世界観の強制=テレビというメディアの力

こんばんは。
久々にメディア論をひとつ書いてみようと思います。

というのも、前々から感じていたテレビというメディアのこの国における存在論的な意味について、何となく正体が見えてきたような気がしたのでうまくいくかどうかわかりませんが説明していきたいと思います。

疑問:
 日本という国でなぜこれほどまでにテレビは幅を利かせているのか。
答え:
 「国際社会の中では、もはやテレビはオールド・メディアの代表格として捉えられているにもかからず、なぜ日本ではこれほど存在感があるのか」という疑問を持たれるのは当然のことと思います。しかし、存在しているものにはそれなりの意味がありまして、その社会の中でそれなりの役割を担っているからこそ、それは存在しているわけです。
 いきなり結論から述べてしまうと、テレビは私たち日本人にとってマジョリティの意見がどこにあるかを判定するためのツールとしての役割を担っています。社会は、どの社会でも、その社会の禁忌(タブー)を共有し、規範を共有することで成り立っていると考えることができます。しかし、とくに規模が大きくなった近代社会においては、コミュニケーションによってそれをなし遂げることが困難になります。このためマス・メディアと呼ばれる近代メディアが登場してきたわけです。我々はマス・メディアを通して社会規範を学習する。しかし、ここに根本的な問題があります。そのメディアが流す情報がある世界観(共同幻想)を形作り、それを人々が共有するとして、もともと人々が各々持っている世界観(私的世界)の方は、それに対してどう関係してくるのか、ということです。人々は私的世界と共同幻想の間の相克をどう解決しているのか。まずはこれに答えなければならないでしょう。
 私の見立てでは、多くの人がこの二つの世界の把持をそもそも諦めているように見えます。とくに、テレビはこの二つの世界の間の相克を取り除こうとします。まるで共同幻想が私的世界であるように、私的世界が共同幻想であるようにして(もともと分離的である)そのグラデーションを曖昧にします。そして何とも言えない世界、テレビ的世界観を作り出し、それを強制してくるのです。あらゆるメディアがこの「世界観の強制」という特徴を持っている点は同じなのですが、テレビが異なる点が一つあります。それはテレビが最大多数が観ている幻想だという信憑です。数ある幻想の中でももっとも多くの人が観ている幻想、それがテレビなのです。そういう意味でテレビは最も流通している貨幣とまったく同じ「信憑の構造」で成り立っているのです。この信憑が揺るがない限り、好むと好むにかかわらず(とくに好まない場合に)、テレビは私たち各々の私的世界を抑圧し、それがあまりにちっぽけであるかのようにして(確かに信じているのはひとりぽっちですから)、数の暴力によってテレビ的世界観を我々の脳内にインストールするし、私たちの私的世界を上書きしてしまうのです。実際、(現実世界に非常に似通っているがその実、人工的な)テレビ的世界を信じている限り、現実世界で問題が生じることは少なく(なんといっても最大多数が信じている幻想なのですから)、生活世界が人工的であればあるほど、むしろその方がスムーズに生きていくことができるのです(なんと)。
 こうして考えてみると、人間というサルは複数の世界観を把持することはできない動物なのではないかという気がしてきます。私たちは、夢を見ている間は現実を忘れているようにして、テレビ的世界観で生きている間は生の現実(=現実そのもの)や私的世界を実感することは難しいのです。
 ただ、「モノの見方」がその人の世界を形作っているとしたら、その世界が個々人である程度ばらけている方が社会全体としての世界認識は豊かなものになるのではないでしょうか。そういう意味でテレビ的世界観に埋没している人が多ければ多いほど、その社会における世界認識は狭まらざるをえないわけで、生活は可能ではあるが、豊かなものではなくなってしまう、のではないかと思うのです。

以上がざっとした回答のあらましです。
世界認識はできるだけ広く共通化していくべきだ、と考える人と(確かにその方が社会運用上は都合がよさそうです)、世界認識はできるだけばらけていた方がいいのだ、と考える人(確かにその方が、生存戦略上は都合がよさそうです)の間の相克はこれからも続きそうです。

どこかに別の第三の道があると思うのですが、
その探究は別の機会に。では。。。
 

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