「かわいそう」という言葉への違和感

よく行くショッピングモールのゲームコーナーで、1日中遊んでいるであろう老人を何人も見る。
昔はパチンコに通っていたが資金的に難しくなったものの、パチスロ的な遊びを続けたい結果のように見える。
これについて夫は「なんかかわいそう」と評した。
わたしはそうは思わず、「かわいそうではない」と否定。

お互いなぜそう思うかを議論。
夫にとって彼らが「かわいそう」であるのは、「自分に置き換えたら辛い」から。
わたしにとってそうではないのは、「彼ら自身が辛く思っていなければ問題ない」から。

私が夫に「じゃあ、『あなたは1日中はてなブックマークばかり見ていてかわいそうですね』と言われたらどう思う?」と聞く。
夫、「全然そんなことないけど?って腹が立つ」。
私「それと同じだよ」。

本人が辛さ、苦しさ、痛さ、こわさなどネガティブな感情を抱えていて、なおかつその状況から脱せずにいる場合は「かわいそう」かもしれない。
しかし、本人がその状況に対してネガティブな感情をもっていなければ、どんな状況であれそれは「かわいそう」ではないのだ。
(そもそも「かわいそう」という言葉が、安全圏から遠巻きに発されているような傲慢なもの、という見方もあるけれど、今回言いたいのはそういう話ではない)

本人が楽しんでいれば「かわいそう」なんて思われる筋合いはない。こちらとしても、「対象が」かわいそうではなく「自分は」そうなりたくないと、主語を自分として考えるほうがシンプルだ。

「かわいそう」という言葉に違和感を抱く機会は常々あったのだけれど、つまりこういうことだったのか、と気づいたできごとだった。


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