バンクシーの思想とは 民衆のための美術を拡散
掲載:「千葉日報」2019年4月10日
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[追記]
権力論としてのバンクシー騒動
すでに多くの報道が伝えているように、その後、このグラフィティは東京都庁に「展示」された。場所は第一本庁舎の2階の一角。期間は2019年4月25日から2019年5月8日まで。わたしはじっさいに現場に赴き、多くの人びとが長蛇の列をなしながら写真に収めていたのを確認した。
冒頭で、あえて「展示」と括弧付きで表記したのは、それが美術館や画廊で開催される展覧会の展示とは、あらゆる点で異なっていたからだ。もとより、ストリートのグラフィティを官公庁の内部で見せることじたいが前代未聞ではある。だが、それだけではない。特別な照明は設置されていなかったし、事情や背景を解説するキャプションもなかった。そもそも、今回の「展示」場所は、いわゆるデッド・スペースであり、展示空間とはほど遠い。何よりこの「展示」が異常だったのは、作者が徹底的に不在だったからだ。タイトルは《バンクシー作品らしきネズミの絵》とされていたが、これは言うまでもなく東京都が一方的に命名したもので、むろん当人が認めたわけではない。バンクシーの活動をよく知る者にとって、このネーミング・センスは「恥辱」に等しいと言ってもいい。いずれにせよ、美術館や画廊の展示では到底考えられない、傍若無人な「展示」である。
ほんとうに作者がバンクシーであるかどうか、その真偽は不明としながらも、本物の可能性を見越したうえで、グラフィティを強奪するばかりか、本物の可能性を喧伝しながら、当人の許可なく当人の名前とともに、それを一般公衆に「展示」すること──。むろん、非西洋社会の文化や芸術をミュージアムに回収してきた西洋近代の暴力的な歴史を思えば、東京都はそれと同じ権力をストリートの表現に発動していると考えられなくもない(じっさい、この催しは何かの戦利品を見せびらかす見世物のように見えた)。だが、今回の件は、それ以上に複雑であり、そうであるがゆえに、巧妙な統治の形態を体現しているように思われる。
今回の東京都による「展示」のもっとも重大な論点は、それが公権力による批評の独占という昨今の現象の延長線上に位置づけられる点にある。ここでいう批評の独占とは、二つの側面があり、ひとつは公権力が芸術的価値を一方的に公認すること、もうひとつはそれにたいしての反論を許さないこと、である。上記の新聞記事でも触れたように、昨今の公権力が芸術性の有無を一方的に裁定することに貪欲であることは明らかだ。政治問題にせよ、わいせつ性にせよ、現場の学芸員や外部の批評家、ないしは一般の鑑賞者をさしおいて、公権力がその基準を独り占めするのだ。本来であれば、わいせつ性の有無はひとり一人の鑑賞者の判断に委ねられるべきだが、それを「非公開」にすることで、公権力は自らの判断への反論を封じ込めてしまう。民主主義的な議論など、端から想定していない。今回はあえて「公開」に踏み切ったところがわいせつの事例とは対照的だが、だとしても、極めて本物の可能性が高いグラフィティを公権力の中枢で公開することで、公権力がその芸術性を担保したという事実は変わらない。フェイクの可能性もなくはないが、それはさほど大きな問題ではない。バンクシー本人が真偽を明らかにする可能性はゼロに等しいことは、グラフィティに明るい者は言うに及ばず、公権力ですら知っているにちがいない公然の事実だからだ。
それゆえ、「バンクシーさんには何か問題があるようならご連絡を都庁までいただければと思います」とコメントした小池百合子東京都知事は、一見するとグラフィティに無理解で脳天気な頓珍漢のようだが、むしろそうとう狡猾な戦略家として見るべきである。バンクシーから返事が来ないことなど百も承知で、このようにぬけぬけとコメントしていたにちがいない。なぜなら、事実、今回の件で東京都は労せずして多くの利を得ているからだ。
第一に、「展示」にかけたコストが尋常ではないほど低いこと。もし美術館がバンクシー本人の展覧会を実現しようとすれば、莫大な予算と信頼関係を構築するための長い時間を必要とする。が、今回、東京都は防潮扉の一部を撤去し、輸送し、一時的に保管し、自前の空間で「展示」したにすぎない。黒い支持体を背景にしたり防潮扉をアクリル板で保護したり、最低限の処置はあったが、これといって展示の工夫があったわけでもない。今のところ公開期間が終了していないので、最終的な来場者数は知るよしもないが(その後、35000人と判明)、思いのほか安い予算で多数の来場者を集めた事実はおそらくまちがいあるまい。その意味で、東京都にとってあのグラフィティは、濡れ手に粟の、まさに「贈り物」だったのだろう。
第二に、結果として公権力の正統性が再生産されたこと。今回の「展示」に通底していたのは、好むと好まずとにかかわらず、世界的に著名なストリート・アーティストの手による(かもしれない)グラフィティを見せる公権力と、それをありがたく鑑賞するわたしたちという、じつに封建的な図式である。あの長い行列の視覚的イメージは、否応なくその図式を補強していた。真偽の不明なグラフィティをあえて東京都庁で公開することで、公権力が芸術性を判定する権力をも持ち合わせていることを世間に大々的にアピールしてみせたのである。かつて若桑みどりは、都庁の都民広場に常設された公共彫刻の大半が裸婦像であることを批判的に告発したが(『イメージの歴史』ちくま学芸文庫)、その男根主義的なジェンダー・バイアスは依然として改善されていないものの、現代美術のグローバル・サーキットの最先端を走るバンクシーのグラフィティを巧妙に回収したことで、東京都は一度は失墜した芸術的権威を、ひとまず表面的には回復することに成功したと言えるだろう。
しかし、お上が公認した芸術を拝受するという身ぶりが再生産されたことは、統治する側に多大なメリットをもたらしたとしても、統治される側にとっては大きな危機である。そこから健全な批評や批判は決して生まれないからだ。だが、周知のとおり、バンクシーのグラフィティはそのような統治される側の批評精神を体現している。であれば、その精神を共有している者たちは、状況を転覆する、次の一手を考えているにちがいない。ネズミたちは、殺鼠剤に耐えつつ、つねにすでに、都市を徘徊しているのだ。
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