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⑤ワルシャワ・ゲットー (2018/6月)

“ゲットー”って単語、何だか覚えてますか?
確か世界史で習ったけど、なんだったかなって思いません?
現に私もすぐには出てこなかった。

でも、この写真は見たことありませんか?↓

私は、教科書に載っていたこの写真がものすごく記憶に残っている。
でも、本当にくだらない、申し訳ないような理由で覚えていた。

ちょうどその頃、学校で心霊写真が流行っていた。で、これが心霊写真だという話になった。
確かに戦争でこんな酷いことがあり、怨念や心霊が出ても仕方ないと、妙に納得さえしていた、本当にバカで呑気な10代の私。

この写真こそが、ワルシャワゲットー蜂起でのユダヤ人の写真である。この写真をポーランド・ユダヤ人歴史博物館で見た時に、退化していたシナプスが繋がった。

ゲットーとは、ユダヤ人隔離地域のことで、ワルシャワにあったものは、ナチスが作った中で最大規模のゲットーになる。

ゲットー内は壁で囲まれ、生活の自由を制限される。初めは自治政府もかろうじてあったが、劣悪な環境により飢餓や病気の蔓延、強制労働、強制収容所への連行という流れになり。弾圧に耐えかねたユダヤ人が、ゲットー内で反乱を起こし(武力蜂起)、そして鎮圧という形で虐殺され壊滅させられた。

今回は、戦争遺産を見てこようと、なんとなく思っていた。ワルシャワで泊まったホステルに何種類かのフリーのシティーマップがあったので、適当に一つ持ってきたら、これが素晴らしい地図だった。

↑これなのだが、ゲットーエリア、跡地、メモリアルモニュメントなどが書きこまれているのだ。
普通のツーリストマップだとゲットーエリアの枠さえ書いてない。
自分の引きの強さをこんなところで発揮してしまっていいのだろうか…

というわけで、ちょっと跡地を歩いてみることにした。
きっとみんなショパン博物館とかに行くと思いますが…

↑今でも、このように壁の一部が残されている。しかも、個人宅の私有地を通らないと行けなかったり、アパートの敷地内にあったりする。

そして、とてつもなくボロボロの不揃いな赤レンガの当時の建物も、まだほんの少し残っていたりする。

壁があったであろうポイントに石碑が建っている。そして足元を見ると…

当時のゲットーの壁に沿って、タイルが続いている。

ゲットーの壁に挟まれながら(壁のほぼ隣)、壁の外にあり、1902年からあったマーケットホール(市場)のHala mirowska

第二次世界大戦中についた、銃弾跡が今も残る↓

そして、ワルシャワ蜂起の時に壁以外のすべてが破壊され炎上したが、戦後1950年以降に再建される。

ワルシャワ蜂起の時の火災の様子(wikiより)↓

ちなみに、ワルシャワゲットー蜂起(1943年4月)と、このワルシャワ蜂起(1944年8月)は、別物。(地下組織に内通者がいたという話もあるが)
前者はユダヤ系ポーランド人のゲットー内での蜂起であるが、ワルシャワ蜂起は非ユダヤ系のポーランド人のワルシャワ市内での武力蜂起のこと。前回書いたワルシャワ旧市街が完膚無きまでに壊滅させられたのは、ワルシャワ蜂起の際、ナチスドイツに制圧されたもの。

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