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ふいに訪れる─『断片的なものの社会学』

路上のギター弾き、夜の仕事、元ヤクザ……
人の語りを聞くということは、ある人生のなかに入っていくということ。
社会学者が実際に出会った「解釈できない出来事」をめぐるエッセイ

どんな人でもいろいろな「語り」をその内側に持っていて、
その平凡さや普通さ、その「何事もなさ」に触れるだけで、
胸をかきむしられるような気持ちになる。梅田の繁華街で
すれちがう厖大な数の人びとが、それぞれに「何事もない、普通の」
物語を生きている。
***
小石も、ブログも、犬の死も、すぐに私の解釈や理解をすり抜けてしまう。
それらはただそこにある。[…]社会学者としては失格かもしれないが、
いつかそうした「分析できないもの」ばかりを集めた本を書きたいと思っていた。(本文より)

断片的なエッセイのような文章が綴られていく本書。

個別的すぎるけど、それでも人間という存在には何かしら必要なのだろうと思わせられる断片的な出来事たち。

それは、町を歩いているときでも、テレビを見ているときでも、ネットサーフィンをしているときでも、どんなときであろうともふいに訪れるものなのだろう。そして、そういったものたちは完璧なかたちで言語化できたり解釈できるわけではない。しかし、それでも、そのものたちは私たちの人生に楔を残していく。
そんな断片的な出来事の数々に触れていく、何度も読みたくなる本だった。


僕にもなぜか忘れられないふと訪れたとても断片的な出来事の思い出がある。
時間を持て余していた学生時代のある時期、とにかくネットサーフィンをしまくっていた。その過程で、あるブログに行き着いた。淡々とした日常が綴られるそのブログに惹かれて、それからはそのブログを少しずつ過去記事から読むことが僕の日々の楽しみとなった。

そして、遂にブログの最新記事にまで行き着いた。
そこに書かれていたのは、ブログ主の母親による、ブログ主が病気で亡くなったこと、ブログを読んでいる人への感謝を綴った文章だった。
僕はブログ主の性別も年齢も何をしている人かも知らなかった。なので、なにか特別に悲しいという気持ちになったわけではない。
しかし、なぜだかその記事のその文章が強く印象に残っていて、たまに思い出すことがある。

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