来春からの8000m峰の登山に向けて

来年8000m峰14座のいくつかに挑戦したいと考えている。
僕はこれまでエベレスト(世界最高峰8848m)とマナスル(世界8位8163m)にしか登ったことがないが、これらは14座の中では比較的安全で簡単な山だ。
と言っても、エベレストで言うと、今年は480人程度の登山者に対して、17人が死亡し、死亡率は3.6%でおよそ28人に1人が死んだという計算だ。

来年はさらにこれらよりも遥かに難易度の高い山に挑戦してみたいと思う。

例えば、来春の一発目にはアンナプルナ(8091m)登山に挑戦しようと思う。

世界10位の標高だが難易度は高い。wiki情報だけど、2011年までの統計では登頂者191人に対して死者61人と、かなり危険度は高い。もちろん今ではかなり改善されてはいるが。

この1ヶ月程、日本のアドベンチャーガイヅや海外の8Kやマカルーエクスペディションなどの登山会社に問い合わせをして、来年の登山行程について相談をしているところだ。もう少ししたら見積もりや登山計画の提案が揃う。

ちなみに、14座を全て登った登山家は、世界でも50人に満たず、日本人は1人しかいない。
僕はこれに少しずつ挑戦したいと思う。

また、米国人女性で14座を制覇した人はいないが、今年、13座を制覇してリーチをかけていた2人の米国人女性が、最後の山となるシシャパンマに臨んだ。

1mでも先に頂上を踏んだ方が、歴史に名を残す最初の米国人女性登山家となるわけだが、デッドヒートの末、非情にも2人とも雪崩に巻き込まれて亡くなってしまった。

改めて思うが、どうしてこんな自己満足のために、命の危険を侵してまで、高所登山に臨む人がいるのだろう。

僕自身はどうしてなのだろうと自問自答してみる。


話を変えるが、僕は、比較的早いタイミングでリタイヤに向かったことや独身であるせいもあって、社会や他者との繋がりから隔離された生活を何年も送り続けている。

他者や市場からの承認を求めない代わりに、自分で自分を承認し、いかに自分を好きになれるかばかりを考えて生きてきた。

そして、そのプロセスの一つとして、一定の死亡リスクがあり、いろんな困難が重なる高所登山に挑戦したいと思ってきた。
1-2ヶ月程度の山籠り生活で、酸素が少なく、寒い環境下で、適応するために、毎日地味な作業(水飲みや丁寧な呼吸)を淡々とこなし、モチベーションを絶やさず、自分に問いかけ続けるような過程を乗り越えることで、自分をさらに好きになることができるからだ。

しかし、社会や他者から隔離された自己肯定感を高めてきた結果、本当に好きな自分になれているのか酷く不安を覚えるようになった。

先日、宿泊先のホテルを利用してホームパーティーを企画して60人くらいに参加してもらったが、旧知の友人らの話を聞いていても、僕だけ浦島太郎のようで、1人の時間を歩んでいるうちに、対社会における時間は止まったままだと感じた。

ほんの少し前まで一緒にバカ騒ぎしていた友人達について思い返しても、それは少し前ではなく5年も前であることに気づき、みんな家族を持ち、人生の次のステージに進んでいる。最近、子供が生まれたという報告も立て続けに届いている。

社会や他者から隔離された価値観において、自分のことをどんどん好きになっていったが、その結果、果たして、本当に今の自分は求めていた姿なのか分からなくなる。

1人で世界170ヵ国以上を旅し、世界中のレストランを網羅的に訪問し、世界七大陸最高峰を登頂したり南極点に行ったりと、独りで存分に楽しんできた結果、友人から見たら、リアルな社会との結びつきがなく他者との共存世界においては何の現実味もない孤独な変わり者おじさんが出来上がっているだけなのかも知れない。

僕は幼少期の頃からいつも友達に囲まれた人生を送ってきたが、その現在の到達点がこれで良いのだろうか。

こんなくだらないことは定期的に考えてはいるが、なんてタイミングの良いことか、若かりし頃に数年付き合っていた人から久しぶりに連絡があり、見事にこんな話を面白おかしくいじってくれた笑。

僕がこの世界から急にいなくなっても、当分誰も気が付かないだろうと。
確かに、僕は自分だけを幸せにしてきたが、自分以外の誰のことも幸せにできていない。実際、過去には本当に誠実に心配してくれることに何の配慮もせずに、軽々しく死んでも構わないと言い続けて、酷く傷つけてしまったこともある。
結局、実は自分自身も何ら幸せではないのではないかと思うに至っている。
(くれぐれも、メンヘラ起こしてるわけでなく、価値観の再定義を試みてるお話です!)

このまま進んでいって、今後も好きな自分でいられるのだろうか。
今のままだと、講演会で僕の話を面白がってくれる人はいても、家の食卓で僕の話に幸せを感じてくれる人はいないだろう。

これから改めて好きな自分とはどんな自分なのかを再定義していかなければいけない。
でもその方法がわからない。
簡単に後戻りも方向転換もできないので、不安には目を瞑って、まだしばらく旅もレストラン巡りも高所登山も続けてみようと思っている。

それで正解に辿り着けるとは全く思ってはいない。単にこのまま突き進むしかないかという消去法の選択に過ぎない。

ただ今は、危険な高所登山で何かの事故に遭ったとしても、失うものがないチャンスタイムとも言える。その分、実力以上の成果が出せるかもしれない。
本来、守るものがある強さこそが目の前のハードルを飛び越える力をもたらしてくれるが、守るものがないことも限界ハードルを下げるという形で死力を尽くすのには有利に働く。

2018年にエベレストに登頂した時、仕事もなく、恋人や家族もおらず、登頂しないなら死んでしまっても良いと割と本気で思っていた。もちろん本当に危険な状態になれば動物的な本能から恐怖や生への執着心を感じるだろうとは思う。
でも、仮想であっても、それだけの思い入れがあったことから、エベレスト登頂には何の不安も恐怖もなかったし、全く大変に感じることがなく楽勝だった。

僕程度のカジュアル登山家がこんなことを思ったところで何の意味もないのだと思うが、そんなこんなで、一定確率で引き当てる死のリスクに繰り返し向き合うことで、自身の新たな一面を知るきっかけになってくれたら良いなと思っている。

でも、登山家の中には、破滅願望が現れている人までいるんだろうなと思う。地上での人生に飽きてしまったような気になって、どこかで区切りをつけてしまいたいと内心で思っている人は結構いるんだろうなと思う。僕は決してそうではないが、わざわざ危険な高所登山に挑む登山家たちを見るとそうとしか思えない。


さて、話の着地点が見つからず、ただのおじさんポエムのようになってきたが、何か新しい自己肯定感に気づくきっかけになることを期待して、半年後からヒマラヤに入りたいと思う。

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