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遠藤一郎 個展「吉祥寺に潜伏しているというカッパ師匠の部屋」

遠藤一郎の個展。これまで「未来美術家」として全国のさまざまな現場で活躍してきた遠藤の、ある種のターニングポイントとなる重要な個展だった。

展示されたのは、積み上げられた大量のスピーカーとアンプなどを背に、ちゃぶ台の前で佇む遠藤自身。ただし、その姿は、顔面はもちろん手足の先までを緑色に塗りあげ、甲羅を背負ったもの。カッパ師匠が来場者にお茶を振る舞うパフォーマンス作品である。とはいえ、カッパ師匠は何かしらの演芸的なパフォーマンスを披露するわけではない。カッパの姿のまま会場に自然と佇み、来場者と雑談を交わすにすぎない。にもかかわらず、その情けなくも可笑しみのある風情が、なんとも味わい深い。「未来へ」や「GO FOR FUTURE」といった、じつにストレートで実直なメッセージを、並々ならぬ熱量によって発信してきた、これまでの活動からの明らかな方向転換である。

けれども、より重要なのは、その方向性だ。遠藤によれば、カッパ師匠とは愚直でだまされやすく、非力な妖怪であり、じっさい街を歩いていると、自らに注がれる視線には嘲笑や卑下の意味合いも含まれていることが少なくないという。遠藤は自ら、この情けない存在を引き受けたのだ。

思えば、遠藤一郎の名前が衝撃とともに脳裏に刻まれたのは、完成間もない六本木ヒルズに体当たりで突っ込む映像作品を見たときだった。「行くぞ! おい、みんな行くぞ!」と叫びながら、何度も何度も硬いコンクリート壁に激突する。当初はナンセンスな行動を笑っていられたが、次第に様子がおかしくなり、やがて真摯な悲壮感に心を打たれるようになる。自分の肉体を感電させて音を出す過激なパフォーマンスによってノイズ・バンドに参加していたように、かつての遠藤一郎は肉体の全身をフル稼働させることで、すべての神経を剥き出しにするような切迫感と緊張感にあふれていた。

だが、そのような切実な動機は、遠藤に限らず、ほとんどのアーティストにとって、それが切実であればあるほど、やがて自分自身から遠く離れていくことを余儀なくされる。そのとき、失われていく初発の動機を取り戻そうともがくのか、あるいは別の無難な動機に切り替えて乗り切るのか、アーティストのアティチュード、すなわち態度が問われるのは、おそらくこの点である。

遠藤が素晴らしいのは、ある程度アーティストとして名を挙げたいまもなお、いや、いまだからこそ、見下される存在に自分自身を徹底的に貶めることを、この作品において見事に体現しているからだ。言うまでもなく、この作品が意味しているのは新たな面白キャラクターの発見などではない。それは、遠藤が、かつてとは違ったかたちではあれ、いまもなお、自分の肉体をある種の「壁」に激突させ続けているという厳然たる事実である。その、きわめて純粋な誠意に、改めて心を打たれた。

初出:「artscape」2015年06月01日号

遠藤一郎 個展「吉祥寺に潜伏しているというカッパ師匠の部屋」     
会期:2015年5月6日~5月17日
会場:Art Center Ongoing

※写真はすべて「ちょっとほふく前進やってます」展(art center ongoing、2019年9月14日~9月22日)より。

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[追記]
本稿で取り上げた個展「吉祥寺に潜伏しているというカッパ師匠の部屋」から4年、同じく吉祥寺のart center ongoingで、遠藤一郎は「ちょっとほふく前進やってます」展を開催した。これは、彼が近年集中的に取り組んでいる、ほふく前進のパフォーマンスを見せたもの。約40分に及ぶ記録映像と、着用していた衣服と靴が展示された。また、映像の鑑賞後には、屋上に設えた簡易茶室で、カッパ師匠としての遠藤一郎がみずから来場者にお茶を振る舞い、歓談した。

映像は、きわめてシンプルである。ほとんど同じ構図で、ただひたすら、ほふく前進を続ける遠藤一郎を背後からとらえている。撮影者は立っているので、おのずと地面を這う彼の肉体の動きを見下ろすことになるが、とりわけ前半は無音にされているため、その一挙一動に注目しているうちに、想像力が彼の視線に及ぶのがおもしろい。アスファルトの質感や熱、草いきれ、路面で遭遇する蟲たち、好奇の視線、そして肘や膝の骨の痛み──。映像に映されているわけではないにもかかわらず、わたしたちは彼が見ている世界を幻視するのである。40分という長尺をまったく感じさせないほど、鑑賞者の目を奪う不思議な映像だ。

二足歩行から四足歩行へ──。一見すると退行的なようだが、しかし、このパフォーマンスは必ずしも原始回帰をロマンティックに謳っているわけではあるまい。むしろ、人間であることの前提や常識を疑い、人間を突破するためにこそ、あえて四足歩行に立ち返っているのではなかったか。地面を這う身ぶりからすると、おのずと舞踏を連想するが、だとしてもその本質には従来の舞踊を突き抜ける推進力があったはずだ。「美術」や「人間」といった誰もが信じて疑わない概念を肉体だけで内側から破壊すること。そこに遠藤一郎のコンセプチュアルな核心がある。

強調したいのは、遠藤一郎は、その核心だけを体現するという点において、まったく変わっていないという事実である。作品の様式を次々と変転させるアーティストは多いし、逆に特定の様式に呪縛されるアーティストも少なくないが、彼はたとえ新しい形式を採用したとしても、肉体の運動だけで「美術」や「人間」の先を示す点になんら変わりはない。今回発表された映像の後半に、15年ほど前に制作された《愛と平和と未来のために》で用いられたメッセージがそのまま転用されているのは、その不変性を象徴的に物語っている。逆説的な言い方になるが、その変わらなさこそが、つねに新しいのだ。

遠藤一郎には新たな原点が必要ではないか、と書いたことがある。しかし、いま思えば、こうした言い方は間違っていた。彼は原点を誰よりも深く深く掘り続けているからだ。その先に何があるのか、誰も知らない。だが、従来の「美術」や「人間」が疑わしくなりつつあるいま、そのゆくえはかつてないほど明るい。

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