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絵画の様式論

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記事一覧

絵画の様式論(六)

絵画の様式論(六)

「やるだけのことはやったのだ、留置場でそう思っただろう。ここまでやったのだからもう森山は自分が絵を描くことの免罪符を手にしたと言ってもよい」*1

美学校の前代表・今泉省彦は「集団蜘蛛」について回顧するなかで、裁判闘争に前後する森山安英の心情をこのように推し測った。この推察がどこまで真実を突いているのか、正確にはわからない。だが、森山の絵画を一瞥すれば、彼が今泉の言う「免罪符」を決して大上段に振り

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絵画の様式論(五)

絵画の様式論(五)

辰野登恵子の「様式」を近代の「アンラーニング(unlearning)」としてとらえうるとすれば、近代への徹底的な反逆の先で絵画を一から「ラーニング(learning)」してきたのが森山安英である。森山(1936- )と辰野(1950-2014)は世代も画風も思想もまったく異なるが、こと近代芸術をめぐる「ラーニング」と「アンラーニング」という観点においては、両者は明瞭な対照形を描き出す。

森山安英

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絵画の様式論(四)

絵画の様式論(四)

「なるほど、そういうことだったのか」。抽象画ないしは抽象性の高い絵画を鑑賞していると、時折、このように合点がいくことがある。「抽象」という名の高邁で難解な濃霧が一気に霧消するカタルシスの瞬間に不意に襲われると言ってもいい。わたしにとって「辰野登恵子 オンペーパーズ A Retrospective 1969-2012」展(埼玉県立近代美術館、2月16日から3月31日まで名古屋市美術館へ巡回)は、その

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絵画の様式論(三)

絵画の様式論(三)

本稿においては、画家が採用するいくつかの表現形式を様式と呼ぶ一方、その奥底に通底する本質的な核心を「様式」と言いたい。その具体的な事例として、藤田嗣治と福沢一郎にとっての「様式」が陰にあることは、すでに見た。だが、結局のところ、陰とは何なのか。なぜ両者による絵画には、程度の差こそあれ、それぞれ陰が顕在化していたのか。陰とは、いったい何を意味しているのだろうか——。陰という「様式」の具体的な内実を探

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絵画の様式論(二)

絵画の様式論(二)

時代を象徴する様式ではなく、美術家の本質を示す様式——。つまり絵描きにとっての様式について考察を深めるようになったのは、その後、阿部展也と福沢一郎の回顧展を続けて鑑賞したことが大きい(「阿部展也——あくなき越境者」は埼玉県立近代美術館で11月4日まで、「福沢一郎生誕120年」は富岡市立美術博物館・福沢一郎記念美術館で11月11日まで、それぞれ開催)。前者は1913年生まれであり、後者は1898年生

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絵画の様式論(一)

絵画の様式論(一)

もし極く簡単に芸術を定義せよというなら、芸術は「感覚が自然の中に、霊魂のヴェールを透して認めるものの表現」だと言おう。
──エドガー・アラン・ポー

美術家にとって「様式」とは何だろうか。先ごろまで東京都美術館で開催されていた「没後50年 藤田嗣治」展(10月19日から12月16日まで、京都国立近代美術館へ巡回)で、もっとも深く印象づけられたのは、このような問いであっ

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