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絵画の様式論(三)

本稿においては、画家が採用するいくつかの表現形式を様式と呼ぶ一方、その奥底に通底する本質的な核心を「様式」と言いたい。その具体的な事例として、藤田嗣治と福沢一郎にとっての「様式」が陰にあることは、すでに見た。だが、結局のところ、陰とは何なのか。なぜ両者による絵画には、程度の差こそあれ、それぞれ陰が顕在化していたのか。陰とは、いったい何を意味しているのだろうか——。陰という「様式」の具体的な内実を探り出すために、福沢の画業を改めて振り返ってみよう。

1924年、福沢一郎はパリへ旅立った。同年はアンドレ・ブルトンによる「シュルレアリスム宣言」が発表された年である。藤田嗣治がパリでキュビスムに傾倒したように、福沢は同地でシュルレアリスムの洗礼を浴びたわけだ。こうした相違点は世代的な要因に由来するのかもしれない。何しろ福沢より12歳年長の藤田は、福沢がパリに到着した頃には、すでに画家としての名声を確立していたからだ(あの《寝室の裸婦キキ》が8000フランで買い取られたのが1922年、レジオン・ドヌール賞を受賞したのが1925年)。両者はともに1931年にパリを離れるまで、少なくとも7年間は同じ空気を吸っていたはずだが、ひと回りも違う年齢によるのか、あるいは別の理由によるのか、ふたりのあいだにこれといった接点を見出すことは難しい。だが、福沢がシュルレアリスムを受容した理由は、おそらく世代論だけにあるわけではない。

ひとつには、関東大震災の経験。パリへ旅立つ前年の1923年に、福沢は震災で壊滅した東京を目の当たりにした。幸い、アトリエは無事だったようだが、これを機に「日本にいてはだめだ」とパリへの留学を決意したらしい*1。福沢の心の内側に広がっていたカタストロフィの経験が、シュルレアリスムを受容する素地を整えていたことは想像に難くない。シュルレアリスムが「想像力の解放」と「合理主義への反逆」という契機を内包していたとすれば*2、第一次世界大戦や関東大震災のような破滅的経験こそが、美術家をそのような解放と反逆に導いたことは疑いないからだ。事実、ダダイズムが成立した背景に第一次世界大戦があったことは明らかだし、日本におけるその極限状況に相当したのが関東大震災だった。MAVOや未来派美術協会、アクションなど、いわゆる「大正期新興美術運動」は震災前から活動していたが、それらが「三科」として集合するのは震災後の1924年である。彼らが遠いヨーロッパから聞こえてくるダダイズムのこだまを耳にしながら日本の舞台でそれを実践していたとすれば、福沢は震災の暗い記憶を脳裏に焼きつけながら、シュルレアリスムの只中に飛び込んだのである。シュルレアリスムを日本に紹介した第一人者という福沢の定評の根には、関東大震災の経験があるわけだ。


*1 染谷滋「福沢一郎—生い立ちから戦前まで—」、『福沢一郎展 生誕90年』、1988年

*2 染谷前掲書。


福沢一郎がシュルレアリスムに熱を入れた、もうひとつの理由は、おそらくシュルレアリスムそのものの性質にある。周知のように、福沢はもともと東京帝国大学(現在の東京大学)に在学中の頃から朝倉文夫のアトリエで彫刻を学んでいたが、パリへ渡った後、本格的に絵画に転向した。だが、そのとき、エコール・ド・パリの甘美な雰囲気に浸るわけでもなく、キュビスムやフォービスムに模範を求めるでもなく、シュルレアリスムを選んだのは、そこに彼が求めるものがあったからだ。それは、「あるべきところにあるものがなく、あらざるものがある」ことをよしとするシュルレアリスムの論理である。じっさい、福沢は次のように証言している。


「シュルレアリスムの主義は、反逆精神に貫かれている。これが私にとっては、とても好ましいものに映った」*3


そう、福沢にとってシュルレアリスムは反逆精神を体現した様式だったのである。逆に言えば、そのような反逆精神はエコール・ド・パリには到底望むべくもなかったし、キュビズムやフォービズムには絵画の造形的な問題を解決する糸口があったのかもしれないが、そもそも福沢の関心はそこにはなかった。福沢は、あくまでも「人間の思考の自由」*4を追究する仕事に心を砕いていたのであり、そのような反逆精神を最大限に許容したのがシュルレアリスムだったのだ。やや乱暴に言い換えれば、福沢がつねに見ようとしていたのは、「芸術」より「人間」だったのである。


*3 福沢一郎「私のあゆみ」、『福沢一郎作品集』小学館、1987年

*4 本田悟郎「はじまりの近くにあったもの—福沢一郎の草創期1920年代」、『福沢一郎は今日から歩き出す』多摩美術大学美術館、2008年


だが重要なのは、福沢にとってその反逆精神は、必ずしもシュルレアリスムという特定の様式と密着不可分であるわけではなかったという点である。じっさい、福沢はシュルレアリスムを日本に紹介した第一人者として知られ、またその事実により共産主義者の嫌疑を受けて半年近く拘禁されたが、その様式にもとづいた絵画を制作していた時期は思いのほか短い。戦時中には《海》(1942)という戦争画も描いているし、戦後には《阿修羅》(1959)というアンフォルメル風の絵画や、黒い描線を強調した《祈り》(1958)のようにルオーを彷彿させる絵画も描いている。つまりシュルレアリスムの反逆精神が福沢の心をとらえたことは事実だとしても、彼の反逆精神はシュルレアリスムという様式を前提にしていたわけではなく、その様式にすら反旗を翻すほど、徹底的だったのだ。特定の様式に自足することなく、次から次へと様式を採用しながら、同時に、その様式をつねに疑う運動性こそが、福沢の「様式」だったとも言えよう。だとすれば、福沢の絵画に頻出する「陰」とは、一切の妥協を許さないばかりか、自分自身にすら反逆してみせる、骨の髄まで染みこんだ強靱な反逆精神の現われだったのではないだろうか。

もっとも福沢一郎にしても、そのような反逆精神を生涯にわたって完遂したとは思えない。とりわけ晩年の神話を主題にした大作はいかにも大味であり、それは老齢の画家による筆と眼の荒れに由来することが容易に想像できるが、その一方で、多くの高齢画家がそうならざるを得ないように、自己模倣の罠に陥っているように見えなくもないからだ。だが、かりにそうだとしても、今日のわたしたちにとって、福沢が体現していた反逆精神には学ぶことが多い。たとえば三木多聞は、福沢の反逆精神を日本の美術界に根深い構造の中に位置づけている。


「一度何かの位置付けや格付けがされると、それに安住し、惰性に流れていく例が多い日本で、稀に見る貪欲とも思われる福沢さんの創造精神は、安住を許さない反逆精神に裏付けられているようである」*5


けだし名言と言えよう。定型的な画風を個性や様式と言い換えることで惰性的に延命を図ろうとする、いかにも不届きな画家たちは、三木が嘆いた時代からおよそ40年後の現在においても、まったく変わっていないからだ。時代はかつてないほど激しく、また信じられない速度で変化しているというのに、どうして絵画だけが、どうして美術だけが、まったく同じ様式を保持していられると妄信できるのか(ここの「美術」を「批評」に置き換えてもよい)。その不変性こそが美術が美術であるゆえんであると嘯く反論もあろう。しかし、福沢一郎はもとより、藤田嗣治にしても、程度の差こそあれ、すぐれた画家はみな内蔵した反逆精神を駆動させて次々と様式を展開しながら同時代のリアリティを問いかけていたのだ。「絵画の様式論」とは、現在の美術批評ではほとんど等閑視されている様式という観点から絵画や美術の本質を問い直すクリティカル・プロジェクトである。

[この稿続く]


*5 三木多聞「反逆精神を貫く強い個性—福沢一郎ノート—」、『福沢一郎展』、群馬県立近代美術館、1976年


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