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「ランドマークが機能しなくなった」東京と「ランドマークが描かれない」東京─背景が語ることはなんなのだろうか2

『シン・ゴジラ』と『君の名は。』を同時期に観て、東京の描かれ方の差異にふと目がいった。
ふたつの作品はアニメと実写という違いはあるものの、『シン・ゴジラ』の場合はCGで実写を補完し、とてもアニメ的な構図でつくられた実写でもある。本質的な違いが存在しているわけではない。
両者の作品はどちらも「東京」という場所を描くことが作品の中ではある一定の重要性を持っているように思われる。

「ランドマークが機能しなくなった」東京


「よく知られているように、初代ゴジラは身長が50mであり、当時はまだ百尺法、すなわち31mの高さ制限が存在し、丸の内のオフィス街もこの高さで綺麗にスカイラインが揃っていた。ゆえに、国会議事堂や東京タワーなどの特殊な事例を除けば、1960年代末まですべてのビルよりゴジラは高かった。」
『ゴジラ対「ビジネススーツ・ビルディング」ランドマークが消えた東京にゴジラが立つ』五十嵐 太郎(http://business.nikkeibp.co.jp/atcl/opinion/16/083000015/083100003/?P=2&mds

建築評論家の五十嵐太郎氏が『シン・ゴジラ』へ寄せた原稿では、「アイコンとなる建築物が消えてしまった東京」が描かれていると言及されている。

初代ゴジラが登場した当時はまだ建築に対しては百尺法が適用され、高さ制限が行われていた。そのため、建物の高さ以上の存在であるゴジラは特異な存在として映る。このときのランドマークは東京タワーであったのだろう。一方、『シン・ゴジラ』では、東京の建物は数々の規制緩和が行われビル同士が高さ競走を行った結果、ゴジラの高さをも超えてしまった建物で構成される東京となっている。そこには目立った特徴はない、ハイスペックではあるが地味な存在、鈴木博之氏が提言した「ビジネススーツ・ビルディング」が建ち並ぶ。
『シン・ゴジラ』では建物単体として強い特徴のものはほとんど登場しなかった(一番分かりやすいのは東京駅だろう)。その代わり、強く印象に残るのはタワーマンションだった。

東京ではもうランドマークは機能しなくなってしまったのだろうか、そんなことを考えさせられた。


「ランドマークが描かれない」東京


『君の名は。』は興行収入250億円以上の大ヒット、日本映画史上歴代2位の興行成績を上げた近年では最も注目度の高いアニメと言えるだろう。次は少なからぬ影響力を持つこの作品について考えてみよう。

『君の名は。』の東京で描かれるのは何故か四ツ谷であったり、代々木であったり、都心からは少しずれたような場所ばっかりであった。
ランドマークとは時代のある断片を表象するものである。
私たちはランドマークにより、その物語がいつの話なのか、ということをイメージできる(東京であれば、「おばけ煙突」「東京タワー」「スカイツリー」など歴史を遡ればさまざまなランドマークが存在していた)。

しかし、この作品ではついぞ「スカイツリー」すら登場しなかった。それ故に、この話(東京パート)はもしかしたら昔の話をしているんじゃないかと勘ぐってしまった程だ(しかし、よくよく考えてみればみんなスマートフォンを使っていたし、「Newoman」はしっかりと描かれていた)。


「私」から「私たち」へ

この2作品を土居伸彰氏の著書『21世紀のアニメーションがわかる本』になぞらえながら考えてみる。

『21世紀のアニメーションがわかる本』では、2016年にヒットした3つのアニメーション作品を取り上げ、新時代のアニメーションの表現について語られる。

映像を観るときにおいて、観客は作家という「私」を通じて、もしくはその作品の登場人物たちの内面に同調し、世界を体験する。
たとえば、私たちは『君の名は。』の世界を「三葉」と「瀧」という「私」を通じて体験する。

そして、著者は、2016年にヒットした作品を見ていくと、その最大の特徴は「私」の変化にあると述べる。
そこでは、「私」という性質が、これまでのアニメーションの表現とは異なる「私たち」とでも呼べる性質に変質しているのだ。


それでは「私たち」とは何か。
それはつまり「私」と「世界」の境界の消失だ。


2016年にヒットした『この世界の片隅に』では、主人公「すず」は「世界」(=戦争)との衝突の中で力強く生きようとする。
それは「世界」がいかに残酷であろうとも「私」は「私」であろうとする「私」の姿だ。歴史は巻き戻らないし、失ったものを取り戻すこともできない。それでも生きていくしかない。これは20世紀から地続きのアニメでの「私」の性質である。

そして『シン・ゴジラ』の作品もこれと同型の物語だ。一方で、『君の名は。』は主人公の瀧がすでに一度失ってしまっている(亡くなってしまっている)「三葉」を取り戻してしまう。この作品では歴史は巻き戻り、瀧の望む「世界」を手に入れる。「世界」は瀧(=「私」)の望むように存在している。
すずは自分の手の届かない「世界」(=戦争や死者たち)へ思いを巡らせるが、瀧は自分の手の届く「世界」だけを見ている。そして、それは自分の思い通りに変容していくものだ。そこには「私」と「世界」の対立はない。


ランドマークの機能不全

さらに「ランドマーク」という観点から考えてみる。

『シン・ゴジラ』は「私」と「世界(=ゴジラ)」の対峙を描いた作品である。しかし、現代ではその対峙が機能しづらくなってしまった(『シン・ゴジラ』のラストを考えると「私」は「世界」と(同調はできないが)共存(せざるを得なくなった)とも言えなくない)。だからこそ、この作品では、「私」と「世界」の対峙の機能不全が背景に表れてしまったのではないか(いやだからこそ、この作品は「私」と「世界」の対峙を別の方法で(「ポリティカル・フィクション」として)表現していたのではないか)。

一方、『君の名は。』は新しい時代に適応した作品である。
そして、この作品では「私(=瀧)」と「世界」は対峙せず、その境界は曖昧になっている。「世界」は「私(=瀧)」の思い通りに変質する。歴史は単線ではなく、改変可能だからこそ「私」と「世界」は対峙する必要がない。そして断片的で複雑な語りには「私たち」が入り込むことができる「隙間」が無数に存在している。そこには意味の押し付けは必要なく、「私たち」が入り込んでいくための「器」となる「風景」があればいい。であるならば「ランドマーク」を描く必要はない。むしろ「ランドマーク」が持つ意味が邪魔になってしまう。だからこそ、この作品内では意味を押し付けない「歩道橋」などのありふれた日常的なものこそが求められた。


つまり、この2作品は「ランドマークの機能不全」を異なる形で提示したという共通点を持った作品だったのだ。


「都市」「風景」というメディウム

速水健朗氏の『東京β』は変化し続ける東京という都市を「フィクション」の観点から考察したものだ。『家族ゲーム』に見る団地空間、核家族の崩壊から『3月のライオン』における「崩壊してしまった家族」の再生など「フィクション」は史実だけでは拾いきれないその時代のある状況を描きだす。

ではなぜ「東京」という都市や風景がメイントピックになるのだろうか。それは、都市や風景とはおそらく人間に捉えられるような代物ではなく、だからこそ人間の「想像力」という最大の武器が働く魅力的なメディウムともなるからである。
フィクション上で、そこに描かれたものの意味を考えることはおそらく現実の私たちの生活にとっても価値ある行為になるだろう。



全然まとまらない...笑

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