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ある日の日記

文章を残すということの最大の理由は,自分の行動や思考を外部リソースとして残すことだ.そういう意味ではあらゆる人の「日記」を読むことは楽しい.そこでは自分の日記ですら「他人」の日記のように読めてしまう.ある日の日記.


4/8

今日は会社に籠もり,昨日のインタビューのテープ起こしを粛々と.

インタビューというのはその場で話を聞くのはとても楽しいのだが,それをいかに文章として伝えるかということを考え始めるととても難しいものになる.理想は聞いてる瞬間に感じているような臨場感をそのままに伝えることだろう.かといって,動画みたいなものを垂れ流すだけでもそれは達成されない.そして,こちらも伝えたいことがある(そのために話を聞きにいくのだし).しかし,改めて今の自分の状況を顧みると実に多様な分野のことを考えている.何かを同時にやる,ということは学生の時から苦手だった,後は人と話すのも苦手だし,他人にもあまり興味がない(とよく言われる).あれ?この仕事向いてなくない?

夕方頃に今担当で進めている企画の打ち合わせ.これが上手くいけば業界に対しての貢献度は計り知れないものになると思う.それならば,力を入れるしかない.とはいえ,自分が今まで知らなかった業界の人と共同でやっているので,打ち合わせはとても楽しい.こういった経験を血肉にして将来にどう活かすかと考えることも必要だ.


4/9

土日はなるべくしっかり休みたい.

昼まで床につきながら色々と読み物.その後,家事など.

明日は仕事をするとして今日は普通に休むか,と思い,何か面白そうなのやってないかなと思い,ネットサーフィンしてると,前から気になってた吉田修一の『モヒカン,故郷に帰る』が今日から上映とのこと.行くしか無い.普段は都心に出て映画を見るが,人ごみにまぎれるのも嫌なので,郊外でやっているとこに行った.公開初日にも関わらず人はまったくおらず,ガラガラだった.学生の時,平日の昼間に映画を観に行っていた時はよく見た光景だったが、休日でこのような状況とは.とはいえ,こんな場末の映画館みたいなシチュエーションは大好物だ.何故か映画が始まる前から大いびきかいて寝てる人もいて謎だったが,映画はとても良かったので満足.『南極料理人』や『横道世之介』と異なり,本作には「死」を匂わせる表現や冠婚葬祭など物語としてのアップダウンがあった.普通ならこういうものを物語を加速させるひとつの要素として扱うのだろうけど,この映画ではそうではない.それはそうだ.現実の世界においても「死」とは劇的なものでない.ある日突然現れたりするものだ.

それを強く感じさせるのが,松田龍平演じる田村永吉の

「野呂くん。最近知ったんだけど、親って死ぬんだよ。」

という一言だった。

ラストの展開もそのことを感じさせるような唐突な終わり方だった。果たして親父は幸せだったのか分からないし,永吉がモヒカンを意地でも切らせない理由も分からないし.親父が永吉好きの理由も母親がカープの大ファンである理由も分からないし,永吉のバンドメンバーはどうなったかも分からないし,なにもかもが中途半端なまま終わる。しかし,人生とはそういうものだ。この映画では、親父の死と共に新たな命の宿りも描かれている。人間という生き物はなんかそんなある種適当な感じに続いてくのだ。

今作ではエキストラが凄くよかった。まるでドキュメンタリー映画を観てるようだった。これは映画館で観るよりも,テレビで見た方がよいのかもしれない。

良い気分で映画を見終え,靴がぶっ壊れたので,ABCマートで靴を買い,帰りはわざわざ北千住で降り,荒川沿いをダラダラと歩きながら帰った。気持ちのよい夜だった。明日は仕事頑張るか。


4/11

土日の休みというのはあっという間に終わるものだ。そして、人生で最も憂鬱な時間は月曜日の朝だ。

とはいえ、今日は粛々と仕事をしていた。

本を読むのも仕事のひとつみたいになっている。役得である。書くことが無いぞ。

牧野修の『月世界小説』を通勤時にちまちま読んでいる。ある男の妄想が広がった世界を描く。人は認識によって生きている。そして、人の認識とは「物語」だ。人は物語をつくることで生活をしている。今まさに自分の肉体がある「現実」と、何かを理解するために頭の中で構築される「物語」。人はふたつの世界を抱えて生きている。そのどちらかが欠ければ人は人たり得なくなる。世界とは認識である。そんなことを考えてしまう小説だ。認識の解像度を上げるために日々を大切に生きていかなければならない、と思いつつも自分は人間としては駄目なところばっかりでないがしろにしてるところがいっぱいあるなー。


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