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国宝 一遍聖繪

《一遍聖繪》とは、時宗の宗祖、一遍上人(1239-1289)の行状を描いた鎌倉時代の絵巻。国内最古の絹本著色絵巻で、国宝に指定された名品である。今回の展覧会は、これを所蔵する時宗総本山清浄光寺の遊行寺宝物館が、その全十二巻を一般公開したもの。一巻の全長がおよそ10メートルだから、全巻を合わせると、およそ130メートル。それらが決して広いとは言えない会場に一挙に展示された。

「南無阿弥陀仏」。一遍上人は、この六文字による念仏を唱えるだけで誰もが往生を遂げることができると説きながら全国を行脚した。《一遍聖繪》には、その旅の道程が四季それぞれで移り変わる風景とともに描かれている。詞書は高弟の聖戒が、絵は法眼円伊が、そして外題は藤原経尹が、それぞれ手がけたとされている。

注目したいのは、十二巻にも及ぶ長大な構成のなかで、俯瞰的な視点による広がりと奥行きのある空間表現を一貫させている一方で、人物表現の密度によって一遍上人の遊行の盛衰を巧みに表わしているように見える点である。旅の始まりは孤独だったが、徐々に同行者が増えてゆき、やがて一遍上人を先頭に列を成すほどの一団となる。

その人物表現の沸点は、おそらく踊り念仏を描いた場面だろう。その始まりは第四巻第五段。そこには、信州は小田切の里に入った一遍上人が、とある武士の館の縁側に立ちながら、朱塗の鉢を叩いて踊る様子が描かれている。一遍上人が視線を向ける庭には3人の僧が同じように鉢を叩きながら踊り、その周囲を取り巻いた民衆も身体を大きく揺らしているのがわかる。通説では盆おどりの起源は踊り念仏にあるとされているが、一遍上人の念仏が「踊り」によって人々を魅了しながら広まっていったことは、ほぼ間違いないのだろう。

その踊り念仏の熱気が最高潮を迎えるのが第六巻第一段である。一遍上人とその高弟たちは、舞台に上がり、胸元に下げた鉦を打ち鳴らしながら激しく身体を動かしている。舞台の下では、群衆がその踊りを見上げているから、この時期、踊り念仏は早くもある種の見世物と化していたのである。

屋外でゲリラ的に実行される身体表現から舞台上で期待されて催されるパフォーマンスへ。一遍上人の踊り念仏のなかに、近代社会における芸術表現が宿命的に陥る隘路を見出すことは難しくない。けれども、その一方で注目したいのは、その群衆のなかに両手を合わせて拝んでいるようにも見える者が少なくないという事実である。踊り念仏がたんに身体表現の高揚感を醸し出す見世物だけでなく、ある種の礼拝の対象にもなっていたとすれば、そこにはベンヤミンが言うところの「展示的価値」と「礼拝的価値」が同居していたことになる。

だが、これを「同居」とみなす見方こそ、近代的なバイアスがかかっているかもしれない。そもそも前近代社会においては、双方は分かちがたいものとして一体化していたと考えられるからだ。物事を明確に峻別する近代的思考法によれば、近代の展示的価値を自立させるために前近代の礼拝的な価値は切り離された。しかし《一遍聖繪》が視覚化しているように、そもそも双方は表裏一体の関係にあったはずだ。しかも、そのような価値のありようは現代美術にも確かに及んでいる。

よく知られているように、1970年の大阪万博では、多くの来場者が岡本太郎による《太陽の塔》に両手を合わせて拝んでいた。また、菊畑茂久馬の《奴隷系図(貨幣)》(1961)にも、来場者が次々と賽銭を投げ入れたため、制作に使用した五円玉の総数が、展示が終わった後、増えていたという逸話もある。つまり、私たちは美術を純然たる展示的価値として受容することが甚だしく苦手であり、それゆえ、いかなる造形であれ、そこにおのずと礼拝的価値を見出してしまうという癖があるのだ。これを、たとえば切腹のような前近代的な悪習として退けることは、私たちの身体感覚からすると、あまりにも不自然である。優れた現代美術の作品が展示的価値と礼拝的価値をともに内蔵しているように、戦後美術史は礼拝性によって再編成されうるのではないか。《一遍聖繪》は、みごとなまでに、その契機を示している。

初出:「artscape」2016年1月15日号

国宝 一遍聖繪
会期:2015年10月10日~2015年12月14日
会場:遊行寺宝物館

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