毒山凡太朗+キュンチョメ 今日もきこえる

「天才ハイスクール!!!!」出身のアーティストで、福島県出身の毒山凡太朗と茨城県出身のキュンチョメによる合同展。いわき市内にある古いビルのワンフロアをブラックキューブとすることで、映像作品を中心にそれぞれ作品を発表した。発表の場所に、あえて「いわき」を選んだことから伺えるように、いずれも東日本大震災を強く意識した作品である。

毒山凡太朗は故郷の安達太良山に登り、頂上に設置されている同郷の洋画家で、彫刻家の高村光太郎の夫人である高村智恵子が詠んだ一節「この上の空がほんとうの空です」を、雨の中何度も叫んだ。映像を見ると、豪雨に濡れながらカメラに向かって元気よくこの言葉を繰り返す毒山の姿には、ナンセンスなユーモアを感じずにはいられない。だが、その乾いた笑いの先で、精神を病んだ智恵子の発した言葉と、字面は変わらないにせよ、毒山が発する言葉とでは、それが意味する内容がまるで異なることに気づかされるのだ。光太郎によれば智恵子は「東京には空がない」とこぼしていたというから、智恵子にとっては安達太良山の上の空こそ、真実の空だということなのだろう。

けれども智恵子が真正性を見出したその空は、いまや放射能によって汚染されてしまった。したがって毒山の叫びは、皮肉を交えた反語的な意味合いが強いといえるが、汚された雨を全身で浴びながら絶叫する毒山の身体には、アイロニカルな構えというより、むしろアイロニーを超えて、現実をありのままに受け止める覚悟が漲っているように見えた。つまり毒山が口にする「この上の空がほんとうの空です」とは、どれだけ毒に汚されたとしても、いまやそれが「ほんとう」になってしまったことを、私たちの眼前に突きつけているのだ。

毒山がある種の冷徹なリアリズムを貫いているとすれば、それにある種の叙情性や芸術性を重ねているのがキュンチョメである。海岸線に沿って立ち入り禁止の黄色いテープを貼る映像《DO NOT ENTER》は既発表の作品だが、強い風が吹き荒れる広大な海を目の当たりにすると、立ち入ることのできなくなってしまった海へのやるせない想いと、やがて押し寄せるかもしれない次の津波を止めることを願う切ない想いが、心の奥底から折り重なりながら立ち上がってくる。

だが、今回発表されたキュンチョメの新作のなかで、とりわけ社会性と叙情性を巧みに両立させていたのが《ウソをつくった話》である。映像に映されているのは、Photoshopの画面。帰宅困難者となってしまった御老人の方々に、故郷へ帰る道に置かれたバリゲードをPhotoshopの画面上で消しもらうというものだ。音声を聞くと、初めてPhotoshopを操作する御老人に、ナビゲーター役となった毒山が土地の言葉で使い方をていねいに助言していることがわかる。ぎこちない手つきで消していくが、ちょっとした手加減で背景の家や森までも消してしまう。だがその一方で、毒山の巧みなリードも大きいのだろう、御老人の方々の口から本音が浮き彫りになるのが面白い。「ぜんぶ消しちまえばいいんだ」「もう帰りたくねえ」。視覚的には彼らの帰宅を阻む障害物が徐々に消え去る反面、聴覚的には彼らの心情が託された言葉が次々と露わになるのである。

むろん、どれほど画像上でバリゲードを消去したとしても、帰宅困難者の問題を解決するうえではなんら実効性があるわけではない。あるいはまた、彼らの姿が画面に直接的に映されているわけでもない。しかし、にもかかわらず、最低限の画像と音声を媒介として帰宅困難者の実存がありありと伝わってきたことは疑いようのない事実である。いや、より正確に言えば、限られた画像と音声によって大いに喚起された私たちのイマジネーションが、彼らのイメージを実存として想像させたのだ。

いまやあの震災を伝える報道は少ない。ドキュメンタリー映画や小説にしても、ある一定の成果を出したとはいえ、いまのところそれ以上の展望は特に見込めない。だが、キュンチョメによるこの作品は、私たちの想像力に働きかけることである種のイメージを幻視させるという、アートのもっとも得意な方法論を、もののみごとに提示したのである。

初出:「artscape」2015年11月01日号

毒山凡太朗+キュンチョメ 今日もきこえる               会期:2015/09/18~2015/09/22
会場:福島県いわき市ワタナベ時計店3F「ナオナカムラ」

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