見出し画像

吉村芳生の味わい

昨今、印刷メディアの苦境が著しい。以前から雑誌が売れないことは長らく嘆かれていたが、昨秋世界を襲った金融危機の余波なのかどうか、ここにきて著名な雑誌が次々と休刊に追いやられている。比較的低コストで運営できるウェブ・マガジンが躍進していく一方で、紙媒体の窮状は今後も続くだろう。それを二〇世紀型メディアの凋落としてとらえられなくもないが、紙焼きのグラビアやテキストに育てられた身としては、印刷メディアへのフェティシズムを容易には捨てがたいのも事実だ。紙に刷られた図像や文字が醸し出す質感、厚み、そして匂い。それらはモニターの向こうで無限にコピー&ペーストされるウェブ上の無味無臭のイメージには到底望むべくもないも紙媒体ならではの「味わい」である。わたしたちがこれから生きなければならないのは、こうした「味わい」を噛みしめようとしても、それが不幸にも叶わない、なんとも貧しい時代なのかもしれない。

わたしが吉村芳生の創作活動を高く評価したいのは、それが時代が強いる貧しさにもまれながらも、絶妙な豊かさをわたしたちに感得させるからだ。むろん、芸術作品として必要不可欠な視覚的強度を備えていることはいうまでもない。日記のように毎日描き続けられた自画像のシリーズを一挙に並べた展観が圧巻であることは疑いないし、草花をただ描き写したシリーズにしても、何ものにも一切奉仕しない無目的性が見る者を文字どおり圧倒してやまない。しかし、それらの大半が写真をもとに忠実に写し取ったものだという制作過程を知ると、吉村の作品に見られる視覚的な強度がたんに描写の技術的精度に由来するわけではないことがたちまち明らかになる。新聞紙を描き写した作品は、新聞と紙を強く圧迫することで紙にわずかに残されたインクの痕跡をそのまま描きなぞったものだという。そう、吉村が他の追随を許さないほど卓越しているのは、スーパーリアリズムや写実主義の絵描きのように対象をただたんに「転写」することに終始一貫している点にある。一見すると、そこに「作家性」という主観的な要素がほとんど見受けられないところが、愚直なまでに転写を反復する吉村の手わざに、よりいっそう凄味をもたらしているのだ。

執拗なまでに繰り返される手わざの反復的作業。すでに幾度も指摘されているように、吉村自身にとってそれに没頭することは豊かで解放された時間なのだろう。けれども、わたしが吉村の作品に見出す豊かさとは、それとは少し別の質である。

今回の個展で発表される初期の版画作品や鉛筆画を目にしたとき、わたしたちは吉村の「転写」がきわめて数学的な手続きにもとづいていることを知って、驚愕させられるはずだ。吉村はまず写真の全体を正確なグリッドで区切り、そのひとつひとつの升目の明暗を主観的な判断によって数字に置き換える。明度を示す数字に分解した図像を、別の紙面の上で再び線や面に変換し、それらの集積を再構成することで、「転写」を完遂しているわけだ。数値化されたデータの集合によって成り立つデジタル写真であれば精緻な画面が広がるのだろうが、それと同じ理屈で転写された吉村の作品には、にもかかわらず、彼自身による手わざの痕跡が残されている。否が応でも目につくのは、転写された図像の正確性などではなく、むしろ一度数字に還元した上で転写するというプロセスに費やされた膨大な時間と果てしない執念である。その圧倒的な持久力を目前にしたとき、見る者の心が深く打たれるのは間違いないが、しかし吉村が優れているのは原始的な手わざによってデジタル社会に反逆しているからではない。むしろ、吉村はみずからの手わざによって、デジタルの原理を愚直になぞり、反復し、繰り返すことで、そのプロセスをみずからの手中に取り戻そうとしているのではないか。言い換えれば、数値化されることで身体から離れてしまった図像を、もう一度身体化しようともがいているのではないか。

数字に還元した上で転写する作品のシリーズの中に、吉村自身の手をモチーフとした作品がある。比較的小さな作品だが、遠めに見ればはっきりと手として認識できるものの、近くによって見れば無数の斜線の集合にすぎない。けれども、そこにはまちがいなく吉村自身の影が落ちている。それは、みずからの創作活動の基盤としている手わざですら、デジタルに還元されかねない、その危うい両義性である。多くの美術家たちはデジタル技術と原始的な手わざとのいずれかに偏向しがちだが、吉村はその両極が裏側で反転して結合してしまう未開の地を切り開いている。しかも、その類稀な作業をたったひとりで成し遂げてしまった。それこそ、わたしたちにとっての豊かさであり、わたしたちが存分に「味わう」べきなのは、その偉業なのだ。

初出:「吉村芳生展―版画・ドローイング」展図録(ギャラリー川船、2009年)

吉村芳生展―版画・ドローイング展
会期:2009年3月9日〜3月28日
会場:ギャラリー川船

#吉村芳生 #美術 #アート #絵画 #版画 #超絶技巧 #批評 #レビュー #福住廉

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?