見出し画像

アーバンデザインについての思考

都市計画に興味があり、一度アーバンデザインについて考えていたことを記録として雑記しておきたいと思う。

都市計画とは

都市計画とは、一般に、「まちづくり」を行うための計画とされていて、
都市の将来の"望ましいあり方"を想定し、都市がそうなるように、土地利用や空間整備、市街地開発について定める計画のことだ。

"望ましいあり方"を実現するための手段を分析したり峻別したりすることによって、その都市ごとに具体的な目的へと議論を導くことや、"望ましいあり方" になるような手段(空間整備や道路空間の再配分など)を提示することなどによって、都市や社会に貢献しているものだと私は理解している。

まちづくりや都市計画を志した時期があり、私は本気で、それらを学び、研究し、よく思考し、よく理解し、そして実践することで、より良い社会に、少しでも多くの人が幸せに暮らせる社会になるように貢献したいと思っていた※。

※ もちろん今そう思っていないということではない。むしろより強く、多くの人が幸せに暮らせる社会になることに貢献したいと思っているし、幸いに、在学時とは違った形でそれが可能な環境にも居ると思う。当時と違うのは、それに加えて、自分も幸せに(well beingという感じに近い)生きていきたいと思っていることくらいだろうか。
でも最近思うのは、私はとても利己的な人間で、幸せに暮らせる社会にしたいと、公共的な欲望も持ちつつも、同時に同じくらいの強さで、出来るだけ多くの人々の行動を変えたいという欲求を持ち合わせているようだ。

都市計画に関連する研究分野では、都市全体の幸福を目指す中で、個人の幸福と全体の幸福の両方に配慮し、個人の幸福と全体の幸福が両立し、最大化するように、歴史・景観・交通などの観点から社会基盤整備などの状況を分析する。

特に、近年交通計画分野においては、拠点集約型都市構造への転換に伴う、駅まち空間のネットワーク整備や、そのストック効果の把握などが注目されており、国交省によるスマート・プランニングなど、観測・分析に基づく都市計画の重要性が高まっているようなことがある。


当時の思考

こうした動向や様々な状況があり、私は歩行者の行動について考えていた。

具体的には、個人単位の行動データをもとに、人の回遊行動をシミュレーションなどによって施策実施の効果を予測した上で、施設配置や空間形成・交通施策を検討していこうというような取り組みの中で、出来るだけ正確に、行動データから行動原理の本質に迫りたいと思い、考えていた。

現実に、社会基盤整備や空間整備に基づく駅まちの都市計画を立案する際の最大の問題は、「どのような空間整備計画を実施するのが利用者にとって最も望ましいのか」ということなのではないかと思っている。

しかし実際には、関係者の利害関係などの要素が非常に大きく、ほぼほぼ計画としては決定していて、シミュレーションの結果は、それが合理的であるかのように示さねばならないものだったように感じていた。

空間整備は駅舎周辺など数百m四方程度の範囲内を対象に実施されることが多い。
なので、空間整備計画は空間的あるいは主体的制約により普通いくつかに限定されるのであり、「望ましさ」は対象とする都市と計画主体に応じて、最適化の目的関数によって理論的には解析可能なものである。

利害関係者としてもOKだし、計算してもOK、みたいな資料が必要なのはわかるのではあるが、すごく、考えたいことと、したいことと、しなければならないことと、本当にこれでいいのかなという疑問と、とはいえこうしたら良いというような妙案もないことと、色々な感情の中でもやもやとギャップを感じていた。

私の能力が低く、理解が及ばなかったので、(もやもやを抱え、結局そのもやもやは晴れることなく今でももやもやしているのであるが、)歩行者の行動を分析する意味がよくわからなかった。

車の場合には、東日本大震災の時のグリッドロックが有名だが、渋滞が社会基盤として大きな問題であるので、交通の理論やシミュレーション、計算を早く実行することなどに対する意義が理解できたし、論文でも数式の立式などについて割と受け入れられることが多かった。

歩行者の場合に、問題になる抽象度の高いテーマが、わかるようでわからなかった。

「歩行者交通の場合には、自動車交通の場合と異なり、渋滞や交通制御、大気汚染といった喫緊の課題が存在しない。そのため、歩行者の経路選択行動を扱う都市交通計画上の重要性は、多額の投資を要する駅まち空間における歩行者デッキや地下空間の新設といったミクロな空間整備にあたり、その効果把握にあたって短中期的評価・予測を可能とすることにある。」みたいなことを建前として述べていたが、本当はよくわかっていなかった。

あと、行動データ(位置情報データ)を使う場合には、行動原理について仮定をおくのだが、基本的には合理的な行動を仮定するので、道路を拡幅したり、歩行者のための空間を作ったりしようとした時のシミュレーション結果は、当然、欲している結果が出るものとなり、なんのためにやっているのかよくわからなかった。

データを扱ったり、行動原理について考えたり、どうしたらその行動原理を示す数式にできるかを考えたり、推定量の解釈や、いかに確からしい推定をするか試行錯誤したりすることは楽しかったのだが、これがどう都市・社会に生かされてくるのかわからなかった。
(「行政や民間事業者がデータに裏付けられた共通認識を持ち、具体に議論を重ねることや、ワークショップなど計画に対する市民への説明の場において、有用である」ことは理解できるし、そんな風に言い訳のように質問に答えたりもしていたが、少なくとも私が学んでいた間には、そのようには使われることはあまり無かったように思う。)

都市における「望ましさ」は、歴史的蓄積の価値やその中での人々の暮らしや活動といった、線形計画問題として定義され得ない価値の側面を含めた多元的な観点から、熟慮されるべきものでもあると考えているということが1つの要因ではあったと思う。


だけど、話題の「品川ゲートウェイ」駅のように、歴史の文脈をテキスト上でだけ計画に入れ込むのも違うし、将来の品川ゲートウェイ像の動画の主人公が外国人なのも、誰のための都市計画なのでしょう?と思う※。
一方で、地域計画として、地方のある村で交差点の交流の場を整備するプロジェクトに参加した時には、役場や設計者の関係者は地域の人のためにという思いで一生懸命取り組んでいたけれど、実際にその地に住んでいる方々との熱量とは大きなギャップがあり、これはこれで、誰のためなのでしょう?と思った。むしろこの整備費1000万円を各戸に分配した方が、幸せを感じられるんじゃないの?と思った。

※ あと、ちょっと文脈が違うが、設計者、民間業者、行政などの議論の場においては、しっかり行政にファシリテーターを務めてもらうことも重要だと感じている。ここまで述べたことや都市計画に関する素養と理解力があり、イエスマンになることなく、しっかり課題を提起することができ、時には鋭い指摘をしても職が失われることのない行政の立場こそファシリテーターに向いていると思う。


最後に

妹島さんが、「いろんな人が、なんかやわらかにみんなで一緒になれる。だけど、それぞれも自分のやり方で多様に参加できるみたいな場所をイメージしてる。」と仰っているのをテレビで見たが、なんかそんな感じの都市・社会ができたらいいなと思う。

車にとっても歩行者にとってもウェイファインディングで、家族や友達と一緒の時も一人の時も楽しめて、空間をやわらかに接続していて、インフラとして維持管理していけて、都市の中で人と人とを繋ぐこともできて、居心地の良い景観・空間で、都市形成のコンテクストが加味された空間を作ることに、最終的には貢献したい。オンラインとオフラインが良い感じに接続した社会の形成に貢献したい。

計画や人々の価値観、社会が変わった際にも、上述のような空間となるような柔軟な設計が、都市計画において重要なのではないかと思う。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?