たちがこのお金でアイスでも食べるのだろうと思っていたらしく、文句なんて一言も言われませんでした。確か、ビール瓶は一本十五円、コーラなどの大きな瓶は三十円だったと思います。その調子で私たちは順調にお金をためていきました。

もちろん、二千円ぐらいなら、私が祖母から内緒でもらったお金でなんとかなります。でも、この「N海岸海水浴㊙計画」はみんなで力を合わせてお金を貯めて実行する事に意義があるのは、四人の暗黙の了解だったのです。

 私はこの時、図書館で海までの地図を色鉛筆で書きました。図書館に置いてある地図帳を頼りに、S町から海への道のりを書きました。万が一お金が無くなっても、自力で帰って来れるようにと、詳細に海までの道を細かく書きました。それがあのノートに挟まっていた「っァ~アてぃーんズ・メあプ」です。私の十三歳の地図は、この時はまるで世界地図――いいえ、まるで海賊たちにとっての宝島への航海図の様なものでした。事実、この小さな世界が、当時の私達の世界のすべてだったと思います。

「あんたって、段々お父さんに似てくるわねえ」

お酒を進むと、母は決まって別れた父の悪口と愚痴を言うのが決まりです。私は毎回夕飯を食べながらどう逃げようかと考えていました。でも、宿題があると言っても「頭の悪いお前が勉強なんかしてもたかが知れている」というので、その言い訳は通じませんでした。

ですから、どうやってこの場から逃げようかと思い巡らせながら、冷めたカップラーメンをもそもそと食べていました。こういう時の食事は本当に不味いものです。

マヤの家の食事は美味しいという話でしたから、いつも羨ましく感じていました。どうせ聞くなら、いつも個室でゲームばっかりしている兄の愚痴でも聞いた方がまだましです。

 どうして母は私に対して、毎回悪い言葉ばかり吐くのでしょうか。自分を捨てて他の女のもとに走った男に似ているからでしょうか。写真で見る感じでは、兄も父に似ていなくはないです。でも、私の顔立ち――はっきりとした二重瞼の目元や薄くて小さい唇くらいしか似ているとは思えません。母はそれを見るたびに悪い思い出が蘇り、嫌な気持ちになるのでしょうか。もしかしたら、半分は自分の血が流れているだけに、その嫌悪感はいっそう高まっていたのかもしれないと、今の私は思っています。あの父とひと時でも愛し合った記憶は、母にとってトラウマになっているのでしょうか。今となっては知るよしもありませんが、未だに、思い出すたびに辛い気持ちになります。

確かに浮気は罪だとは思いますが、母の様な妻が居たら、家に帰りたくなくなる理由もわかります。私自身、母が家にいるというだけで憂鬱な気分になります。しょっちゅうお酒を飲んで愚痴や悪口を聴かされて私は育ちました。ですから、父という存在は私たちを捨てた極悪人で、今の不幸はすべて父のせいだと、この頃の私は思っていました。でも、大人になった今は、両方に理由があったと思っています。

 今夜もまた、母は仕事を休みました。この頃は母の出勤の日数が週に三回くらいだったと思います。たいてい二日酔いが休む原因で、一日お客さんと朝までお酒を飲んで、次の日は休む、という具合でした。ホステスの仕事をしたことはありませんから事情は知りませんが、少なくとも、週に五日は出勤しないと食べて行けないし、お酒はお客さんに飲ませるのが仕事で、自分が酔っぱらうなんて事はプロならしないと聞いたことがあります。母はいつも「あんた達を食べさせる為にやっているのよ」と言いますが、今思い出しても、母がお酒を飲みたいが為にホステスをやっているようにしか見えませんでした。

その日の母はいつもと様子が違い、何か真剣な様子で、誰かと長電話をしていました。長電話はしょっちゅうでしたが、いつもはビール片手に大声で笑いながらしていたのに、今回はビールも飲まずに二時間くらい、ぼそぼそと長電話をしていました。

私はこの時、図書館から借りた本を読んでいました。その日借りたのは、シェイクスピアの『ロミオとジュリエット』だったと思います。あの名台詞を知ったのはこの頃でした。私はジュリエットの有名な台詞をノートに書き写していました。


名前ってなに? バラと呼んでいる花を

別の名前にしてみても 美しいその香りはそのまま。


ストーリーやキャラクターは好きになれませんでしたが、この台詞は愛着のある言葉でした。

私は当時、自分を「浩子」と呼んでくれる人がいませんでした。クラスの男子からは漫画のゴルゴ13の主人公の名前にちなんで、「ゴルゴ」とか「デューク」とからかわれ、女子からは「東郷さん」と名字で呼ばれ、家族からは「ヒロ」と呼ばれていました。皆めいめい好き勝手に呼ぶので、もう自分の名前なんて意味がないと思っていました。でも、このジュリエットの台詞のおかげで、自分がなんと呼ばれようと、自分は自分であると分かった気がしたので、この作品には感謝しています。

長電話が終わると、母は二階にいる私を居間に呼びました。また何か面倒なことだろうと思いました。でも、まさかさっきの長電話と関連する話があるとは思ってもみなかったので、私は心の準備もなしに、唐突な母の言葉にただただ驚きました。

「ヒロ、来週の休み、お父さんと岐阜のお祖母ちゃんのところに行きなさい」

はじめ、この言葉の意味が分からなくて、返事も出来ずに呆然としていました。

「……お、父さん?」

「あんたも覚えているでしょう? 前に、覚えてるって言ってたじゃない」

私は前に、それこそ小さい時、アルバムの中の写真を見せられた事が何回もありました。母が「この人覚えている?」と父の写真を指差された時に「覚えている」と答えた記憶がありますが。しかしそれはあくまでも何回も見せられた写真の中の父の事であり、実物の父の記憶ではありません。物心ついた頃にはもう父はいなかったのですから。

「なんでお父さんと一緒に岐阜に行かないといけないの?」

「お父さんが会いたがっているんだって。岐阜のお祖母ちゃんも。お小遣い沢山もらっておいで」

「お母さんは行かないの?」

「行かないわよ。行ってどうするの」

「じゃあ、お兄ちゃんと一緒に?」

「ううん、あんただけよ」

それを聞いて、当時の私は言いようのない不安を覚えたのをよく覚えています。

「なんで私だけなの?」

「ヒロはうちのホープだからよ。お兄ちゃんはあんなだし」

今にも泣きそうになりましたが、母はそれがわからなかったのか、煙草に火をつけて、あのアクアマリンの灰皿を手前に引き寄せました。それから、私に冷蔵庫からビールを持ってくるように言いました。

私は「会ったこともない父と旅行なんて嫌だ」と強く思いました。でも、言葉が出ませんでした。

岐阜の父の実家はお金持ちだと話には聞いているし、お小遣いは欲しいけど、それでも嫌なことには変わりません。じゃあ、どうして私は母に逆らえなかったのか――今の私にさえも分かりませんが、とにかくこの家の独裁者は――例えるなら、何かの宗教の中の教祖のような存在でした。教祖である母に逆らえないと言えばわかりやすいでしょうか。もちろん何でも母の指示に従っていたのではないのですが、少なくとも、この十三歳の頃の私には、母はそんな存在でした。

その晩の私はいい様のない、何か悲しい気持ちで、朝になるまで眠れずに過ごしました。この時、父と会う事が何を意味するのかがまるで分っていなかったのに、なぜか涙が止まりませんでした。仰向けに寝ていたのですが、涙を流しっぱなしにしていたので、耳の中に涙が溜まっていたのを思い出します。まるでプールの授業の時の様に、耳に違和感があり、ティッシュペーパーでそれを拭いましたが、やがて耳にティッシュペーパーを入れておいた方が合理的だと気づきました。


あくる日、遅刻寸前の状態で学校に行くと、マヤが眼帯をしていました。

「おはよう、東郷さん」マヤはいつも通りの笑顔を見せてくれましたが、眼帯が痛々しかったです。

「昼休みに話があるから校庭の隅の夾竹桃の前に」と耳打ちされたので、何か内緒の話があるのだと悟りました。

「おはようマヤ、目、どうしたの?」

クラス委員の野口さんが、心配そうに訊きました。

「うん、ものもらい出来ちゃったの。昨日のTV観た? マヤは寝ちゃってて見れなかったんだ。どうだったの?」

他のクラスメイト達と談笑するマヤは、一見いつも通りでした。マヤの様子は元気そうに見えましたが、よく見るとちょっと無理して笑っている様にも見えました。昼休みまで、マヤが何の話があるかが気になって、授業に集中できなかったのを今でも覚えています。

昼休みにいつものごとく、私はパンを二つ食べて、食べ終わった後にマヤと校舎を出て、あの夾竹桃の前に行きました。

そこでの密談は二人だけの秘密を共有するための場所で、つまりそれは美紅やまこきにも内緒の話があるという事です。私はこうしてマヤの大事な秘密を知る事で、マヤにとって特別な友達だという事を認識して、少し嬉しく思っていました。

その頃、夾竹桃は濃いピンク色のつぼみをつけていました。この花には強力な毒がある事を何かの漫画で知りましたが、実際にどのくらいの量で死ぬのかがわからなかったので、いまだかつてこの毒を使ったことはありません。

そして、夾竹桃の前で、マヤは周りを警戒しながら、おもむろに眼帯を外して見せました。

「マヤ、その顔……?」

「昨日、お父ちゃんが暴れて、止めようとしたら殴られたの」

マヤの右目には大きな青い痣がついていました。涙ぐみ、いつもの元気なマヤではありませんでした。いまにも泣き崩れそうな状態でしたから、私はなんと声を掛ければよいか、迷いました。

「どうしてそんな」

「マヤにもわかんない。昨日、東郷さんの家に行こうとしたら、電話中で出なかったし」

私は母が長電話をしなければ、と思いました。大切な友達の危機を救えなかったことを悔やみました。

「先生には?」

「言ってない」

「警察は?」

「無駄だよ。だって、警察に捕まったら食べていけないじゃん。お父ちゃんの稼ぎで食べてるし、妹の佳代もまだ三歳だしさ」

「そんな……でも、どうするの? これから」

「朝に酔いがさめたお父ちゃんが謝ってくれたから、たぶんもう殴られないと思う」

「大人の言う事なんて信じられないよ。警察に行こう、マヤ」

マヤは激しく首を振りました。

「このことは内緒にしてね」

そして再び眼帯をつけたマヤは、大きく伸びをして、梅雨の晴れ間の空を眺めました。私は昨日の事、会った記憶がない父と再会しなければいけない事を言いそびれてしまいました。

「さて、今日も国鉄寮で遊ぼう。何しようか? 今日はこんな顔だから瓶集めは出来ないね」

マヤはまたさっきのカラ元気に戻りました。そのまま校舎に入ってピロティへと歩くと、美紅とまこきが待っていました。マヤは遠くから大きく手を振って、彼女たちのもとへと走っていきました。

その様子が、その背中が何となく淋しく感じられました。まるでマヤの身に起こった悲劇がなかった事みたいに、マヤは平和な子供たちの群れに溶け込んでいきました。


漫画で知った話ですが、昔の貧しい農村の女の子は吉原に売られることが多かったそうです。だから、私はこの新幹線のホームで立っている時に、母が女衒に見えましたし、初めて会う父は水揚げの相手に見えました。

初めて会う父からは、想像していたよりも、なにか悍ましいような下品さを感じました。また、高そうな金時計やスーツが更にそれらを引き立てていました。多分、その年ごろの女の子にとっては、生理的に受け付けない様な存在だったと言った方が正しいと思います。

私はこの日の為に、母がデパートで買ってきた新しい服を着せられて、泣きそうな顔で俯いて無言のままでいました。母は、「ヒロが父に会いたがっていたのよ」と嘘を言い、にっこりと笑って送り出しました。当然それが嘘であることを父は悟っていた様子でしたが、仕方なく私を連れて新幹線に乗り込みました。

新横浜から名古屋、そこから乗り換えて岐阜のある村まで行ったのですが、終始気分が悪くて何も覚えていません。乗り物に酔って新幹線のトイレで戻したことは覚えていますが、その他はただ、「水揚げの相手」の後を黙ってついていくだけで、本当に何も覚えていないのです。

父は不愛想な私に対して、何かにつけて話しかけていましたが、私にはそれがますます不快でした。「名古屋城を見物に行かないか?」とも父は言いましたが、私は「早くお祖母ちゃんに会いたい」とだけしか言いませんでした。ずっと胃がむかむかとして痛く、買って貰った豪華な駅弁は当然のごとく食べることは出来なかったです。

何故、父が自分を嫌がる娘を連れて実家に帰えるなんて思いついたのか、いまだによくわかりませんが、母が「お父さんに甘えてきなさい」と言ったので、私が乗り気だと母が嘘をついたのでしょう。

昔から私は母の嘘に付き合わされて、毎回言いなりになって嘘をつくのに憤りを感じていました。でも、ここでお金をもらわないと、欲しい本どころか生活にも困ることは理解していたので、私は黙って大人の言うとおりに、吉原へ――いいえ、岐阜へと売られていきました。途中、何度も脱走しようかと考えましたが、お金を持っていないので、それはかないませんでした。

そうこうしているうちに、岐阜市内の山深き村にある、父の実家に着きました。道中の事は覚えていませんが、川には黒い大きな黒い魚が――多分鯉でしょう――それが何匹もうようよと泳いでいたのだけは覚えています。辺りは田んぼだらけで、店らしき店はありませんでした。その駅から二十分くらい歩いたでしょうか。立派なかやぶき屋根の家があり、そこが父の実家だったという訳です。

疲れ果てていた私は、何とか玄関先でエプロンをした伯母に挨拶をして、一昨日、中華街で買った月餅を渡しました。きちんと挨拶ができたらしい私は、伯母から「ヒロちゃんはしっかりしとるね」と言われましたが、素直に喜べませんでした。

すぐに奥の祖母の部屋に通された私は、心の中で「お金のため、お金のため」と繰り返し自分に言い聞かせました。緊張しっぱなしでいたので、手と足が左右同時に出ていたのを覚えています。ぎこちなく歩く姿を見て、伯母は「緊張せんでええよ」と笑っていました。どうやら伯母は大阪から嫁してきたらしく、終始大阪弁でした。

奥の間にいる祖母は、その時はもう寝たきりの一歩手前だったのでしょう。背中が随分と曲がっていて、まるで大きな梅干しの様でした。父は末っ子なので、父方の祖母は、東京の母方の祖母である「グランマ」よりもだいぶ年上で、八十はとうに過ぎていたと思います。

その日の岐阜は寒い日が続いていたらしく、六月だというのにまだ炬燵が出ていました。岐阜の言葉は全く分からなかったし、大きな梅干しから発せられる声は聞き取りづらく、祖母が何を言っているのかは、終始わからずじまいでした。でも、どうやら「ヒロには苦労をかけた。すまなかった」と言っているのだけはわかりました。

私は、涙ながらにそう語る祖母が哀れで――いいえ、同情しないといけないという気持ちになり、思わず「元気で長生きしてね」と心にもない言葉をかけました。

祖母はその後、りんごを一つ炬燵の上の篭から取り出して、剝き始めました。どうやら頂き物のいいりんごらしく、いい香りがしていたのを覚えています。それを一緒に食べながら、祖母は「もう自分は長くないから」と何度も言いました。実際、私が高校一年生の頃に祖母は亡くなっています。

母からは祖母のいいところは聞いておらず、「スイカの皮まで漬物にするくらいのドケチだったんだから」としか聞いていません。その日はそんな祖母から、兄と私にと、一万円ずつお小遣いを貰いました。

夕食の後、伯母の台所で皿洗いを手伝いましたが、伯母はこんな事を私に言っていました。「ヒロちゃんは大人やから言うけど、伯父ちゃんも浮気ばかりしてなあ。伯母ちゃん苦労したんよ、ほんまに」

 なぜ私が、まだ十三歳の私が「大人」なのでしょうか。苦労をしている子供は大人にならないといけないのでしょうか。それとも、私がきちんと挨拶が出来たからでしょうか。その時はなんとなく聞き流しましたが、後から考えると大人の都合で勝手に子供扱いされたり、大人扱いされていい迷惑だったと思っています。

 こうして私はお金の為に、自分を押し殺して生きなければならない生活を、余儀なくされました。

この岐阜への旅行の後から、度々父に電話でお金の無心をさせられるようになったのです。兄が電話機に吸盤の付いたテレホンピックアップという機械で電話越しの父の声が三人で聞こえる様に仕掛けを作ったのが役に立ちました。

私が電話でお金の交渉をするのですが、私は母がメモで指示するままに、父に嘘八百を話すというのが決まりでした。

この頃から、母は働かずに家にいる様になりました。浪費が多くなり、ブランド物のバッグや靴を買いあさるようになりました。昼も夜もテレビばかり観ている生活を送っていて、週末は友達と飲みに行ってるか、ずっと電話ばかりしていました。

そんな「精神の売春」が続いていては、心だけではなく身体にも悪影響が及んでいったのは、当然だったでしょう。私はそれから度々体調不良を起こし、学校を休むようになりました。毎日胃が痛かったり頭痛がしたりしましたが、それでも母が私を病院に連れて行く事はなく、私は布団から起き上がれなくなったまま、放置されました。


それから数日経った日に、私はようやくいつもの薬局に行き、自分の為の薬を買いに行きました。ヤクザ石のおじさんは私の顔を見るなり、具合が悪いのがわかったのか、心配そうに声をかけてくれました。ここで具合が悪くなった理由を言うべきだったのかもしれませんが、その代わりに私はこう言いました。

「青酸カリ、下さい」

ヤクザ石のおじさんは、少しも驚いた様子も見せずに「ちょっと待ってて」と言って奥の棚を見に行きました。カウンターの向こうのガラス戸の奥には薬の入った箱が沢山あって、その中から何か薬を一つ取り出してから、カウンターに戻ってきました。

「はい、これね」それは青い色をしたカプセルでした。シートに入ったまま、一錠だけ切り取られた状態で、おじさんはカウンターにそれを置きました。

私はやけに簡単に出してくれたなとは思いましたが、その青いカプセルを見せられ、思ったよりも少ないなと思いました。

私は頭痛薬と胃薬とその青酸カリらしきカプセルを紙袋に入れてもらっている間、そわそわしていました。他にお客さんはいなかったのですが、青酸カリを買ったという事は他には内緒にしたかったのです。

「使用上の注意がある」おじさんはぼそっと言いました。

私は耳をそばだてて聞きました。

「寝る前に飲まないと、効かないからね。それから……」

ヤクザ石のおじさんは、私の眼を見て真剣な表情で付け加えました。

「なんの理由でこれが必要かは知らないけど。自殺するくらいなら、その原因を殺すのに使いなさい。同じことだから」

おじさんの血走った眼を見て、その時、これは本物なのだと確信しました。私はそんなにすごい薬を貰ったことに、とても興奮しました。

やがて、他のお客さんが来たので、私は会計をしようとしましたが、おじさんは胃薬と頭痛薬の代金だけしか請求しませんでした。

「あの……これ、のお金は?」

「お得意さんだから、出世払いでいいよ」おじさんはそう私にこそっと言って、来たお客さんにいつも通り挨拶をしました。

私は足早に薬局を去ると、胃の痛みはなくなっていました。今思うと、その薬は何かのお守りみたいでして、持っているだけで「何かあったらこの薬を使えばいいんだ」という心の余裕が生まれました。



鬱陶しい梅雨空の中、一学期の期末テストが終わったある日の放課後の事です。私達四人が校舎の三階のピロティで今日の予定を話し合っていたら、珍しく三年生の西部先輩たち六人がやってきました。

一年生が四階、二年生は三階で三年生が二階のエリアあてがわれているので、三階に先輩たちが来る事は本当に稀でした。

西側の階段のあたりを眺めていたまこきが、最初にこちらに先輩たちが来るのに気付いたらしく、すぐ横にいる私の半袖を軽く引っ張りました。ねえねえ、という感じにです。

「こんにちは、西部先輩」

私はピロティのベンチから立ち上がって、お辞儀をしました。他の先輩――中野先輩と両家先輩と溝口先輩と加藤先輩と、それから太田先輩だったと思います。それぞれの先輩に挨拶を交わすと、私は何か変だと思いました。その日の先輩たちはいつもの少し威張った感じではなく、ちょっと――まるで何か負い目でもあるかのような表情をしていました。

話を切り出したのは西部先輩ではなく、中野先輩でした。

「あんたらさあ、最近、商店街で瓶集めして稼いでるんだって?」

こう聞くと中野先輩が咎めている様に聞こえるかもしれませんが、その時の口調は違いました。先輩たちは皆、こちらの眼を見ず、何か私たちの機嫌を取ろうという感じの表情をしていました。

私はこの時、上納金が必要なのだと察しましたが、マヤや美紅やまこきは気づかなかった様子でした。三人とも、きょとんとしていましたから。

そうはさせまいと私は周囲を見回し、先生がいないのを確認して、こっそりと煙草を取り出しました。まずは煙草を上納すれば、先輩もその上お金までとは言いづらいだろうという思惑でした。しかし、西部先輩は素早くそれを察して「今日はいいよ」と私にポケットの煙草をしまう様に促しました。

「あのさ、あたしらの上の先輩がデキちゃったんだってさ、急いでおろさないといけないんだ」中野先輩は声を潜めてそう言いました。

「え、上の先輩、ですか?」

「そう、音叉ってグループは知ってるよね?」

音叉とは、地元の暴走族の名前です。つまり、その暴走族に属する先輩の誰かが妊娠したという話でした。

「あんた達、いくらか都合してくれないかなあ」

先輩たちは媚びるように、そう私達に言いました。西部先輩だけは媚びる様子はなく、ただばつが悪そうにあたりを見回していたと思います。

私はマヤを見ました。マヤが海に行くための資金を管理していましたから。マヤが私達のリーダーという訳ではなかったのですが、この件はマヤにどう対応するかを任せる流れになりました。

私はなんとか話を逸らせないか、それともこの場に先生が出くわしてくれないかとも祈りました。

マヤはポケットから犬の顔のデザインのがま口を出して、そこから二千円を出しました。そして、黙って中野先輩の前に差し出しました。

「サンキュ、マヤ。まこきに美紅に――それから東郷も。上の先輩にはあたしからあんた達の事、よく言っとくからね。恩に着るよ」

四人はちょっと残念そうに俯いて、その言葉を聞きました。はい、としか言えませんでした。

先輩たちが来た道を引き返す間、私達三人は俯いたままマヤの顔を見ました。マヤが一番悲しそうな顔をしていました。

「マヤ、何で全部出すのよ? 半分とかでもいいじゃない」

私は先輩たちが聞こえないであろう距離まで立ち去ってから、すぐにそう言いました。

「だって、困ってると思うし」

マヤは半泣きの状態でした。

「まあ、全部出して正解だね。どのくらい持ってるかなんて、先輩たちにすぐばれるからね」

美紅は冷静に状況を理解した模様です。

「妊娠したの、本当に上の先輩なのかなあ?」

まこきはちょっと穿ったものの見方をしていました。

「それは言いすぎじゃない?」

マヤはまこきを窘めました。でも、私もお金が欲しかったのは先輩たちだったのでは、と思ってはいました。だからこそ、上納金は断るか制限するべきだと思ったのです。

「どうすんの? もうあらかた瓶は集めちゃったし。そう何回も何回も出来るもんじゃないし」

私がそう言うと、美紅が新しいガムを口に入れて、帰ろうと皆に促しました。

「しょうがないよ……でも、海行きたかったなあ」

 まこきはがっくりと肩を落として、美紅の後について行きました。私はマヤがトイレに寄りたいと言ったので、一緒に反対側の方向に歩きながら「山崎屋で待ってて」と言いました。

 私はきれいに色付けされている例の海までの地図を見て、無駄になってしまったなあと思いながら、鏡の前でそれを広げていました。用を済ませたマヤが手を洗いながら、こちらを見ているのが鏡越しにわかりました。

「それ、何?」

マヤは黄色いハンカチで手を拭きながら、地図を眺めていました。

「うん、海までの地図。万が一の為に、地図帳を見ながら書いたの」

私はマヤに手渡して、それを見せました。

「万が一?」

「そう、万が一。帰りにお金が無くなったりしても歩いて帰れるようにと思って描いたの」

「歩いて……?」マヤの瞳が輝きだしました。

 私はこの時のマヤの表情を覚えています。何か素敵なものを見つけた、と言わんばかりのあの顔です。いまだにマヤの事を思い出すときには、いつもこの時の表情を思い出しています。

「行こうよ、海。自転車に乗ってさ!」

マヤは地図を両手に万歳をしました。


そして、他の二人に山崎屋で待ち合わせた私たちは、山崎屋の裏の小道でひそひそと、先ほどのマヤの新しいアイディアを話しました。皆で雨の中、傘を差しながら立ち話をする形になります。まだ雨は弱くはあるものの、傘にぽつぽつ、ぽつぽつ、という音がしていたと思います。

「えー! 自転車で行くのお?」

素っ頓狂な声を出したのは、まこきでした。

「バカ、静かにしてよ。誰が聞いてるかわかんないんだから」マヤがそういうと、まこきは手で口を覆いました。

「あたし、無理! 暑い中、何時間も自転車こげない」

美紅はいつものどうでもよいという感じではなく、今回ばかりはダメだと言い切りました。

「私の計算だと、徒歩で六時間くらいだから、自転車なら二時間かそこらだよ」

私は先ほどの地図を広げて見せました。

「日射病になるよ」まこきは、ぼそっと言いました。

「帽子と水筒と、それから……」

マヤが指を折りながら装備品を数えました。

「タイヤ修理剤も!」

私がそう言い放つと、他の三人が驚いたように一瞬言葉に詰まりましたが、その後すぐにみんなで口々に突っ込みました。

「そこは日焼け止めでしょ」

「そうそう、日に焼けるよ」

「だって、パンクしたら走れなくなるじゃない」

私がそう言うと、マヤが「タイヤ修理剤も」と指を折りました。

やがて、傘を叩く雨粒の音がやんできました。空を見上げると、山の方に虹が微かにかかっているのが見えましたが、私はそれをみんなに教えずに傘を畳みました。

「ねえ、五百円なら、なんとかなるんじゃない? 来月のお小遣いをどうにかしてさ」

まこきが私のその様子を見て、傘の外に手を出して、雨が上がったのを確認しました。 みんなもそれぞれ傘を畳みましたが、虹には気づかなかったようです。

「八月にはもう海の中はクラゲだらけだよ」

美紅はこの時、珍しく「行かない」という態度を崩しませんでした。

「じゃあ、マヤ一人で行く」

マヤは頑固として行くと言い張りました。マヤはあの海に思い入れがあったで、どうしても行きたかったみたいです。一年生の頃から、よくあの海の話はしていましたから。

「危ないよ、一人じゃ。私も行く」

私はマヤの肩に手を置いて言いました。

「東郷、あんたマジ?」

美紅は信じられないといった目で私を見ました。今思うと、この中で一番保守派というか、考えてから行動に移すのが私でした。そんな私がこんな無謀な計画に乗り気だなんて、よほどの事なのだと皆は思っただろうと思います。

「私も行こうかな」

まこきは遠慮がちにそう言いました。

「じゃあ、三人で」

マヤはそう言って、よし、と言わんばかりに握りこぶしを作りました

三人で美紅の顔をちらちらと覗き込みましたが、美紅は仕方ないなとため息を漏らして言いました。

「わかったよ、行きますよ。行けばいいんでしょ? そのかわり皆でプールに行くと大人には言っとく事!」

そうして私達四人は、夏休みに自転車で海に行く事になりました。


その日の夜も、また父へのお金の催促の電話をしないといけない日だったと思って、私は図書館が閉まるぎりぎりまで粘ってから帰りました。でも、帰ると母はいなくて、兄が珍しく居間でカップラーメンを食べていました。兄は家から一歩も出ない生活をもう三年も続けていて、髪は伸び放題です。

そんな兄を見ていたら、目が合いました。兄はその瞬間、かっと目を見開きました。大きく見開いた眼でこちらを見たと思った瞬間、私に殴りかかりました。その時は何が自分の身に起こっているかわからぬまま、ただ蹲っているしかありませんでした。

「お前はどうせ俺を馬鹿にしてるんだろ! ふざけるな、ちょっと勉強ができるからって、ちょっと運動ができるからって――そんな目で見るな! 俺を、そんな目で」

私があの時どうして反撃しなかったのか、そしてなぜ逃げなかったのか――多分、いきなりの暴力にただ驚いて、何もできなかったのだと思います。兄からの暴力がやむまで、何が起こっているのかが理解できず、頭が真っ白になっていました。どのくらいの時間そうだったのかはわかりませんが、私にはとても長く感じました。実際は兄にはそんなに体力はないので、ほんの数分だったと思いますが、兄が息を切らしているのに気付いた時には、やんでいました。まるで突然の嵐に見舞われたような出来事だったと、今にして思います。

この時、私はマヤの事を思い出していました。そうです、あの眼帯をつけていた日のマヤの事です。マヤもこんな仕打ちを受けたのだと思うと、私はそれに耐えなければと思いました。もちろん、耐えるよりもまず警察に話すべきだったでしょう。でも、家庭内暴力くらいで警察に行っても、兄が永久に刑務所に入ってくれるとは限らないし――と、私は頭の中で考えていました。警察に行っても、多分母が兄を庇って「そんなはずはない」と言い張るでしょう。

私は蹲ったまま、何かいい案はないかと考えました。このまま眠ってしまえば、朝には母が見つけてくれるかもしれないとも思いましたが。あの母の事ですから「怒らせるような事を言ったのはヒロの方だ」と言うに決まっています。なので、暫くしてから立ち上がって自分の部屋に向かいました。

兄の部屋からは、またファミコンの音がしてうるさかったのですが、私は何も言わずにベッドに入り、眠る努力をしました。この時は、不思議と涙は出ませんでした。悲しいとか悔しいとかいう思いよりも、ただ身体中が痛かったのが先でした。兄の事は確かに恨めしく思っていましたが、それ以上に「頭の悪い人間はすぐに暴力を振るうんだ」と諦めていました。実際に、弱い人間ほど簡単に暴力を振るうものです。兄を憐れむ気持ちはありませんでしたが、今思うと兄はとても弱い人間だったと思います。進学も就労も出来ずに家でゲームをやっている他に何も出来なかった事はさておいても、いつもあの母の庇護下にいたのですから。

やがて私は布団の中で、ふっと鼻で笑いを漏らしてしまいました。兄が殴るのも無理はなかったかもしれません。この夜の暴力によって、兄は私に――いいえ、人生に、或いは世の中全体に敗北したのだと思ったのです。

今まで兄を尊敬した事はありませんし、馬鹿にした覚えもありませんでしたが、この時ばかりは笑わずにいられませんでした。もっとも、おかしくもなんともない空虚な笑みです。

多分、この一件ついて黙っている限り、兄は私にこれ以上手出しが出来ないだろうと思いました。そういう面からみても、兄はもしかしたら「いつこのことが露見したら」と、毎日を怯えて過ごしていたのかもしれません。実際にそれ以降、兄からは暴力は受けていませんでしたし、家の中で会っても、兄の方が私を避けるようになりましたから。

私はこの日の無駄な勝利を噛みしめながら、朝が来るまで痛みに耐えて、布団の中で俯せになってノートを書きました。「わら、ユーすれす、ビクとりィ!」と例のノートに書きなぐり、その後にイヤホンでラジオを聴いて夜を明かそうと思いました。

母が酔っぱらって帰ってきたのは夜中の三時過ぎで、その直後に大声で笑いながら長電話をしていました。

ファミコンと長電話の声を塞ぐようにラジオのボリュームを上げたら、イヤホンが嫌な高い音を立てました。ディスクジョッキーの声は割れて耳に響くので、枕の上にイヤホンを置いて聴く事にしました。朝が来るまでの長い時間、あの青白い窓からの微かな光を浴びて、ただぼんやりと過ごしました。



一学期が終わり、成績表を貰う終業式の日が来ました。その日もまた雨で、校舎の中にいると土埃の匂いが立ち込めていました。体育館へ行く道すがら、渡り廊下から濡れた夾竹桃を眺めていたら、クラス委員の野口さんがこちらを見ているのに気づきました。野口さんは最初、「どう、調子は?」と声をかけてくれましたが、一緒に歩きながら雑談をしているうちに、心配そうにこう言いました。

「どうしたの? そこ」

私は野口さんが指差す、左肘の上あたりに眼をやりました。顔は殴られなかったからと安心していましたが、そこには痣――まるで腐ったバナナみたいな痣が出来ている事に気づきました。

「ああ、階段から落ちて、全身あちこち痛くて」

そう誤魔化す私の表情を、野口さんは見逃さなかったのかもしれません。私の身に何が起こっていたのかを気づいていたのか、この日の夕方、野口さんはPTA会長であるお母さんと一緒に、湿布薬を持ってお見舞いに来てくれました。きっと、心配した野口さんがお母さんに私の事を相談したのでしょう。あの時、野口さんに打ち明けていれば、私の境遇も少しは変わっていたかもしれないと今にして思います。でももしもそうしていたら、ただでは済まされなかったでしょう。

母は私の痣に関しては無頓着でしたから、野口さん親子の訪問には不意を突かれた感じになったようです。玄関先で「ヒロ、あんた何で転んだこと言わなかったの?」と瞬時に母親の仮面を被り、その顔のまま野口さんたちににっこりと作り笑いを向けて、「ご心配ありがとうございます。でもこの通りに元気にしていますから」と、やんわりと二人を追い返しました。後で「親に恥をかかせるな」と言われたのは予想通りでした。

私はその頃、ブラッドベリの『火星年代記』を読んでいましたが、その中に出てくる「優しく雨ぞ降りしきり、土の香深くたちこめ」という詩の一節を思い出し、じっと窓から外の風景を見ていました。

前に大きい本屋さんで、原書のペーパーバックでこの詩の部分を読みましたが、ここでの「優しく」は“soft”であり、“gently”ではありませんでした。つまり、雨は優しく降るのではなく、柔らかく降るのだという事です。翻訳者はどうして「優しく」と書いたのでしょうか。私が翻訳者なら、“soft”を「柔らかに」、または「やさしく」と平仮名で書くと思います。雨は人間の心に寄り添う事も憂いる事もしないのですから。

成績表の中身は散々でした。毎回テストでの満点をたたき出していた英語さえも、五段階で三でしたし、だいたい三は貰えると予想していた他の学科も一ばかりでした。この頃の成績表は、学科の出来具合だけでなく、授業態度や服装や身なりで決まっていたみたいでしたから。私は悔しく思うよりも、もう勉強は頑張らないと決めこみました。そう思うと、なんだか自分がふわふわとした存在になった気がしました。糸の切れた凧というよりももっと頼りない、何か風船のような感じです。そうです、ピエロが子供たちに配る、あのヘリウム入りの風船です。

 でも実際には、そんな成績表の方が私には都合がよかったと今でも思います。いい成績を貰っていたら、兄がまた嫉妬していただろうし、マヤたちとも距離が広がっていたと思います。

 

長い梅雨があけて晴れたのは、夏休みに入って三日目の朝でした。その朝、マヤからうちに電話がかかって来て、「今日行こう」と言われました。私はすぐに用意していた装備品をリュックに詰めて出かけました。待ち合わせは学校とは反対側の国道のコンビニの前でした。朝九時に四人が揃い、いざ出発という事になりました。

「ねえ、Kプールに行くって話にしてきた?」

まこきは確認するように皆に言いました。

「うん、もちろん」

「なら、迂回して学校側の道を通ろうよ。B町まではそっちの方が近いし」

 マヤは学校の方を指差して言いました。

私は地図には迂回路を書いてなかったので、ちょっと心配しました。

「迷わないかな?」

「大丈夫でしょ。Kプール行くって言ってあるのに、このまま行ったら誰かに見つかるかもだし。マヤの言う通り、迂回しよう」

まこきも美紅もそう言い、自転車のハンドルを山側の道に向けました。

私だけは学区外からの中学入学だったので、この辺りの地理には詳しくなかったのもあり、ちょっと不安でした。でもこの町をよく知る三人なら大丈夫だろうと、ついていく感じになりました。

アブラゼミとヤマバトの声を聞きながら、学校の裏手の道に出ると、山々を切り拓いて新しい住宅街にすべく、ブルドーザーやらショベルカーが土埃を舞い上げていました。その土埃は道路の方まで来ていたので、四人でそれを避ける様に自転車を漕いで先を急ぎました。

薄曇りになってきたので、ひと雨来たら嫌だなあと思いながら、まっすぐB町方面へ走りました。途中、何人かの知り合いを見かけたので、やはりKプールに行くというカモフラージュは正解だったでしょう。Kプールの方へと続く道からは、もう知り合いに会うこともなくなってきていました。

B町までは何の問題もなく来れましたので、私達は大きなスーパーのフードコートで菓子パンを食べて休憩しました。蒸し暑いのは夏なので当たり前ですが、日差しが強かったので、屋内での休憩が必要でした。帽子の中に濡れタオルを入れたりもしていましたが、やはり日陰になっている場所で二十分おきくらいに休憩しました。

B町から離れる直前に、私がお腹の調子が悪くしたので、公園のトイレに寄りました。用を済ませてトイレから出ると、三人が知らないおじさんと立ち話をしていました。どうやら地元の人のようです。

「この暑い中、どこ行くの?」

ちょうどB町を過ぎて、地図に載っている箇所でしたから、ここならもう私たちを知る人はいません。

「N海岸まで行こうと思って。道はあっちでいいんでしょ?」

まこきがそうおじさんに聞くと、おじさんはこう言いました。

「N海岸に行くの? 君たち知らないの、あそこは出るんだよ、コレが」

おじさんは両手を顎の手前でぶら下げるようにして、幽霊のポーズをしていました。

「え、出るって……お化け?」

「そう、旧日本軍の少年兵たちの霊が海の中にいるんだよ。あそこは伏竜特攻隊の訓練所だったんだよ。海の特攻隊って、聞いたことないかい?」

四人とも首を振りました。おじさんは話を続けました。

「海に潜って、機雷のついた槍を持って、船を襲う作戦があったんだよ。潜水服を来てね。今の潜水服と違ってお粗末なものだったから、何人も訓練で若い学生が死んだんだ。だからあそこは遊泳禁止なんだよ」

私はその話が本当かどうかわかりませんでしたが、おじさんの様子がどうもからかっている様に感じたので、思わず「嘘でしょう?」と声を漏らしました。マヤもほぼ同時に「嘘でしょ?」と言いましたが、マヤの方はおじさんの話を信じた様子でした。その顔を見たまこきと美紅も、みるみる顔色が不安な色になってきました。

「本当だよ、本当に伏竜特攻隊はいたんだ。終戦が来て天皇陛下の玉音放送が流れても、訓練は続いたんだよ。ちょうど君たちより少し上の、若い男の子たちだよ。みんな海の中で死んだんだ」

四人は絶句しました。さすがの私もそこまで聞くと、からかい半分だったとしても、N海岸が海の特攻隊の訓練所だという話が嘘ではない可能性を考え始めていました。

「でもさ、それ言ったら、日本中お化けだらけじゃない? 病院や老人ホームで死ぬ人だっているじゃない」

美紅はそうは言いつつ、不安の色は隠せませんでした。

「確かにそうだよね」

「お嬢ちゃんたち、気をつけなさい。海に入っちゃだめだよ。あそこの海はいいところだけど、泳ぐのはよしなさい」

おじさんは私たちを見送りながらそう言いました。私たちはとりあえず自転車を押しながら、歩き始めました。

「どうする? 本当に行くの?」

私はそうマヤに聞きました。

マヤはしばらく黙ったまま俯いていましたが、やがて何かを吹っ切るように首をゆすってから、「行こう」と言って自転車を走らせました。みんなもそれに続きました。

暫く坂の多い道が続いたのですが、私たちは元気に立ち漕ぎしながら登っていきました。すると、トンネルに行きつきました。これまでも何回かトンネルを抜けましたが、あの話を聞いた後でしたから、怖さが倍増していました。トンネルの入り口でマヤが立ち止まり、出口の見えないそれを見ていました。

「マヤ、どうしたの?」

「うん、ちょっと……なんか寒くない?」

「そういえばちょっと」

「曇ってきたねえ」

「今何時?」

「午後二時半」

「東郷さん、ここどこだかわかる?」

「えーと。地図が正しければあと半分だね」

私はその辺の道路標識を探しましたが、見つかりませんでした。なので、買い物帰り若い主婦らしき人に「海はどっちですか」と訊きました。

「海なら反対側の山を登ると、川に出るから、それを下流沿いに行けば海なんじゃない?」と、私たちにあまり関心がない様子で教えてくれました。

私はそこで、せっかく描いたこの地図が完璧ではないことに気づき、がっかりしました。

「何よ、全然違うじゃん」

「ごめん、間違えたみたい」

「しょうがないな……いいよ、とにかく急ごう。もう時間ないし、飛ばすよ?」

そうマヤが言った途端に、急に強い雨が降ってきました。美紅が「通り雨かな。トンネルで雨宿りする?」と提案しました。

「半分の道のりでこんなに時間かかるなら、もう海まで行ったら、帰りは夜だよ、きっと」

「そうだねえ。引き返す?」美紅は寒そうに二の腕をさすっていました。

「やだよ、ここまで来てさ。あと少しみたいじゃん」

「このトンネルを抜けて、そこから山道を登って川でしょ?何とかなるよ、きっと」

まこきがレインコートを持ってきたので、それを羽織りました。

私たちは雨の中、また自転車を走らせて海を目指しました。私は地図を折りたたんでリュックに仕舞いました。この先は地図がないので、道々通る人に訊きながら海へ行きました。やがて、雨はやんで雲間から太陽が出てきました。

「ねえ、N海岸って本当にこっち?」

私はマヤに訊きました。マヤはわからないと言いました。

「川、こんなに長いの? なんか変じゃない?」

「あっちにK市って標識あったよ?」

「このままだと……まさか」

私はこのまこきの指摘で、自分の書いた地図からは全くずれた道に来てしまった事に気づきました。この辺りから、何か魚屋さんの匂いが微かに漂っていました。

「まさか?」

「うん、そのまさかだ」

「という事は……」

私たちはN海岸とは反対側のK市内に来てしまっていました。路面電車の線路が見えました。そうです、テレビでよく見るあの海の風景です。

「あれ、E島だよね?」

「てことは、ここはYヶ浜だね」

私たちは眼前に広がる海水浴場を見て、ため息をつきました。

「確かに海には違いないけどさ……どうする?」

「もう着替えて泳ぐ時間ないよ」

「写真だけ撮ろう。そんで、浜辺を散歩してから帰ろうよ」マヤはやっと諦めたのか、そう言いました。

美紅とまこきはYヶ浜に来る事が出来て、かえって喜んでいましたが、マヤの方はがっかりした表情を隠せませんでした。

私は「ごめんね」と謝りましたが、マヤは「いいよ、海には行けたんだから」と微かに笑ってくれました。その後私は、「次は必ず行こうね、N海岸」とマヤに言いました。マヤと私は指切りをしました。

波打ち際で貝殻を探していたら、摺りガラスの破片を見つけました。多分コーラの瓶の破片が波で削られたものでしょう。それをポケットにしまいました。

もう夕方でしたから、浜辺の人出もまばらになっていました。私たちは近くにいたサーファーのお兄さんに頼んで、海をバックに記念撮影をお願いしました。ちょうどここにその時の写真がこの暗号ノートの間にありますが、E島までちゃんと写っています。その後の二学期に会う時までに、私は四人分の写真を焼き増ししました。そのうちの一枚がこの写真で、あとはネガが残っているだけになっています。

親に内緒で行った海の写真は、こっそりとあの暗号ノートに挟まっています。「いとわざターフでー、ばっいとわずファン!」と書いてあります。



この日の夜からマヤは風邪をひいて三日間寝こみ、その後快復してからは、群馬の親戚の家で夏休みを過ごすことになったと言っていました。なんでも、親戚の農作業を手伝いに行くとの話でした。

まこきと美紅には一週間の外出禁止令が出て、その後、二人は学習塾に入れられました。どうやら一学期の成績が悪かったのがいけなかったらしいです。

私はその夜、母は出かけていましたし、夜と言っても八時には帰れたので、何も言われませんでした。遊び相手がいなくて暫くは退屈しましたが、やがて図書館に通い、夏休みの自由研究に取り組む事にました。

私が通っていたH中学は夏休みの宿題は自由研究だけでしたから、適当に済ませてしまえばよかったのですが。私は一学期の終わりに自由研究のテーマを提出するときに、大見えを切って「小説を書く」と書いたので、それだけは最後に頑張ってみようと思い、毎日図書館でネタを探す毎日でした。

小説はショートショートでした。例のノートにこんな作品が書いてあります。


『カラーブラインドネス』

東郷浩子


毎朝庭の柴犬に餌をやるのが、僕の日課だ。チビ、なんで名前に柴犬は、名づけた当時よりもずっと、でかくなっている。

赤いプラスチックの皿には、ドックフード。

緑の皿には、新しい水。

毎日、同じようなドッグフードを飽きもせずに、一生懸命食べるチビ。

そうさせている僕も、毎日同じ服―――制服を着ている。

いつもチビが食べているのを三分位しゃがみこんで見ている僕は、ふと、犬が色盲なのを思い出した。

赤い皿にドッグフード、緑の皿には水、なんて、いくら人間がやったって、チビにはきっと、全く関係ないんだろう。僕は、ペットショップで皿の色に迷った事をなんとなく後悔した。買った後で、やっぱり青や黄色も良かったかな、と思った事も、なんだかとても馬鹿らしい気がしてきた。

ま、人間の自己満足なんだな、とでも思っておこう、と思ったところで立ち上がった。

チビの頭を軽く撫でてやって、玄関に鞄を取りに行った。

一時間目からいきなり美術だった。

学校に着くなり、ロッカーに置きっ放しだった道具を持って、美術室に移動した。

課題は「レコードジャケット」だった。ようするに、正方形である以外には、全くの自由課題である。

僕は水彩絵の具で描くだけの予定だったが、あとで、クレパスか何かも入れようかとも考えていた。前回の授業で下書きは終えていたので、今日から色を付けるつもりだ。

一応、「異星の風景」のだが、やはり色を付けないと、いまいち決まらない。

他のクラスメイトは、どんどんパレットに絵の具を出している。あるいはクレパス、カラーインクと様々だが、とにかく作業を始めている。

確か、提出は次の授業の終わりだ。

たぶん他と遅れをとっている僕は、パレットに絵の具を出そうとした。

そういえば、何色にしようかと、思った時にはすでに、右隣の女の子が描いている絵をじろじろと見てしまっていた。

いつもは大声で笑ったり、僕の事を呼び捨てにしたりしている彼女の絵は、意外にも、女の子らしい、かわいい天使の絵だった。僕は少し驚いた。

「何よ、何見てんのよ?」 彼女はじろりと僕をにらみつけ、文句を言った。

「いや、別に。」 僕は、あわてて前を向き直った。

しばらくして、後ろの席の男友達の絵を見た。

確か先週、エンタープライズ(空母)とか、ハリアー(戦闘機)とかの軍事関係の資料を彼は持って来ていた。彼はまだ下書きの途中だった。でも、もうすぐそれも終わりそうだった。

「こないだ言ってたのって、それ?」 と、話し掛けると、彼は鉛筆で緻密に資料を写しながら、黙ってうなずいた。

「こら、おまえは進んでいるのか?ちゃんと自分の仕事をしなさい!」先生に注意され、僕はびっくりして前に向き直った。

実際にはない植物、動物、そして建物や乗り物などの人工物。それから「異星人」。

実は、この異星人を描くときに一番迷った。よくあるタコみたいな形にしようか、それとも、SF映画に出てきたようなやつみたいにしようかと、色々悩んだ。けど、結果は宇宙船のそばに人の形の大まかな輪郭を、四、五人、まるで宇宙の旅から帰ってきたばかりで、あの星はこうだったとか言い合っているかのように描いた。

僕はまだ、何色でどこを塗ろうかを考えていた。だが、とりあえず、空の色を決めた。空の色はきっと地球と同じだろう、と思ったのだ。

一応、夜なので、パレットに藍色を出し、水で薄めた。異星の夜。三つの月が、仲良く並んで光っている。藍色と紫色を混ぜて、空の高いところから、少しずつ色をつけていった。

三つの月の色は何色にしようか。

地平線の方は少し薄く。

異星人の色は何色にしようか。

湖はきっと、空の色が映っていて、空と同じ色をしているだろう。

三つの月が仲良く湖で並んでいる。

空の色はきっと、地球と同じ。


誰かが笑っている。どこでだろう。誰が笑っているんだ?

どんな声だかもよくわからない。でも、誰かが笑っている。笑い声が聞こえるというよりも、誰かが笑っている気配がする。

何も見えないし、聞こえない。だけど、誰かと誰かが何か話をしている。

何を話しているのだろう、と思ったとき、急にその会話の内容が理解できた。

日本語に訳す、と…。

「なあ、知ってるか?地球人て、色盲なんだって。」

「へえ、本当? だって、いくつかは見えるんだろう?」

「見えるって言っても。ほんの一部の色だけだって。」

「後は見えないの?」

「うん、ほとんどの色を知らないんだ。」 

「もったいない! こんなにきれいな色なのに、見えないなんて。」

「地球人にも見せてやりたいよ。」

「見せてみようか?きっと驚くぜ。」会話が途切れた。そして次の瞬間、僕の「レコードジャケット」によく似た風景が目も前に広がった。

しかも、ちゃんと色がついていて、動いていて、そこにある。

殆どの色は、僕が今まで見たことのない色だった。

空も、三つの月も、地平線も、湖も、植物も、動物も、建物も、宇宙船も。それから、「異星人」も。

見たことも無い色たち。異星人の世界は、なんて美しくて、鮮やかなのだろう。

また、誰かが笑っている。


次の朝、目が覚めたとき、それが夢だったことを知った。いつもの見慣れた色をした地球の風景があった。

あの異星の風景の色が思い出せなくて、とても残念だ。もし覚えていたら、あの美術の課題に描くのに、と思ったが、覚えていないものはしかたがない。

だけどあの時の、異星の風景を見た瞬間の気持ちは、まだはっきりと覚えていて、それだけが少しだけうれしかった。 

毎朝、庭の犬小屋の柴犬に餌をやるのが、僕の日課だ。

名付けた時よりもずっとでかくなったチビの赤い皿にはドッグフード、緑の皿には新しい水を入れる。

そんな皿の色などまったく気にしないチビは、皿を置くとすぐにドッグフードを食べ始める。三分しゃがみこんで、チビを見ながら、ふと、進んでいない美術の課題の事を思い出した。まだろくに終わっていない事が少し心配になって、一体どういう色をつけようかと、チビの皿の色を迷った時よりも深刻に考えた。

僕はいつか、チビにも沢山の色を見せてやりたいと思った。

終わり


「犬が色盲なら、人間だって、宇宙人から見たら色盲かもしれない」と思ったので、それをテーマに書きました。これを書いた時の気持ちというか、シャープペンシルで夢中になって夜遅くまで書いた時の何とも言えない充実した日々。もう二度とあんな風になれないと思うと、淋しく感じます。

それからの残りの夏休みは、祖父母から貰ったカメラを持って散歩するのが日課になりました。その合間に、祖父母のスタジオでの撮影を真似して、水色の画用紙に海で拾ったあのガラスの破片を乗せて、デスクライトをそれらしく当てて光らせて、ネガフィルムで何枚も撮りましたが、現像したら案の定、出来は散々でした。露出は合ってないし、ピントもどこにもあっていません。でも、これを見た祖父母は「一生懸命に撮っていて偉い」と褒めてくれました。これが私の初めての光物の静物撮影です。


お盆に入ると、父との食事会の日がやってきました。今度は家族四人で私の進路について話し合うのが目的でした。兄はこの日の為に三年ぶりに床屋へ行き、私はまた新しい服を着せられました。横浜の繁華街の中にあるファミリーレストランでそれは行われました。私はこの時も胃がむかむかして、何も食べられなかったのですが、どうにか嘔吐だけはしないで済みました。

「ヒロは何になりたいんだ? 将来は」

父がそう私に訊きました。私は翻訳家とか小説家になりたかったのですが、それが言えず、黙っていました。

「英語が得意なのよ、ヒロは」と母は自慢げに言いました。

「でも、英語の成績が三じゃダメだろう。お父さんとお母さんの子供だから、そんなに頭がいいはずはないよな、何か手に職つけるといい」

父に悪気はなかったのかもしれませんが、私はその時、なぜかいらっとしました。

「東京のグランパの弟子になって、カメラマンになる」

私はぼそっとそう言いました。それを聞いた母は、目を丸くして、「女には無理よ。重い荷物を運んだりするし」と私の声を遮るように言いました。

「カメラマンも今はいいけど、これからは電子映像の時代が来るし、この好況もそんなに続かないからな。広告業界なんて真っ先にやられるぞ」

実際に父のこの言葉は、あながち嘘ではなかったです。バブル経済の崩壊で多くのカメラマンが失職しましたし、広告業界もかなりの打撃を受けましたから。でも、やはりカメラマンの需要は減っても皆無になる事はありませんでした。

「それより、お兄ちゃんは――誠どうするんだ?」

「誠は頭がいいから、大検を受けて大学に行くのよね?」

「なら、今から塾でも家庭教師でもつけるべきだろう。毎日何をしてるんだ?」

「誠は勉強して、公務員になるのよ、ねえ?」

兄は黙ったまま、出された食事に夢中になって食べていました。

「塾も家庭教師もお金がかかるのよね。ねえ、お父さん。お金の方は――」

こうして、母が子供を理由に養育費をせがむと、父は渋い顔をしつつ、お金を出していました。そのお金が母の遊び代になるのは、父にもわかっていたようです。私はそのことをよっぽど言ってしまおうかと思いましたが、後が怖いので言わずにいました。


そうして、その年の夏休みはあっという間に過ぎてしまいました。マヤが夏休みの最後の日に帰ってきましたが、もともとの浅黒い肌が更に日焼けでいい色に焼けていたのを、今でもよく覚えています。

 美紅とまこきは、ずっと塾で勉強させられてはいましたが、お盆にはそれぞれ旅行に行ってきたそうです。まこきは九州に、美紅はグアムに行っていたと二学期に会った時に聞きました。

 ちょうど神奈川県で一斉に行われる、アチューブメントテストまであと半年なので、もうこれまでの様に、勉強そっちのけでは遊んではいられない身分だという事に、薄々気づきだした頃でした。

美紅はストレートパーマをあて、まこきは金髪から黒髪に変わっていました。マヤと私だけは相変わらずでしたが、勉強嫌いなマヤでさえも、私に英語やその他の勉強の仕方を教えてくれと言うようになりました。

 二学期のはじめ、国鉄寮の方が騒がしいなと思っていたら、解体工事が始まるらしく、あのぼろぼろの緑色のフェンスが新しいものに変わっていました、建物が重機で壊される音は、校舎のピロティまでも聴こえました。私達四人の秘密基地はもうなくなってしまったのです。それを見たマヤは、「皆の思い出の場所が壊されちゃうんだね」と淋しく呟きました。私も、国鉄寮が取り壊されてしまうのは悲しかったです。

もう高校受験に向けて――いいえ、大人になる準備をしなければならない身分になったのだと、この時の私たちは自覚せずにはいられませんでした。


九月も半ばになると、体育祭の準備が着々と進んできました。各種目の出場選手を学級会で決める事になりました。全員参加の徒競走と団体競技以外の競技には、陸上部員は出場できないので、体育祭の花形である最終種目の男女混合リレーの選手はそれ以外の足の速い生徒が務めることになりました。そうです、私とマヤに白羽の矢が当たったのです。

マヤは応援団の団員に立候補していたので、リレー選手と掛け持ちで頑張るとの話でした。当時の応援団は長ランという丈の長い学生服を着て、はちまきと白い手袋をしての、本格的なものでした。あの衣装は校則違反なのですが、どこで手に入れたのか、または学校側で用意したものなのか、いまだに謎です。マヤはこの中学校の応援団に憧れていましたから、張り切っていました。三年生の男の先輩は応援団長であり、この中学の番格ですが、マヤと同じくリレーに出るのです。あの格好で走るという噂でしたから、マヤももしかしたらとも思いましたが、ちゃんと着替えて走ると言っていました。

リレーの練習よりも、応援団の練習の方が重要だったので、マヤとその団長の先輩――確か堀部先輩と言いましたか――その二人がリレーの練習に来たのは初日だけでした。

 リレーの練習中には応援団員の声とホイッスルと太鼓の音が遠くからでもはっきりと聞こえていました。帰る頃には、夕空がピンク色に燃えていたのも、はっきりと記憶に残っています。

そんな体育祭前のある日、私は母から「明日から暫く学校を休みなさい」と言われました。父からの送金が途絶えて、昼に学校で食べるパン代が捻出できないとの理由でした。母は私が熱を出したと、学校に電話しました。パン代がないという事は、家に食料も殆どない状態ですから、起きていたらお腹がすくので、三人とも寝たきりの生活を送りました。小麦粉を練ってすいとんを作ったり、片栗粉を砂糖と熱湯とで混ぜたものなどを食べて飢えをしのいでいました。母の実家に金の無心をすればいいのですが、母が見栄を張ってそれをせず、ひたすら父からの連絡と送金を待ちました。

私は「せっかくリレーの選手に選ばれたのに」とか「体育祭はどうするの?」と母に詰め寄りましたが、ない袖は振れません。よっぽど東京の祖母に電話を掛けようかと思いましたが、母がずっと居間にいるので、それは出来ませんでした

 父に電話しても繋がらず、ずっとお腹が空いていて、寝ているしかありません。昼に寝ると夜眠れなくなるので昼夜逆転してしまい、起きたのが夕方なのか朝方なのかがわからないこともありました。

 やっと父と連絡がとれたのは、体育祭が終わった次の日でした。急な心臓発作で救急搬送されて、入院中だという話でした。代わりに父の実家からお金は送金されましたが、数か月入院するとの話を聞かされました。

結局、私は一週間も学校を休みました。もちろん体育祭は欠席して、リレーの選手は代わりにクラス委員の野口さんが出たと聞かされました。

病気でもないのに一週間も食べないで寝ていたら、体調も悪くなります。前から胃が痛かったりしていたので、私もお医者さんにかかりたいとは思いましたが、母が「自律神経失調症は病気じゃない」と言い張って、病院へ行く事はありませんでした。

そんなある日、体育の授業中に貧血を起こしてしまいました。担任の森本先生が心配をして、放課後に私を呼び出して、病院へ行けと言いました。

それを母に言ったら、「病院で検査中だと言っておけ」といわれました。その十日くらい後に、また先生に呼び出されて、検査結果を聞かれましたが、私は「検査中です」としか言えませんでした。暫くはそれでよかったのですが、そのまた一週間後にまた先生から聞かれた時には、とうとう本当の事を打ち明けざるをえませんでした。「母に、検査中だと嘘をついておけと言われました」と。

森本先生は怒っていましたが、私がそういったと母に知られると虐待されるのだろうという事を理解していたようです。しかし、とうとう児童相談所の職員がうちに来たという事もなかったです。


この頃から、私達四人組はバラバラになってきたと思います。受験を意識してのことかもしれませんが、美紅とまこきが学習塾で忙しくしているので、マヤと私は放課後、まっすぐ帰らないで校舎や校庭に居残って遊んだりしていました。部活動をする他の生徒を眺めながら、「バスケ部、入っておけばよかったなあ」などと心にもない事を二人で言っていました。教室の机に座って絵を描いたり、たまに勉強したりしました。私達は将来の事を本気で考え始めました。もっとも、十三歳の本気なんて大したものではありませんでしたが、その時は本気で悩んでいたと思います。

「マヤは高校、どこにするの? I 高校? それとも、私立単願?」

「マヤは多分、定時制になると思う。お父ちゃんとお母ちゃんが離婚したら、働かないと生きてけないし」

「本当におじさんとおばさん、離婚するの?」

「このままだとね。お父ちゃん、最近パチンコばっかりやっててさ。仕事しなくなった」

「私は高校行かないで、東京の祖父母の写真スタジオに弟子入りしたいけど。母が世間体を気にするし、父は『お前の頭がいいはずはない』っていうから」

「東郷さんは英語とか得意だよね。よく本も読んでるし」

「漫画ばっかりだよ」

「そんなことないよ。なんで英語ペラペラなのに、成績が三なのか、意味不明」

「先生は学力だけを見てないからね。私たちの生意気な態度とか、スカートの長さとか。先輩たちとも仲いいから、そうゆうの見てるんでしょ」

「ヤンキーじゃなくても悪い奴や嫌な奴はたくさんいるのにね。マヤももう勉強するのやめようかなあ」

「言えてる。見た目だけでしか判断できないんでしょ? 大人って結構間抜けだよね。こうして不良少年少女は生産されていくんだよ、きっと」

「だね。行儀よくしてても不良は不良か。やってらんないね」

この頃の私は内心、いつかマヤと一緒にいられなくなるのが、怖かったです。高校に入れたとしても、人見知りの私が友達を作れるのかと不安でした。この治安の悪いH中学校に無事に通えているのは、ひとえにマヤのおかげだと思っていましたので。

その頃、やっと校舎の裏手の国鉄寮のがれきが完全に撤去されて、ブルドーザーによる地ならしが始まっていました。先生の話では跡地にはテニスコートが設置されるという話でした。平らになって何もなくなったそこは、こないだまでの、あのゴーストタウンみたいな気配はなくなり、それと同時に、私たちも平らになっていったように思いました。



そして長袖がしっくりくる季節になったある日、私達にとって重大な、ある事件が起きました。桜並木で花びらを追いかけたあの頃が、まるで夢だったように感じていた頃でした。いつも通りに学校から帰ったときに、自分の部屋にある変化があったのに気づきました。家に帰ると、明日が仕送りの入金日なので今日はお酒が飲めないはずだったのに、なぜかリビングにはビールの缶が転がっていて、ちょっとおかしいなと思いましたが、最初はまた母がブランド物のバッグを質に入れたのかと思っていました。

私は玄関からその様子をちらっと見てから、二階の自分の部屋に行って着替えました。着替えているうちに、なにかこの部屋は変だと思いました。母が私の持っている本を無断で借りて読むことはしょっちゅうでしたから、最初はそれかと思いましたが、違いました。

カラーボックスの中の漫画本と、本棚の中の小説や他のノンフィクションの本がなくなっていました。祖父母から貰ったコンパクトカメラもありません。

私は一瞬、血の気が引きました。そうです、とうとう食うに困って私の大事な本とカメラを母が勝手に売ってしまったのです。

「お母さん、私のカメラと本は?」

私は鞄を持ったまま、二階から降りて母のいる居間に行きました。母は炬燵を出してそこで暖をとりながらビールを飲んでいましたが、最後の一本だったようです。

「ああ、また買ってあげるから勘弁ね。今日はどうしても食べるものがなかったのよ。だって仕方ないじゃない。ほら、五千円あるからお弁当とジュースとお菓子でも買ってらっしゃい。ついでにビールも」

母が言い終わらないうちに、私は五千円札をもぎ取って、鞄からアルコール瓶を出して母に投げつけました。母のお腹のあたりにそれは当たりました。顔に当てるつもりだったのに、運悪く外してしまいました。

「ふざけるな、馬鹿! そんなにお酒がほしければ、それでも飲んでろ、ブス!」

そう言い放って家を出ました。もうあたりは暗くなっていて、夜風が冷たかったですが、それに構わず自転車を走らせました。

どこに行けばいいのかわからなかったのですが、自然とマヤの家の方角に走っていました。泣きながら、悔し涙を振り切って、鼻水を垂らして疾走しました。その時は、向かい風が頬の涙をぬぐい去っているようにも思えました。

マヤの家に着く直前に、マヤのお母さんらしき人が子供を連れて逆方向に歩いていました。でも気づいたけれども、声をかける暇はありませんでした。このやるせない気持ちを今日こそ打ち明けようと思いました。父を相手に「精神の売春」をしてる事も、兄に殴られたことも、母の数々の仕打ちも。みんなマヤに言って、それから――。

マヤの家の電気は薄暗くついていました。中に人影がありましたから、きっとマヤとお父さんがいると思っていました。アパートの二階中央の部屋がマヤの家です。玄関に到着すると、なにか様子が変でした。

玄関チャイムを押して、マヤが出てくるのを待ちましたが、一分くらいか二分くらい待っても返事は帰ってきません。もう一度押してから、大き目の声で「こんばんは、東郷です」と声をかけました。中には明らかに人がいます――それも複数です。

マヤのくぐもった声が微かに聞こえました。まるで何かに苦しんでいるかのような声がしたのです。心配になった私は、もう一度声をかけながら、玄関のドアをノックしました。

「てめえ、噛むんじゃねえ! くそ!」中からは知らない男の人の声がしました。

「東郷さん、助けて!」

そのマヤの声を聞いた瞬間、私ははっとして、玄関のドアを開けようとしましたが、鍵がかかっていました。何か大変な事が起きている事は気が付いたので、私はドアを壊して開けようと、叩いたり蹴ったりしましたが古い木造アパートのドアは思いのほか頑丈でした。

「マヤ、いるのね?」

私は玄関先を見回しました。お母さんがよく手作りでお漬物を作っていましたから、玄関先に大きな漬物石がありました。それを持ちあげて、私はドアのノブを叩き壊そうとしました。何回か石をノブにぶつけましたが、やがてドアは開きました。私が開けたのではなく、中にいた男の人が開けたのです。

「なんやあ、うるさいのお……おお、可愛い元気な女子中学生か! こりゃいい、一緒に遊びましょうねえ」

男はいかにもチンピラといった感じで、ガラが悪そうでした。部屋の奥にはマヤに馬乗りになっている別のチンピラもいました。私は掴まれた腕を振り切る事も出来ずに、その場で座り込みました。中に引っ張り込まれそうになった私は、玄関先で渾身の力を込めて、叫びました。

「火事だ、火事! マヤんちが燃えてる! 消防車、救急車、みんな早く逃げてー!」

いつも母には嘘をつかされているせいなのか、とっさにそういう嘘が出ました。

「助けて」、よりも「火事だ」と叫ばないと、人は見ようとしないし、騒がないものだと社会科の先生が雑談で言っていましたから。私は「火事だ!」と繰り返し叫びました。もちろん、最初は声になってなどいませんでしたが、繰り返すうちに大声になっていきました。

チンピラ二人はまずいと思ったのか、その場を走って逃げました。私は彼らが逃げた後も「火事だ!」と言い続けていました。でも、中から半分胸をはだけたマヤが出てきて、私に抱きついた時に、私はやっと我に返り、叫ぶのをやめました。

「やばいよ、本当に消防車来ちゃうよ」

「逃げよう、マヤ!」

私たちは手を取り合ってその場を走って逃げました。大勢の野次馬がいましたが、その人ごみをかき分けて、一目散に走りました。

 どこをどう走ったかは覚えていませんが、商店街の向こうの線路が目に入ったので、私は急いで二百円の切符を二枚買って、改札口に飛び込みました。

誰もいないプラットホームで、二人はベンチに座り、肩で息をしていました。

「マヤ、大丈夫?」

「うん……」そう頷くマヤの首元には虫刺されみたいな痣が残っていました。

「喉乾いた、ジュース飲もう。何がいい? 私はコーラ」

「マヤ、オレンジジュースがいい」

ホームは下り方面でした。繁華街の方に行く上りホームに行けばよかったかなとも思いましたが、まずは喉の渇きを癒すのが先でした。電車はまだ行ったばかりですし、ホームにいる人も少なかったっです。

「マヤ、この先どうする? 家に帰ったって――さっきの変な男はいったい」

「お父ちゃんが借金作ったって、言ってた」

私はこれ以上聞くのは残酷だと思って、いくつもの質問を胸に仕舞い込みました。

「マヤ、どこか遠くに行こう。そうだ、東京のうちの祖母のうちとか」

マヤは首を横に振りました。そして弱々しくこう言いました。

「海に行きたい。もう、マヤは海で死んじゃいたいよ」

そう言うと、やっとマヤは泣き出しました。ほっとしたのか、遠慮なくしゃくりあげながら泣いていていました。一体どれだけマヤは涙を周りに見せないでいたのか、どれだけ無理をして笑っていたのか――想像すると、自分の不幸なんてちっぽけに思えました。

「わかった、私も行くから。二人で海に行こう」

こうして、私とマヤは夏に行けなかった海に、N海岸を目指して電車に乗り込みました。下りの電車の中はお酒と煙草と香水の匂いが充満していました。二人は一番前の車両の先頭にその大人の匂いを避ける様にして、運転席付近のスペースに立っていました。もう夜のラッシュアワーは過ぎましたが、代わりに酔っ払いらしき乗客が多くなりました。各駅停車の電車でH駅まで乗って、そこでその先の特急列車に乗り換えて、ひたすらN海岸のある駅まで目指しました。H駅を過ぎると車内はガラガラでしたし、酔っ払い率は多いものの、匂いは薄くなっていたので、私たちは座席に並んで座りました。

この頃にはマヤは泣き止んでいましたが、かといっていつものマヤに戻ったわけではありません。いつものマヤの笑顔が見たかった私でしたが、無理に元気づける気力もこの時の私にはありませんでした。私は財布の中のお守り――ヤクザ石のおじさんから貰った青いカプセルを確認して、ついでにお金の残金も確認しました。確か、五千円札一枚のほかは、八十円くらいしか持っていなかったと思います。でも、それを見たマヤが、こう言いました。

「なんでそんなにお金あるの?」

「うちの馬鹿母が私の本とカメラを売り飛ばしたから」

「え、勝手に? おばさんが?」

私は黙って頷きました。

「ひどいね。毎日パン代削って買い集めてたのに」

「そうだけどでも――」私はマヤの両親の方がよっぽどひどいと言おうとしましたが、言わない方がいいのがわかったので、ぐっとこらえました。かわりに、お腹すいたね、と言いました。

「N海岸のそばに美味しいラーメン屋さんがあるの」

「本当? 美味しいの? ラーメンが?」

「うん」

ラーメンの話になればマヤも元気になってくれるかもしれないとも思いましたが、疲れた私は、それ以上は何も言えませんでした。


 N海岸は最寄り駅から十分くらいのところにありました。道路ごしに見る初めての夜の海に、私はしばし感動しました。暗い闇の塊がざぶんざぶんと岩や砂浜を削るように打ちつけていましたので、自分も削られると思って、その時はちょっと怖くもありました。マヤが海岸道路沿いにある赤い看板を指差しました。私たちの心はまるであの小さな赤い灯りに、まるで夏の虫みたいに吸い込まれていきました。

店に入ると少しして、マヤが味噌ラーメンがお勧めだと言ったので、私もそれにしました。カウンターしかない小さな店で、ラーメン屋特有の湯気が籠った店内は、とても暖かく感じました。

 暖かい食べ物というのは本当にありがたいものでして、その時のラーメンは今までで――そうです、この歳になるまでで一番おいしかったラーメンだったと私は思っています。

「美味しいね」マヤはやっと笑顔になり、こちらを向きました。

「うん、ラーメンて、こんなに美味しいなんて初めて知ったよ」

「東郷さん、ラーメン嫌いだったの?」

「うん、いつも家でカップラーメンばっかりだったし。正直、他の物が食べたかったけど。でも、すごく美味しいからラッキー」

私もやっと笑う余裕が出てきました。

 ふと、そう言って笑いながらラーメンを食べる私たちの様子をお店のおじさんがちらちらと不審げに見ました。

「二人とも、中学生? こんな夜中にどうしたの? 見ない顔だけど」

私はこれはまずいと思い、マヤに目配せしてから、

「塾の帰りなんです。早く食べて帰らないとね、マヤ」

と、とっさに嘘をついて、残りのラーメンを平らげて、お店を出ました。

ラーメン屋を出ると、風が出ていました。いつもポニーテールをしているマヤの髪が風になびいていました。この頃はちょんまげからちゃんとしたポニーテールになっていたと思います。マヤはぽつんと建った海の公衆トイレの屋上に行こうと提案しました。

対岸の灯りは宝石をちりばめたみたいにきれいでしたが、その時の私は寒気がしていて、それどころではなかったです。

「伏竜特攻隊のお化け、出るかな?」マヤがふと呟きました。

 私はあの夏の日に会ったB町の公園のおじさんの話を思い出しました。

「死にたくなかったのに、死んじゃった兵隊さんだっけ。戦争がなければ、今も生きてたかもね。私たちのおじいさんとかの世代だよね」

「うん……可哀そうだよね」

マヤは遠くを眺めていました、というか、遠く以外に眺めるものがなかったと言った方が正しかったように記憶しています。

「今の私たちとは逆だね。私たちは死にたいから、ここに来てる」

私はそう言いました。

「ううん、逆じゃないよ、東郷さん。同じだよ」

マヤがそう言ったのが意外でしたので、私は改めてマヤの顔を見ました。

「死にたいんじゃなくて、死にたいと思わされてるんだよ。親たちに、大人たちに。マヤも東郷さんも、大人たちに殺されるんだよ」

 私はその時のマヤの言葉の意味が分からなくて、首をひねりましたが、今ならわかります。そうです、若者の自殺は若者の責任でも罪でもありません。そう追い込んだ周囲の大人たちの責任です――そうです、悪いのは大人なんです。

 でも、その時の私はそれがわからなかったので、財布の中の青いカプセルの存在をことさらに意識しました。これを使うべき時が来たと、私はその時思っていたのです。

「これから、どうするの? マヤは? 私は――」

マヤは私に答えず、唇を嚙みしめて泣いていました。

「私は死ぬよ」と言いそうになった時に、一台のオートバイの音が近づいてきました。はじめは暴走族だとやっかいだと思い、身を屈めましたが、一台だけだったので通り過ぎるのを待ちました。

「君たち、何してるんだ?」

そのオートバイは地元の警察官のものでした。


その後警察官が無線で応援を呼んで、警察署に私たちを保護するのに時間はさほどかかりませんでした。

その時、私はかえって安心しました。正式な組織名は知りませんでしたが、警察なら、もしかしたら教育委員会とか児童相談所だとか、とにかくまともな大人にマヤを預けられると思いました。

しかし、マヤも私も自分からは身元を口にしませんでした。マヤの両親が来たら引き戻されるだけだし、マヤも強姦されそうになったなんて言えません。

「口が堅いねえ、君たち。どうせ悪さして親に叱られたんだろう」

取調室の警察官は意地悪くそう言いました。

私は思わずかっとなり、「悪いのは大人の方です!」とつい言ってしまいましたが、マヤがそれ以上言わないようにと制止しました。

何時間経ったかはわかりませんが、取り調べ室の時計が、夜中の四時まで見えていたのは覚えています。私もマヤも眠くなっていました。私は今こそと思って、トイレに行きたいと言って、トイレの中でこっそりとあのカプセルを飲みました。幸い、すぐには効かなかったようで、その後三十分くらいしてから私は取調室の机に突っ伏して眠ってしまいました。


気が付くと、取調室の電話が鳴り、その音で私たちは起きました。朝の六時頃です。何か警察官が話していましたが、よく聞き取れません。ですが、私たちに関する話だとは分かりました。

「君たち、横浜の子でしょ? 松本真矢ちゃんと、東郷浩子ちゃん。今、始発で真矢ちゃんのご両親が迎えに来るからね。真矢ちゃんて、どっちの子?」

 マヤは観念したようで、「はい」と小さく返事をしました。

「マヤ、ダメだよ。また同じことの繰り返しになるよ。あの事、言わないと」

「ダメ、言わないで、東郷さん」

この時言わなかったのは間違いだったのか、それとも正解だったのかは、未だにわかりませんが、マヤはどうやら親が迎えに来るのを待っていた様子でした。

私は、そんなマヤに腹を立てていました。何故マヤがこの時、素直に親からの迎えに応じたのかが、さっぱりわかりませんでした。

やがて取調室にマヤの家族が揃ってやってきて、涙の対面になりました。マヤのお父さんもお母さんも、本心なのかはわかりませんが、「すまなかった、心配した」と繰り返し言ってマヤを抱きしめました。マヤの表情は見えませんでした――いいえ、この時の私はあえて見ないようにしていたのです。

 マヤはこの一件で、崩壊しかけた家族を取り戻す形になりました。その後、マヤの家の離婚の話はなくなり、お父さんも真面目に働くようになってきたと、後に聞かされました。




今のクリスマスイルミネーションは、十一月の一日から飾りつけられていますが、あの頃はどうだったでしょうか。少なくとも今ほどハロウィンが盛り上がっていなかったので、多分少し遅かったと記憶しています。とにかく、クリスマスツリーを見かけるような時期ですから、一年で最も寒い時期に近づいていました。

私は二月生まれですからまだこの時は十三歳でしたが、ほとんどの同級生は十四歳になっていました。マヤは十一月生まれでしたから、あの家出騒動の日の三日後に十四歳になっていました。そのことを思い出してはいましたが、昨年のようにプレゼントとカードを買いに行く事は出来ませんでした。

確か、昨年の十三歳のバースディにはマヤに貯金箱を、私はブックスタンドをそれぞれ贈り合ったのを覚えています。あの猫の形をしたブックスタンドはまだ健在で、埃が被ってはいますが、今も本棚の隅で活躍しています。

 あの家出騒動の日に、私を警察署に迎えに来たのは、二日酔いの母ではなく、東京の祖母でした。いきなりでびっくりしましたが、私は母が来るよりも安心したのを覚えています。

でも、今はやはり母に迎えに来てもらった方がよかったと後悔しています。

祖母には帰り道、今まで起きた事を話しました。母の酒浸りの生活や虐待や育児放棄、大事なカメラと本を売られてしまったことも言いました。でも、兄の暴力には言及しませんでした。なぜなら、兄はこの後まもなく山村留学を強いられて、長野のりんご畑で働くようになったからです。よっぽど言おうかとも思いましたが、将来の為にひとつ貸しを作っておきました。

 母はあの晩、私が投げつけた消毒用アルコールを麦茶で割って飲んだらしく、急性アルコール中毒で、救急搬送されました。祖父が病院に兄と付き添い、祖母はN海岸の地元警察署まで私を迎えに行ったという訳です。

そのまま祖母は三日くらい、横浜の私たちのアパートに泊まっていましたが、母の検査結果が出た時には、もう東京へ引っ越すことに決まっていました。母は肝臓がんで、その時はもう、入院して体力を快復させてから手術をしないといけない状態でした。また、手術しても助かるかどうかもわからない状態です。母の退院は先が見えませんでした。重度のアルコール依存症なので、手術が終わったらアルコール依存専門の病院に入れなければならないと聞かされました。

私はやっと楽になれると思いましたが、そんな風に母が滅んでいくのを望むのは、罪深い感じがして、表面的には母を心配しているふりをしました。それは祖父には見抜かれなかったようですが、祖母にはわかったらしいです。それでも祖母は私を責めることなく、かえって私を哀れに思って、大事にしてくれました。

母がホスピスで亡くなったのは、私が高校三年生の時でした。十七歳の私は、悲しめない悲しみを噛みしめ、泣くに泣けない自分をひたすら惨めに感じました。

東京の中学に転校が決まり、私は最後の日にクラスのみんなから寄せ書きを貰いました。「元気でね」と当たり障りのない事ばかりが書かれていました。マヤからも「ありがとう」としか書いて貰えませんでした。私は今にして思うと、この二年一組の中で――いいえ、このH中学校の中ではしょせん「東郷さん」と余所余所しく呼ばれるだけの存在だったと実感しました。

しかし、マヤが「夾竹桃の前で話がある」と授業中に手紙をくれたので、これが最後の密談だなと思い、放課後に私たちはあの校庭の夾竹桃の前に行きました。

すっかり花が枯れてしまった夾竹桃の前で、マヤはばつが悪そうに謝りました。一言、「ごめんね」と。

私は首を振って、あの後どうしたかを聞きたくても聞けず、マヤの顔も見れませんでした。でも、私はしばらく考えてから、こう切り出しました。

「いいの? マヤは? あんな大人にまんまとだまされて。そのうち本当に吉原に売られても知らないよ?」

私は口をとがらせて、卑屈に言いました。

「だって……マヤはお父ちゃんとお母ちゃんに仲直りしてもらえて、それだけでも幸せだから。一人よりも四人の方が、何があってもマヤは――本当にごめんね、東郷さん」

というと、マヤは本屋の紙袋を差し出しました。

「ラーメン美味しかった。海も見れて、マヤ、本当に感謝してる。だから、これ」

開けてみて、とマヤが言ったので、私は中身を確かめました。新品の文庫本が一冊入っていました。

「アパートの大学生のお兄さんに、友達にプレゼントするならどの本がいいか聞いたの。そうしたら、一番大事な友達なら、この本がいいよって言ってたから」

中身は、夏目漱石の『こころ』でした。私はいつか読もうと思っていた本だったので、素直に受け取りました。

「マヤはこれ、読んだ?」

「難しくて読めなかった」

「ふうん……」

私はなぜか、少し恥ずかしくなりました。俯きながら、ぱらぱらと文庫本のページを捲りました。

「マヤ、ありがとう。大事にする」

「うん」

少しぎこちない笑いではありましたが、私たちは握手をしました。

「さよなら、マヤ。元気で」

「東郷さん……ううん、浩子。東京の新しい学校でなめられないようにね。ちゃんと友達作るんだよ? マヤみたく、まずは相手に笑いを提供する事。いい?」

マヤはそう言って私の顔を、目をじっと見ました。

「笑い? どうやって?」

「うーん。名前が東郷だから、自分から『ゴルゴ13のデューク東郷です』とかさ。男子はそう呼ぶじゃん? ようは笑えればなんでもいいんだよ」

「それがマヤの友達作りの秘訣?」

「うん、マヤの本当のお父ちゃんは、あの人だしさ」

マヤは真っ白な出っ歯を見せて笑って見せました。その顔を見ると、本当にマヤはあの出っ歯で有名なお笑い芸人に似ていました。

連絡先の交換はしましたが、私たちはそれ以来、三十年以上会っていません。でも、離れていても会えなくても、あの十三歳の季節を共にした、大事な友達であることは間違いないと思っています。


私は最後に、いつも通っていたあの薬局に絆創膏を買いに行きました。寄せ書きの紙の端で左手の子指を切ってしまったからです。それと、重要な用事もまだありましたから。

「やあ、今日は頭痛薬? それとも胃薬?」

ヤクザ石のおじさんはいつもの通り、にやにやと笑って私を出迎えました。

「青酸カリ、偽物でしょ? あれ」私は恨めしそうに言いました。

「おや、使ったのか。効果あっただろう?」

「効果があったら死んでます」

「おやおや、やっぱり自分で使ったか。困ったね」

ヤクザ石のおじさんは頭をかりかりと掻いて、呆れた様子で言いました。

「私――明日、東京へ引っ越します」

私は絆創膏の箱をレジに持っていきました。おじさんは百五十円だと言いました。

「そうかい、そりゃまた淋しいね。お得意さんが一人減っちゃうのか、そうか」

おじさんは私から五百円札を受け取ると、おつりをレジから出しました。

「ちょっと待っていなさい。いいものあげるから」

そう言って奥の薬棚のある部屋に行くと、ヤクザ石のおじさんはしばらくして、またレジカウンターに引き返してきました。

「これ、餞別がわりにあげるよ。今度は本物だ」

おじさんは紙に包んである粉の薬を私にくれました。

「本物、ですか?」私は怪しいなという表情をしていたと思います。ヤクザ石のおじさんは、それに構わず言いました。

「ああ。効き目抜群だから気を付けて。前に言ったように、寝る前にしか効かないからね」

「いいんですか? 本物なんか渡して」私はおずおずと言いました。

「ああ。だって、おじさんはヤクザ石だからね。いつも言っているだろう?」

ヤクザ石のおじさんは、にかっと笑って、来たばかりのお客さんを見て、「いらっしゃい」と声をかけました。

「いいかい? どんなことがあっても生き延びろ。大人に殺されるなんて馬鹿げてる。一番の処方箋はそれだからね」

そう真面目に言うおじさんの眼は本気の様子でした。だから私は何となく意味が分からなかったのですが、素直におじさんにお礼を言って、店を出ました。

 それから、私は東京で新しい生活を送りましたが、暫くの間、その薬はお守りとして、マヤから貰った本のしおりにしていました。

でも、時が経つにつれて、すっかりその薬の事は忘れてしまいました。その薬の包みが今、一体どこにあるのかも忘れるまでになりました。何せこのノートを読むまで、この薬のお守りの事も忘れていたくらいですから。







十一

このノートをどんな気持ちで書いたかは、今となってはわかりませんが、書いていたあの頃よりも明るい未来の日に向かって書いていたのだと思います。

ここでぷっつりと暗号ノートは終わっています。もう書く必要のない時期になったのか、それとも書けなくなったのか。理由は思い出せません。でも、今、私はこうして生きています。

暗号ノートを読み終わったのは、もう明け方でした。この時私はようやく、死んだマヤの為に涙を流しました。ひっそりと静かに、大事な友達の為に。

そしてあの四人組の写真を、小さな仏壇に置き線香に火をつけました。その後に写真をフレームに入れて、本棚の真ん中に置きました。あのマヤがくれた猫のブックスタンドの横に、あの日貰った最後のプレゼントの夏目漱石の『こころ』の文庫本と一緒にです。

明るくなった窓を見ると、私はすっかり眠くなり、暗号ノートと地図を元の箱に戻してから、布団に入り、そのまま眠りました。


そして翌日、あの始業式の朝と同じように、すっきりと目覚める事が出来ました。何かいいことがありそうな予感がしたのですが、それが何なのかはわかりませんでしたが、とにかく、あの朝の感覚に似ていました。

シャワーを浴びて冷凍庫のベーグルを温めて食べてから、自分のスタジオ向かいました。

今日スタジオでやる作業は、昨日の写真のチェックです。パソコンで一枚一枚、撮り損ないがないかをよく見直しました。一応ちゃんと撮れていたので、そう時間はかかりませんでした。

最後の方に、あの天然パーマの少女の写真がありました。他の子はせいぜい三カットくらいですが、彼女のぶんは十カットもありました。私は全部チェックしてクライアントにメールで送信して納品を済ませました。

それから、使われなかった彼女の写真を全部プリントアウトして、小さなフォトブックを作りました。

H中学校に行ったのは、そのすぐ次の日です。もう梅雨が明けたのでは? と思うほどに晴れていました。

下校時刻がわからなかったので、昼過ぎからずっと校門の前で彼女を探していました。待つこと一時間半で、やっとあの少女を見つけました。彼女は友達と並んで歩きながらおしゃべりをしていました。

「あの、そこの三年生の――天然パーマの――」

名前を知らないのでどう声をかけていいかわからなかったので、ちょっと困りました。

彼女の友達が「あれ、写真のおばさんじゃない?」と口々に言っていたので、彼女はほどなくして気づいてくれました。私はあの少女に声をかけてみました。こんにちは、と。すると、彼女は友達に、「先に行ってて」と言いました。

「こないだはごめんなさい。仕事上、どうしても笑顔の写真が欲しかったの」

そう言って、私は頭を下げてフォトブックを渡しました。

「何ですか? これ……私の写真?」少女は目を丸くしていました。

「そう、あなたの分の使われなかった写真。わざと笑わせて悪かったなと。笑いたくないっていうあなたの気持ちも大事だと思ったから」

「私だけ? このためにわざわざ来たんですか?」

「うん……まあ。私も中学生の時は色々あったしね」私はバツが悪くて恥ずかしく思いながらも、そう言いました。

少女は早速、フォトブックを開けて見てくれました。「私ってブスだあ」と言いながら、ページをめくる彼女は、自然な表情をしていました。

「ほかの子の分はないから、内緒にしてね」

「はい、内緒にします」

はにかんだ少女の顔は、とても印象的で、思わすモデルにスカウトしたいと思ったほどでした。モデルと言っても、自分の趣味の作品のモデルですが。

「あの日、何かあったの?」

「あー……えーと。ちょっとお母さんと喧嘩しちゃって。進路のことで」

「お母さんと仲悪いの?」

「ううん、たまたまあの日だけです」

「そう、よかった」私はそっと胸をなでおろしました。

「なんか、まめなんですね。写真屋さんて」

くすっと笑った少女の顔もやはりチャーミングでした。

「そうかな?」

「ありがとうございます、大事にします。これ」

そうして手を振る少女を見て、私は心の中のシャッターを切りました。

私は青々と生い茂った桜並木の下で、切り揃えられたような丈の制服のスカートを見て、「時代が変わったんだな」と呟きました。

見上げると太陽がすっかりまぶしくなっていて、日焼け止めを塗り忘れたことを後悔しました。もっとも、後悔しても遅いくらいの年齢になってしまいましたが。

そうこうしているうちに、胸ポケットの中のスマートフォンが鳴りました。

「はいはい、東郷です」

「浩子先生、何やってるんですか! 今日の宝石の撮影の時間過ぎてますよ?」

電話の相手は、アシスタントの杉野くんでした。そういえば、今日も撮影の仕事が入っているのをすっかり忘れていました。

「たまにはキミ一人でやってみなさい」

 半分冗談で笑って言ってみました。

「無茶ですよ、今回のは手ごわいんですから! 先生。早く帰ってきてください」

私は笑って、「すぐに帰るから」と言って電話を切りました。

「ヒロコー! 早く早く、先行っちゃうよ?」

「待ってよ。すぐ行くから!」

私と同じ名前の少女が校門の向こうへ、先に行く友達を追いかけていきました。私とは似ても似つかない同じ名前のあの子には、名前を呼んでくれる友達がいる――そのことがなんとなく嬉しく感じました。

「また、いつか撮りたいな」と、自然とそんな独り言が口から出ました。

宝石よりもきらきらと輝いている、あの難しい年ごろの子供の笑顔をまたいつか撮りたい――こんな素敵な仕事をまたやりたいと、心から思いました。

私は、踵を返して桜並木の校門を後にして、東京のスタジオに急いで帰りました。

十三歳の地図にはなかった、今現在の私の居場所へと。




参考文献

『海底に消えた青春 知られざる特攻』 児玉辰春著 汐文社

『ロミオとジュリエット』 ウイリアム・シェイクスピア作 小田島雄志訳 白水社

『火星年代記』 レイ・ブラッドベリ作 小笠原豊樹訳 早川書房

『わたしの人形はよい人形』 尋常小学校唱歌 作詞作曲者不明


原稿用紙換算 百六十四枚




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