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「死」とは?─『ニルヤの島』

人生のすべてを記録し再生できる生体受像(ビオヴィス)の発明により、死後の世界という概念が否定された未来。ミクロネシア経済連合体(ECM)を訪れた文化人類学者イリアス・ノヴァクは、浜辺で死出の船を作る老人と出会う。この南洋に残る「世界最後の宗教」によれば、人は死ぬと「ニルヤの島」へ行くという――生と死の相克の果てにノヴァクが知る、人類の魂を導く実験とは?

※※※

柴田勝家 /『ニルヤの島』を読んで感じたこと。 

その風貌や言葉遣いが柴田勝家そのまんまだということで一昨年去年あたりからSF界隈で話題沸騰の若手SF作家のデビュー作。マツコ・デラックス氏が司会している「アウトデラックス」にも出たらしい。とまあ、見た目のインパクトもあるけど、作品自体もかなり興味深かった。


「死後の世界」

人生のあらゆる情報が記録・再生可能とする技術「生体受像」を手に入れた人類。容易に過去を再現できるようになった世界。

人類はその世界で「永遠の現在」を生き、それゆえ過去も未来も等価に扱われるようになっている。そこでは、生死すらも状態のひとつに過ぎず死生観すら希薄になっている。そこで、人類はとうとう「死後の世界」という概念を手放した。

「永遠の現在」を生きる人類にとっては死も生の延長でしかない。「死後の世界」を失った人類が「死」をどういう風に扱うのか。を描いた本作。民俗学を学ぶ著者による、民族学的な考察が存分に詰まっていてかなり興味深い。

とまあ、前置きはここまでで本作はあらすじを書こうと思ってもどう書けばいいか分からないくらい複雑な叙述がされている。

その理由のひとつは、異なる話者による4つの語りのパターンがあり、それぞれの語りの中でも時系列が切り刻まれ、語りの主体がいれ代わり…というかなり複雑な構成をしている点にある。

序盤は断片的な叙述が断片的なままで放り出されているが故に、かなり読みづらい。

舞台となるミクロネシアの、静かな、それでも、ある熱気を持ったような描写に魅かれつつ読み進めていく。すると終盤で語りが徐々に、静謐に、爽快とも言える程に収束していく。その鮮やかさたるや。著者が執筆当時26歳とは信じられない。。。


この本を読んでさまざまなことに思いを巡らせた。僕自身もざっと読んだだけなので、物語の本質をまったく理解していないとは思う。これから考えてみたいことに満ちあふれている。良質なSFとは、ともすれば信じられないくらいの飛躍によって知的好奇心を奮い立たせるようなものである。そして、この作品は明らかにその水準にあるので、間違いなく良質なSF作品だと思う。


本作を読んで感じた中で一番重要な疑問は「「死後の世界」とは何なのだろうか?」ということ。
作中ではその疑問に対して回答が与えられてはいる。

「「死後の世界」とは「記憶の断片化により喪失したアイデンティティーの穴埋めとして、自己のルーツを「死後の世界」にいる祖先に求めた結果である」」という言説だ。なるほど。そうであるならば、あらゆる記憶が常に再生可能になった人類にとっては「死後の世界」は必要なくなるわけだ(そして、本作はそうした人類が描かれる)。


「死」とは一体誰のものなんだろうか

誰のものと問うと非常に独善的で主観的な疑問になってしまうわけだが、それにしたって誰かが死ぬということはどういうことなんだろうと思う。ひとつ確信しているのは「死」の存在は死ぬ人にとって重要な訳ではなく、残された人にとってこそ大きな存在を占めるものなのだということ。

僕は基本的に無神論者だし、「死後の世界」が本当にあるとなんか思っていない。でも、「死後の世界があると信じてる人」のことは理解できる。「死後の世界」は無いとは思ってるけど、死んだ人がどこへ行くのか、これまで死んだ人がどこにいったのかというのは昔から疑問に思っていたから。

だから「死」のあり方のひとつの回答として「死後の世界」というのはあり得ると思う。最近聞いたのでは「人は死んだら地上2.5mの高さにいる」なんて言説もあった。それはなんかオカルティックだけど、そういうことこそ真面目に考えないといけないのかもしれない。なぜなら近代は「死」を捨象してきたから。


近しい人の「死」を2回程体験し、その葬儀に参加したからなんとなく感じるけど「死」は今、かなりオートマチックに産業化されてる(葬儀の準備をする遺族にとっては大変なんだろうが)。葬式はかなり形式ばったやり方でたいした余韻もないままに終わっていく。かつての世界では、「死」はもうちょっと違う存在だったのかなとも思う。

日本は今、人口が減少していくばっかりで、どんどん縮小していく「シュリンキング」な社会と言われている。人口が減少していくということは、その分死者も増えていくということだ。

WIRED』という雑誌で「死の未来」という特集をやっていて、その中の記事でアメリカの大学の建築学科に「デスラボ」という「死」について考える研究機関があるということを知った。アメリカのように、未だに人口が増加していく社会においても、「シュリンキング」な社会同様に死者は増加していき、そのうち10年も経てばニューヨークがまるまる棺桶で埋まってしまうらしい。人口が増加しても減少しても結局のところ死者は増える。ならば「死」について考えることは不可避的だ。

今、「死」は非日常な出来事となっているが、かつての社会では「死」は日常だった。だからこそ、かつての社会の人びとは「死」を「儀式」という非日常なモードで彩った。「儀式」によって「死」は印象づけられ残された人の記憶に刻まれる。かつての「死」は「儀式」という非日常とともに存在した。しかし、現代は「死」自体が非日常になってしまった。そこでは、かつて日常的であった「死」が彩られることもない。「「死」という非日常」のひとつとしてしか捉えられなくなった。「死」は個別的ではなくなった。それゆえ「死」が印象づけられることもなくなった。


黒沢明の『夢』といういくつかの短編映画を収めた映画がある。その1エピソード「水車のある村」では、ある前近代的な村の葬儀が色彩鮮やかな「儀式」によって表現されている。なんとなくその映画を観た僕の目にその映像は未だに強く焼き付いている、こういうのがかつてあった「死」なんだろうか。

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