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ストリートは表現でつくられている——渡辺篤個展「ヨセナベ」

日本の美術は、造形の質を追究する点と、社会的政治的な問題に取り組む点のあいだを幾度も往来しながら歴史化されてきた。2つの焦点を持つ美術という楕円は、これまで前者に傾きがちだったが、昨今は後者が盛り返しつつある。

渡辺篤は、ストリートという美術にとっての外部を舞台とする美術家である。ホームレス、グラフィティ、右翼の街宣車、宗教団体。渡辺が作品の主題とするのは、いずれも私たちが日常的に街で見かけている現実だ。それらをただ反映するのではなく、痛快なユーモアを加え、意味を巧みにずらすことで、リアリティを倍増させる。

たとえば、本展の会場は空間の内側全体がブルーシートで覆われ、床には布団が敷き詰められていた。来場者をあたかもホームレスが暮らすテントに誘い込むかのような仕掛けが心憎い。枯山水を主題とした屏風絵《澁谷蒼茶室枯山水屏風》も、よく見るとすべての庭石がブルーシートで包まれている。「美術」というある種の権威を、ホームレスという社会の底辺に無理やり抵触させる確信犯だ。池田大作の巨大な肖像画にしても、忠実になぞっているものの、微妙な違和感が残るため、見る者の視線は礼賛と軽侮のあいだで宙吊りにされてしまうのである。

同時代の社会的政治的な主題を、アイロニーやシミュレーションによって過剰に誇張するという点で言えば、渡辺は先行する会田誠や、近年成長著しい「天才ハイスクール!!!!」出身の若いアーティストたちと同じラインに位置づけることができよう。ただ、彼らになくて、渡辺にあるのは、ストリートを主題とするだけでなく、ストリートの匿名性に自ら埋没する構えである。

《BEAUTIFUL LANDSCAPE》は、行政によって設置された貼り紙・落書きの禁止を伝える看板類を写生したもの。一つひとつ丹念に描き写した上でそれぞれ額縁に入れて展示し、現場でイーゼルを立て写生した絵画を現物のそばに掲示する様子を映像で発表した。

ある一面では、これらは模倣によるパロディとして評価することができる。行政の一方的な通告を仰々しい絵画に仕立て上げることで、その空疎なメッセージを笑うのだ。だが別の一面では、これらは看板類のなかに隠されている匿名性の表現を暴き出す行為としても考えられる。通告は誰かが発しているのであり、看板類も誰かがつくっている。あらかじめ抽象化されているため気づきにくいが、それらは決して作者が不在であるわけではない。渡辺は自らの独創性をできるだけ抑え、有名性を看板類と同じ匿名性の水準にあえて落とすことで、そこに隠された「表現」をあぶり出しているのである。

グラフィティにも作者はいるし、行政が設置した看板類にも作者はいる。いずれも何かのメッセージや感情を発信している点でともに表現としてとらえられるが、作者の実存は見えにくい。けれどもアーティストは不可視の存在を可視化することができる。渡辺篤の深い眼は、芸術と非芸術という陳腐で、しかしだからこそ根深い境界を超えて、世界の成り立ちを表現として見ているのだ。

初出:「美術手帖」2014年9月号

渡部篤個展「ヨセナベ」
会期:2014年6月28日〜2014年7月19日
会場:アートラボ・アキバ


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