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福田屋ものがたり ~再生への出発編~

プロローグ

 福田屋は、大阪・西成のあいりん地区に立つ、昭和初期からつづく宿屋。
JR新今宮駅の高架に沿ってずらりと並ぶ建物は、すべて鉄筋コンクリート造の7~10階建てホテルやマンションばかり、その真ん中にあって、福田屋は木造二階建、昭和33年の改築当時の姿を現在まで80年以上保っています。かつては周りのホテル群も福田屋のような宿屋だったに違いありませんが、当時の姿を残すのは、この福田屋のみ、このまちの歴史を今に伝えるたいへん貴重な建物となっています。
昭和初期に建てられた福田屋は、戦前、戦中、戦後、高度成長期、そして、バブル期をへてホームレスが多かった2000年代の失われた30年まで、このまちを見続けてきました。特に昭和30~40年代、大阪では戦後復興から大阪万博に向かって様々な社会インフラや都市整備の工事が多くあり、日本全体からあいりん地区に労働者が集まってきました。その当時の宿屋街は、連日客室が売り切れ、廊下でも宿泊する人がいたほど。近くの商店街は労働者で賑わい、飲食店はもとより、衣料品や日用品も飛ぶように売れたそうです。
 しかし、バブルの崩壊やリーマンショック、その後右肩下がりの時代となり、かつてのような賑わいもなく、厳しい時代となりました。現在、福田屋は、3代目にあたる女将が一人で切り盛りしています。先代が働き盛りに亡くなったため、妻であった女将が経営を引き継ぎ、何とか経営を続けてきました。しかし建物の老朽化もあり、何か手を打たなければ、今後の事業継続は難しいと言わなければなりません。
このまま宿をたたむしかないのか。いや、老女将には意地と矜持がありました。30数年間一生懸命守ってきた福田屋をなんとかして続けたい、そして次世代に引き継ぎたい。幸い、娘さんにもやる気はあります。その姿に、地域で活動する私たちも共感しました。時代の移り変わりをみてきた福田屋を残し、その姿を通じてこの地域の歴史や記憶を未来に引き継いでいく、そのためには、将来娘さんに宿屋の事業を引き継いでもらうのが一番なのですから。
 女将から相談を受けたのは、以前からつながりのあった地元の不動産会社。時代に少しでも追いつこうと、行政の補助金を利用し全館 Wi-Fi を設置するお手伝いをしました。しかし、コロナ禍で期待した効果は得られず。今後の末⾧い事業の継続のためには、設備や運営の仕方、宣伝の方法、抜本的に見直すべきことがたくさんあります。女将と娘さんだけでは難しいその課題 を解決すべく、知恵とスキルを集めるため、不動産会社が仲間に声をかけました。貴重な歴史的遺産を守ることにもつながる今回の事業再生、女将の姿に共感した地元のまちづくり支援をする会社 2 社が協力することになり、福田屋再生プロジェクトは始まりました。 生きた福田屋を未来へつなげていきたい、そんな福田屋女将・母娘の思い、それを支え る私たちの思い、そして福田屋本館の今そしてかつての姿を「福田屋ものがたり」に綴っ ていきます。ぜひお読みいただき、福田屋の再生に向けて応援をしていただければ幸いです。
(この頁の文責:株式会社ナリッジ・クリエイション)

≪株式会社ナリッジ・クリエイション≫
 地元西成のまちづくり調査・支援会社 西成に熱い思いを持つ西成生れの創業者の意思を継いで、妻がやってます。
 西成の社会課 題を解決すれば、明日の日本が見えてくる!そんな思いを持ちながら、西成のお役に立 つことを小さいことでもやっていきたい。ちなみにナリッジのナリはニシナリのナリ。 創業者のコダワリです。


第1話

JR大阪環状線新今宮駅の高架ホームの南側、鉄筋コンクリートのホテルが立ち並ぶ狭間に、昭和な外観の木造二階建ての宿はひっそりと建っています。
 「主人が亡くなったときは、どうしようかと思ったけど、娘たちも育てていかなあかんし、ずっとやってきたことやから、これでやっていこうって」
 女将の靖子さんは、24年間一人でこの福田屋本館を切り盛りしてきました。三畳の部屋が三十六室ある、かつては労働者やビジネス客が多く泊まる簡易宿所だった福田屋。先々代の時代には、いくつもの旅館や簡易宿所を経営していた福田屋でしたが、現在はこの萩之茶屋一丁目の本館だけの経営となっているそうです。

 「お姑さんは、あんまり昔の話はしいはれへんかったけど、福田屋は百年続いてきたて聞いてます」そんな歴史ある福田屋だが、時代の波には逆らえなかった。バブル崩壊後の失われた三〇年の時代と、女将が営む福田屋の経営がだんだんと厳しくなっていった時代は重なっていた。自分ももういい年で、体もしんどい。いっそやめてしまって、旅館が建っている借地を地主さんに返してしまおうかと考えたこともあったという。だが、「長女が、今はお勤めしてますけど、将来継いでくれる
と言うてるんです。せっかくここまで頑張ってきたんやから、次につなげたい」
 靖子さんは、私たちに相談をもちかけているうちに、心を固めたようだった。

 大阪・西成は、かつて労働者の暴動があった町として全国には知られています。その後は、逃れの街、故郷を離れ、生きてきた町を離れた人たちが過去と決別して逃れてくる町として。しかし、西成・あいりんはそれだけの町ではありません。戦後の高度成長期、大阪万博景気のころ、そしてバブルの時代、国土建設を支えた人たちの拠点とされ、活気に満ち溢れていたのです。宿は連日客室が売り切れ、飲食店は懐の膨れた客で溢れ、商店でも品物が飛ぶように売れたといいます。しかし、バブル崩壊やリーマンショックを経て、街は様変わりしました。労働者たちは仕事を失い、高齢化し、体を壊し、もう働けません。ホームレス対策として、労働者の宿であった簡易宿所がアパートに転用され、生活保護者の受け入れ先となりました。一部の簡易宿所は、海外バックパッカー向けの安宿として人気を博しましたが、コロナ禍で一気に厳しい状態となったのです。

大阪公立大学 上畑宣恵氏所蔵資料より

 靖子さんは、若い頃、高架の南海電車の中から西成・あいりんの町を見て、「暴動があった町やで、怖いなあ」と友人と話したことを覚えているといいます。「まさか自分がそこへ嫁ぐことになるとは、その時は思いもよりませんでした」福田屋本館は、その一部が靖子さんの自宅となっています。オーナーが住み込んでいる簡易宿所は今となってはこの地域に福田屋本館しかありません。昔は、定宿にしてくれるお客さんと仲良くなり、子供さんを海水浴に連れて行ってもらったりしたそうです。活気づいていた時代のいい思い出。

 そんな家庭的な雰囲気が建物ににじみ出ているのか、引き寄せられるように入ってくる人がいます。筆者が福田屋にいるときにも、ちょうど人が訪ねてきました。若い男性。靖子さんは気さくに「どこからきはったん」と尋ねます。「韓国です」最初は、すみません、ここはレストランですか、と入ってきました。玄関を入ったホールにおいてあるダイニングテーブルが目に入ったのでしょう。「違うんよ、うちは旅館なんよ」と靖子さんが答えると、「近くに食べるところありませんか」と聞くので、靖子さんは親切にいろいろ答えてあげます。そのうち、男性が「この建物すごくいいです。とても日本的。私は、日本のアニメのファン。あれも大好きです」と壁の掲示板に貼ってあったポスターを指さしました。それは、防火のポスターでしたが、『めぞん一刻』という古い漫画アニメのヒロイン、若くて美しい後家のアパート管理人、音無響子さんの絵が描かれてありました。「ポスターの写真を撮っていいですか」と言うので、「どうぞどうぞ」と言って、靖子さんはすぐ下に貼ってあった指名手配犯のポスターを剥がしてあげます。優しい。「次に来たときには、絶対ここに泊まります」と言って、韓国から来た男性は去って行きました。

靖子さんは、「ちょいちょい外国の人とか若い人が、この建物いいねって言ってくれるんよ」と言います。それに、家族連れなどに、このへんに喫茶店ありませんか、とも聞かれるといいます。実際、JR新今宮駅周辺、福田屋の近辺には入りやすい喫茶店やカフェはありません。
福田屋本館の行く末について相談を受けていたとき、靖子さんがなんとなく口にしたそんな言葉たちに、私たちはとっかかりを見つけたような気がしました。労働者や生活保護者のための安宿や住居としての役割はもう終えて、建物は維持しつつ新しい形態に生まれ変われれば福田屋本館の生き残る道はあるのではないだろうか、と。(第1話完)


文責:株式会社 ナリッジ・クリエイション
写真等:株式会社サミット不動産

第2話

福田屋本館は、交通量の多い幹線道路沿いに、鉄筋コンクリートのビルに挟まれてひっそりと建っています。この章では、福田屋本館の、昭和感あふれる建物そのものをご紹介していきます。
前面道路から見て、まず目を引くのが建物前の植栽です。玄関扉の上に、ウバメガシの木が湾曲してアーチになっています。その横には背の高いヒマラヤ杉の葉の灰緑色。足元を見ると、女将の靖子さんが世話をしているプランターや鉢植えがたくさん置かれ、3月の今の時期は、沈丁花が小さな花をつけて、あえかな香りを漂わせています。
建物のほうに目を向けると、正面一階の外壁はグリーン系の集成石材張り、二階の窓の間はクリーム色の長方形のタイル張りの壁がリズムよく並び、瓦の庇屋根の軒下には紺色の小さなタイルがラインを作っています。


模様ガラスがはめこまれた、正面中央の両開き戸を開けて玄関を入ると、左に小さなカウンターがあります。宿のフロントです。石づくりのカウンターの上は障子戸で閉じられています。カウンターの下は、クリーム色の細かいタイルの間にところどころ青いタイルがはめ込まれた意匠。カウンターの端には、曲がりくねった木をそのまま使った仕切りが和の雰囲気を醸し出しているけれど、玄関の床は、水色を基調とした幾何学模様のタイル張りで、天井には応接間にあるような小さなシャンデリアがぶら下がり、洋館風です。玄関の右側には、木製の大きな下足箱があり、金属製の鍵がついた小さな飴色の扉がずらりと並んでいい味を出しています。下足をあがると、ロビー。こちらも年月を感じる飴色の板敷です。天井は、竹や網代風の意匠があしらわれ、和風。奥には全面のガラス戸越しに中庭が見えています。中庭は小さく、二階まで周りを囲まれているためあまり光は入りません。ロビーのテーブルの横に大きな陶器の火鉢が置かれています。冬場の夕方には、女将の靖子さんが毎日炭をおこすといいます。少し薄暗いこの和洋折衷の空間、何かを思い出させるような、夢で見たような、なぜか懐かしいような気がしてくるのが不思議です。


靖子さんについて、福田屋本館の内部も見せてもらいます。
まずは二階へ。玄関ロビーの右手にある木の階段をギシギシと上がります。階段の壁はパステルカラーの細かなタイル張りでところどころ花模様がとんでいてかわいい感じ。踊り場の窓が、階段の上りに合わせて段違いになっていて、リズム感があります。階段の踏み板は奥行きがかなり狭いので、足を横向きにのせて上がっていきます。「急ですね」というと、踏み板が端から擦れて狭くなってしまっているとのこと。建物の年月を感じます。


二階へ上がると、左右に部屋があるので廊下はうす暗く、客室の茶色い木の扉と白い漆喰の壁が順番に並んでいます。
三十六室ある部屋のうち現在客室提供している部屋は十室ほどですが、女将の靖子さんは扉をあけていくつかの部屋の内部を見せてくれました。三畳ではありますが、畳表もきちんと替えられていて、壁も砂壁で塗りなおされて明るい雰囲気です。奥の出窓の上部には垂れ壁があり、竹があしらわれデザインが施されていて、洒落ています。他の部屋を見ると、なんと部屋によって垂れ壁のカットの形と竹のあしらいが違っています。斜めになっていたり、四角く切り取られていたり。竹もまっすぐのもの、カーブのついたもの。天井もそれぞれで、船底天井になっていたり、網代風や、竹があしらわれていたり。一部屋一部屋、内装のデザインが違うのです。
「気に入ったお部屋を指定されるお客さんもいらっしゃるんですよ。なんでこんなになってるのか私は分かりませんねんけど、建てた当時の人が凝ってたんやろね」靖子さんは言います。そして、それを受け継いだ先代そして靖子さんも、部屋の修繕にあたっては、意匠が凝らされたその雰囲気を守るため、壁は壁紙にせずあえて砂壁でやり直したといいます。


各室の扉は引き戸で、扉の上には通風用のガラスの引き戸があります。一見ガラスのはめ込みのように見えるのですが、横に動いて開きます。昔は冷房もなかったから、夏場は各部屋に扇風機を貸し出していたそうです。窓と通風口を空けて風を通していたのでしょう。今は二階の部屋には窓タイプのエアコンがついています。部屋の雰囲気は壊れますが、仕方ありません。冬場は石油ファンヒーターを貸し出しています。あちこちからの隙間風があって、それなしでは過ごせないくらい寒いのです。「昔は寝るとき用に電気アンカも貸し出してたんよ」と靖子さん


廊下は逆L字型になっており、曲がると右にもう一つ階段があります。その奥の並びに3つの客室。その客室の窓の外は、JR新今宮駅の高架線路の真下です。電車の発着の音とホームのアナウンスやチャイムが聞こえます。「わざわざこの部屋を指定するお客さんもいるんよ。電車の音で朝早く目が覚めていいみたい」なるほど、この駅からの一番早い電車の出発時刻は午前4時54分です。
廊下の突き当りには簡単な炊事場があります。長期滞在の人はここで簡単な調理をして、お部屋で食べるそうです。部屋は布団と小さなちゃぶ台でいっぱいで、室内に他の設備は何もありません。一階ロビーと、二階の人のためには二階の物置に冷蔵庫を置いています。「二階の人がわざわざ降りてこんでもいいようにね」炊事場の横には共同のトイレがあって洋式に改修されています。「結構色々お金かけて直してきてるんやけどね」宿泊客用の共同浴室にも一人用のユニットバスを1つ入れました。
廊下を戻り、階段を降りましょう。こちらもロビーからの階段と同じように、踏み板が擦り切れています。同じようにタイル張りの壁。段違いの窓。電車の音が響きます。降りていくと一階です。二階と同じように部屋が並んだ、薄暗い、そして少し傾いた廊下を通っていくとロビーに戻りました。ふたつの階段を使って、ちょっとした迷路感覚も楽しめました。(第2話完)


文責:株式会社 ナリッジ・クリエイション
写真:Yann Becker・株式会社サミット不動産


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