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「プレイグラウンドとしての展示空間」─ゴードン・マッタ=クラーク展

最近は活力がすっかりなくなってしまい,仕事以外で展覧会などに出かける元気もなかったのだが,ふと思い立ち国立近代美術館で開催されている「ゴードン・マッタ=クラーク展」へ行ってきた.
ふらりと行ったのだが,これがまあ面白かった.ので,毎度のことながら考えがまとまらないままに綴ってみる.


ゴードン・マッタ=クラークとは?

恥ずかしながらゴードン・マッタ=クラークのことは取り壊し前の建物を切断する「ビルディング・カット」しか知らなかったし,若くして亡くなっていることも知らなかった.
そんな前提で行ったものだから,その活動の幅の広さに意表を突かれてしまった.

ゴードン・マッタ=クラークが活動していた1970年代は経済が急成長していたと同時に,その綻びが見えていた時期でもあった(急激なスラム化など).だから,彼が行なっていた,仲間たちと空き家に忍び込み壁や床を切り出す,窓からひたすらローワーマンハッタンの風景を撮影する,カタコンベ(地下墓地)に潜入する,廃棄処理場の映像をひたすら映し出す,コミュニティの場として「食堂」を運営する...などの行為は進みゆく時代の流れに,「待った!」の号令をかけるアクションであったのだろう.
それは「日常を異化する」行為であり,私たちそれぞれでも行える「人間による都市への反逆(もしくはハッキング)行為」のように思えた.


「発見」─「眺望─隠れ場理論」

人類における基本的な生理機能を下敷きにした「眺望─隠れ場理論」と呼ばれるものがある.これは地理学者であるジェイ・アプルトンによって提唱されたものだが,かいつまんで言えば

外敵からは見えない状態で,外敵を監視することができる状況にするという進化の過程で得られた生存パターン

というもの.
この考え方は都市思想にも導入されており,プライバシーの問題を考えるときに参照されることがあるようだ.
この理論にならえば,たとえば「タワーマンション」などは「眺望─隠れ場理論」の極地と言えるだろう.
「眺望─隠れ場理論」は進化の過程で得られた人間の生存的本能であり,人間はその理論に沿って生存に有利な場所を生み出してきたと言われているが,それは都市化によってさらに加速している.

ゴードン・マッタ=クラークの「チャイナタウンでの覗き見」はローワー・マンハッタンの都市風景を建物の窓からひたすら60分間映しとった作品だが,それは徹底して「観察者」の視点で撮影されている.
こうした視点は都市化によってもたらされた「眺望─隠れ場理論」のパラダイムシフトを捉えたものだと言えるだろう.

ゴードン・マッタ=クラークの視点は,進歩の急激な流れの中で生まれ出た綻びを「発見」する視点だ.

有名な「ビルディング・カット」も,私たちが普段生活する建築は,内部と外部,部屋と部屋が壁や床によって世界が分断されていたのだ,と「発見」を促す.私たちは建物に穿たれた巨大な穴や裂け目を見て改めて建築について再考を促される.


単管パイプ,むき出しの展示壁,覗き穴,パレット...

ゴードン・マッタ=クラークは「発見」の人物と言えると思う.

彼は都市の中に潜んでいたさまざまな綻びを「発見」し,その価値を主に「切断」によって提示した.
それは物理的な切断(「ビルディング・カット」)でもあれば,「写真」,「映像」という現実世界から一部の世界を「切断」するものでもある.

さて,本展ではゴードン・マッタ=クラークの作品が興味深いのはもちろんのことだが,その展示構成も興味深かった.

その展示空間もまさに「発見」を引き出すことが意図されていたのだ.

展示空間を見るとゴードン・マッタ=クラークの作品以外にもさまざまなものに溢れていた.そして,それらは「発見」されることが期待されていたように見えた.


パレットの上にウレタンが置かれただけのソファ,ファイバーボードで制作された階段状の工作物,白く塗り切られることもなく現しとなったプラスターボード,金属製のフェンスで覆われた展示エリア...

それらは日常的なもので構成されたものであり,しゃがむ,昇る,降りる,覗き込むなどの動作を鑑賞者に促す.
それらはすべて撮影可能であり,写真におさめられることで「切断」され,「発見」され,SNSに流れていく.


「プレイグラウンドとしての展示空間」

美術館はいわゆる「ホワイトキューブ」と呼ばれるものが展示空間としてはマスである.
これは文字通り何も装飾のない白い壁によって構成される展示空間である.絵画などの鑑賞を邪魔しないことを意図してなされるものであり,そこには邪魔なものを廃するなどの隠れた「規制」が強く存在している.

しかし,今回のゴードン・マッタ=クラークの作品でいえば,写真,ドローイング,プリント,映像,実際に切り出された家の断片など作品のメディウムは多種多様にわたる.展示も単純に壁に掛けるだけとはいかず,その展示方法も「ホワイトキューブ」に乗っ取ったところでその価値を伝えられるようには思えない.
なぜならゴードン・マッタ=クラークこそ「ホワイトキューブ(=当たり前)」から抜け出そうとした人物なのだから.

そこで,展示構成を担当した建築家・小林恵吾氏が提示したのが「プレイグラウンド(公園)としての展示空間」というものだった.

図録に収録されたインタビューによれば,OMAに所属し長らく国外に在住していた氏が帰国した折,日本の公園に蔓延る「この場所ではボールでは遊んではいけません」などの多くの「規制」に驚愕したようだ.
本来,公園とはニュートラルな場所であり,それゆえ,遊び方が「発見」されるような場所と言える.しかし,日本の公園は「規制」によって人びとの動きが規定されている.
現実の公園自体が「ホワイトキューブ」のような空間となっていたのだ.

そのような背景を元に,小林氏はゴードン・マッタ=クラークが取り組んだ「発見」と現在的な状況をオーバーラップさせる.

つまり,この展示空間は,「ホワイトキューブ」化した公園に対し「展示空間」を「プレイグラウンド(公園)」化させることでゴードン・マッタ=クラークの思想を体現すると共に現在の「公園」のあり方に意義を唱えるものなのだ.

美術館とは,世界を再「発見」させるものと言えるかもしれない.この展示 (空間)を見て外に出た私は現実の公園に疑問を持つ,
「現在のこれが正しい姿なのだろうか?」


久しぶりに訪れた展覧会はそんな投げかけをしてくれる素晴らしいものだった.
皆様もぜひ行ってみてください!(ツイートリンク掲載に問題のある方はお知らせください!)


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