考えることについて考えるということ。

日々を過ごしていると、ふと立ち止まることがある。つい昨日まで溢れそうだった活力が、気づいた時には失われている。あらゆるものが進むことを否定してくるような、生きることから目をそらしたくなるような、そんな瞬間が時折訪れる。人は人生の岐路において、あるいはなんでもない日常において、ふと立ち止まる。
私たちは悩む。しかしそれは何によってなのだろうか。

実際、私たちは何に対しても悩む。人との距離感を考えることに息苦しさを感じたり、やりたいことがわからず虚しく思ったりする。

人生は選択の連続だと言われる。人は選択する。あるいは、選択するための思考を完全に放棄して現状の不満を我慢し、誰かが考えたことをそのまま受け入れて、考えたことにしておく。

人は将来を不安に思う。しかしどうなるかは誰にも分からない。偏見と思い込みに満ちた考えを指摘することは出来るが、結果は分からない。

人間はそもそも、iPhoneを作ろうとしている者に「こんなもの流行るわけがない」と言ってしまうような生き物なのだ。しかも「合理的に考えれば」なんて言葉を使って否定しようとするから本当にタチが悪い。合理的?本当にお笑い草だ。

実際選択を間違うこともあるだろう。それを事前に精査することはできる。しかし正否は誰にも分からない。

それに、物事は突き詰めれば突き詰めるほど、正解とか間違いとかで語れない。だから物事を大枠で括って、それを良いとか悪いとかで大別することにそんなに意味はない。良い悪いはコミュニケーションのツールとしては便利だけど、本質を探ろうとする作業の過程では邪魔になる。

重要なことは主体的に選択をすることそのものだ。時として自分の不出来さに落胆して自己嫌悪してしまうこともあるだろう。だがそれをすることに意味はないし、やるべきではない。あるのは、いま何するか選択することで、選択した後はそれをどうするかが始まるだけだ。その結果、取った行動を批判されるかもしれない。しかしそれは誰にもわからなかった。未来がわからないのは当たり前だ。そして選択も自分でしなくてはならない。

ただ私は完璧主義的な感覚を持っているから、「疑問を持ちつつも行動しなければならない」と口では言いながら、100パーセント納得してから行動することを望んでいる節が、心のどこかである。だからAでもBでもCでもなく、これをやるべきなんだという確信を得ようとして選択を躊躇ってしまう。

一般論に当てはめれば、思考と行動を同時に行うのは当然だ。ここで難しすぎるのは思考することが実行の邪魔になりうる点だ。真理を求める哲学が真理に到達しないように、考えること自体終わりのないものだからだ。

最近わかったことなのだけれど、考えるということは本当に苦痛だ。頭の中が言葉と、論理を構築しようとしてる曖昧な何かで入り乱れてごちゃごちゃになる。深く考えようとしながら誰より目の前のことに盲目になる。考えていても現実は何も進まない。考えれば考えるほど”考えるのを中断して動く”ことが重要に思える。だから一旦思考停止して前に進んでしまいたい。しかし、考えないこともまた、難しい。

自己と思考はすぐ隣にいて、思考は突然私を訪問する。作業中だろうと御構い無しにインターホンを押してきて、「それほんとにやる意味あるの?」とか「もっと良い方法があるかもしれない」とか、疑問をひたすら投げかけてくる。そのくせ急に「生きる意味がわからないなら行動に意味を見出しても無価値なんじゃないのか」なんて元も子もないことを言い出して、そんなこと考える必要がないだろう、と返すと「それは思考停止じゃないの?」と言って、議論を混沌の闇へと誘い込む。

正直な話、そもそも、思考することを定義するには私はあまりにも力不足だと思う。ただ、思考の”問い続ける”プロセスに自己否定の側面があることは事実で、だから動きながら考える、というのはある種行動しながらもその行為自体に疑問を持つことだと思うのだ。自問自答を繰り返しながら手探りで動く。一見、これはとてもいいことに思える。実際、いいことなのだろう。しかし疑問を持つというのは疲れる。やると決めてしまって、やり始めたことにさえ疑問を持ってしまうものだから、モチベーションが削がれる。結果考えるだけで終わってしまう。非常に馬鹿馬鹿しい。

当然、こういった思考は建設的でないだろう。ただ、建設的に思考しようと思っても、そう思った瞬間に、建設的とはそもそもどういうことなのか、という問いが同時に生まれてきてしまう。考えるというのは研究であること同時に、呪いみたいなものなのかもしれない。行動を始めるためには考えるのをやめるのが1番だ。しかし自分は決断に当てもない思考を必要としている。

選択が自分にとって重要であればあるほど、悩む。悩む時間が増えればマシな選択ができるわけではないのだが、悩む。決断するには勇気がいる。決断はある種、自分との契約みたいなものなのかもしれない。「これをする」と選択して、後で結果がどうなろうと選択を悔やんだりしないとあらかじめ決めておくことだ。

そして幸せが何かという問いは、曖昧だ。それは幸せな記憶をためておくことかもしれないし、やりたいことをやりきることかもしれないし、あるいはそうするための努力の過程にあるのかもしれない。

「死ぬ時後悔しない人生を」なんて耳障りのいいことも言われるが、後悔する時間もないくらい急に死ぬかもしれないし、人生を俯瞰してみれば死ぬ直前という短い時間のために行動指針を変えるなんていささか愚かしい気もする。

少なくとも私は「死ぬとき後悔しない人生」がどういう人生なのかわからない。

人は不満を我慢する時、実はその瞬間の刹那に、現状を打破するための選択(を見つけようと努力する選択を含めて)を常に迫られているのだろうと思う。

そしてあえて、勇気の足りなさからか、選択しないことを選択する。

さらに人は他人の足をひっぱる。根拠の希薄な理屈を他人に押し付ける。「それをするのは合理的でない。」「そんなこと出来るわけがないし、無意味だ。」「お前には無能だ。」こんな具合だ。しかも人はそれを信じる。そして自信をなくして、本当に出来なくなる。

しかしやるまで分からない。人は未来の不確実性を理解しなければならない。

それに人間という生き物は変わるし、世界も常に変わっている。諸行無常だ。

生きるのは常に苦行だし、世界は意味不明だ。それでも人は決断しないといけないし、自分のとる選択を英断とするべく努力しないといけないのだと、私は思う。

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