【観劇メモ】『近松心中物語』を観る

長塚圭史演出の『近松心中物語』を兵庫県立芸術文化センターでみる(2021年10月8日/10月10日)。『冥途の飛脚』をはじめとした、近松門左衛門のいくつかの心中物をもとに、秋元松代がつくりあげた戯曲である。昨年(2020年1月)同じ作者による『常陸坊海尊』を、やはり長塚の演出でみて、強い印象を受けた。このときはじめて秋元の作品に触れたのだが、長塚の演出も素晴らしく、同じ作者、同じ演出家ということで、今回の上演が発表されたときから期待していたのである。

開演とともに舞台奥に設置された街灯(!?)に明かりが灯り、傘をかぶった僧侶風の男が現れ、手にもった鐘を鳴らす。すると、舞台横からさまざまな衣装を着た出演者が、それぞれ鐘や拍子木、太鼓などを打ち鳴らし、歌いながら登場する。

打楽器のリズムがうねり、歌が高揚してくると、舞台奥から禿たちをひきつれた花魁が登場する。舞台はますます賑やかになる。客の男たちが罵り合いはじめる。いまにも取っ組み合いの喧嘩になりそうだ。店の者が棒をもってやってきて客たちを威圧する(台本に指定はないと思うが、ここでは女が棒をもって威圧する)。

花魁が機嫌を損ねていると声が上がり、お大尽から景気付けの金がばらまかれる(金が大きく絡むこのあとの悲劇を暗示している)。花魁は踵をかえし舞台奥へ消える。僧侶もいつの間にか消えている。その他の出演者らも袖にはけ、舞台が一挙に静まり返る。

このオープニングシーンが印象的で、ぜひ書き留めて置きたかった。打楽器の音とリズムに導かれ、観客は元禄時代の大坂・新町へとタイムトリップする。音楽はスチャダラパーが担当している。ヒップホップ調の音楽が、浄瑠璃風?のリズムで書かれた秋元の言葉とうまく調和している(韻を踏んだり、言葉遊びを多用したりする浄瑠璃の音楽とラップとは、もともと親和性があるように思う)。

ステージの構造も特徴的である。舞台奥に向かって床が高くなり、さらに横幅がグッと狭まる構造になっている。ステージが引き締まってみえ、奥行きが強調される。最後まで、基本はこの舞台上で芝居が繰り広げられる。オープニングの場面では、舞台奥からの照明により(やや逆光のようになる)、出演者らの印影が強調される。花魁が登場するシーンでは後光が差しているようでもあり神秘的だ。

舞台転換もスムースである。暗転を多用することなく、細かい場面の移行なら、黒衣風のグレーの衣装をきた出演者(ないしは裏方?)が、道具を運んだり持ち去ったりする。大きな転換のときも、天井から大掛かりな装置が降りてくるのをそのまま見せる。最後、心中に至る道中で用いられる雪の山道の装置が丸ごと天井から降りてきたのには仰天させられた。歌舞伎や文楽の舞台でも大掛かりな場面転換をそのままみせることがある。場面転換そのものをスペクタクルとして提示するのである。今回の舞台は、それを思い起こさせる。

物語は、飛脚問屋の若旦那・忠兵衛と下級の遊女・梅川による一直線の愛と、古道具屋の若旦那・与兵衛とその妻・お亀によるすれ違いを含む愛とが交錯する。

色街に行ったこともない真面目を絵に描いたような忠兵衛は、一分の金を届けるため、偶然立ち寄った女郎屋で梅川と出会う。二人は一目見ただけで引かれ合う。馴染を重ねるなかで、離すまい離れまいと誓い合う間柄になるが、そこに突然、梅川の身請け話が持ち上がる。相手は田舎のさるお大尽だという。金の力では到底敵わない。お大尽はすでに手付の金を渡したとも聞く。忠兵衛、そして梅川は追い詰められる。忠兵衛は金策のために奔走する。幼なじみの与兵衛を訪ね、恥を忍んで正直に訳を話すと、与兵衛は快く手付金の50両を貸してくれる。

50両という大金を簡単に貸してしまう与兵衛にも事情がある。大店の若旦那ではあるが、気が弱く誰にでも優しすぎる性格の与兵衛は、商売に向いていない様子で、義理の母親のお今(朝海ひかる)に怒られてばかりいる。妻のお亀には、そんな頼りないところを逆に愛されてはいるが、お亀の一方的な愛情に息苦しさも感じている。遅かれ早かれ家を追い出されると考えていた与兵衛は、店の金を勝手に使ってしまうことで、今の生活に見切りをつけることができると思ったようである。

結局、二組のカップルはそれぞれ心中へと向かう。忠兵衛は手付けの50両を支払うことはできたが、梅川を身請けするために必要な後金が用意できる当てがない。お大尽に肩入れする飛脚問屋仲間の八右衛門に追い詰められた忠兵衛は、蔵屋敷に届けるための公金300両を自分の金と偽ってバラまいてしまう(有名な「封印切り」の場面)。忠兵衛と梅川は逃げ延びようとするが、最後は雪に阻まれこれ以上逃げられないと悟り、いっしょに死ぬことを選ぶ。

店の金に手をつけた与兵衛は家出をするが、お亀に一言詫びを言うために一度家に戻る。与兵衛と離れたくないお亀は、与兵衛が制止するのを聞き入れずいっしょに家出する。お亀に引っ張られ、二人は『曽根崎心中』で有名な蜆川に到着する。お亀は与兵衛に、ここでいっしょに添い遂げようと提案する。自分たちが死んでも、きっと近松門左衛門様が浄瑠璃にしてくれるという。これに与兵衛は半信半疑だが、お亀の勢いに押されて心中することに同意する。だが結局、お亀だけが死に、与兵衛は死に切れず生き残る。この場面、近松の作品を基にした本作に、それ自身を相対化するような視点が持ち込まれていて面白い。

与兵衛とお亀は、忠兵衛らと対照的に、現代的なカップルとして描かれる。私自身、忠兵衛の優柔不断で頼りないところなど、「まるで私だ!」と思いながら見た(別日程で観劇した妻も同じことを言っていたので間違いない)。もっとも、1979年に初演された作品なので、江戸時代ほど離れてなくとも、当時の“現代”と2020年代とでは隔たりがある。なのに、この二人の場面はまったく古さを感じない。長塚の演出と与兵衛を演じる松田龍平とお亀を演じる石橋静河のキャラクターのためもあると思う(注)。が、後から台本だけを読んでもそう感じたので、秋元の描き方が先進的だったと考えてよいかもしれない(あるいは私たちの生きる現代が、1979年時点からそれほど変わっておらず、相変わらず二人のキャラクターが新鮮に映るだけかもしれない)。

一方、与兵衛とお亀のカップルを通して物語世界が身近に感じられてくると、忠兵衛と梅川のカップルにも同じだけの、いや、彼らの場面が終始シリアスに描かれるだけにそれ以上のリアリティが求められてくる。ここでは愛を貫くために死を選ぶという、現代ではおよそありえない二人の選択を、いかに現代の私たちの胸に迫るドラマとして見せることができるかが問われているといえる。秋元にとっても、そして今回のカンパニーにとっても、これは大きな挑戦だったのではないかと思う。

補足すると、ここには舞台における“リアリティ”とはなにかという難しい問題がかかわっている。古典的な様式によって演じられる文楽や歌舞伎であれば、どれだけ現実離れした設定でも、“そういうもの”として理解することができる。様式化されていることで、お芝居であることがはっきりし、安心して舞台上の出来事に身を委ねられるのである。ある種の“距離”をもって舞台に接することで、かえって登場人物らに感情移入ができるともいえる。とくに文楽の舞台を見ていると、人形が演じるために、登場人物らが極端と思える行動をとったとしても、いくらか許容できる。さらにはその人物らの心情に、何故だか共鳴できたりする(このためにはもちろん、人形だけでなく太夫や三味線の力も大きく関与する)。だが、今回のように生身の人間が現代的な様式で演じる舞台では、どうしても“リアリズム”の呪縛から逃れられないのである。

しかし、私のみた限り、今回の舞台は、心中に至る二人の悲劇を真に迫るものとして十分に表現できていたと思う。それは、秋元の作劇上の工夫と、長塚の演出および今回の演者らの力量によるところが大きいといえる。

近松の『冥途の飛脚』と比べ、秋元の戯曲では忠兵衛のキャラクターに厚みがもたされている。一分の金でも届けようとする生真面目さが強調されている。そうした真面目で頑固な性質が、己の立場を顧みず一途な恋へと突き進む忠兵衛の行動を説明していて、現代の私たちが見ても、ある程度共感をもって受け止められるようにされている。忠兵衛と梅川が互いに一目惚れするシーンもきちんと描かれている(今回の演出では、言葉によらず、互いに顔を見合わせることで、それとわかるようになっていた)。長塚の演出は、秋元の台詞を原則的に変えない方針をとっている。その上で、演者らのキャラクターをうまく引き出し、秋元の戯曲を現代の私たちに通じるドラマとして提示できているように感じた。

忠兵衛を演じる田中哲司は、生真面目な性格であり、普段は大人しいが侮辱されたと思うとすぐキレてしまう忠兵衛の性格を、上手く体現していたと思う。また、梅川と相対したときには、ただ生真面目なだけではない、包容力を感じさせるところがよかった。

梅川を演じる笹本玲奈は、低めのトーンの声が艶やかで、下級女郎の立場を自覚しつつ、女として、また人としての矜持を忘れない梅川の性根をよく伝えていた。自らの身の上に対する諦念と、忠兵衛を一途に愛する情熱とを、巧みに表現していたと思う。

二人の恋路を邪魔する八右衛門(倉石三郎)も重要な役どころである。憎まれ役ではあるが、決して悪意があって(少しはあるかもしれないが)やっているわけではない。飛脚問屋仲間として放っておけない立場にあるために、しつこく忠兵衛を諭すのである。石倉は、八右衛門の俗物性と忠兵衛に対する一種の“やさしさ”(忠兵衛からするといらぬ“お節介”であるが)を、含みのある演技でみせてくれた。

その他、見ていて気づいたのは、周囲の人物がみな基本的に“いい人”ばかりであるということである。槌屋の主人・平三郎(山口雅義)をはじめとした女郎屋の人々も、忠兵衛と梅川の恋を応援している。八右衛門でさえ、忠兵衛のことを案じてあのような態度を取っているところがある。与兵衛を追い詰めるお今にしても、与兵衛とお亀のことが心配であるからこそ、与兵衛にきつく当たっている。みなそれぞれの考えに基づき、できるだけのことをやっている。それにもかかわらず、二つのカップルは結果的に死に追いやられてしまう。このことが、今回の作品の悲劇性(与兵衛らは喜劇とも取れるが)を際立たせている。またそこに、この作品の批評性がある。つまり、心中に至る二つのカップルの悲劇を、ただ個人の問題に還元せず、背景にある構造に目を向けさせるのである(この点はもっと詳しい説明がいると思うが今はまだ書けないでいる)。
 
「心中物」というと、男女のベタベタした恋愛悲劇が展開されていると思う人が多いと思う。たしかに、究極的にロマンティックな恋が描かれてはいる。しかし、今回の舞台は、見方によっては非常にクールにつくられていて、当時の人々の生き方について、また現代の私たちの生き方について、様々なことを考えさせられる作品になっている(これにはスチャダラパーの音楽も貢献していると思う)。すでに公演はほとんど終わっていると思うが、再演があればまた見てみたい。


ただ、気になったのは松田が台詞をいうときのイントネーションである。秋元はおそらく古い上方言葉をもとに台本を書いている。しかし、松田の発音は時々、どこの地方の言葉かわからないような得体の知れないものになっていた。もう少し訓練して挑んでほしいと思う。

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