見出し画像

⑨人間とは、(2018/6月) Auschwitz-Birkenau編2

アウシュヴィッツに行くと決めてから、頭の何処かに常に、それがあった。
時間があくと、とりとめもなく延々と考えてしまっていた。

人間とは、元来、残酷なものなのか。
いや、そもそも残酷という概念は、社会の法や秩序が作り出したものであって、性善説みたいな定義は果たして成り立つのだろうか。
ゆえに、悪というもの自体、あやふやで、主観的なものではなかったか。
などと、もやもやと足りない頭で考えていた。

行ってから思うと、見当違いなことを考えていたなと思う。

初夏のアウシュヴィッツは、道の左右に整然と並んだ赤茶の煉瓦造りの建物と、新緑のポプラ並木と綺麗に刈り込まれた芝生のある場所だった。
季節のせいもあるが、シンメトリーな景色に、不覚にもなんだか綺麗だなぁと感じてしまうぐらいだった。

ここで何百万人と働かされ、何百万人と殺され、何百万人の命と感情と想いが無関心に刈り取られ灰となり打ち捨てられたのか。
そんなことが感じられないくらい、静かで穏やかな場所だった。

日本だと、悲惨な現場などには、霊などがいて、怨念や祟りがあるんじゃないかとか、よくいわれるが、
ここほどの悲惨な過去を持つ場所など他にあるのだろうか。
悲惨さなど比べるべきものではないが、そんな考えがバカらしく思えてくる。

アウシュヴィッツ・ビルケナウ国立博物館は、博物館という名だが、ほぼ当時のそのままを維持する(復元展示ではなく修理修繕をしながら保存する) 様にしている。

すぐぬかるむ水はけの悪いデコボコの歩きづらい赤土も、強制労働で継ぎ足され作られた煉瓦造りの建物も、ソ連軍の侵攻にナチスが慌てて証拠隠滅のために破壊したガス室などの崩れた跡も…

車椅子の方が1人、見学しにきているのを見かけた。
敷地内の外の道を進むだけでも大変だろうし、ましてや手すりやスロープもなく、全てが石の階段を上らないと入れない建物に、ヘルパーガイドさんが居たとしても限られた場所にしか入ることはできないだろう。

健常者という言葉が、差別的であるとは思うが、アウシュヴィッツにおいて、この”健常者”が命の選別で、生かされる側の基準になった気がする。
そこに、子供、老人、女性、病人、怪我人、働けなさそうな人、障碍者などは、含まれない。
つまり、そもそもこの人たちが使う前提ではない造りの建物になっているということでもある。

過去の差別や迫害への戒めとしての博物館であるが、当時のそのままを展示するという形にしていることで、バリアフリーではないという矛盾を引き起こしてもいた。

私が見学に行った日の前日に、ちょうど、各国から物議を醸していたポーランドの極右的な法案(2018年2月に可決。詳しくは→ https://www.bbc.com/japanese/42901060)が、廃案になった。
その法案は、”ナチス・ドイツがポーランド領内に作った強制収容所を「ポーランドの」と呼ぶことも禁止している。違反行為には罰金刑もしくは最長3年の禁錮刑が科せられる。(上記のBBCの記事より)”というもの。
近年、東欧での極右化がいちじるしく、ポーランドもそれに追随している。

中谷さんが、昨日までだったら、今みたいな言い方をしたら、捕まっていましたね、と苦笑いする場面もあった。

※ポーランド旅行記バックナンバーまとめ※随時更新①~


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?