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あなたの機嫌はぼくが取りたい

「自分の機嫌は自分で取る」という言葉がある。

テレビでお笑い芸人が放った言葉らしく、これに共感する人は少なくない。

なるほど人前で不機嫌でムスッとした態度を晒すよりも、自分で自分を楽しませる手段を持っておくという言葉の趣旨自体はもっともだと思う。

でも、ぼくだけだろうか。この言葉が少し苦手だと感じているのは。

これは大人気なくだらしない言い方をすると、“自分の機嫌を誰かに取ってほしい”ということになる。もちろん正直に白状するとそういう気持ちもある。

誰だって気分が乗らない時や、よく分からないけどイライラしている時がある。そんな自分ではどうやっても晴れないモヤモヤが、他人のふとした優しさですっと軽くなることがある。

ただ、“自分の機嫌を誰かに取ってほしい”ということ以上にぼくが強く思うのは、“あなたの機嫌はぼくがとりたい”ということ。

「自分の機嫌は自分で取る」と言うのは自分で自分をコントロールすると同時に、他人への期待をあらかじめ一切取り払ってしまう言葉のように感じる。

それは全てがその人だけの世界で完結するということ。そこにぼくという第三者は参加することを求められていない。

存在することすら求められていないというのは、存在を否定されることよりも辛い。

そう思うと多くの人が素晴らしいと共感しているその言葉が、ひどく寂しいもののように感じてくる。適度に運動して、トイレはちゃんと自分で流し、自分でおやつを食べるたまごっちをずっと傍観しているような。

ぼくは誰かが晴れないモヤモヤを持っていたら、一緒にそれを和らげる手助けがしたい。どうしても辛いときはぼくに頼ればいいやと、あなたのトラブルシューティングに事前に織り込んでおいてほしい。

頼られるということは、存在を必要とされているということなのだから。

もちろんこの言葉自体や、この言葉を使っている人になんの恨みもない。ただ、正論ゆえになんとなくこの言葉を正面から否定しにくいなと感じるのも事実だ。

自分の機嫌は自分で取るっていうのも素晴らしいことだけど、ほんとうはあなたが辛いとき、あなたの機嫌はぼくが取りたい。トイレは流してあげられないけど、運動やおやつくらいは付き合うからさ。

今日の1枚

歩く夫婦の距離感から、なんとなく2人の関係性が見えるようで気に入っている1枚。使ったフィルムはKodak Ektar 100。

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