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【最終話】「母みたいになりたくない」娘たち――『あなそれ』は無理して結婚にコミットする不毛さをあぶり出した

●母のような“弱い女”を嫌悪する麗華の意地

『あなたのことはそれほど』が6月20日に最終回を迎えた。視聴率は自己最高を記録し、Twitterでの盛り上がりも好調だったが、2組の夫婦の顛末は視聴者の心に果たして何を残したのか。

まずは、有島(鈴木伸之)&麗華(仲里依紗)の夫婦から見ていこう。

麗華は置き手紙を残し、娘の亜胡を連れて実家に帰る。有島が電話をかけても、心のシャッターは閉店ガラガラ。「昔から怒ると敬語になってしまうんです」と、いきなりのですます調で静かにキレるさまは、有島でなくてもガクブルものだ。

「今の私と一緒にいるのは向こうもつらいだろうと思って。頭を冷やす機会をあげたの」と麗華は言うが、実際のところ、つらくて頭を冷やしたいのは彼女のほうだと思う。

「私はお母さんみたいになりたくないの。お母さんを、私は反面教師だと思ってるから」という台詞の通り、父親の女遊びに振り回され傷付きながらも、「あの人には私しかいない」と依存するしかなかった母・多恵(清水ミチコ)のことを、彼女は憎み、蔑んでいる。にもかかわらず、自分が同じ罠にハマっていることを認めたくないのだ。常に感情を抑え、冷静を装う彼女の態度は、いわばその葛藤の表れだろう。

実家に駆けつけた有島を、麗華は次のように冷たく突き放す。

有島:「俺はバイキンか? 汚らわしいか?」
麗華:「そう見えた?」
有島:「…自分でもちょっと思った」
麗華:「そう、ならそうなんでしょうね」

浮気を有島に自白させたときもそうだったが、麗華は基本的に自分がどう思っているかを言わない。事実だけを指摘して、自分の気持ちを有島に“忖度”させる。なぜなら、感情的に責めたり怒ったり泣きついたりしたら、その時点で夫婦間に上下や勝ち負けといったパワーバランスが生まれ、自分が母親と同じ“弱い女”だと思い知らされてしまうからだ。

有島が「土下座でもなんでもするから」と言ったとき、「やめて! そんなことしたら一生許さない」と激しく抵抗したのも、そんなことされたら、情にほだされてなし崩し的に許すしかなくなるからだろう。「私をそんな、母親みたいな女にしないで!」というわけだ。

それからというもの、有島は毎日朝晩の2回、わざわざ往復3時間×2=6時間かけて東京から所沢の実家に通うようになる。純粋に亜胡と麗華の顔が見たいから……とは言っているが、“誠意”を見せることで罪滅ぼしと麗華の心の雪解けを狙っているのは明白だ。

そのあざとさを、麗華は「とにかく自分ががんばって努力する姿を見せつけて、プロポーズを受けてもらおうとする人たちの心理」と喩えて批判するが、彼女のかたくなな姿勢は、自分が“そんなことで許してしまう女”になってしまうことへの恐れが多分に含まれている気がする。

麗華:「あの人といるときのあなたは、私が見たことのないあなたなのかしらね? でもね光軌、私もこんな自分、見たことがない。あの顔、一生忘れない。私をこんな風にさせた、あなたのことが憎いです」

つまり麗華は、有島が浮気をしたこと自体ももちろん憎いが、それ以上に、自分が母親のように弱くて恨みがましくて感情に流されやすく、嫉妬心と依存心の強い“正しくない女”になってしまうことを、なにより憎んでいるのではないか。あなたが浮気を認めさえしなければ、冷静で自信に満ちた芯の強い“正しい女”でいられたのに、と。

これは第4話で、美都(波瑠)の不倫を泳がせていたときの涼太(東出昌大)が、「確かめなければ、僕は傷付かない」「知ったら僕は、自分がどうなるのか、怖い」と語っていた心境と一致する。感情をマヒさせて抑圧し、“正しさ”で自分を縛り付けていないとアイデンティティが壊れてしまいそうで怖いのだ。第9話で小田原(山崎育三郎)は、「潔癖なくらい真面目で、自分も周りも苦しくしちゃう」と涼太のことを評するが、これも麗華に通ずるところがある。やはり、涼太と麗華はどこか似たところがあるのだと思う。

有島が「愛してるよ」と言うたびに、麗華がビンタをする、というターンを繰り返す謎の儀式を経て、何かが吹っ切れたのだろうか。翌日、有島が麗華の唇を奪って「気持ちいいね」と言い、学生時代の出会いの場面を反転/反復することで、2人は一応の和解を果たす。だが、「でももう、あのときほど、気持ちよくはないかな」とボソリとつぶやいたように、麗華は彼を本当の意味で許したわけではないのかもしれない。

彼女はずっと、お互い共依存のようにもたれ合っていた両親とは違う、“対等で正しい夫婦”になりたかったのだろう。だがこの瞬間、「お母さんのようになりたくない」に固執することを手放し、有島を父とは違う“理想の男”と見なすことをやめたのだと思う。有島にそれほど期待するのを諦めたのだ。

●涼太のことも有島のことも愛していなかった美都

もう一組の夫婦、涼太&美都はどうだろう。

前回、物語から放逐され、後半はひたすらランニングさせられていた涼太。自分の感情と向き合い、人間性を取り戻すための修業だったのではないかと私は予想したが、走っても憑き物は取れなかったらしい。

有島を呼び出して「あなた、悪い人だ。極悪人だ」とすごんだり、香子(大政絢)に離婚届の証人を頼み、「これが、彼女から僕へのプレゼントですよ。ひどい女でしょう?」とこれ見よがしにメソメソしてみせたり(涙は出ていない)、過剰に演技じみた挙動は相変わらず直っていない。

さらに、最後にご飯を食べようと美都をおでん屋台に誘い出し、「やり直したいなあ、できることなら」「いっそ生まれ直したい。あれより楽しいことあんのかな。人生、長いなあ」と同情を引くようなしんみり発言を繰り返す。一瞬、情にほだされかけた美都だが、すぐに香子からの「あの人少し、怖いね」というLINEで我に返ったようだ。

香子が怖いと感じたのは、嘘泣きしてまで彼女に弱った姿を見せれば、美都にその様子を伝えてくれるだろうという涼太の計算が透けて見えたからだ。彼は、感情にまかせて取り乱しているから不気味なのではない。“僕はみっちゃんを愛しているのに、離婚させられるのは不当である”という“(自分にとっての)正しさ”を盲信し、その信念に従って突き進んでいる静かな狂気が怖いのである。

前提としている価値観や行動原理が違うというだけで、他人というのは決してわかりあえない、得体の知れない気持ち悪い存在になりうる。本作において、涼太はその象徴として描かれていた。

そんな涼太の呪いを解いたのは、意外にも美都の母・悦子(麻生祐未)だったようだ。

かつて2人で住んでいた部屋を訪れた悦子は、涼太がいまだに結婚式の写真を飾り、結婚指輪をつけたまままでいるのを見つける。彼が、「お天道様は見ている」という母の口癖に今もこだわっていることを指して、「いい大人になってもママの言いつけ守って、いい子ちゃんだねえ」と皮肉ると、これまでは娘のために気を遣って義理の息子に媚びていただけだ、と本音を語る。

だがこれは、あえて悪態をつくことで、“夫婦は何があっても愛し続けなければならない”という“正しさ”に縛られている涼太を、家族という幻想から解き放ち、人は最終的には自分のためにしか生きられないことを示す役割があったのではないか。

悦子:「正しいかどうか、ご立派な理由で判断するのは、他人事。自分の子は、間違ってても許せちゃう。こんな親でもそうなんだから、涼太さんのお母さんなら、なおさらなんじゃないの?」

そして、彼の母親を「情の深い親」と尊重したうえで、いつまでもそんな母親を模範とし、無理して美都を愛そうとしなくてもいいと説くのだ。

悦子:「つらいなら、美都の手なんか離したっていいんだよ? お天道様も怒りゃしないでしょ」
涼太:「……僕は、間違ってたんでしょうか?」
悦子:「そういうのに正解なんかないよ。ただ、2人とも苦しそう。子供には、笑っててほしい
涼太:「お義母さん……」

このとき涼太は、悦子を通して擬似的に母から親離れし、“正しい”と信じてきたことが、自分を苦しめている思い込みかもしれないことを知ったのではないだろうか。“正しさ”よりも、自分の快・不快を優先させていいのだと、ようやく気付いたのだ。

一方の美都も、悦子から大きな影響を受けている。

「私ずっと、お母さんみたいにはなりたくないと思ってた」と、麗華と同じことを言う美都。このドラマは、“母のようにはなりたくない娘たち”が裏テーマだったようだ。だが、彼女はすぐに「けど、お母さんみたいには、なれなかったのかも」と訂正する。

悦子は、美都の父親である男と結婚しなかった理由を、第9話で「結婚するほど好きじゃなかったから」と語っている。彼女が今日までとうとう一度も結婚しなかったのは、結婚するに足るほど愛せる男が見つからなかったから。つまり、それだけ愛に期待し、愛を信じていたとも言える。

対して、美都はそこまで誰かを愛したいと思ったことなどなかったのではないか。涼太と結婚したのも、(母が獲得できなかった)結婚という幸せを手に入れたかっただけで、涼太を愛していたわけではない。第5話で、悦子が「あんた、そもそも誰も選んでなかったんだよ。選んだのは人じゃない。幸せ。自分の幸せを選んだ」と言っていたのは、きわめて言い得て妙だ。

有島のことは愛していなかったのか? という問いに対しては、香子との会話でその答えが示されている。久しぶりに彼氏ができたという香子に、「その人、歴代1位?」と尋ねる美都。それに対する香子の返答が秀逸だ。

香子:「それ比べても、仕方なくない? あの頃好きだった人は、あの頃の自分が好きだった人。冷凍保存でもしておかない限り、今は自分も相手も変わってる。あの頃好きだった人は、もうこの世にはいない亡霊…妖精…幻?」

ここでようやく美都は、第1話で占い師(明星真由美)に言われた「あなたの夢は幻。いない人に恋しても、幸せになれないよ」という言葉の真意を理解する。彼女は結局、“中学時代の運命の初恋相手”という過去の幻影に執着していただけで、今、目の前にいる有島光軌という男を愛してはいなかったのだ。

●涼太は美都の“自分を愛する才能”が羨ましかった?

では、美都が愛していたのは誰だったのか?

涼太の不審な挙動から自殺を疑った彼女は、2人の思い出の地である、かつてプロポーズされた公園へ駆けつける。そして、「涼ちゃんがもし死んじゃったら、私、耐えられない」と、復縁の可能性を匂わせるが、涼太はこれをあっさりと断るのである。

涼太:「みっちゃんらしい。それは同情でしょ? 好きとは違う。罪悪感。しかも、自分のせいで僕が死んだら、自分の気分が悪いから。ぜーんぶ自分のためだ。これ以上ないくらいみっちゃんらしい。君は、自分を肯定することにかけては天才的だね

涼太の台詞は一見、痛烈な批判と皮肉に聞こえる。だが彼は、とことん自分のためだけに生きられる美都の圧倒的な自己肯定感を羨ましく思い、彼女のそんなところが好きだったのではないだろうか。第9話で小田原が、「おめでたい人だなあ。でも、そういうところを涼太は好きなのかもね」と言っていたのを思い出す。

思い返せばこのドラマの中で、美都は終始一貫して「ぜーんぶ自分のため」に行動していた。世間体や社会規範に照らし合わせて「○○すべき」「○○であらねばならない」といった台詞を、ついぞ彼女の口から聞いたことがない。自分の欲望に忠実に不倫へと突き進むその姿は、欲深くて自分勝手で自己中心的で、それが視聴者の反感を買っていた要因でもあろう。

しかし、彼女の“自分を愛する才能”は、私たちが空気の読み合いや同調圧力といった見せかけの“正しさ”に屈して、すっかり失ってしまった資質でもある。涼太や麗華が、夫婦(家族)のあるべき姿に縛られるあまり、自分の心を殺してどんどん人間みを失っていったのに対して、美都は、間違っていても自分の快・不快に正直な「人間してる」生き方を、最後まで貫いたのだ。そもそも彼女は、結婚したり家族を持ったりすることには向いてない人間なのだ。

ただ、その代償として離婚と安アパート暮らしを余儀なくされたのは、“制裁”を与えないと視聴者が納得してくれないからだろう。有島がのうのうとヨリを戻せたことに比べると、日本のテレビドラマではまだ“女の不倫”を寛容には描けない限界を感じた。

誰もが美都のようには生きられないが、誰もが結婚や家族に向いているわけでもない。『あなたのことはそれほど』は、あなたにとって何が“それほど大事”で、何が“それほどでもないのか”を突きつける、踏み絵のようなドラマだったのかもしれない。

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【2019年の福田から一言】
しかし、改めて見返すとこのドラマ、構成やキャラ設定、セリフがよく練られているところと、あざとすぎて視聴者をなめている安っぽいところが、ちょうど半々ずつミスマッチしながら併存していて、その歪さが、良くも悪くも日本のテレビドラマの代表例のような作品だなと思いました。

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