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生誕120年 木村荘八展

洋画家・木村荘八の回顧展。明治半ばの東京に生まれ、大正元年に画壇にデビューした後、岸田劉生や河野通勢、中川一政らと交流しながら、一貫して「東京」を描いてきた画業の変遷をまとめた。

注目したのは、挿絵と本画の関係性。よく知られているように、木村荘八は永井荷風の『墨東綺譚』(1937)の挿絵を手がけたが、それ以後も東京の都市風俗を描いたスケッチを数多く描き残している。佃島、神楽坂、浅草橋など、東京の各所を丹念に歩き、観察し、それらを絵と文で表現した画文は、いずれも味わい深い。無数の斜線を描き込んで陰や闇を表現することはもちろん、紙の表面にスクラッチを加えて白線を表現するなど、芸も細かい。描写された対象というより、それらを描いた当人の、生き生きとした躍動感が伝わってくるほどだ。

これらの画文は、いずれも手頃な大きさの紙に墨やインクで描かれており、なおかつ余白には関連する情報を記した文字が含まれているという点で、明らかに本画とは異なる挿絵である。むしろ今和次郎や吉田謙吉の「考現学」との親和性が高いとすら言える。

本画を中心に評価する価値基準からすれば、糊口をしのぐためにやむをえず手につけた周縁的な仕事に過ぎないのかもしれない。けれども、《牛肉店帳場》(1932)や《新宿駅》(1935)、あるいは《浅草の春》(1936)など、木村荘八の本画を改めて見なおしてみると、その絵画的な視線がいずれも都市風俗の現場に注がれていたことがわかる。挿絵と本画という制度上の違いはあるにせよ、木村荘八にとって描くべき対象は同一だったのだ。

晩年は自宅から望める風景をたびたび描いた。だが、そこには挿絵から溢れ出ていた躍動感はもはや見受けられない。その停滞が、老衰という生理現象にもとづいていたのか、それとも挿絵に注いでいた熱い視線と技術を本画に送り返すことができなかったからなのか、正確なところはわからない。ただ、いずれにせよ重要なのは、本画だろうが挿絵だろうが、木村荘八が都市風俗という主題を巧みに表現していたという点である。もしかしたら、本画と挿絵を無意識のうちに峻別してしまう、私たち自身の内なる制度こそ、相対化しなければならないのではないか。

初出:「artscape」2013年06月01日号

生誕120年 木村荘八展
会期:2013年3月29日~2013年5月19日
会場:東京ステーションギャラリー

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