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[Absolute Ego Danceと錦鯉と]何も考えなくていい/踊れる音楽の素晴らしさ

最近、「何も考えないでいい曲」や「踊れる曲」の素晴らしさをつくづく感じている。
ちょっと前までは、
「ベースほんとすごいなー」とか「ここのブルーノートの使い方最高だなー」とか「この歌詞ほんと言い得て妙だなー」とか「リファレンスが、、」とか、
そんな感じで、実力主義的あるいは批評的な音楽の聴き方をしてきたし、そういう音楽の聴き方ができるからこそ音楽ナードなのであって、そういう音楽の聴き方ができる自分最高!みたいな考えすらあったりしたんだけど、最近はそういうフィーリングじゃなくなってきた。

現実逃避の策としての素晴らしさ

「何も考えなくていい」というのは、もう少しきちんとした言い方をすれば、「そのコンテンツに触れている間は現実から逃避できる」ということだと思う。
事実、一旦音楽から逸れた話をすれば、最近こういう「現実逃避」のコンテンツというのはどんどん拡大していると思っていて、
例えば、もふもふ系のバズツイートなどワンニャンを中心とした癒し系動画、あるいはすっかり合法的トビ方として人々に認識されアクセスされるようになったサウナ、流行り廃りも関係なく常に人々に飲まれもしくは人々を飲むアルコールなど。
世の中がディストピア化している反動とも言えるかもしれないが、とにかくこう言った「現実から逃避できる」「何も考えなくていい」というコンテンツは人々の生活の中で重要性を増していると思う。

その一方で、音楽産業、とりわけ日本語音楽の流行をみると、
YOASOBIにしても米津にしても瑛人にしてもAwesomeにしても、今人気を集める音楽はどれも「歌詞が共感できる」とか「エモい」とか「このボーカリゼーションがすごい」とかいわば関ジャム的な実力主義あるいは批評的な価値観ばかりが浸透していて、上記のような「何も考えないでいい」とか「踊れる」とかそういう流行の方向にはあんまり向かっていない気がする。
(もちろん、例に出したアーティストの楽曲群は最高です。言わずもがな。)
たまに最高なダンスナンバーが流行ることもあるけど、全体論の話ね。

ここで、既述の音楽産業外の動きを鑑みれば、音楽界でも「何も考えなくていい」「踊れる」楽曲がもう少し注目・評価されて然るべきなのではなかろうか。
いや、ちょっと言い方が変か。
別に評価されるべきだとか流行るべきだということではなく、
各人がめいめいに自分にとって現実逃避ができる楽曲を見つけて持っておければ日々の生活がもっとハッピーになるんじゃないか、というのがより正確な問題提起の仕方かな。
実際、音楽のパワーというのは凄まじくて、騙されたと思って好きな楽曲に合わせて体を動かしてみると、その音楽が流れている間は本当に脳みそが空っぽになって本当にちゃんと現実逃避できるし、誤解を招きそうな言い方をすればちょっとトンじゃうんだけど(踊ってみな?トブぞ?)、おそらく音楽を聴く人々は多分この点を見落としがちで。
新型肺炎流行下の今となっては、星野源やDrakeが家でも踊れるということを教えてくれたわけであるし、chelmicoの言うようにてんでダメなダンスでいいのだから、みんな嫌なことあったら、嫌なことそっちのけで踊っちゃうみたいな、そういうのがもっとあってもいいと思う。
(エモい歌詞を浴びて涙流しまくってスッキリするというんじゃなくてさ)

サウナやらワンニャンやらにもこの効果はあるだろうけど、音楽でも同様にそういう効果があって、というかむしろ音楽の原義的な意義がそういう「現実逃避」であったり「現実を超える」というところにあるのに、それをみんな忘れがちだということは声高にして言いたいわけです。

ちなみに、下のアンジュルムの"恋はアッチャアッチャ"って曲、自分大好きなんですけど、個人的には、この曲はこの記事の主題と同様の「踊ることでの現実逃避」をテーマにしていると思ってて。
現実っていうのは、えてしてこの歌詞のように厳しいんですよ。恋はうまくいかないし、ていうかそもそも恋は始まらなくて終電乗れちゃって直帰するのが現実。でもこの曲は、時には踊ることで離れてとにかくそういう厳しい現実から逃避しちゃえばいいんだ!ということを教えてくれているわけです。
さらに話がずれるけど、この曲のサウンドは一聴するとイロモノだけど、「当時海外でもっとも流行ってたレゲトンのリズムを頑張って日本語でやった」というホンモノのサウンドですからね。めっちゃエクスペリメンタルで同時にアイドルファンを喜ばせるという素晴らしい楽曲です。

音楽ナードにとっての箸休めとしての素晴らしさ

この記事の主題である「音楽で現実逃避する」ということは、既述のような素晴らしさに加えて自分のような音楽のナード?音楽ジャンキーが音楽をディグをする上でも素晴らしい効果があると思う。副次的な効果というか。

現代の音楽はディグっているとコンテクストが多すぎることが分かってくるし、音楽にはディグればディグるほど社会問題と対峙しなければならないという性質があって、それでいて一部を除くほとんどのアーティストのリリーススパンは本当に短くなってきているから、音楽を好きで聴くにしても、なんだか疲れてきちゃうことが多い。
でも、音楽のナードとしてのプライドの問題以前に、人間は社会問題を考えていかなければならない生き物だという大前提からすれば(気圧ニキの言うように「人間は考える葦」ですから)、音楽はその有意な材料になりうるわけで。だからこそやっぱり音楽のディグは辞めちゃいけない。
ここで、ディグから逃れられなくなったナードにとってはやっぱり箸休めが必要になってくるし、その箸休めを自分の趣味の範囲内でできてしまえば最高なのではなかろうか。
また、その箸休めがあることによって、「音楽というフィルターを通して社会問題を考えていく」という音楽ナードとしての恒久的なタスクと、よりうまく付き合っていけるようになるとも思う。

こういう「何も考えなくていい」「踊れる」楽曲の箸休め的な役割をもう少し分かりやすくするためにお笑いで例を出しちゃおうと思う。
というのも、去年のM-1決勝での錦鯉がめちゃくちゃ好例(高齢)であると思うのだ。
M-1決勝というのは視聴者も含めて皆がそれぞれに自分のお笑い・漫才観を持ちよって批評的に漫才をみるコンペであり、その前年(一昨年)にミルクボーイがニュータイプともクラシカルとも取れる漫才を持ちこんで優勝したこともあって、昨年の大会はそう言った批評的な漫才の見方が特に盛り上がっていたわけだが、ここで錦鯉がやったのが「何も考えなくても笑える」「まさのり以外誰も傷つかない」漫才で、よくも悪くも批評性が機能しないというか、全く議論のいらない漫才だった。
この錦鯉に漫才によって、それまでずっと自分なりの批評脳を回転させて他の組の漫才をみていた視聴者が、一旦箸休めをして、まさのりのパチンコ台に爆笑するみたいな、そういう時間ができた。
実際、この錦鯉の漫才の時間で、みんながちょっと脳を休ませられたことで、ファイナル以降の「あれは漫才なのか論争」みたいな文化的に高い?議論を巻き起こす結果となった。(ちょっと言い過ぎか)

こういう点で、なんかしらの表現と向き合って批評だったりをていく上での箸休めができること、さらにそのブレイクがそのコンテンツの内部で同時にできてしまうということはめっちゃ良いことなんだと言うことを錦鯉からも学ぶことができる。

(なんかかえって分かりづらくなったかもだが、まあ錦鯉はどこかで褒め称えたかったんでオールOKです(?))

自分にとっての"Absolute Ego Dance"

もう一度、お笑いから音楽へ話題を戻すが、では主題のような「踊れる」「何も考えなくていい」ってどういう曲なんだという話だが、ここでは自分の例を出しておこう。

自分にとっての「踊れる楽曲」は、YMOの"Absolute Ego Dance"だ。

この曲は本当に歌詞がないからこれといったメッセージもなくし、他のYMOの楽曲と比べてめちゃかっこいいというわけでもないんだけど。
とにかく、タイトルの通り、いかにコンピュータの音でハネやグルーブを作るかが追求された楽曲で、何も考えたくないほど疲れた時はこの曲で踊って(踊れるような場所にいる時じゃなくても内心ではダンスしまくって)、リフレッシュをするわけだ。

また、音楽ナードを名乗りたい自分は、New Music Fridayになると大体その週に出た海外音楽のアルバムを二、三枚順繰りに聴いていくわけだけど、「まずはRod Waveのアルバム聴いて、次に24kGoldnのアルバムを、、」とかやってると結構疲れちゃって。
こういう時の箸休めとしても同じようにこの楽曲を聴いてブレイクするわけである。さっきの錦鯉の話じゃないけど。
これができるようになってからは、新しい音楽を取り込みたいときは聴く!、でもちょっとディグるのがしんどいときは聴かない!みたいな調節がうまくできるようになった。

YMOというアーティスト自体あるいは彼らの作品の多くは確かにとっても批評性を含有している一方で、この曲はそこまで批評的に語られまくってる曲ではないんだけど、既述の通り、「踊らせる」ことに関しては特化しているんで、とりあえず脳を休めたい時には特効薬のように効いてくれる。

ちなみに去年自分が聴きまくったPerfumeの"Time Warp"は既出の"Absolute Ego Dance"と部分的にキーが一緒でして、、(中田ヤスタカは半分くらいわざと狙ってんじゃないのかこれ?)
これを後から発見したときはちょっと興奮しました。

エモともファイトとも違う「踊れる」楽曲を大切に

繰り返すようだが、歌詞から共感を誘うエモ曲だったり、人の背中を強く押してくれるファイトソングであったり、惚れ込むような実力を結集させた楽曲であったりなど、心をmoveさせる曲ばかりが世で語られがちだ。

でも、すでに説明してきたように、「踊れる」楽曲だって素晴らしいじゃないか。
いやむしろこっちが音楽の原義のようなものじゃないか。
だからこそ、人々はもっと現実から逃げて、精神でもない肉体でもないイリュージョン(c.f. 立川談志 だけど絶対使い方違う、、)の世界に行ってリフレッシュしていいし、音楽がもっとその触媒の役割というかその手伝いをしたっていいはずじゃなかろうか。

そんなことを思いながらも、「ここのゲートリバーブかかったスネア最高だなー」とか言って音楽のエセ評論家を気取り、一方、学業では落単に怯え、金欠を嘆く現実の自分なのであった。

P.S.
てか、やっぱり現実逃避しなければ生きていけないような社会ってなんだかなと思うよね。職場も学校も家も全部ダンスホールでどこまで行ってもディスコティックだったらいいのにね。なんつって。おわり。


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