小説 『もしも明日が槍ならば』

原稿用紙換算九十七枚

 

                          

そして、神は諸国民の中で必ず裁きを行い、多くの民に関して事を正される。そして彼らはその剣をすき刃に、その槍を刈り込み鋏に打ち変えなければならなくなる。国民は国民に向かって剣を上げず、彼らはもはや戦いを学ばない。

                     旧約聖書 イザヤ書 第二章四節

 

 

 またあの男が帰って来た。身体中からなんとも言えない酷い死臭を纏った、あの男が私のもとに。

 私は彼を癒すための慰安婦に過ぎないのだろうかと、時々考える。だが、すぐに考えるのをやめて、彼を胸に抱きとめる。何もかも考えるのをやめ、悍ましい快楽の記憶をかき

消してくれる悪臭を持つ彼に身を任せる。

「また傷が増えたね」

 私は彼……友明の肩にある新しい傷を見つけて呟いた。切り傷ではなく、銃によるものである。前に教わった、腿にあるのと同じものなのだろうが、その部分の皮膚の表面は、つるつるとしていて、赤黒かった。

「ああ、気にするな。もう治ってる傷だから。それより飯まだ? 腹減った」

 友明は服を着ながら、私に食事の支度を続けるように促した。料理中にいきなり帰ってきて、狭い台所に私を押し倒しておいて、そんなことを言う。いつもそうだ。

「魔法の粉の臭いがする」

 部屋中に充満しているカレーの臭いをくんくんと嗅ぐと、彼はそう呟いた。

「ああ、これからは暫く作れないかと思って」

「いいよ。好きで食ってるんだから」 

 私は着衣を整えて料理の続きを始めた。今日はチキンカレーと青菜の胡麻和えの予定であったが、友明がいるなら酒のつまみにもう一品か、もしくは別メニューが必要かもしれ

ないと思い、冷蔵庫の中身を確認した。中にはあまりつまみになりそうなものが入っていなかったので、エプロンをほどいた。

「菜々子、どこへ行くんだ」

「買い物。お酒飲むんでしょう? ついでにおつまみになるものも買ってこないと」

「俺も行くよ」

 私は友明と一緒に町を歩くのは少し嫌だった。彼の体臭は一メートル圏内に近づいた人が、思わず顔をしかめたくなるほどのものだからである。死体が腐った臭いが身体に染み

付くと、風呂に入っても数日間は消えないものだと言う事を知ったのは、彼と付き合いだしてからだ。友明が纏っている悪臭はとても酷いもので、単に肉が腐った臭いと言うより

も、何か不吉な感じのする、ひねたような不快な臭いである。

人間が死ぬと二十一グラム体重が減り、その二十一グラムは魂の質量と言われている。つまり、物理的に計算の合わない重さが何処かへ消えてしまうというのだ。

以前、友明が茶の間で酔いつぶれてしまった時に寝室まで運んだのだが、細身でそんなに重くないはずが、随分と重いと感じたものだ。それは単に友明が筋肉質だからではなく、殺した人数分の何か怨霊のようなものが、身体に纏わりついているせいではないかと思った。何人殺したかなんて訊けないが、滅多にしない戦場での話を聞く限りでは、恐らく百人以上は殺しているだろう。そうなれば、二十一グラムかける百人分としても、およそ二キロ以上という計算が成り立つ。この仮説が正しければ、友明が死んだ時には、体重は二キロ以上計算の合わない重さが、どこかに抜けてしまうと言う事になる。勿論、魂は遺族や故郷に帰るかもしれないが、殺した人間にも憑いてくるものも多いのではないか。

友明が身に纏っているあの不快な臭いと異様な重さは、死んだ人間のなにかを背負っている証なのではと、私は考えている。

 初夏の土曜日の夕方だが、今日は真夏日が観測された。今年もまた猛暑の気配を感じる。桜が散ってつつじが終わったかと思ったら、藤も終わってしまって、花弁が茶色くなっ

てしまった頃だった。海に近いこの町は、都会で働いて貯めたお金で老後の為に家を買って住む人が多いと言う。確かに、東京に比べて高齢者が多い感じはする。

「何が食べたい?」私は歩きながら友明に訊いた。

「和食、かな」

「もっと具体的に言ってよ」

「日本でしか食えないものなら何でもいい」

「それなら定食屋とか居酒屋にでも、寄ってから帰ってくればよかったのに」

「菜々子の料理が食いたかったんだよ」

 友明は口が上手い方ではないと思うが、思ったことをそのまま話すのか、それともとっさに嘘をつく癖があるのか。付き合いの長い私でさえも、いつも判別できずに困惑してしまう。

「帰ってくるなら電話してよ。手紙では明後日だって書いてあったから、何にも用意してないよ」

「ごめん、予定が早まった」

「携帯電話はどうしたの?」

「池ポチャ」

 私はそれを聞いて、天を仰いだ。そしてとっさに思いついた、皮肉めいた冗談を言ってみた。

「……ジャングルでゴルフでもしてたの?」

「ああ、鉛玉で打ちっぱなしだった」

 こんな笑えない冗談を言い合う様になってから、もう八年近くになる。

「携帯、使わないならもう買わないで。毎回毎回、お金がもったいないよ」

「最近は洗えるスマホが出てるじゃん。電車の広告で見たよ。あれ欲しい」

「高いからダメ。いくら防水でも、ジャングルだとか砂漠だとか。そんなのばっかりなんだから。持ってるだけ無駄でしょ。安いガラケー買うから、日本にいるうちはそれにして」

「ええ、通話とメールだけ? ネット出来ないじゃないか」

「パソコンで十分でしょ。嫌なら買わないよ」

「仕方ないなあ。じゃあ、今から買いに行こう」

「お腹空いてないの? 明日にしようよ。仕事が終わったら家に電話するから、駅前で待ち合わせて」

「今欲しいんだよ。今夜からでも、また仕事探さないと」

「お腹空いてるから帰って来たんじゃないの?」

「まだ大丈夫。あっちじゃ二日三日食えなくて当たり前だしな。バスで駅前まで出ようぜ」

 私のお腹が空いていることには、全く考えも及ばないらしい友明は、さっさとバス停の方向に足を向けた。私は嫌々ながらそれについていく。歩きながら財布の中身を確認すると、三千円と小銭だけだった。

「ATM でお金おろさないと」

 私は友明の左手首のダイバーズウォッチを見たが、夕方四時を回ったところだった。駅前行きのバスの発車時刻まで、あと十五分程度といったところだ。

「暑いね、コンビニでアイスでも食べようよ」

「太るぞ、菜々子。お前、また太ったんじゃないか? 痩せたらもっと美人になるのに」

 私は毎回繰り返されるこの言葉に厭き厭きして、溜息をついてこう言った。

「じゃあ。飢えて痩せるから、私も一緒に行く」

「馬鹿言うな。女連れてドンパチなんかやってられっかよ。アイスは俺も食いたいから買おう」

 コンビニで私はイチゴ味のカップアイス、友明はバニラのソフトクリームを買って、コンビニの前にあるベンチで食べた。

 そうこうしているうちに、時間よりも少し遅れてバスが来たので、それに乗って駅前に出た。駅前の商店街はがらんとしていて、その一角に、携帯電話のショップがある。寂れたアーケードの中にはぽつぽつとしか店はなく、携帯のショップは私の契約している携帯電話のプロバイダーのものしかない。そして当然品数も少ない。

ちょうどその日は格安のフューチャーホンが売ってなかった。私は電車に乗って別の店舗に行こうとしたが、店員がキャンペーンだとか言って、新しいスマートホンを勧めてきた。

友明が洗えるスマートホンを欲しがっているのを察して、若くて賢そうな店員は、どこがどう便利かをとうとうと話し続けた。

そして数十分後、私はまんまと二人の策にはまり、友明の希望していた洗えるスマートホンを買わされてしまった。しかも、名義人は友明本人だが、口座に殆ど残高が無い状態

なので、私の口座から料金を引き落とす事になってしまったのだ。

「サンキュ、菜々子。お礼にラーメン奢ってやる」

「それはどうも。カレーは明日にしよう。お腹空いた」

 そうしてその日は友明の少ない小遣いで、あまり美味しくないチェーン店の豚骨ラーメンをすすった後、ビールと乾きものを買って帰った。

 その夜、友明はまるでオモチャを与えられた子供の様に、ずっとビールを飲みながら新しいスマートホンを弄ってばかりいた。

「今度はなくさないでよ。ちゃんと現地に行く時は基地にそれ、預けとくのよ?」

「司令部が吹っ飛ばされなければね」友明は顔も上げずにそう言った。

 

 

「傭兵ってのはまあ、高給取りなイメージがあるけど、実際はボランティアみたいなものなんだねえ。その彼氏はまたもの好きな」

 スミおばちゃんはそう言いながら、ケープを首に巻き付けた。何か月かに一度、私が横浜のスミおばちゃんのアパートまで出向いて髪を切ってあげているのだ。私は霧吹きで髪を湿らせてから、鋏を手に取った。

スミおばちゃんは、母の幼馴染であり、小さいころからの私のよき理解者だ。横浜市内のとある急行が停まらない駅から歩いて十分くらいの所に、スミおばちゃんはアパートを借りて住んでいる。間取りは私のアパートと同じ様なものだが、若干スミおばちゃんの部屋の方が新しい感じがする。

「友明はそのX国のY民族のために命を懸ける事で、現地の人の命が少しでも助かるって言ってるけどね」

 友明の戦地でのギャラは、半年戦っても日本円で一万円そこそこらしく、日本に帰って働いても、現地にある難民キャンプなどに寄付してしまうのもあって、いつも帰ってくる時は、財布の中には数千円しか入っていない事が多いし、酷い時は小銭だけしか持ってなくて、空港まで迎えに行った事もある。

X国では、数十年にわたる内戦が続いており、現在は軍事政権下の支配民族であるZ民族に、Y民族は虐げられている。重税や強制労働だけでなく、女性達はほんの小さな少女までもが強姦を繰り返されているとの話である。

私も同じ女性として、Y民族の人々には同情するが、命を懸けてまで外国人である友明がY民族に尽くす心理が、交際当初はあまり分かっていなかった。世界で忘れられた内戦と言われるX国のニュースは、テレビニュースもネットもあまり視聴しない私には、いまいちピンとこないものだった。

しかも私は英語が苦手なので、海外のサイトを友明に翻訳してもらって、ようやく詳しい事情を知った。このX国の問題は、日本や大国や先進国などの国々にとっては、介入しても旨味のない内戦らしい。X国は資源も乏しい小国だから、大国の政府は今のところは見て見ぬふりをしているのだろうとの話である。

 スミおばちゃんには顔と片方の耳がない。ケロイド状に溶けてなくなっている。若い頃に旦那さんが、顔に硫酸をかけたからだ。その旦那さんがもうこの世の人ではないせいか、そのことをちっとも恨んでいない様子である。

ただ、「美容師が怯えるから美容院に行けない」とスミおばちゃんが言うので、こうして私がたまに髪を切っているのだ。それでも私が小さい頃から見ている限り、スミおばちゃんの皮膚はだいぶ再生している。

スミおばちゃんは、表面の美貌にはあまり執着していない様子である。事実、心がきれいだからどんな顔をしてようとも、スミおばちゃんはスミおばちゃんなのだ。この逞しく、内面的に美しい人こそが、本当の美女だと思っているし、私の中ではスミおばちゃん以上の美人なんていないと思っている。

「前にも言ってたね。男と男の勝負の世界で、生きるか死ぬかをかけて戦いたいとかって。まあ、うちの死んだ亭主を見てても思ったけど、男ってのはまあ、勝手だからね」

 スミおばちゃんは友明の話をしても平気でいる。普通、傭兵…自分から望んで戦争をやっている人間なんかと付き合う女なんて、全面否定するものなのに。スミおばちゃん自身の旦那さんが元暴力団幹部の運転手だったからか、何か理解できるものがあるのだろうか。

「一度は別れたのよ。ほら、東京からこっちに引っ越してきたでしょう? でも、一年もしないうちに、よりが戻っちゃったのよ。何となくね」

 友明とは東京に住んでいた頃、一度別れた。私の勤めている会社が横浜に支店を出す事になり、私はそのオープニングスタッフとして都内から横浜の支店に転属になった。その関係で私が湘南に引っ越したのを契機に、自然と別れる事になってしまった。

しかし、結局はその次の年に友明は戦場から帰って来てすぐに、自分のアパートを引き払って、私の住む湘南のアパートに拠点を置き、戦場と帰国を繰り返す事になった。友明も、私の稼ぎで食べているのが悪いと思っているらしく、最低限の生活費は払ってくれる。私は極端な節約はしないものの、いつも倹約を心掛けている。私自身もX国の為に、何か出来る事はしたいと思っているのだ。

「菜々ちゃんが最初に彼氏の家に転がり込んだからって、何も菜々ちゃんが彼を養う義理はないでしょ。他にいい男沢山いるわよ、菜々ちゃんなら。もう三十五になるなら考えな

いとね。子供が欲しいなら」

「そうかなあ」

 私が友明と別れられない本当の理由は、誰にも言えない。スミおばちゃんにも、誰にも。だからいつも、こんな風に曖昧な返事をして誤魔化してしまうのだ。

「そういや、加奈子とこないだばったり会ったけど。菜々ちゃん、お父さんが癌でもう長くないって知ってた?」

 加奈子とは私の母の名前である。私は家族とは縁を切っているが、内緒でスミおばちゃんとは繋がっている。

「そうなんだ」

「そうなんだって…まあ、光彦さんと菜々ちゃんは一緒に暮らした事が殆どないし、いい思い出がないのは分かるけど。一応親子なんだから、お葬式には出るでしょ。遺産の問題

とかあるし。光彦さんは三回も結婚して四人も子供が居るんだから、ちゃんとしないと遺産分けて貰えないわよ」

「お金なんていらないよ。今更、関わりたくもないし。髪、こんなもんでいいかな? ちょっと短めに切っといたよ」

 私は鏡をおばちゃんに見せて言った。合わせ鏡で後ろもちゃんとチェックして貰った。

「ああ、ちょうどいいね、ありがとう。菜々ちゃんは欲がないねえ。確かに子供の頃、加奈子にはつらく当たられたりして、大変だっただろうけど。光彦さんを憎むように育てられてきたのも可哀想だったね。離婚は夫婦同士のの問題で、どちらかが一方的に悪いなんて事はまずないはずなんだけど。まあ、浮気される加奈子も悪いし、お嬢さん育ちの加奈子に子供を任せっきりにして、他の女に走った光彦さんも、両方共悪いわよね」

「老後の面倒はみんなお兄ちゃんに任せる形になるんだから、遺産くらいはね。お兄ちゃんは小学校まで育てられたから、親だって実感があるんでしょ。私は三つかそこらだったから、お父さんを親だって思った事ないよ」

「千秋君は加奈子が溺愛してたからね。菜々ちゃんは同性だし、加奈子よりずっと美人だから、妬まれてた感じはしたわね。菜々ちゃんは女優さんになるもんだと、みんなが思ってたよ」

「だって、人前で目立つの好きじゃないし。おばちゃんだって美人だったからこそ、モテまくっちゃって旦那さんがやきもち焼いて、その顔になったんでしょ。美人なんていいことないよ」

「まあ、そりゃそうだ」

「さあ。私、帰らなきゃ。友明が帰ってくる時間には帰っていたいし」

「ねえ、菜々ちゃん。あなた本当は…」

スミおばちゃんはそう言って口籠った。私は片付けの手を一瞬止めた。

「お母さんの言ってた事なら、妄想だよ。ありえないでしょ」

「そう…そうよね。ならいいんだけど。加奈子は嫉妬深いからねえ」

「じゃあ、またね」

 私はまだ何か言いたげなスミおばちゃんを残して部屋を出た。ぱたん、とアパートのドアを閉めると共に、私の心のドアも一緒に閉めてしまった気がして、スミおばちゃんに対して、何か後ろめたさみたいなものが残った。

 

 

 スミおばちゃんの家の最寄り駅から電車で南へ下ると、私の住む海辺の町に着く。駅から海岸線を走るバスに乗って私は家路へと急ぐ。五つ目のバス停を降りると潮の香りがして、ここに帰って来たんだなと言う気持ちになるのだ。岩場が多く、冷たく光るような色をしたこの海岸が私は好きだ。

「おかえり、菜々子」

 まだ午後六時過ぎなのに、友明はアパートに帰っていた。のんびりとテレビを観ながら、両切りのガラムと言う歯磨き粉と香辛料の臭いのする煙草を吸い、缶ビールを飲んでいる。

「あれ、早かったね。今日は四時から面接だったでしょ」

「うん、即OKで明日から働くことになった。カレー、先に食っちゃったよ」

「よく飽きないね。あっちじゃ毎日カレーだったんじゃないの?」

「うん、ネズミカレーとかトカゲカレーとかな。日本風のチキンカレーは久々だから」

 友明は何の悪気も無くそう言った。

「やめてよ、そのゲテモノカレーシリーズの話は」

「案外うまいぞ? 今度鳩でも捕ってきて作ってやるよ」

「だからやめてって言ってるでしょ」

 友明は本当に、私に鳩カレーを振る舞ってくれるつもりなのだろう。海外のジャングルや砂漠で、そんな様な事ばかりしていたから、それが彼の普通の感覚なのだと思う。

 もしも日本が何かの戦争か天変地異で荒野になったなら、きっと彼ほど役に立つ人間はいないだろう。もっとも今の平和で安全なこの国では、友明はただのフリーターでしかな

いのだが。

 でも、例えば二人で失職して食い逸れても、友明が鳩やカラス、海の魚や山の山菜で自給自足で養ってくれると私は信じている。その時はカレー粉という名の、どんなものでも美味しい味にしてくれる「魔法の粉」が私達を救ってくれる事だろう。

「お、懐かしい。欽ドコのわらべじゃん。俺、小学校上がってたかなあ、何となく覚えてるよ、この歌」

 友明はテレビ番組に夢中になっていた。どうやら日本語や日本の娯楽に飢えていたらしい。懐かしのテレビ番組特集が始まると、ますます食い入る様にテレビに見入った。

「わらべ? なにそれ」

「昔のアイドル歌手デュオだよ。聞いたことないか、この歌」

 私もテレビを覗き込みながら、友明が差し出した缶ビールに口をつけた。渇いた喉に炭酸が染みた。画面には少しぽっちゃりした女の子二人が軽く身体を揺らしながら歌っていた。


    もしも明日が晴れならば 愛する人よあの場所で

    もしも明日が雨ならば 愛する人よ傍にいて


「……ふうん、なんかいい歌だねえ」

「だろ? 早速、今ユーチューブで検索して、チャンネル登録しちゃったよ」

「はやっ。買ったばかりのスマホをもう使いこなしてるの?」

「うん。簡単、簡単」

「オモチャ好きねえ」

「菜々子ママが買ってくれた、大切なオモチャだもん」

「誰がママじゃ。こんなドラ息子いらんわ」

「まあ、確かに。俺に親が居たら、傭兵なんてやってないな。たぶん」

 友明には親がいない。赤ん坊の頃から施設で育って、中学を卒業すると同時に、少年工科高等学校を経て自衛隊員になった。詳しい事情は聞いていないが、千葉の第一空挺団とか言うエリート部隊に居たとか言う話だ。私と知り合った時はもう自衛隊を辞めて新聞配達をしながら傭兵をやっていた。

 今から十年前、友明は二十八歳の時から傭兵となったが、海外に行っては砂漠やジャングルでほぼ無償で戦い、お金が無くなると日本に帰ってきて働いてお金を貯めて、また海外へ戦争に行ってしまうの繰り返しだ。傭兵というよりも、ボランティア兵士とか戦場バックパッカーの様なイメージだ。

 私もカレーをよそって食べる事にした。鍋にはもうカレーが一人分しかないところを見ると、友明は二、三杯カレーを食べてしまった事になる。

「よく食べるねえ。こんなに大食いなら、戦地でお腹がすぐ空いちゃって大変なんじゃないの?」

「いや、食える時に食っとくから大丈夫。菜々子、実は俺、カレーのチキン全部食べちゃってさ。ごめんな」

 友明は私がカレーを食べ始めると、にやりと笑いながら言った。

「え、まだ肉なら残ってるじゃない……えっ」

「さて、何の肉でしょう。一番、カエル。二番、ウサギ。三番、鳩」

「嘘でしょ?」

「四番、普通の鶏肉」

「なんだ、冗談なの。もう、やめてよ」

 私が思わずカレーを吐き出しそうになっているのを、友明は楽しそうに笑いながら見ていた。私はそっぽを向いてカレーを食べ続けた。

「明日から飯は俺が担当ね。うまいもん食わしちゃる」

「節約とダイエットには良さそうね」

「だろ?」

「でも却下。明日からは暫くカレーは無しね。誰かさんがとんでもない冗談言うから」

 私がカレーを食べ終わる頃には、懐かしのテレビ番組特集は終わっていて、天気予報のニュースが流れていた。今夜から暫く雨が続くとの事だ。


 友明は雨の日は眠らない。雨音がモールス信号に聞こえてしまって眠れないのだと以前に聞いた。訓練の賜物なのか、それとも後遺症なのかは私にはわからないが、私だったら

きっと後遺症になっていただろう。友明自身は「戦場に行っていちいちPTSDになってたら傭兵なんて無理だ」と言っていたが、仮にその言葉が強がりだったとしても、友明の神経の図太さにはいつも感心してしまう。

「眠れないの? また?」

「ああ、まあね。音楽でも聴きたいな」

「もう夜中だからイヤホンにしてね。CD 買ってないから、新しいのないよ」

「パソコン借りるわ。ユーチューブの音源をダウンロードして何とかするよ」

「カラのCD 、二枚あるよ」

「ああ、いいよ。スマホに入れるから。菜々子はもう寝ろよ。明日また仕事だろう?」

「うん。でも、なんか目が冴えちゃった。ハーブティかホットミルクでも入れようか」

「あ、俺はコーヒーがいいな。どうせ眠れないから」

 私は台所に行ってやかんでお湯を沸かした。友明にはインスタントのブラックコーヒー、自分の分には百円均一のハーブティをと、それぞれ淹れた。

 友明はコーヒーを受け取って、ゆっくりと飲んだ。

「ねえ、今日はなんて言ってるの? この雨音」

 私は雨の夜には、友明にいつもこんな質問をしている。

古いアパートのトタン屋根に、ぽつんぽつん、ぽつんぽつーんとか、打ち付けるような、ぽつぽつぽつぽつと連続した音もする。私にはみんな同じ音に聞こえるが、友明の耳には言葉として聞こえている様である。

 友明は、イヤホンを外して暫く耳を澄ませて雨音を聞く。

「今日は『槍、槍』って聞こえる。トンツーツー、ツーツートン……てね」

「槍がどうしたの?」

「さあ、槍でも降ってくるんじゃないのかな。まあ、本当に日本に槍が降ってくる世の中にならなければいいけどな」

「ずっと前は、石だったね。石がどうとか言ってたじゃない」

「そうだっけ。いちいち覚えてないよ」

 私は本当に槍が降ってこないかなあ、とふと思った。そうすれば、友明はずっと私の傍にいて守ってくれるはずだと思ったのだ。

「ねえ、友明。もしも日本で戦争が起こったら、どうする?」

「そりゃ、戦うよ」

「どこでどうやって?」

「そうだなあ。俺はたぶん歩兵だから、本土決戦の時には役に立つだろうな。日本は島国だから、あんまり仕事ないかな? でもまずは敵国で戦う事になるだろうな」

私は、その友明の言葉を聞いてがっかりした。日本が戦争になっても、傍にいてくれないのなら、いったいどうしたら傍にいてくれるのかと、泣きたくなった。

「もしも明日が、槍ならば。愛する人よ傍にいて…」

 友明はさっきの、わらべの『もしも明日が…』と言う歌を替え歌にして、ワンフレーズ口ずさんだ。

「なんてな。日本が戦争する頃には、俺は正規兵としてはやらせてくれないだろうよ。菜々子の傍にいるよ、その時は。まあ、これから先、戦争があるとしたら若い世代が大変だろうけどな」

「本当? 本当に友明は私の事、守ってくれるの?」

「ああ、その時になったらな」

 私は「じゃあ、もうこのままどこにも行かないで」と言いたかったが、その言葉を飲み込んだ。


 

私の勤め先はプロラボと言って、その言葉の通りプロご用達の現像所である。プロラボは年々業績が悪化しているが、それでも多少の売り上げはあるので、こうして何とか続いている。一応業界最大手の企業ではあるので、私の生活は辛うじて成り立っている。

 横浜駅から徒歩十分ぐらいのオフィス街の一角に、その店がある。一階に警備員が居ないせいもあって、うちの店はよく道案内係みたいな感じになっている。つまり、私はこの

ビルの受付嬢みたいなものでもあるのだ。

「いらっしゃいませ」

「ちわ、菜々ちゃん」

 坂場さんと言うカメラマンのお客さんとは、私が入社当時からの古い付き合いだ。実は友明と知り合ったのは、坂場さんのつてである。

 坂場さんがX国で写真を撮りに行っていた時に、現地で友明がガイドをやっていたのだ。坂場さんの写真集には友明が銃を構えて戦う姿が写っていた。私は何となく友明に興味を持ったので、坂場さんに飲み会に連れて行って貰った。その時に、友明を紹介されたのだ。

 初対面の時、友明は冴えない新聞配達員だったので、写真の中の人物とは別人の様に思えた。しかし、いざ話してみると何となく野性味のある雰囲気を持っていて、他の男とは違う何かを感じた。まるで雌がより強い雄を求めるかのように友明に惹かれた。

 一方の友明の方は、何も言わなかったが「ひと目惚れした」とだけ言っていた。私のお金が目当てでない事は、何となくわかるからこそ、長続きしているんだと思う。

友明は普段は明るくてお調子者だが、決して私に戦場での武勇伝を軽々しく口にすることはなかった。友明の仲間が言うには、こう見えても仲間内ではとても信頼が厚いという話だ。

また、現地のY民族の学生に軍事訓練を施す鬼教官だったとも聞いている。素人の学生を一人前の戦士にするには、どうしても部下である彼らに厳しく接しないといけない。それこそ体罰も辞さない覚悟で、可愛い部下を虐めるのだ。それが部下の命を守る事になるし、謂わば愛の鞭である。友明の愛の鞭は、他の教官達の目にも厳しく映ったとの話だ。

「これ、ノーマルスリーブで」坂場さんは、ブローニのリバーサルフィルムを十本カウンターに置いた。

「毎度ありがとうございます」

「友明、帰ってるんだって?」私が現像の受付伝票を書いていると、坂場さんはそう言った。

「はい、私のところに……」

「あのヒモ男、しょーもないな。まあ、そのうち飯でも食いに行こう。現像はいつ上がるかな?」

「今は五時前ですから、六時過ぎには終わると思いますよ。本当は二時間お時間頂いてるので、これからぱたぱたっと入らなければ大丈夫だと」

「そか、じゃあ、向かいの店にいるからよろしく」

「はい、お預かり致します」

 坂場さんは店を出ると、すぐに向かいにある喫茶店に入った。きっとまたいつもの様に、煙草とコーヒーでゆっくりと待っているつもりなのだろう。私もお弁当を作り損ねた時

には、いつもこの喫茶店で日替わりランチを食べている。なかなか安くていいお店である。

 私は伝票の付いた袋にフィルムを入れて、店の奥の作業現場に持って行った。

「リバーサル現像お願いします」

「はーい。おお、また坂場さんか。ありがたや、だね」

 現場の主任が伝票を見てそう言った。店の一番奥にはリバーサルフィルムの現像とプリント、デュープや接写、撮影スタジオなどの現場がある。普通のネガフィルムの現像もや

っているが、この店は横浜で唯一、リバーサルフィルムの現像が二時間で仕上がる店だ。銀板写真は今やもう伝統工芸なのである。専門家やマニアに食べさせてもらっている感は否めない。

「銀板写真の需要が減ってる中、本当に有り難いお客さんですよね」

「本当にな。こうして仕事があることはあるから、しっかりやらないとね」

「菜々ちゃん、フォトショップのあれ、出来たからメールしたよ」

「あ、はい。お疲れさまです。じゃあ電話しときますね」

 私はお客さんに、仕上りの連絡電話を入れた。そして鎌倉にあるスタジオへ届け物をして、そのまま帰るべく更衣室で制服から私服に着替えた。

「店長。私、宮田先生のパネルお届けしてきますね」

「ああ、お疲れ。気を付けて」

「行ってきます」

 

 鎌倉駅近くの立派なビルの写真スタジオでは、宮田先生が待ち構えていた。宮田先生は、写真界ではちょっと有名な大御所で、うちの大のお得意様である。

私は携帯のタイマーを三十分後にセットしてから、スタジオに入った。

「菜々ちゃん、いらっしゃい。ちょっと写真撮らせてよ」

 私はまたか、と厭きれてしまった。

「宮田先生、困ります。私、すぐに店に戻らないと」

 咄嗟にそう嘘をつくが、宮田先生は目を輝かせて、スタジオの照明のある方に私を誘った。

「まあまあ、そう言わずに。店には僕が電話しておくから。君みたいな美人がモデルになってくれないと、創作意欲が湧かないんだよ」

 一応いつも断っているが、店側にはモデルの件は「仕事だと思って付き合ってやってくれ」と言われている。

 私はタングステンライトの下に座らされ、笑顔を作った。

「いいね、いいね、その表情。今度の個展の作品にしてもいいかな」

 思わず「キモーイ」と言いたくなったが、これも営業である。私も趣味で写真は撮るものの、手に職と言うレベルではない。これと言って能のない私が儲からない現像所に、受付嬢兼営業事務として働かせてもらっているのは、私目当てのお客さんがいるからである。

 二十分くらいカメラを向けられた後、宮田先生は私に上着を脱ぐ様に言った。それからしばらく撮影してして、宮田先生は「じゃあ、シャツのボタンを……」と言ったが、私の携帯がタイミングよく鳴った。私は取引先からの電話だと嘘をついて、帰り支度をした。宮田先生から五本の三十五ミリフィルムを受け取った。

「じゃあ、明日またこの現像をお持ちしますね」

 そう言って私は宮田先生のスタジオから、逃げるようにして去っていった。 長居するとヌードを要求されかねないので。

 スミおばちゃんに「美人なんていい事ない」と言いつつ、面の皮一枚で仕事をしている自分がどうしても好きになれない。結局のところ、他にやりたい事が無かったので、高校を出てからずっと他に転職せず、十六年間も今の仕事に就いている。何も努力しなかったわけではないし、資格もいくつか持ってはいるが、変化を求めない性格なので、長々と今の会社に居座ってしまっている。

 一方友明の方は、今回も土木作業員の仕事に就いた。毎朝早く出勤して私よりも遅くに帰ってくる。

 自衛隊に居た時に色々な資格を持つことが出来た友明は、肉体労働以外にも出来る仕事は沢山あるのだろうが、汗水流して働く方が性に合っているらしい。

 でも、この先お互いが年をとったらどうするのか、と言う不安もある。私ももう今年で三十五歳だし、友明も三十八歳だ。そんな私がいつまでもモデルもどきをやっていけると

は思えないし、友明だっていつまでも戦場バックパッカーではいられないだろう。

 私はどうにか二人で生き残れる様に、何か手筈を整えなければと考えた。

 友明さえ傭兵を辞めて日本で就職して結婚してくれれば、少しは安心なのだが、今回もまたお金が貯まったら戦場に行くつもりらしい。

 私自身が友明ときっぱり別れて、別の人と結婚した方がよいのだろうが、私には友明なしではいられない事情があった。


 

 戦地から帰ってきて一ヶ月もすると、友明のあの酷い体臭も薄れてきた。本当はもっと前から臭いは消えているのだが、私は不思議と死体の臭いを感じていた。と言うよりも、それは戦争の気配だったのかもしれない。あの不吉な何かを感じなくなった代わりに、私はまた悍ましい夢を見る様になった。

 その夜、私はテレビを見たまま、うとうととしだして、友明の膝で寝入ってしまった。友明は私を起こさないように奥の寝室まで運んでくれた。しかしそのまま安眠は出来ず、私の悪夢がまた始まった。

 生き地獄の様な悍ましい快楽に身を任せた、過去の自分が夢の中で官能に浸っていた。

「嫌だ、やめて。やめて……」

「菜々子、起きろ。菜々子、菜々子しっかりしろ!」

 私が悪夢に魘されていると、友明は私の名前を呼んで揺り起こした。

 目が覚めると友明がいた。ほっとしたら涙が溢れ出てきて、思わず友明にしがみついた。

「菜々子、怖い夢見たのか? 苦しそうだったぞ」

「うん、大丈夫」

「またあの夢か?」

 私は黙って頷いて、ティッシュで涙と鼻水を拭いた。

 友明は煙草に火をつけた後に、缶ビールを二本持ってきて一緒に飲もうと私を誘った。

「忘れようとはしてるんだけど」

 私はビールのプルトップを開けて言った。友明は黙ってビールを飲み続けた後、窓を開けた。もう明け方だった。澄んだ空気が心地よく部屋に入ってくる。

「吐き気がする様な話だな、全く。父親の癖に娘に手を出すなんて」

 スミおばちゃんにも言えなかった話とは、この事である。私は中学生の時から家を出るまでの数年間、父親を相手に身体を売っていたのだ。

 私が三歳くらいの時に両親が離婚してから十年後の中学一年生の時に、ほぼ初対面の父親に無理矢理肉体関係を迫られ、小遣いと生活費欲しさに、ずっと言いなりになっていた。それを知りつつ母は、止めることも守ることもせず、兄と一緒に私を淫売呼ばわりしながら、そのお金でのうのうと暮らしていたのだ。

「だから、俺が殺してきてやるって言ってるだろ。家はどこだ? 横浜か?」

「こないだスミおばちゃんに聞いたけど、もう癌で長くないみたい。手間が省けたね」

「呑気だな、お前」

「呑気なのかな。当事者になっちゃうと、呑気にならざるを得ないって感じかな」

「散歩でも行くか? 雨が上がって晴れたし」

「うん、海まで散歩しようか」

 朝焼けの空を見ながら海まで歩いていくと、散歩する人と何回かすれ違うが、もう誰も友明の臭いで顔をしかめる事は無くなっていた。この時間にランニングやウォーキングを

する人も結構いて、確かに高齢者が多いが、若い人にも会う事たまにある。

 海岸に着くと、朝日が対岸から昇っていた。波は穏やかで、白い泡が波打ち際に押し寄せていた。

「菜々子、カウンセリングにいかないか?」

「そんなお金ないよ」

「でも、このままじゃ……」

「友明が居てくれれば大丈夫。こうして一緒に居てくれるだけでいいの」

 私はサンダルを脱ぎ、まだ足が凍りそうなほど冷たい海水に、くるぶしまで浸かった。友明もつっかけを脱いで砂浜の小石やら貝殻やらをぽんぽんと海に投げ込んだ。このあたりの海岸は岩場が多く、砂利だらけだ。また浅瀬が狭く、ペンキの禿げた遊泳禁止の看板が傾いて立っている。

「カウンセリングは一回一万円だってさ。それも毎週とかでしょ。毎月四万も五万も出せないよ。効果が保証されてる訳でもないしね」

 私は努めて明るく振る舞った。無理をしてと言うよりも、明るく振る舞う事で自分の心を明るい方向に持って行こうとしているのだ。

「死体の臭いがしないと友明だって判らないから、こんな夢見るのかもね」

「医者に行かないか? 精神科なら保険がきくぞ?」

「薬漬けになるのは嫌だなあ」

 友明が海外にいる間も、もちろん悪夢を見るのだが、友明が居ると気が緩むのか、または死臭のしない男が傍に居ると父を連想するのか、悪夢を見る回数が増えてしまう。

 どうやら、死臭は友明を他の男とを区別するポイントになっているらしい。それと同時に私は、友明が殺した沢山の人間の死によって、精神のバランスを保っていると言えるだろう。戦争によって傷を負う人間が多い中、戦争なしには生きていけないなんて、私という人間はなんと罪深い存在なのだろうか。

「いつか天罰が下るだろうね」私はぽつりと呟いた。

 友明は何も言わずに、ただ海の向こう側を見つめているだけだった。


 

友明が帰国してくる数か月前に、アパートの隣にミミさんと言う独居老人が引っ越してきたので、たまにお惣菜をお裾分けしている。今日はかぼちゃの煮つけが上手くできたので、温かいうちに届けに行った。

「おお、てぇんきゅう。みーの好きなパンプキンだ」

 ミミさんは終戦後からアメリカに半世紀以上も住んでいたので、日本語と英語を混ぜこぜに話す。文法は日本語だが、日本語の単語がとっさに出てこないので、時々英単語が出

てくる。私は英語が殆どできないので、わからない時はメモして後で携帯の翻訳アプリで調べている。ミミさんは西洋系の血が流れているせいもあって、少しいかつい感じの顔をし

ているが、笑うと人懐こい表情を見せる。

 ミミさんはいつもお惣菜を持って行くと、お茶菓子でもてなしてくれるので、今回も部屋にお邪魔した。今日はいつもの美味しいお茶ではなく、コーヒーとブランデーケーキを振る舞ってくれた。

「ところで、ゆーのハズバンドはミリタリーかい?」

 ミミさんは普通に、まるで天気の話でもするみたいに、私にそう訊いた。

「え、いえ。海外で井戸掘りのボランティアをやってたんですよ」

 私はとっさに友明の素性を隠した。

「おお、そうかい。てっきりエトランジェのソルジャーかと思ったよ」

 やはり今年で九十五歳になる戦争体験者には、友明の正体は隠せないものなのだろうか。

 ミミさんは遠い目をしながら、こう切り出した。

「みーの最初のハズバンドになるはずだったフィアンセは、てっきり戦死したんだと思って、別のとメリーして、アメリカに行ったんだよ。そしたら、なんとまあリブしてたんだよ。フィリピンで取り残されてたってわけさ。やっとミート出来たのは、先月、九州に行った時だったよ」

 つまり、およそ七十年ぶりの再会だったと言う訳だ。

「それは、複雑なご事情でしたね」

「うおーずってのは、何も弾が飛んで来たり、ハウスが焼けたりするだけがうおーずじゃないんだよ。ふぁあみりいが離れ離れになるのだって、そうさ。今日だって国境でエアフォースがスクランブルしてるだろう? 今も昔もそうたいして変わらないさ。ソルジャーはいつだって命懸けだからね」

「そうですね」

 私は相槌を打つくらいしか出来なかった。友明の事情を察して、ミミさんは話してくれているのだろう。

「そうとも。今の日本は、ピースなんじゃなくて、とりあえすセーフティなだけさ。とりあえず、だよ。ゆーあんだすたん?」

「はい、何となくわかります」

 私が頷くと、ミミさんは真剣な表情で話を続けた。

「今にうおーずが本当に、あうとぶれいくする日も来るだろうよ。全く、ぴーぽーは本当にすてゅーぺっで、わーるどはくれいじいだね。いつの時代になってもこうだから、嫌に

なっちまうよ」

「ミミさんは戦争の時はどうしてましたか?」

「ここいらはあまりうおーずの影響は少なかったけど。ふぁくとりーで毎日ネジやナットを作ってたよ」

「苦労されたんですね」

「のーのー、まだまだましな方だよ」

「これから、私達はどうしたらいいんでしょうか」

「ウーマンに出来るのは、ひたすらうおーずに対して『のー』と言い続けるしかないだろうね。マンに出来るとしたら……せいぜいフィジカルフィットネスをつけておくことだね」

「体力、ですか?」

「ウエルでもグリイブでも同じ事だね。うおーずになれば死体で一杯になるからね」

「……は?」

 この時はミミさんが何を言っているのかがわからなかったが、後で調べたら、「井戸堀りでも墓掘りでも同じだ」と言う意味だと分かった。

「まあ、自分のライフは一つしかないんだから、粗末にしなさんなと言っときな。肝心な時には、ゆーをへるぷ出来るようにしておかないと」

ミミさんが言い終わらないうちに、ふとバラバラと遠くからヘリコプターの音が聞こえてきた。低空飛行するヘリコプターを窓から見やると、お互いに「うるさいね」と無言でアイコンタクトした。この町はよくヘリコプターや飛行機が上空を飛ぶ。軍用機以外の民間機も勿論だが、今日の低空飛行は軍用機のそれだと思う。

「嫌なノイズだね、いつ聞いても。『すべて剣を取る者は剣によって滅びる』…マタイの福音書にあったね、そんな言葉が」

 そういうミミさんの表情は、どこかもの哀しげで、見ている私はなんだか切ない気持ちになった。

確かに、戦争は嫌なものだと、経験のない私にもわかる事だ。でも、今現在の世界情勢だと、自衛隊は必要不可欠な存在だ。確かに世界中の国の政府が武器を捨てれば解決するかもしれないが、それは今の段階では理想論だろう。しかし、理想無くして現実はない様にも思う。

私はなるべく外交努力で戦争を回避して欲しいと思う。でも、仮に一方的にが空襲起きたり、またはミサイルが飛んできて、友明やスミおばちゃんやミミさんが死んだら、報復したいと思うかもしれない。ただ泣いて済ませるなんて事はしたくないのだが、女の私にはミミさんの言う通り、「ノー」と言い続けるしかないのかもしれない。もしも明日、文字通り戦争と言う名の槍が降ってきたら、どうなるのかとの不安もある。その時には友明が戦地から帰ってきて、日本を守ろうと戦ってくれるだろうが、やはり戦争なんてして欲しくない。

 純粋な使命感を持った勇敢な男達に、女が出来る事と言ったら、ひたすら無事を祈りながら、疲れた男に安らぎを与える事だろうと、友明は言っていた。とりあえず、私がやれる事と言えば、快適な環境を整えつつ、倹約を心掛けて美味しい食事を友明に提供する事だと思っている。

 

 

 高校時代の同級生である美加が結婚するという話になった。相手を紹介したいと言われたので、わざわざ横浜の高級ホテルの喫茶室まで足を運んだ。ふかふかのダマクスク調の

絨毯に、シャンデリア。喫茶室の窓から海が見えるので、夜に来たらさぞかしムードがあっていい眺めなんだろうなと思った。けれども昔、父とよくこんな高級ホテルで会っていたので、私には嫌な場所である。

 そうだ、私はあの時、十三歳になったばかりだった。誕生日祝いをしたいと言うから、嫌々ながらついて行ったら、ホテルの一室で父に初めて犯された。私はそう言う事について何も知らなかったので、一体何が起こっているかが分からなかったが、やたらと薄気味が悪かったのを覚えている。そして、身体の痛みについては、父が「大人になる為だ」とだけ言って我慢しろとだけ言っていた。

私はその時の事を思い出して、思わず吐き気がしたが、ぐっと堪えた。

 約束の時間から十分ほど過ぎたあたりに、やっと美加とその相手がやってきた。

「ごめん、菜々子。遅くなっちゃった」

 私は椅子から立ち、挨拶を交わそうとした。相手は背広を着た四十歳くらいの中肉中背の男だった。

「はじめまして」

 私は軽く会釈をした。

「あ、どうも、はじめまして……は、早川です」

 相手の男は私を数秒間見ると、慌てて挨拶をした。その様子を見た私と美加に緊張した空気が流れた。

「菜々子、すごく美人でしょ? ミス緑川高校とか言われてたのよ」

「あ、うん。そうだね」早川さんは気まずそうな感じでそう言った。

「高志ってば、ぼーっと見とれてたでしょ」

「そんな事ないって」

 そんな二人のやりとりを収める様に、私は座るように促し、話題を変えた。

「早川さん、お仕事は?」

「は、建設業です」

「菜々子の彼氏は何だっけ? 海外でボランティアだっけ」

 美加のとげのある問いに、私は一瞬戸惑った。

「確か井戸掘り? 何か、随分長いことやってるみたいだけど、菜々子の方は結婚しないの?」

「まあ、私の事はいいから。早川さんとは、どこで知り合ったの?」

「六本木でご飯食べてたら、ナンパされた」

「そう、このたびはおめでとう。幸せになってね」

「ありがとう。菜々子の時は、高志と一緒に式に出るからね。時に、招待状を出したいんだけど、彼氏さんは? もう八年付き合ってるんなら、そろそろの間柄でしょ? 一緒に来てよ。てか、会ってみたいよ、その人に」

「いや、友明はそういうのは無理。また秋には海外だから、式の時にはいないかもだし」

「そっか、残念。高志はねえ、こう見えても東大出てるんだ。頭いいんだよ」

 どうして美加はこんな風に、付き合う男をいちいち比べっこみたいな事をするのだろうか。まるで小さい子供が、自分の持っている人形を見せびらかすみたいに、私を高級ホテ

ルに呼び出してまで、何故彼氏自慢をするんだろう。

 それとも私の気のせいだろうか。単に、美加は私に祝福して欲しいだけなのかもしれない。しかしそれにしても、結婚が決まってる相手が何故私を「見る」んだろうか。そうなる事を予想しているなら、私をどうこうと言うよりも、美加は彼氏の方を試しているのかもしれないと思った。

 私は父の事を思い出して気分が優れなかった事もあって、何となく苛立ってしまって、今までずっと美加には黙っていたが、つい話してしまった。

「……井戸掘り、じゃないのよ本当は」

「え、彼氏さんが?」

「うん。X国でY民族解放軍の傭兵をやってるの」

「え、ヨウヘイ? なにそれ」

 美加はきょとんとしていた。

「X国で傭兵? 本当ですか。へえ、かっこいいなあ。いやあ、是非会って話を聞いてみたいな」

早川さんの方は、興味津々と言ったところだ。目を輝かせて身を乗り出してきた。

「そんなにかっこいいもんでもないですよ。ボランティアみたいなものだし」

「いやいや、そんな。実は僕、ミリタリーファンでして。若いころは自衛隊に入りたかったんですけどね。親が反対するから、国立大学の理系に進学したんですが。毎年基地祭に行ってるんですよ。去年は迷彩柄のお菓子をお土産に買いまして」

 私はこの早川さんと言う人が、なんだかとてもつまらない人間に見えた。ミリタリーファンなんて、平和ボケの日本人の典型だなと思った。そう思うとますます気分が悪くなってきた。

当事者の友明自身は、自分も子供の頃は同じだったので、ミリタリーファンに対しては好意的ではある。でも、私には安全な位置で高みの見物をしている様に思えて、どうもミリタリーファンが好きになれない。

「所詮、人殺しですから」

 私がそう言い切ると、二人は黙ったまま、それ以上何も言わなかった。

 私は何を言っているのだろうか。「人形」を比べあってるのは私の方ではないか。

 仲間内での最後の独身者の美加が結婚するのが、よっぽど悔しいらしい自分が、何だかおかしくなってきた。

 ちょっと気まずい雰囲気の中、三人でお高い紅茶を飲んだ後、早々に帰路についた。


 

 友明の仲間が数人、アパートに押し寄せてきた。同じ戦場で戦い続けている同志達である。今日は都内で仲の良かった戦友の葬式があったので、東京からさほど遠くない我が家を宴会場兼ホテル代わりにしに来たのだ。

「全く。敵弾で倒れるのも嫌だがな……マラリアにかかったって、何であいつは気づかへんかったんや。あのドアホが」

 友明よりも二つ年長の岩田さんは、一番のベテラン戦士である。この人は関西の人だが、関西弁に戻るのは、新幹線で名古屋を過ぎてからだという話だ。きつい事をよく言うが、話し方のイントネーションが柔らかいので、優しそうな印象のする人である。

「医者に殺されたようなもんだよな。俺らがマラリアだって言ってるのに、そんなことは医者が決める事だなんて、馬鹿げた事をほざきやがって」

「そうだそうだ」

 みんなめっぽうお酒に強い。だからいくらビールを冷やしても、次のビールが冷蔵庫で冷える前に飲んでしまう。結局、みんなでぬるいビールを飲む羽目になるのだ。

 私はつまみを作るのにてんてこ舞いしていた。唐揚げにポテトにソーセージ、海藻サラダに煮物に焼き魚……見る見るうちにお皿が空になってしまう。

 遺族には傭兵ではなく、井戸掘りのボランティア仲間と言う事にしているらしい。本当の意味での精進落としも、遺族の前では出来ないと言う訳だ。

「菜々ちゃん、つまみはいいから君も飲んでよ。いつも悪いね」

 岩田さんはそう言って、台所に居る私を誘った。

「皆さんよく食べてくれるから、作り甲斐がありますよ。岩田さん、その天ぷら、あっちに持ってって下さい」

「菜々子、ビール、ビール。もう冷やさないでいいから、ケースごと持って来いよ」

 酔っぱらった友明がビールをまた催促した。

「はいはい」

「俺が持ってくよ」

 岩田さんが、風呂場の湯船に浮かべて冷やしておいた、何本かの缶ビールをバケツに入れて持って行った。

 友明が一番先に酔い潰れてしまった。今回死んだのは、友明のバディだった。つまり相棒と言うか、一番の戦友だったのだ。

コータローとみんなから呼ばれていたその人には、私も何回か会った事がある。今日は岩田さんがやってくれているが、こんな風に私が「宅飲み会」で世話をやいていると、黙って洗い物をやってくれたり、酒やつまみを沢山買い込んでは、みんなに振舞ってくれたものだ。少し不愛想なくらい大人しくて、無口な人だった。お調子者の友明とは正反対の性格だったと思う。

 コータローさんは、現地ですでにマラリアにかかっていたが、医者も本人もただの熱だと勘違いして、解熱剤だけ飲んでいったん快復した。そこで油断して日本に一時帰国したのだが、すぐに救急搬送されたのだ。再びの発熱でアメーバ赤痢を疑われ、黒水熱を併発してしまい、その数日後には帰らぬ人となった。医師が友明達の言う様に、早急にマラリアの検査をしていれば助かったはずだと、みんな悔しがっていたし、私自身も悲しみは隠せない。

 いつかX国に平和がもたらされたら、この目で彼の地を見に行こうと思う。友明達が愛した、X国へ。戦争さえなければ、楽園の様に美しい自然に囲まれた場所だと聞いている。そして、彼らが戦ったジャングルに行けたら、手を合わせて心から冥福を祈りたい。

「菜々子ー、焼酎、焼酎買って来てくれ……」

「そんなに飲んでいいの?」

「まあまあ、菜々ちゃん。今日は飲ませてやってよ。酒は俺が買いに行くから」

「コンビニの場所、知らないでしょ? 一緒に行きます」

 私はつっかけを履いて岩田さんとコンビニまで行く事になった。もう夜中の十二時を回ったところだった。一人でコンビニに行くのはちょっと怖い時間だったので、岩田さんが

居てくれてよかったと思った。

 この辺りにはコンビニは一軒しかない。本当に辺鄙な場所である。

「菜々ちゃん、友明と所帯持つ気無いの?」

 唐突に岩田さんは、私にそう訊いた。

「所帯、ですか」

「結婚せえへんの? もう八年の付き合いやし。菜々ちゃんもええ年ちゃうんか?」

 私はみんな一様に同じ事を訊くなと思い、何だかおかしくなってしまった。

「岩田さん、今夜はもう名古屋を通り過ぎましたか? さっきからずっと関西弁になってますよ」

「はぐらかさんでもええやろに。子供欲しいなら考えないと。これ、オフレコの話やけどな。そろそろX国の内戦もケリが着くらしいんや。政府の偉いさんからの情報やから確かやで」

「本当に? Y民族が勝つんですか?」

「せや、周辺の国が茶々入れないうちに、ケリ着けないと、国そのものの存続が危ういんだとさ。もうすぐ停戦が決まる予定やで」

 私は戦争が終わって友明が帰ってくるのを心待ちにしていたが、その反面不安もあった。X国での戦争が終わったら、もっと危険な場所でまた戦いに行ってしまい、もう二度と帰ってこなくなるかもしれないと思ったからだ。

「俺たち、さっきから話してたんやけど、独立運動が達成したら、アメリカの民間軍事会社に行こうかってな」

「民間軍事会社ってなんですか?」

「言葉の通り、傭兵をぎょうさん雇って、世界中の戦場に派遣する会社や。給料は今までの何十倍にもなるが、リスクも高いんや。なあ、菜々ちゃん、あんた子供でも作り。子供がおったら友明も考え直すやろ」

 話しながら歩いたので、コンビニに着いてしまった。透明なガラスの自動ドアをくぐって店内に入った。

私と岩田さんは買い物かごに、焼酎と缶ビールとナッツを入れた。しかしこれだけでは一晩中のつまみには足りないだろうと、追加でジャーキーとあたりめを買って出た。

「岩田さん、私ね。戦争について色々考えてるの。友明や岩田さん達が平和の為に一生懸命戦ってるのはよく分かってるつもりなんですが。私、ある事情があって、友明から臭う死臭が無いと眠れないんです。本当は戦争なんか嫌いだし、世界中から無くなるのが理想なのは分かるんです。でも……」

「そりゃ正論やわな。俺達軍人が失業するくらいに、世界中が平和になるのが、一番ええと思うよ」

「私は戦争によって正気を保ってるんです。そんな自分が凄く嫌」

「菜々ちゃん、先進国が軍需産業で儲けて、それで国民の暮らしが成り立ってるのは分かるよな? 戦争によって生かされてるのは、何も菜々ちゃんだけやないで。こうして重く受け止めて反省しているだけでも、マシなんちゃうか?」

「友明が戦争が無いと生きていけないのも、わかってはいるの。軍人さんは一歩世間に出ると半人前扱いだって、前に言ってた。戦地で一人前の男として誇りを持って生き続けた

いって言う、友明の気持ちを尊重すべきなんじゃないかなと……」

「男一人のプライドよりも、女子供の幸せの方が、何倍も価値があると俺は思うよ。菜々ちゃんはまだ若いんやから、幸せにならんとあかん」

「そうかしら。でも、私は……密かに、実際に日本が戦場になることを望んでいる節もあって。もしも明日戦争が起こったら、死体の山の中で友明が私を守ってくれるんだと思うと、私、私は」

 岩田さんは、私が涙ぐんで言葉に詰まると、袋から缶ビールを出して、二人で歩きながら飲もうと言ったので素直に応じた。

「考えすぎやろ、それは。単に友明の事をほんまに好いとるってだけやろ。他のどの男でもない友明をって事やろ。ちゃうか?」

「好きよ、友明が。お調子者で甘えんぼで……人殺しでも何でも。だから苦しいんです」

「菜々ちゃんが結婚を迫れば解決やろ。な、子供作り」

「岩田さん、生き甲斐を失った友明が日本で、うまく生きられるのかしら」

「菜々ちゃんがいれば大丈夫やろ。友明も菜々ちゃんにぞっこんやからな」

 紫陽花の咲き終わりが、真夏の到来を告げる夜だった。その日、私は友明との子供を作る事を決意した。

 

 

 夏真っ盛りのある日曜日。スミおばちゃんが私と友明を家に招待してくれた。何でも、懸賞で松坂牛を二キロも当てたので、三人ですき焼きパーティをしようと言ってくれたのだ。

 私と友明は、お土産に地産の西瓜を持って、横浜のスミおばちゃんの家に向かった。

「何か、緊張するな。菜々子の知り合いに会うの、初めてだからな」

「気さくな人だから大丈夫よ。友明の話は前々からしてあるから」

「亭主がヤクザだっけ?」

「ヤクザの運転手はヤクザなの?」

「そりゃ、戦場で運転手やりゃ、民間人でも傭兵っちゃ傭兵だからな」

 そんな話を電車の中でこそこそと話していたが、どうも隣の乗客が聞き耳を立てている様子なので、その話はやめる事にした。休日なので上り方面の電車は、ちょっと混雑していた。

 私は一昨日、会社の帰りに産婦人科に寄って、妊娠誘発剤を処方して貰った。次の排卵日を狙って、避妊具にこっそりと針で穴をあけた。子供が出来れば、友明はもう戦場に赴く事は無いだろうと思いつつ、確信は持てないままだった。

 横浜のとある駅で降りて、私は花屋に寄って白い百合を買った。安くて状態のいいものがあったからだ。

「百合の匂いはくせえな」

「あら、私はこの匂い好きだけど」

「肉食う時は嗅ぎたくないね、俺は」

「じゃあ、玄関かトイレにでも活けてもらおうか」

 駅から十分程度歩き、もうすぐスミおばちゃんのアパートと言うところで、ふと何か悪臭がした。どこで嗅いだことのある、不吉な感じのする異臭だと思った。

 私は直感的に嫌な予感がして、百合の花を一輪落としてしまったのにも気づかなかった。 

「誰か死んだな。この臭いなら、死後一週間は経ってるかな」

 友明はそう言って、風に乗ってあたりに流れる悪臭を嗅ぎながら歩き、周囲を見回した。一週間前と言うと、スミおばちゃんと電話した最後の日だと思った。

 私は早足でスミおばちゃんのアパートに向かった。木造アパートの二階にある部屋から、その悪臭は漂っていた。

 ドアチャイムを何度鳴らしても、スミおばちゃんは出なかった。

「おばちゃん、スミおばちゃん。私よ、菜々子。ねえ、開けて、開けてよ」

 私は泣きながら、ドアを叩き続けた。

「スミおばちゃん開けて、お願い。ほら、西瓜買ってきたよ。お花も。ねえ、ねえってば…」

「菜々子、よせ。もう死んでる」

 友明はスマートホンを取り出して、警察に通報した。私はドアを叩き続けて、そのまま泣き崩れた。

 スミおばちゃんの死因は心臓発作だった。一人暮らしで誰にも発見されずに、茶の間で倒れてそのまま息を引き取ったらしい。

 警察にしつこく何回も事情を訊かれた私達は、書類ケースの中にある、スミおばちゃんの弟さんの連絡先に電話して、訃報を知らせた。その後、買ったばかりの白い百合の花を部屋に置いて、その場を去った。

 泣き腫らしたまま自分のアパートに帰ると、ミミさんが玄関先のアロエやらバラやらの植木鉢に水やりをしていた。泣いている私の肩を抱いて支えている友明を見て、ミミさん

はどうしたのかと心配そうに訊いた。

 友明が「大事な人を亡くしたんです」と答えると、ミミさんは私の手を取って、涙を流してくれた。そしてミミさんは落ち着くまでと部屋に呼んでくれた。

「六十でだなんてプアーな話だね。でも、そんなにクライしたら、目がとろけてしまうよ。どん、クライ」

 友明がテレビの上の置物に目をやると、ミミさんがその石をとってくれと言った。そしてそれを私によく見る様にと手渡した。

「何ですか?」

 その石は手のひら程の大きさだったが、まるで切った様に半分が欠けていて、その断面はつるつるに磨かれていた。

「みーの最後のハズバンドの形見だよ。ひーはね、ジャパニーズアメリカンだったんだ。先のうおーずに駆り出されたんだよ。アメリカのミリタリーとしてね。ひーが言ってたよ。ソルジャーってのは、とにかくフリータイムが多くて……だからそのへんにあったストーンをピックアップしては地面でポリッシュしてたのさ」

 その石の断面はとてもきれいに磨いてあり、まるで機械で研磨したかの様に見えた。これを磨くには、相当な時間が必要だと思った。

「先のって、第二次大戦ですよね?」友明がそう確認した。

「ホームランドを敵に回してうおーずに参加したのさ」

 ミミさんはそう言うと、その石を大事そうに手に取って続けた。

「ひーはラッキーな事に無事に帰ってきて、数年前まで元気にリブしてたよ。ライフってのはね、本当に有り難いものなのさ。たまたまみーとひーは長生きできたけど。その今日

ダイした、スミレ……だっけ? しーの様にあっという間に、ライフが自分の手のひらから滑り落ちて、なっしんぐしちまう事もあるのさ。いいかい、くれぐれも自分からダイしたりキルしたりしたらいけないんだよ」

 

 

 スミおばちゃんの死から、なかなか立ち直れなかった私はこの夏、何処にも行かずに会社と家を往復するだけの、無気力な毎日を過ごしていた。実の母親以上に親しみを感じていた、伯母の様な存在だったが、同時に年の離れた親友でもあった。

だが、私がスミおばちゃんとの写真や貰ったものなどを眺めるたびに泣いていたので、見かねた友明がある日こう言った。

「菜々子の気持ちは理解してるつもりだけど。そんなに沈んでばっかりじゃ、おばちゃんが悲しむだろ。しっかりしろよ。ゆっくりでいいから立ち直る事を考えろ」

 当たり前すぎるほど、当たり前な言葉だったが、友明は数々の戦友を亡くしているので、言葉の重みが普通とは違って聞こえた。すぐには元気になれない私を許してくれた上での言葉の様に思えた。

確かに友明の言う通りだと言う事は、一か月近くしてからようやく気づいた。すぐに元気は出なかったが、立ち直ろうと努力をする事が少しずつ出来る様になってきた。

まずは暑中見舞いを出していなかったので、貰った暑中見舞いの返事を書くべく、ある晴れた残暑真っ最中の昼にカメラを持って、近所を撮影して回った。

キャベツ農家のひまわりが太陽に向かって真っすぐ伸びていたので、その後姿を一枚。今年の残暑見舞い葉書に使おうと、プリントしてみたら、いい出来映えだった。あえてタイトルをつけるなら、『ひまわりの背中』と言ったところだろうか。スミおばちゃんの死を乗り越えて、このひまわりの様に光へ向かって、一生懸命に咲こうと私は心に誓った。否……誓える様になろうと思った。それが出来たのは、友明のお蔭だ。この世でたった一人でも、私を無条件に愛してくれる人間がいる。それだけでも、充分にありがたい事なのだ。

 遅い残暑見舞いを出した後、家に戻ると友明は頼んでおいた掃除もせずに、テレビを観ていた。今日は朝から一日中、ニュース番組を追いかける様にチャンネルを頻繁に変えていた。

「ちょっと。休みだからってだらだらテレビばっかり観てないで、掃除手伝ってよ。そうごろごろされてたら、掃除機かけられないでしょ」

 そう言っていつもの様に、友明に掃除機をかけさせるべく、掃除機を渡そうにも友明はやはりニュースを気にしていた。テレビを観ながらスマートホンをチェックしたりと、なんだかそわそわしている。

「どうしたの? 今日は一日中」

「今日はちょっと。菜々子、悪い。今日は掃除は勘弁してくれ。大事なニュースが入る筈なんだ」

 そう言うと、煙草に火をつけてまたテレビをザッピングし始めた。友明はこう見えてもきれい好きで、掃除は私よりも遥かに上手いのだ。自衛隊での訓練での賜物らしい。前に、どうしてこんなにきれい好きなのかと訊いたら、「ドンパチやってる最中に武器を探してたら真っ先に死ぬだろう」と言っていた。だから今日は掃除は諦めて、友明と一緒にテレビに付き合った。どうせ散らかったら友明が自発的に掃除すると思ったので。

「何を考えてるのかなあ、こいつは」

 私がそう呟いた瞬間、友明のスマートホンが鳴った。スカイプの着信音だった。友明はすぐさま出て、英語で何か話をし始めた。

「……Oh! Congratulations on us!」

 私にはそこしか聞き取れなかったが、何か良い知らせだったらしく、友明の表情が輝いた。暫くまた何か英語で話し続けて数分後、電話を切った。

「菜々子、やったぜ」

「どうしたの?」

「勝ったんだよ、Y民族が独立戦争に。俺達、勝ったんだ!」

 友明は私の手を取り、ぴょんぴょんとその場で飛び跳ねた。

「そうだ、岩田君に電話……ううん、東山君かな、いや中佐がもうみんなに電話してるかな。わあい、超嬉しいぜ」

 友明が飛び跳ね回った後に、テレビでニュース速報が流れた。X国Y民族解放同盟軍の勝利との内容だった。スマートホンのニュースアプリでも速報が流れた。岩田さんの言ったとおりだった。

 私は友明の念願が叶って嬉しかった。あの苦労は無駄なものではなかったと思うと、感慨深かった。ひょっとして大国なんかが絡んでいての終戦だったとしたら、この先利用されないかと心配ではあるが。でも、とりあえず今日一日は、友明と一緒に終戦を祝いたいと思った。

「今日は夕飯どうする?」

「外で食べよう。うまいもん奢っちゃる」

 私は嬉しくなり、何を着て行こうかとタンスをあさり始めた。

「菜々子のおかげだよ。お前が俺を支えてくれたから、Y民族の独立が叶ったんだよ。菜々子も立派な功労者だよ。嬉しい、俺、すげー嬉しい」

 残暑の午後、ひぐらしの声をかき消す様に、友明は万歳を三唱どころか、六唱も九唱もした。


「……この店なの?」

 その日の夜、友明が珍しくご馳走してくれると言うので、私は去年買った白い花柄のワンピースを着ておめかしした。普段はあまり化粧をしないのだが、今回は滅多に使わないメーカー物の化粧道具を駆使して顔を作ったのに、駅前まで来てみれば大衆居酒屋チェーン店だった。

「だって、金ないもん。ここなら飲み放題だし、飯も安くて沢山食えるし」

「貯金は?」

「まあまあ、いいじゃん。どうせ高くて上品な店行っても静かすぎて話せないだろ。一応、個室を予約したからさ」

 私は思わず溜息をついてしまった。

「しょうがないな。まあ、友明の奢りなんだし」

「そうそう、俺様の奢りだからな。ほら、中に入ろう」

 たまにはお洒落な店に行きたかったが、友明がこうしてご馳走してくれるだけでも、私には嬉しい事である。こんなチェーン店で、さして美味しくない料理を食べるよりも、自分で作った方がはるかに安くて美味しいのでは、と言う事はとりあえず考えない事にした。

 私達が店に入ろうとした瞬間、何かの爆発音がした。友明は私を抱えてすぐそばの植え込みにスライディングして、身を伏せた。

「たまやー」

道行く人がそう言っていたので、私は友明の腕越しに、空を見た。夜空には見事な花火が上がっていた。

「なんだ、花火か。ハクかと思ったぜ」友明はそう言いながら溜息をついた。

「友明、何するのよ。ハクって何よ…ひどい、ワンピースがボロボロじゃない」

私は半べそをかきながら、無残なまでに泥だらけになった白いワンピースの汚れをはたいた。当然、はたいたくらいじゃ汚れは落ちなかった。よく見ると、左の裾が破れてしまっていて、膝小僧とおでこと鼻の頭を擦りむいたらしく、ひりひりとした痛みがした。

「せっかくおめかししたのに。友明のばか…」そう言って、私は無性に悲しくなってしまい、泣き出してしまった。

「ごめん、ごめんて、菜々子。迫撃砲かと思ったんだよ。新しい服買ってやるから。駅ビルのユニクロに行こうな。泣くなよ、もう」

「ユニクロなんかじゃやだ」

「わかったよ。好きな服買ってやるから、ほら、立ちな」

 そうして、駅ビルにあるブティックで赤の花柄のワンピースを買って貰い、ドラッグストアで絆創膏と消毒液を買って、顔と膝を手当てした。そんなこんなで予約の時間に一時間も遅れてしまった。七時から二時間の予約だったが、次の予約のお客さんが入る予定なので、一時間で慌ただしく飲食を済ませた。

 今日の飲食代だけでなく、ワンピースなどでお金が足りなくなり、仕方なく私が一部負担した。しかも終バスを逃したので、タクシーに乗って帰る事になってしまった。アパートまでワンメーターと少しだが、深夜料金も入れると千円以上になるので、今夜は散財したな、とケチな事を考えてしまった。

 友明は海岸の前の道路で、タクシーを停める様にと運転手に命じた。節約するつもりなのかと訊いたら、海を見に行こうと言い出した。

 台風が近づいているので、波が高い夜の海は、腹に響く様な轟音を轟かせていた。その真っ暗な闇は何かとてつもなく大きな、決して抗えないものに感じた。どんなものでも全て

飲み込んでしまいそうな大きな波に、私は畏怖を感じた。

「どうしたの? 友明。海を見ようなんて」

「いや、やっぱ海はでかいなあと思ってさ。夜の海なんてそうそう見に行ないし。たまにはね。一人だと海から悪霊に呼ばれて引き込まれるからな。二人でなら大丈夫だろうと思

って」

 友明はジッポーで煙草に火をつけた。私も一本貰って吸ったが、やはり歯磨き粉の味がした。

「ここいらの海は深いからね。浅瀬が狭くて岩場とかばっかり。ほら、友明。フェンスの下なんか波がぐるぐるしてるよ。落ちたら絶対死ぬね」 

そう言って、私は煙草の吸殻を友明に渡した。友明は携帯灰皿にそれを入れた。

 私はふと、死にたくなったらいつでもこの海に飛び込めばいいのだと思った。

「関係ない話だけどさ。日本はどうなるんだろうな。世界情勢なんか、一体どうやったら解決出来るんだよって思っちゃう様な事だらけだしさ」

「本当だね。私の職場の人達は、日本も徴兵制にすべきだって言ってたよ。でも、自分たちが行かなくていい年齢だから、そう言ってる様にも聞こえるなあ」

「それもあるだろうけど、徴兵制の方が平等なんだよな。今の徴兵制じゃない軍隊にいる人間の殆どは貧乏人だからな。アメリカなんかだと、大学の奨学金の返済の為に軍隊に志願するケースも多いらしいし。でも、実際は徴兵制にしたらしたで、必然的に戦闘員のレベルは低くなるだろうな。レベルの低い軍人が戦地に行くと、レイプやクスリに手を出すことも多いから。やっぱり俺みたいなプロがいないとダメなんだよな」

「何か、色々考えても一つの答えは出ないね。アメリカの若い人は大変だね。何の為に大学へ行くんだか」

私は溜息混じりに呟いた。

「日本もいずれそうなるんじゃないかな。嫌だねえ、日本の未来は真っ暗で」

「この海みたいだね。真っ暗な大きな波に飲まれちゃいそう」

 私達は生暖かい潮風を受けながら、ゆっくりと海を後にして家に帰った。

 

 

十一

 スミおばちゃんの葬儀に出席出来なかった私だが、驚いた事に弁護士を通じて、遺書と遺品を手に入れる事が出来た。私は四十九日が過ぎて納骨が終わったら、スミおばちゃんの田舎まで墓参りをしたいと思った。田舎までの旅費を貯めなければならないので、友明にその事を相談したら、生活費を多く出してくれると言ってくれた。

 スミおばちゃんの遺書は長いもので、便せん四枚に及ぶものだった。私には言わなかったが、前から心臓が悪くて、いつ死んでもおかしくない状態だったらしく、毎月の様に遺書を更新していたという話だった。


「菜々子様

 これが読まれていると言う事は、私が死んだという事になりますね。三十五年間ありがとう。菜々ちゃんの存在は私にとってありがたいものでした。正直、加奈子なんかよりもずっとあなたの方が好き。特にこの三十五年間は加奈子のためでなく、あのわがままなお嬢さん育ちの母親に育てられる菜々ちゃんが心配で付き合っていた様なものです。

 私は菜々ちゃんが生まれる少し前に二回目の流産を経験し、子供が産めない身体になりました。だからいつも加奈子が羨ましかったし、こっそりと菜々ちゃんを娘の様に思って

いました。加奈子は菜々ちゃんをまるで所有物の様に扱っていたので、とても心が痛かった。

 また、子供らしく遊園地で遊んだことがない菜々ちゃんを不憫に思っていました。だから、十年前にディズニーランドに誘ったの。菜々ちゃんは不思議そうだったので、つい、おばちゃんが行きたいの、と心にもないことを言って誘いました。あの時は人混みで疲れたし、乗り物酔いで散々だったけど、私にとってはいい思い出です。付き合ってくれてありがとうね。

 話は変わりますが、先日、光彦さんがもう長くないと伝えましたが、今はK病院に入院しています。もしも菜々ちゃんが会いたいなら行ってください。加奈子の『妄想』が本当ならば、この事は忘れてください。嘘にしろ本当にしろ、菜々ちゃんは確かに加奈子と光彦さんの子供なのだから、親の死に目に会いたいと思うなら、そうしてください。

 菜々ちゃん、本当は家族の事でとても苦しんでいるのではないのかしらといつも心配していました。一見病気っぽくないもないし、元気そうではあるけど、もしかしたらカウン

セリングなどが必要になるのでは、と。

 こないだPTSDについての本を読んだのですが、あまりにもつらい過去があると人によっては麻痺してしまう様です。菜々ちゃんはいつも家族の話をする時、他人事の様に話すし、核心をつこうとすると話題を変えたりしていた様に思うので、心の傷が深いのかなと思いました。子供の頃から礼儀正しく大人びていたから、今まで下手にカウンセリングを勧められなかったのもあります。もしも心当たりがあるなら、病気になる前に病院なりで診察して貰ってください。菜々ちゃんがいつか壊れないかと心配してます。

 では、長々と失礼しました。今まで本当にありがとう。菜々ちゃんのヘアカットで随分と外に出るのが楽しくなったし、また、去年撮ってくれたスナップ写真は本当によく撮れていて、親族用の遺書にはこの写真を遺影に使う様にと書きました。私は二十代までの美しい容姿よりも、菜々ちゃんが撮ってくれた今の自分の顔がずっとお気に入りです。

 それでは、さようなら。お元気で。                 スミレより

 追伸

 菜々ちゃんは九月生まれでしたね。誕生石のサファイアのプチネックレスを形見に差し上げます。若い頃に買ったものだからデザインが古いけど、品はいい筈です」


 友明に、スミおばちゃんの写真を二枚見せた。二十代の頃のものと、去年のものとの二枚を。両方とも、このサファイアのネックレスをつけて写してあったので、これはおばちゃんのお気に入りだったのだと、改めて気づいた。

「確かに、おばちゃんの言う通りだな。菜々子の撮った写真の方が美人だ」友明は写真を見ながら微笑んだ。

 私は早速、形見のネックレスをつけてみた。プラチナの細い鎖に小さなサファイアとダイヤがきらきらしていた。友明はそれを見て、似合うよと言ってくれた。

「一枚撮ってやろうか?」

 友明が私のデジカメを貸せと言ったが、私はどうせならフィルムのカメラにしようと言った。二十年前に自分で初めて買った、ニコンの一眼レフとマンフロットの三脚を取り出してセットした。

私は二人で記念写真を撮ろうと言った。友明と写真を撮る事はあまりなく、付き合い始めてからたぶん五枚めくらいだろう。長いレリーズを使って何枚かシャッターを切った。

 

 

十二

 日差しは強いままだが、風が乾いて冷たくなってきた頃、気がつくとひまわりが枯れて丸坊主になっていた。

 排卵日を狙っても、私の妊活計画は失敗に終わった。もう一回試そうかとも思ったが、不妊治療の費用の捻出が難しいので、一時中断することにした。

 そんな日の夜、不気味な夢を見た。私を犯し続けた父親が、目の前に立ってこう言うのだ。 「菜々子、俺はお前が可愛くて仕方がないんだ」

 顔の見えない父は、そう言って両手を広げて私を呼んだ。恐ろしくて動けなかった。声を出そうにも出ないし、助けてくれと祈るが、誰に何を助けて貰えばいいのかがわからなくなっていた。悍ましい記憶は、私が私自身を裏切って、何度も何度も波の様にやってくる。逃げても逃げても、まるで私が無意識のうちに呼んでいるかの様に、どこまでも追いかけてくる。

私の心の中に、この背徳行為を望んでいる何かがあるのだろうか。そう思うと、自分がこれ以上もないくらいに穢れた存在に思えてくる。繰り返される官能の波にのまれていく自分を心から恥じた。と同時に罪悪感と官能とが表裏一体になっているのに気づいた。もうやめて欲しいと思う反面、いつまでもこの快楽が続く事を望んでいる自分が何よりも恐ろしかった。敵から逃げるには走ればいいかもしれないが、肝心の敵は自分の中にあるのだから、逃げようもないのだ。

 これは悪夢だと気づいたのは、だいぶしてからだった。目が覚めると悪い汗で身体中がべとべとだった。私は友明を起こさないように、そっと風呂場に行って、狭くて深い湯船に湯をはった。

もう夜中の四時を過ぎていたので、仕事で疲れている友明はいびきをかいて寝ていた。

 そういえば友明は、女性が傍に居ると安全な場所であると感じて、よく眠れると言っていた。戦場に行くとほぼ全員が男だから、女の居る場所は安全なのだと。

 私はラベンダーのバスソルトを入れて、ゆっくりと半身浴をした。湯船の中で暫くぼんやりとしていたら、友明が起きたらしく、風呂場の扉をノックされた。

「どうした、こんな時間に風呂なんて」

「うん、気分転換」

「何かあったのか?」

「いつのも事だよ」

「そうか……もう朝になるから、アイスコーヒーでも淹れてやるから、気が済んだら出てこいや」 

 友明はそう言って台所に行った。コーヒー豆の入った缶を開ける音が聞こえるので、たぶんドリップで豆から丁寧に、アイスコーヒーを淹れてくれるつもりらしい。友明はコーヒーを淹れるのがうまいので、たいがい豆から淹れる時は友明が淹れてくれる。私はものぐさなのでインスタントばかり飲んでいるし、豆から淹れると友明のコーヒーの方が美味しいのがわかっていので、自分で豆から淹れたコーヒーは普段飲まない。

 それから五分か十分くらいして風呂から上がり、バスローブに身を包んだ。

「ありがと」

 そう言って受け取ると、友明がガムシロップとミルクは要るかと訊いてきたので、その両方共を入れて飲むことにした。

「なあ、病院に行かないか? すぐ近くにでかい精神病院があるぞ。なかなか評判もいいみたいだし」

「うーん…私、そんなに変?」

「毎晩ろくに眠ってないだろ。目にくまが出来てるぞ」

「スミおばちゃんの言う通りなのかなあ」

「とりあえず、近いうちに行こう。俺も一緒に行くから」


 そして数日後、件の精神病院に二人で仕事を休んで行った。海辺のその大きな白い建物は、古くて壁にあちこちにひびが入っていたが、清潔にしているのがわかるので、私は好感を持った。昔は結核患者専門の病院だったとも聞いているが、不思議と幽霊が出そうだとは思わなかった。と言うか、私は死んだ人間よりも、生きている人間の方が怖い。それに、もしも友明が死んだなら、幽霊でも何でもいいから会いたいと常々思っている。

まずは看護師との面談があって、事のいきさつを話した。勿論、友明の素性も含めて。

その後二時間近く待たされ、やっと診察になった。カウンセリングは必要なのかと訊いたら、PTSDのそれはとてもハードなので勧められないと言われた。その代わりに睡眠薬を処方された。

「悪夢は誰でも見るんです。これから先、起こるだろう現実のリハーサルの様なものです。でも、お父様ももう長くないなら、ありえないと思ってください」

 若い女医はそうきっぱりと言った。

 睡眠薬で会社を遅刻したら? と訊いたが、一番弱いものにしたから、夜早めに飲んで寝れば大丈夫だと言われた。

 診察を終えるとどっと疲れが出た。何も知らない人間に言いたくもない過去を打ち明けるのが、こんなにも苦しいものだとは今まで思わなかった。

 薬局が近くにないので、駅前までのバスを待つ事にした。時刻表を確認すると、あと数分で来るらしい事がわかった。一時間に一本しかないバスを逃さずに済んでよかったと思った。

山側のバス停は大根畑の傍にあった。泥棒除けなのか、防犯カメラと高いフェンスに囲まれている。

「なんか、あっけなかったね」私は大きく溜息をついた。

「保険がきくから良かったな。腹減った。俺、魚が食いたい。駅前の定食屋に行こうぜ」

「まだ十一時でしょ。スーパーでお魚買ってあげるから、定食屋は我慢して。出費に次ぐ出費で、家計がきつきつなんだから」

「西京漬けおねだりしていいか?」

「安かったらね。何か野菜のおかずも作らなきゃ。ごはん炊くの忘れたな」

「俺が先に帰って飯炊いとくよ。野菜のもなんか作っとく」

「じゃあ、キャベツとトマトでも切って、サラダ作っといてくれる?」

「おっけ。味噌汁も作っとくよ」

 そう言って友明は、アパートの方向に歩いて行った。

 大根畑を囲むフェンスにぶら下がる様に咲いている朝鮮朝顔を見て、随分と花期の長い花だと思った。

 

十三

 睡眠薬だけでなく、精神安定剤も出される様になったのは、それから一ヶ月後だった。睡眠薬でだいぶ楽になったが、その代わり朝起きるのがつらくなったからだ。また、度々会社を遅刻しそうになっただけでなく、病院通いで半休を取らないと治療が出来ない事態になった。職場の皆に迷惑がかかってしまった上に、何の病院に行っているかと訊かれて、苦し紛れに産婦人科と嘘をつくしかなかった。本当の事を知られたらと思う、と毎日気が気でなかった。薬のせいか、たまに頭がぼうっとしてうっかりミスが出てきてしまった。そんな事が続いて、職場で働くことが肉体的にも精神的にもストレスになったし、食欲も減退して一ヶ月で八キロも痩せてしまった。鏡の中の私は日に日に衰えていった。

 あの宮田先生も私の写真を撮りたがらなくなったし、職場のみんなからも雰囲気が変わったと言われ始めた。やはり薬は身体をダメにするものなのだろうか。服薬を中止しようとも考えたが、主治医が今やめると悪化すると言っていたので、薬は飲み続けている。

 このままでは、仕事を続けるのが難しい様に思えてきたが、貯金も少ないので何とか我慢して家と職場を往復し続けた。

 そんなある日体調が悪く、貧血で倒れそうになった。店長に帰って休むように言われたので、午前中で仕事を早引けさせて貰って家に帰った。すると珍しく友明が家にいた。

「どうしたの、友明。仕事は?」

「辞めてきた」

 友明はスマートホンを弄りながら、顔も上げすにそう言った。

「なんでまた急に」

「モーホーの社長に、尻を撫でられてキモかったから、ぶん殴ってやったらクビになった」

 私は溜息をついて、暫く何も言えなかった。

「で、明日からどうするの?」

「とりあえず今、短期のバイト探してる」

「短期、なの?」

「来月から俺、アメリカの民間軍事会社に就職するから。スミおばちゃんの墓参り代も大丈夫だから気にするな」

「また海外で戦うの?」

「ああ、今度は給料いいから、菜々子にちゃんと仕送りしてやれるよ。お前なんだか顔色悪いな。寝てろよ」

 友明はそう言って私に寝室に行くように促した。

「日本では働けないの?」

「俺は日本での生活が苦痛なんだよ。ぬるま湯に浸かってるみたいでさ。菜々子が居なければ、日本になんか帰りたくもないくらいにね。日本の感覚が合わないんだよ」

 友明はスマートホンから目を放し、私の方を真っすぐ見て言った。

「菜々子、もう金の心配はいらないからな。今度の会社は日給十四万円以上だし、生命保険もちゃんとかけてある。今まで散々苦労かけたから、恩返しがしたいんだよ」

 私は「友明がただ傍にいてくれるだけで充分恩返しになるのに」と言いたかったが、すかさず友明は続けた。

「俺は戦う事しか能がないんだよ。岩田君みたいに文才もないから、体験談を出版したりも出来ないし。頭も悪いから、NPO法人の職員も無理だしな。俺には血なまぐさい生き

方が性に合ってるんだよ。」

「友明……友明の戦争はいつ終わるの? X国の戦争はもう終わったのに」

 いつになったら傍にいてくれるの? やっぱり戦争と言う名の槍が降ってこないと、傍にいてくれないの?

 私は昔から、自分の思っている事をうまく言葉に出来ないでいた。家族や友人の前でもそうだった。父からの誘いも今にしてみれば、嫌なら嫌だと言えばこんなトラウマを抱える身になんてならなかったはずだと思う。いつも私は黙って泣いている、泣き虫の子供のままだ。

 友明が死に急いでいる訳ではないのは知っているし、これまで何度も戦場に送り出す時には「必ず帰ってくる」と言う友明の言葉を無条件に信じることが出来た。でも、今回は何だか様子が今までとは違うと、私の中の何かが警報を鳴らしているのだ。

友明は決して自殺行為はしないが、任務の為なら命を懸けて勇敢に戦う男である。今まで生き残れたのは、きっと友明が無欲に、ひたすら現地の人の為に尽くしてきたからこそ、神様が護ってくれていただけだと思うのだ。

今の私の状況を考えれば、もうボランティアベースで戦うのは無理だろう。今度は私の為に友明は戦地に行くのだ。そんな事は神様が許さないだろうと思う。友明の気持ちは理解できる。でも同意は出来ない。 

ここで私が「何も要らないから何処にも行かないで」と言えば、友明の気持ちは変わるのだろうかと考えたが、どう言えばいいのかが分からずに、とうとう言えなかった。

「ごめんな」友明はそう言って、私の涙を指で拭った。


 友明に傍に居て欲しい。雨が降っても、槍が降っても。

 一体どうしたら友明を止められるかと考えた。不妊治療は投薬中なので不可能だし、私の体調が悪くても、友明は心配はしても戦いをやめる事はないだろう。

 ならば、友明が病気か何かで戦えなくなればいいと思った。そう、例えば目が見えないとか、足が動かないとか。

その夜、包丁を久しぶりに研いだ。夕飯のラタトゥイユを作る時に、トマトをが上手に切れなかったので。

夜中、テレビをつけたまま友明がうたた寝をしている。最近では、テレビを観ているよりもつけっぱなしのまま、うたた寝をしてしまう事が多い。短期の仕事がとても忙しいせい

だろう。

この包丁は親から独立した時から使っているが、高いだけあってよく切れる。生のカボチャや骨付き肉も、力を入れればちゃんと切れる。

包丁に水をかけながら、砥石で慎重に刃を研ぐ作業は、単純だがなかなか技術がいる作業だ。もう十年以上も同じ包丁を使っていて、切れなくなったら、また研ぐの繰り返しをして使い続けている。

「友明、寝ちゃった?」

座布団を枕にして寝ている友明に、そっと声をかける。友明はすうすうと寝息を立てている。

「友明……?」

私は包丁を片手に、友明に近づいた。

もしも、世界中の女達が、男達の脚を動けなくなる様に包丁で刺してしまえば、戦争のない平和な世界が来るのだろうか。

こちらに気づかないらしい友明の脚の、何処を刺せばいいかを考えた。腿には銃創があるので、多分腿ではないだろう。では、足首はどうかと考えた。

「ん……菜々子。腹減った。肉じゃが……肉じゃが食いたい」

友明のその寝言で、はっと我に返った。私は包丁を卓袱台に放り出して、友明に抱きついた。

そうだ、この刃物は人を殺す為のものではない。人が生きる為の刃物なのだ。私の使命は友明に美味しい料理を食べさせる事なのだと我に返った。

「うん……? どした、菜々子?」眠い目を擦りながら、友明は半身を起こして私を抱き返した。

「肉じゃが、でいいの?」私は涙を溜めていた。

「あ、うん。牛肉のじゃなくて、いつもの豚肉のやつがいい」

寝ぼけながらそう言うと、友明は再び寝てしまった。私は毛布をそっと掛けてあげた。

私が恋したのはあの坂場さんの写真の中で、生き生きと銃を構える男の中の男だ。友明の自由を奪う事はすなわち友明の全てを殺す事になる。友明は戦いなしでは生きていられな

いのだから。

私は肉じゃがを作るべく、冷蔵庫を開けた。古いがやたらと大きいせいか、いつもこの冷蔵庫の存在は頼もしく感じている。豚肉は昨日スーパーで特売をやっていたのでまだある

が、肝心のじゃがいもを切らせてしまっていた。もう夜中だが、近くのコンビニにじゃがいもを買いに出かけた。友明は仕事でそうとう疲れているらしく、茶の間でまた無邪気にうたた寝を続けた。そんな友明を起こさないようにそっと部屋を出た。

コンビニまではおよそ徒歩十分。住宅街ではあるが、ちょっと街灯が少なくて心細い気もしなくはない。私はじゃがいものついでに、缶ビールを一本買った。飲みながら歩いて帰

るつもりだったが、何となく海で飲もうと思って、ふらふらと海岸線の方向に歩いた。

真っ暗な海の対岸には、きらきらと地上の星がきらめいていて美しいと思った。満潮なのかはわからないが、フェンスの下の岩場には、波が激しく打ちつけていた。ざぶんざぶんと心地よいその音は、いつまで聞いていても飽きる事がない。

 卓袱台に置きっぱなしだった、友明のガラムを一本取りだして火を付けた。私はあのX国の終戦の日の夜に見た、真っ暗な海を今また見ているのだ。何ものをも飲み込んでしまい

そうな、偉大なる黒い海を。

 波の音を聞いているうちに、自分を呼ぶ声が聞こえてくる。菜々子、菜々子と私の名を呼ぶ声が次第にはっきりしてきた。この海が私を呼んでいるに違いないと思ったその時、私はフェンスによじ登ろうと片足をかけた。

「菜々子、菜々子!」

聞き覚えのある声だと思い、やっぱり海が私を呼んでいるのだなと思った。が、しかしその瞬間、背後から誰かが私を抱えた。その時やっと、呼んでいたのは海でなく、友明だっ

た事に気づいた。

「友明……?」

「菜々子、何やってんだよ。一人で夜の海に行っちゃダメだって、いつも言ってるだろ? 夜の海は色んな霊が棲みついていて、たまに人を呼んじまうんだから」

「あー……肉じゃが……」

私はすっかり酔っ払っていた。コンビニの袋を友明に渡して、その場で座り込んでしまった。どうして私の居場所を知ったのかを訊くと、スマートホンのGPS機能を使ったと言っていた。なるほど便利だなあと、ふと呑気に思った。

「あ、ビールなんか飲んでやがったのか。馬鹿だな、医者に酒はダメだって言われてたろ。酔っ払って海になんて。何が肉じゃがだよ」

「だって、友明が食べたいって」

「だったら、俺を起こして一緒にコンビニまで……もう、しょうがねえな」そう言うと、友明は私を抱き起そうとしたが、私がふにゃふにゃだったので、友明が背負って海岸線を歩

いて家に帰ることになった。

「友明、肉じゃが食べよう、一緒に」 私はこの時、「これからもずっと」とは言えなかった。

「今からか? こんな時間に食ったら太るぞ?」

 友明はかすかに笑って、「随分と軽くなったなあ。まあいいか、肉じゃが食おう。ちょっと痩せすぎだしな」と付け足した。

友明の背中はとても温かく、私はまるで親に背負われている子供みたいな気持ちになった。

実は幼い頃の父に関するまともな記憶は、こうして背負って歩いて貰った時のものが唯一のものである。背負って貰った時の私は確かに幸せだったはずだが、その記憶は思い出したくない幸福の記憶だった。思い出したくもない幸福があるなんて、矛盾しているが、私の中にあるトラウマは、幸福も不幸もごちゃ混ぜになっていて、酷くこんがらがったものだなと、友明の背中で思った。

私は友明の髪から匂う自分と同じシャンプーの匂いを忘れない様にしようと思った。今夜の記憶は……いや、今日までの友明との生活は幸福に満ちたものなのだから、それを忘れないように、潮風と一緒に二人の匂いを胸いっぱいに吸い込んだ。


 

十四

 結局、衣替えの後の十月のはじめの日曜の夜に、友明はアメリカへと旅立つ事になった。民間軍事会社のネットでの選考では合格したし、実地での試験や訓練も難なくパスする事は間違いないだろう。

 私の方はと言うと、度々仕事中に倒れそうになっていたので、店長から半年の休養をと命じられた。きちんと身体を治してから職場復帰しろとの事だが、果たして半年で治るのかと疑問に思う。もしかしたらこのまま会社を辞めて、無職になる可能性も考えられると思うと、少し不安になった。

 それからと言うもの、私は毎日好きなだけ寝たが、かえってそれだと身体のリズムが崩れると主治医に注意された。毎朝海辺を散歩しろと言われたので、少しずつ実行してはいるが、規則正しい生活を保つのは結構な困難だった。毎日家事以外にやる事がないので、友明がバイトから帰ってくるまでの間、ぼんやりと過ごした。次第に鬱っぽくなってきたので、家事も今までの様には出来なくなってきた。でも、友明が毎日仕事帰りに電話して、夕飯が作れない日はコンビニ弁当を買ってきてくれたし、掃除もきれい好きな友明が率先してやってくれたので、私の役割は洗濯くらいになった。

 また、友明が禁酒に付き合ってくれるので、今のところ誘惑には勝てている。その代わりに煙草が欲しくなったので、メンソールの煙草を一日一箱吸うようになった。何だか結婚や妊娠からどんどん離れていくのを感じたが、もう何もかもがどうでもよくなってきた。

 それでも悪い事ばかりでは無かった。友明が前よりも優しくなったし、悪夢に魘される事も無くなってきたのだ。毎晩夢も見ずにぐっすり眠れるだけでも、ありがたいと思った。

 そんなある日、友明は私の誕生日プレゼントを買ってくれた。小さなサファイアの付いた指輪だった。

「サファイアは病気を癒したり、心の悩みや苦しみから解放してくれる石なんだとさ。今の菜々子にぴったりだろう?」

 友明はそう言って、誇らしげにほほ笑んだ。

「私も友明に何かお守り買いたいな」

 友明は胸ポケットの中の、春に帰国した時に買った、防塵防水のスマートホンを指して言った。

「これで充分だよ、これで」

私達はふと、ある事を思い出して互いに笑いあった。

「昔、何かの漫画であったよね。聖書を胸にしまってたら、弾が聖書に当たって助かったとか言う話」

「うん、聖書よりもご利益ありそうだよな。聖書もコーランも仏教説話も、各宗教のサイトのホームページのテキストをダウンロードすれば読めるんだから」

 なるほど、今はそんな便利なサイトがあったのかと、私は感心した。

「それなら心強いね」

 私はそう言って、スマートホンをケチらなくてよかったと、今にして思った。


 そして秋も段々と深まってきて、長そでの秋服が丁度よくなってきた頃、友明の旅立ちの日が来てしまった。私は空港まで見送ると言ったが、友明は「途中で倒れたら困るだろう」と言ったので、駅前までで我慢することにした。

 バスの中でしっかりと手を繋ぐと、初めて手を繋いで歩いた頃の事を思い出した。東京に住んでいた頃に、飲み屋の帰り道だったと記憶している。海を見ながら乗っていると、すぐに駅に着いてしまった。

 改札口の前で立ち止まると、友明はまるでちょっとした旅行にでも行く様な感じで、「行ってきます」と言った。

「くれぐれも気を付けてね」

「ああ、菜々子はゆっくり休んでろよ。何かあったらスカイプのメッセージを入れろ。ドンパチの最中でなければ連絡するから」 

「またネズミカレーを食べるの?」

「いや、分からない。けれども世界中から戦争が無くならない限り、ゲテモノカレーシリーズは無くならないだろうな」

 私は「やっぱり行かないで」と言いたくなったが、ぐっと堪えた。言葉に出来ない気持ちが涙となって溢れ出た。

 友明は私を抱きしめ、背中をぽんぽんと叩きながら、「大丈夫、大丈夫」と宥めた。

 見えなくなるまで見送ると、私は暫く立ち止まったままだったが、やがてスーパーで夕飯の買い物をしに歩き出した。駅ビルのスーパーで半年ぶりのチキンカレーの材料を買って、バスに乗り込んだ。

 いつもの海辺の停留所を降りると、潮の香りと見事な夕焼けが私を迎えてくれた。私は暫く海を見ながら煙草を吸った。そして友明に貰ったサファイアの指輪を太陽に透かしてみた。

 サファイアの石の意味は「平和への祈り」だと、つい昨日知った。友明がそれを知っていたか知らなかったかはわからないままだが。もしも明日、戦争と言う名の槍が降って来ても、生きる希望は捨てないでいようと思う。でも、いつか友明の荷物だけが帰ってくる日があるかも知れないと思うと、なんともやりきれない気持ちになる。

 段々と薄暗くなり、犬の散歩をしている人の顔がよく見えなくなってきた。そろそろ帰ろうと思い、海を背にした時、ふとスマートホンのメール着信音がした。友明からだ。きっと電車で長く座っていて、暇なんだろう。友明はメール欄に一言だけ英文を書いたらしく、英語が全く分からない私には、一瞬、何のを言いたいのかがさっぱりわからなかった。

「I love you forever, my rape flower.」

 私には、それが何の花の事かが分からなかったが、後で調べたら菜の花の事だったと気づき、思わず胸が熱くなった。

陽が沈む前に海から立ち去り、私は東の空を見た。上弦の月が雲間から光っていて、一等星が輝き始めた。私は早く帰ってカレーを作って食べようと思い、上を向いて歩いた。

 

またわたしはその日、彼らのために、野の野獣、また天の飛ぶ生き物や地面をはうもの

に関して必ず契約を結び、弓と剣と戦いをこの地から断ち、彼らを安全に横たわらせる。

旧約聖書 ホセア書 第二章十八節

 

参考資料

『戦友~名もなき勇者たち~』高部正樹著 並木書房刊

『戦争ボランティア~ボスニアの日本人兵~』高部正樹著 並木書房

『傭兵の誇り~日本人兵士の実録体験記』高部正樹著 小学館

『民間軍事会社の内幕』菅原出 筑摩書房

『新世界約聖書』ものみの塔出版

 

原稿用紙換算九十七枚

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