見出し画像

現代美術の民俗学的転回 コンサベーション ピース ここからむこうへ PartA 青野文昭展

なんという迫力だろう。いや、迫力というより凄味と言うべきか。会場の中央に組み立てられたのは、無数のたんすに自転車や自動車、衣服や文庫本といった日用品を埋め込んだインスタレーション。秘密基地のように内側に立ち入ることができるが、そこにはす凄まじい気配が立ちこめている。見る者の視線と身体は、その異様な空気に屈服することを余儀なくされるのである。

とはいえ今回、青野文昭が発表した新作は、彼のこれまでの作品の方向性を大きく違えたものではない。すなわち、物質の修復による記憶の召喚。拾い集めた廃物や漂着物の欠損を埋め合わせ、あるいはそれらを融合することで、失われた記憶を呼び起こす。むろん青野の視線と手は事物の忠実な復元を企んでいるわけではないし、事物に宿った記憶を正確に再生しようとしているわけでもない。むしろ青野によって縫合された造形物は、全体的には整然としたフォルムを保ちながらも、部分的には意外な異物をシームレスに接合するユーモアさえ感じさせる。記憶の召喚にしても、その内容を見る者に確実に届けるというより、むしろわたしたちの想像力を追憶という行為そのものに誘うところに醍醐味があるのだ。

それゆえ重要なのは、作者としての青野の内面を推し測るということではなく、自らの外部に失われた記憶の起源を求めるのでもなく、自らの内部に追憶という想像力の理路を切り開くことである。それは、青野の作品がポスト3,11の文脈で語られがちだという事実を踏まえてなお、わたしたち鑑賞者に課せられた責務と言えよう。

今回の新作に、得体の知れない凄味を感じたのは、それがこれまで以上に強い生活感を醸し出していたからではなかったか。たんすに埋め込まれた自転車が私たちの中庸な日常性と正確に照応しているだけではない。動きを止めた時計や押しつぶされた空き缶、古い家族写真などが、一昔前の暮らしの風景を必然的に連想させるのだ。つまりわたしたちを圧倒するのは、同時代的なリアリティのある暮らしというよりは、かつてあった生活の匂い立つような痕跡である。それらは何ものかの生活に由来するのだろうが、誰とは特定できないがゆえに、わたしたちの生活とも重複しうる。忘れかけていた過去の記憶が強引に召喚されるからこそ、直視しがたいほどの、あるいは痛々しいほどの凄味が生まれているのだろう。

青野の作品に見出すことができるこのような特質は「民俗学的想像力」と言えるのかもしれない。民俗学とは、近代化する日本社会の中で急速に消えてゆく生活様式を「民俗」として対象化する学問だが、目前の風景に過去の原風景を重ねて見るように、そこには一貫して想像力を過去に遡行させる運動性がある。

しかし民俗学的想像力がこれほどまでに威力を発揮するのは、これまでの現代美術が洗練された都会的な感性を称揚するいっぽう、民俗を露骨に封殺してきたからだ。青野文昭の真価は、現代美術のただ中で、民俗学的想像力を全開にしている点である。それは、昨今の「現代美術」に飽き足らないわたしたちにとって、新たな始まりである。

初出:「美術手帖」2017年11月号

コンサベーション_ピース ここからむこうへ part A 青野文昭展
会期:2017年9月9日~10月15日
会場:武蔵野市立吉祥寺美術館

#青野文昭 #aonofumiaki #吉祥寺美術館 #民俗 #美術 #アート #レビュー #福住廉

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?