おもしろいことは、なんて正しくないんだろう。

Twitterとかにうっかり書くと炎上しそうな案件について、正直に思うところを書いてみることにしました。肝心な論点がずれていたり、そもそもの前提が間違っていたりすることも多々あるかと思いますが、あくまで自分のための思索のヒントを記した覚え書きであり、途中経過の散文だと思ってご容赦いただき、ご意見やご指摘があれば聞かせていただけたら幸いです。

※本文は、随時改変したり、付け足していくかもしれません。

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■酔っぱらいの暴言はどこまでが罪か?

ついこの前、『明日、ママがいない』が、児童福祉施設の実態を誤解させる、偏見を助長するとして批判される騒動がありました。
それ以外でも、最近は映画やドラマ、アニメなどの創作物が、ジェンダー差別や外国人蔑視など、ポリティカルコレクトネスの観点から問題があると批判されたりすることがよくあります。

そのたびに、こうした批判をする人たちの主張は圧倒的に正しいと思う反面、私の心の中に、どうしても煮え切らないもやもやがわだかまってしまうことは否定できません。

基本的に人間は心の中でなら何を思っても許されるべきだと思うので(人を殺したら殺人罪、「殺すぞ」と口にしたら脅迫罪だけど、「殺したい」と思うこと自体は咎められるべきではない)、たとえば酔っぱらったときの暴言や失言をその人の本性だとするなら、「それを理性で隠しておける酒量に抑えられなかった自己管理の罪」だけを咎めるべきで、暴言や失言の内容そのものを咎めてはいけないんじゃないかって、思ってしまうことがあるんですよね。

で、芸術や表現に公正さや倫理を求めて規制や配慮を要求することに一抹の違和感を覚えるのは、そういう「酔ってても口にしちゃいけないようなこと」が人の内心にはいかんともしがたく存在するのだということを、あえて(ときには露悪的に)露呈したり問い直したり肯定したりするのも創作物の役割だと、私は考えているからです。
それによって解放されたり、救われたりする人がいるという事実は、否定しちゃいけないというか。

■私たちは「正しくないけどおもしろい」ことに魅力を感じる

ふだんは軽蔑や炎上がこわくて口にしませんが、正直なことを言えば、誰も傷付けないような表現、偏愛や偏見のない芸術なんてつまらなくて価値がないと、私は心底では思っているふしがあります。
政治的(あるいは倫理的)に公正じゃないものにこそ、人はときに魅力を感じてしまうからです。
「おもしろい」ものは、得てして「正しくない」んです。

一般人は世間体があって失うものが怖いから「正しくないけどおもしろいこと」をみんな言いたがらないだけで、それを言っても許されるブランド(風評利得)を持っている人のことを「作家」や「クリエイター」と呼ぶのではないか、とすら思っています。
ここでの「ブランド」とは、これまでの実績や信頼と引き換えに、作品や発言の真意や背景、文脈を読者に正しく読み取ることを要求する特権のこと、と言い換えてもいいかもしれません。
だから、どんな作家やクリエイターの作品や発言であっても、Twitterのようにある一部分だけを切り取って拾ってきて「差別的だ」「偏見だ」「非倫理的だ」と批判するのは、本来すべきではないのではないか。

(ちなみに、あまり関係ありませんが、私たちがある創作物や表現をおもしろいと表明するとき、その「おもしろい」という概念の中には、「俺だけがこのおもしろさをわかっている」という優越感と選民意識があらかじめ含まれているものだとも思っています。「この作品のおもしろさを公正に評価できている自分」という姿勢もまた自意識のアピールと承認欲求の発露にすぎず傲慢です)

橋下徹みたいな政治家や、人工知能学会のようなアカデミズムの世界、公共性の高い広告など、ポリティカルコレクトネスが求められるジャンルでは、一定の配慮が求められてしかるべきでしょうが、一方で、作家や芸人の本質は河原乞食であり見世物小屋です。
たとえ現実と違う描写や、倫理に欠ける表現があっても、その表層の奥にどんな批評性や逆説や風刺、比喩、寓意を描こうとしているのか読み取るのが創作物やフィクションであって、「誰かを傷つけるかもしれないから」という理由で、表層にあたる描写や表現そのものが許されないのなら、すべての芸術や表現は存在意義を否定されてしまいます。
「誰も傷付けるおそれのない表現」なんて、存在しないからです。
どんなに穏当で教育的でハートフルな表現にだって、常に誰かを傷付けてしまう可能性は存在するからです。

■問題は「誰でも見られてしまうこと」だけなのか?

もちろん、だからといって実際に人権を蹂躙されたと感じたりトラウマを誘発してしまうかもしれない人を無視していい、ということでは決してありません。
「ある表現や描写に触れるべきでない対象」は確実に存在するので、そういう表現や描写は、見たい人が主体的に/能動的に選べるようにゾーニングやレーティングされるべきだとは思います。
『明日、ママがいない』が問題とされたのは、テレビが「誰でも見られてしまう」メディアであり、「ある表現や描写に触れるべきでない対象」へのゾーニングやレーティングが簡単にはできないからでしょう。そこは確かにテレビというメディアの分が悪いところです。
だったらなおさら、批判されるべきは描写や表現があること自体ではなく、適切なゾーニングやレーティングがなされなかった(誰でも見られてしまう)ことにのみ向かうべきではないでしょうか。

でも、じゃあ、だとしても、と私は思うのです。

じゃあ、ある表現が規制されるべきかどうかを、「傷ついた人(あるいは嫌悪感を覚えた人)の人数の多さや声の大きさ」で決めていいのか?(小さい声なら無視していいのか?)
そういう表現は、「アングラ」や「サブカル」に閉じ込めてコソコソやっていればいいのか?(見てないところでなら何を言ってもいいのか?)
誰でも見れちゃうテレビドラマは、逆説や風刺や比喩が読み取れない人にも不快感や嫌悪感を与えないように「レベルを落として」作らないといけないのか?

この世界には、刺激や毒や汚穢やトラウマがあらかじめ混在しているのであり、分別あるいい大人が、そういうものを目に触れたり耳に入れたりすらしたくないって金切り声を上げるのは、あまりにも幼児的全能感を振りかざしすぎじゃないだろうか……と心のどこかで思ってしまうのは、私が芸術や表現の肩を持ちすぎていて、マイノリティへの配慮や想像力が足りなくなっているのでしょうか。

■ネットが「見なくていい」人との住み分けを無効化してしまった

もうひとつ、いくらゾーニングやレーティングしようとしても、ネットがある以上、もはやほとんどの創作物は誰にでも見れてしまう、という問題があります。

お金を払うことに納得した人が見る映画も、背景や文脈を共有できている人が見る演劇も、特定の読者層を想定して書かれた雑誌の記事も、ファンや愛好者だけに向けられた閉鎖的なイベントも、ネット上では必ず誰かがその内容を筒抜けにして、文脈にひもづかない「フラットな情報」「断片的な情報」として拡散されてしまう。
拡散した者の悪意のあるなしにかかわらず、「あんなとこで、あいつが、あんなこと言ってたよ」というフラットで断片的な情報だけが、本来届くことを想定していなかった「その表現や描写に触れるべきでない対象」にも「届いてしまう」んですよね。

芸術や表現が、そういった背景や文脈を無視した筒抜けの「チクリあい」に怯えるようになり、あらゆる価値観を持つすべての人たちを傷つけない/嫌悪感を与えないように配慮を強いられてしまうのだとしたら、それは窮屈だし、ひどく無粋なことです(それ以前に、そんなことは不可能ですが)。

■自由を守るために「わかりあえない」人には「見せない」ことも必要

私は、異性愛表現を嫌悪する人のためにわざわざ「ヘテロ向け」というタグ付けやワンクッションの配慮がなされないのと同じように、「腐向け」のBL表現をとりわけ自重したり住み分けする必要なんてまったくないと思っています。
それは、腐向けを含むあらゆる表現が、過度な自重や住み分けを強いられることのない自由な世の中になってほしいからです。
それ以前に、そもそも同性愛表現を、性表現や暴力表現と同じように扱ってゾーニングさせること自体が差別ですしね。

しかし一方で(ここからは特に「腐向け」のBL表現のことを指していません)、世の中には現に「わかりあえない」人がいて、「傷ついた人(あるいは嫌悪感を覚えた人)の人数の多さや声の大きさ」によって叩かれたり規制を強いられてしまう現状がある以上、見たくない人に「届かない」ように、わかりあえない人どうしが「出会ってしまわない」ように、「ここから先は、理解できない人は見ないでくださいね」という住み分けをすることは、少数者の心の中の自由を守るための戦略として、仕方なく必要なんじゃないかとも思ってしまうのです。

正しくはないです。正しくはないんですけど、理屈の上で正しいことが、必ずしも現状を変える上で最適な方法とは限らないので、そこもまた、自分の中ですごく煮え切らずにもやもやしているところです。
正解はまだ見つかりません。

心の中の自由を守りたいだけなのに、なぜ誰かを傷付けたり、誰かから非難されたりしなければならないんだろう。

おもしろいことは、なんて正しくないんだろう。
正しいことは、なんてわかりあえないんだろう。
わかりあうことは、なんてむなしいんだろう。

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