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幸せ?

はじめに

私はとても気難しい人間だ。

私は他人にほとんど興味関心がないが、とはいえ、こうしてこれまで生きてきて、(たとえまさに私が対峙している個人に興味がなくとも、)その時間を互いが豊かに過ごせるようにアレンジする術をだんだんと心得てきたように思う。

ただ、興味関心がないと言っても、ある特定の具体的な個人に対して興味がないだけであって、そうした個人の集合や、個人を抽象化した場合の行動特性などには異常なまでに興味を持っているので、個人の非集計データを扱い、分析し、モデリングし、シミュレーションすることに大変興奮するし、特定の個人には興味がないからこそ、客観的に俯瞰して見ることができる。
(あと、そういえば、加えて自分自身にもさほど興味はない。)

とても気難しいので、ほとんど友達もいないと思われるし、一人で時間を過ごすことが何よりも落ち着くし、それによって、ストレス解消にもなるし、体力を回復することができる。

寂しい人間だと思われるかもしれないし、すでにそんな風に周りからは言われているだろうとも大体は推測がつくが、そんな風に見られていること自体が、自分には都合がよく、また、居心地がよいと感じていて、私は私なりの独自の世界との付き合い方を楽しんでいる*。

*一方で、人とのコミュニケーションは誠に面白いものだと感じていて、消費することで得られない幸福感を築く大変重要なものだと心得てはいるので、この点補足しておきたいし、この件についてはまた別途したためたいものである。

* * *

思い返せば幼稚園の時からそうだった。幼稚園の時から特に寂しいという気持ちも抱くことなく一人で遊んでいた。時々遊びに誘ってくれる同級生もいたが、「今日は(家に帰ったら一人でシルバニアの家をリフォームするという(程度の))予定があるんだ、ごめんね」などと言って、きっと他の子が使う「予定」とは違う「予定」という理由を使って断っていた。

そんな感じでずっと学生生活を送って大人になった。時々同級生と遊んだり、時々所謂いじめられたりもしたが、特に私にとってはその両方共が同じ位置付けでしかなく、どうでもよかった。

そして、私以外の誰もが、私という人間性を誤解しているし、私は誰よりも私自身を正しく理解しているという自信を持っている。

何に時間を費やし、何にお金をかけ、何を身につけるのか、そんなことを常に考えるようにしているし、何に本質的価値があるのかということを考えることが大好きでもある。

そんな私の自信は特に、中学・高校自体に増強したと私は見ている。
中学・高校は、中高一貫のミッションスクールに通っていて、(例によって私にとって特段ダメージでもないいじめを受けたり、部活動に参加してみたりして、人間とのコミュニケーションを耳の周りで飛ぶ蚊のように感じていたことはあったが、)その学校の校訓と理念には、私はとても共感することができたので、私としてはなかなかちょうど良い学生生活を送ることができた。

人間の尊厳のために

校長先生は神父様で、「人は誰でも一人一人かけがえのない価値を持って生まれてきている」という世界観のなかで、「身分や能力や、肌の色や容姿によるものではなく、あなたがあなただから大切で、素晴らしいのである」ということをいつも仰っていたと記憶している。これが、建学の精神で、「人間の尊厳のために」生きなさい、ということだった。

このような誇りや自信と互いの尊重に支えられた愛を持って生きなさいというようなことを、私は意外にも結構素直に受け取っていた。だからこそ、先生に不当な扱いを受けたり**、誰かから愛のない言葉を受けても、こういう状況が生じた背景を想像し、現象として理解することで受け容れた。

そしてまた、この「人間の尊厳のために」生きる、ということは、幸せに生きる(well-being)ということに繋がるものだと、少しだけ大人になって、考えるようになった。

**素晴らしい学校だったし、素晴らしい先生もいらっしゃったが、愛のない言葉を向ける自分に素直な先生もいらっしゃった。確率の問題である。

高い人格・広い教養・強い責任感

この3つが校訓だった。この校訓に掲げられるような愛の精神を、正しく理解し、また、備えている人なんて、私を含めてほとんどいないと冷静に世界を見ながらも、この校訓はとても素晴らしいと心から思っていたし、こういうことを備えた人間でありたいと思った。(そして、私はこれも結構素直に受け取っていて、なんとなくこのことの重要性が理解できるようになってきた高校3年生の春頃、これらを備えるべく、進学の道も針路を変更した。)

私は、ミッションスクールに通ってはいたものの信者ではなかった。そんな私の拙い解釈によれば、
「神は愛そのものである」、また「人間は神にかたどられて造られた」、だから「人間も互いに愛し合うべく存在である」
というのが教えであったが、「高い人格」というのはこの愛を身につけた者のことだそうだ。そしてその人格形成に必要不可欠なものが「広い教養」ということだった。しかもこの「教養」は、ひけらかされる知識ではなく、人間を愛する愛の深さのことで、知識は愛の道具にすぎないということだった。色々な問題について、色々な視点から、色々な事実や色々な意見・考え方を知っていることは、いざ自分がなんらかの問題に直面したときに、「教養」が非常に重要な機動力になるということを、卒業してから随分と時間が経ってしまったが、少しずつ実感する局面が増えてきた。

少し世間でも話題になっていた、平成30年度 東京大学入学式 来賓祝辞でのロバート・キャンベル先生の、「教養」に関するお言葉は、私にとって大変感銘を受けるものであった。私はまだまだ「教養」を身につけられていないが、今後の人生でずっと「教養」を身につけ、世界をみて、私にできることを、できれば、私にしかできないことを、実現して、この世界に生まれた恩を返したいと思う。

(省略)
大学でできること。それは頭とからだを使って、自分が好奇心をもって向かおうとしている目標について他者に説明する言葉を磨くこと。ファクトを切り出して、論理と共感というきわどいバランスをその都度に繰り出すスキルを身に付けることに尽きると思います。これが本来の教養であると、私は考えます。


そして3つめの「強い責任感」であるが、これは良心に耳を傾け、その呼びかけに応答することであり、良心の声に従うときにはじめて人を正しく愛することができる、ということだそうだ。何かに迷ったとき、だいたい、私たちには選択肢が与えられるが、この「責任感」に従えば正しい選択をすることができ、また、それは私のその選択は、私とその選択に関わる人々の総幸福量を最大化するというようなことなのだろうと私は捉えている。

さいごに

生きている限り、常に人間は大なり小なり悩みを抱えるものであることが常であることが多いだろう。だけど、その悩み・問題一つ一つに誠実に向き合い、どう対処するのか選択し、その選択に責任を持って振る舞う、そして、悩み・問題に対峙するたびにより良い解法を出せるよう、様々な事実を知ること・事実に基づく論理的思考力・共感力を常に養い続けることが、私なりに幸せに生きるために重要な要素だと思う。

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