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忘却の海を記憶の鎖でしばれ!

「うわべは放浪者でも、中身は図書館だ」。なるほど、言葉を呟きながら原野を彷徨う彼らは世捨て人にしか見えない。しかし、じつは彼らが口にしているのは本の内容なのだ。〈本の人びと〉は歩きながら本の文章を暗唱しているのである。だから彼らの身体は、人間でありながら書物でもある――。

レイ・ブラッドベリの『華氏451』は読書が禁じられたディストピアを描く小説である。華氏451とは、摂氏233度、すなわち紙が燃焼し始める温度。フランソワ・トリュフォーによる同名の映画を見ると、消防隊員たちが庶民の家庭に隠された書物を暴き出し、火炎放射器で一気に燃やし尽くしている。小説は人に別世界の人生を虚しく想像させるだけであり、哲学書は自分だけが正しくて他人はみんなバカだと説いているにすぎない。だからこそ本は有害であり、庶民はリビングで大人しくテレビを視聴しておればよい。〈本の人びと〉は、こうした思想統制と検閲に抗い、本を守るために、自ら本となったのだった。

興味深いのは、この想像力あふれる作品が相矛盾する両義性によって構成されている点である。火を消すはずの消防隊が、むしろ率先して火に油を注いでいるだけではない。その消防隊ですら、あるいはだからこそというべきか、本の魅力に取り憑かれるという逆説もある。隊長は本を燃やしがらも本について熟知しているし、主人公モンターグも次第に本の世界に引きこまれ、やがて〈本の人びと〉の輪に加わるのだ。

〈本の人びと〉は暗記の作業を終えると、その書物を燃やしてしまう。燃やしてしまえば誰にも奪われないし、頭にしまっておけば誰にも見つからないからだ。ここに、この作品のもっとも大きな両義性がある。消防隊が本を焼やすのは、本を忘却の海へ沈めるためだった。〈本の人びと〉が本を暗記するのは、本を海底から救い出し、記憶の鎖につなぎ止めておくためだった。つまり、この作品における「燃やす」という行為には、「記憶」と「忘却」という相反する意味が折り畳まれているのだ。

さて、現在開催中の「ヨコハマトリエンナーレ2014」のテーマは「華氏451の芸術:世界の中心には忘却の海がある」(現在は終了)。ブラッドベリが念頭に置かれていることはいうまでもないが、ディレクターの森村泰昌によれば、芸術とは「忘却世界に向けられたまなざしの力のこと」だという。空気のように忘れているものや、不在、死、言葉にならない絶句、あるいはあえて言葉にしない沈黙という名の拒否。展示された作品は、そのような忘却世界にいたるための、さまざまな入り口である。

ただ、全体的に禁欲的でミニマルな作品が多いせいか、忘却世界に思いを馳せることはなかなか難しい。空白の絵画や人を食ったようなメッセージを発する作品を見たところで、想像力は広がりようがない。言い換えれば、いくら忘却の海に沈潜してみても、それらを記憶の鎖でつなぎ止めにくいのだ。芸術とは、忘却世界をまなざすだけでない。まなざした上で、その光景を記憶に定着させなければならない。忘却と記憶は密接不可分なのである。

そうしたなか、福岡道雄の作品は例外といってよい。大きな画面には「何もしたくない」という小さな文字が無数に並んでいる。異常なまでの執着心がすさまじいが、じつはこの文字は「書いた」のではなく「彫った」もの。「何もしたくない」という虚無的なメッセージと、あまりにもかけ離れた執念深い行為に圧倒される。おそらく福岡の「彫る」行為には、文字どおり「何もしたくない」という無と、「何かをしたい」という有が激しくせめぎ合っているのではないか。その厚みこそが、私たちの眼に芸術を映し出すのである。

初出:「Forbes Japan」(2014年11月号)

展覧会名:ヨコハマトリエンナーレ2014
会期:2014年8月1日~11月3日
会場:横浜美術館、新港ピア(新港埠頭展示施設)

▲福岡道雄《何もしたくない草花》(1999)[部分]

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