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アンジュルム "恋はアッチャアッチャ"を「トンチキ」だけで片付けない

アンジュルムの"恋はアッチャアッチャ"については、別の記事にて触れたことがあったんだけど、ちょっと主題と離れたところで書いちゃったからあんまり上手く書けなかったなと思いまして。
そこで元の記事を焼きましてかなり付け足す感じで新たに記事にしてみようかと思います。
もう2年以上前の楽曲についての5000文字越えの戯言になりますが、お付き合いください。
(元の記事も読んでね、、)

"Love is Accha Accha"を「トンチキ」だけで片付けて良いのか

"恋はアッチャアッチャ"という楽曲は「なんだこれ感」満載な楽曲で、ファンがこの曲を取り上げる時にも、決まってこの「なんだこれ感」をベースに語ることがほとんどだ。
で、この「なんだこれ感」というのは、ジャニーズ畑に習って言えば、トンチキと言い換えることができよう。

MVも、サウンドも、歌詞も、あらゆる点でとっても奇想天外でトンチキだ。

さらにはプロモーションの仕方も、ハロプロ内で謎の公式アッチャアッチャ応援隊を作って、コンサートでパフォーマンスを披露したりしていて、非常に変。

明らかにトンチキを狙って作られた楽曲であり、一見するとアンジュルムの楽曲群の中ではかなり異質なものとなっていて、ライブのセトリには組み込みづらいだろうし、ある種、ファンの間でも「あー、あの曲は変だから」としか消化できないものになっているような感じになっている。

ただ、上記のように、単に「変わった曲」「トンチキ」だとして片付けてしまっては見えてこない、アンジュルム自身や楽曲製作陣のスゴまじさがアッチャアッチャには表れているのではないか、というのが個人の見解である。

この個人の見解がどこからきているものなのか、ここから三つの切り口から説明していく。

①流行を取り入れたサウンド

まず、そのサウンド。
もちろん、一番に耳に入るのは奇想天外の源ともいえようインドや大陸アジアを彷彿とさせる歌唱のメロだが、それよりも特段言及したいのはメロを支えるリズムの部分にラテン由来のレゲトンサウンドが使われているということだ。

で、このレゲトンを持ってきたってのがミソで、アッチャアッチャ発表当時の2019年のちょっと前の2017年とか2018年とかって英語圏でのレゲトンブームがすごかった。

(※レゲトンって何?という方のために、俺たちの青春、DYを貼っておきます)

つまり、変な曲にしか聴こえないアッチャアッチャに、実は、当時としては最先端のジャンルが確実に導入されていたのだ。
以前のnoteで、意外性のあるアーティストが最先端のジャンルを日本語でやることの重要性について力説したが、まさにそれが形となっていたのがアッチャアッチャだったのだ。
(少し主張が古いけど貼っておく。読んでください)

また、単にレゲトンを日本語でやるといっても簡単なことでは無いはずである。
レゲトンという音楽は原語が脚韻を踏みやすいスペイン語であるから、それを安易に日本語でやろうとすると、どうしても言葉数が少なくなって安っぽくなるし、反対に言葉に厚みを持たせようとすれば言葉数が多くなってレゲトンのリズムとの相性が悪い。
また、アイドル楽曲は後ろで色々な音が鳴っているのがスタンダードである一方、レゲトンというジャンルはインプレッシブな中高音のフレーズのループと既述のリズムさえあればある程度完成してしまうシンプルな構成であるため、安易に、レゲトンをアイドルが歌っても、アイドル楽曲としては物足りないものが出来上がってしまう恐れもある。そういう意味では日本語圏のアイドルがレゲトンをやるというのも難しさがあるように思われる。

でもそんな困難性をよそに、この楽曲には変な安っぽさも感じないし、レゲトンとしてもまともな一曲となっていて、何よりアイドル楽曲としても優秀である。
(個人的にはモーニングの"スカッとMy Heart!"と並んでユニゾンで歌っているのが気持ち良い楽曲最優秀賞)

アッチャアッチャがこれほど良い楽曲に仕上がっているのは、この楽曲に「インド」のようなトンチキ要素が仕掛けられているからなのだと思う。
サウンド面に関していえば、上述のようにレゲトンを導入するだけでは物足りなくなってしまいそうなところに、インドの音階のメロでトンチキスパイスがかけられることでサウンドの厚みが出ている。

まあ、作曲を担当された星部ショウさんのラーナーノーツによると、制作ではまず先に「インド」というコンセプトの土台があってそれを元にサウンドができていったようなので、さっきまでの論とは逆で実際には「インド」があっての「レゲトン」というのが真実なのだそうだが、そうであったとしても、この「インド」というトンチキコンセプトの存在が最先端ジャンルでありつつも日本語での導入が難しいレゲトンの採用を可能にしたという事実には変わりなく、トンチキだと形容するだけでは語りきれない、この楽曲のエクスペリメンタルで挑戦的な要素を生み出す結果となった、とまとめることには変わりない。
他方、レゲトンのリズムが後ろで鳴っていることで、そのトンチキ加減にブーストがかかっているのもまた面白い現象である。

②歌詞

同様に、歌詞の面でも「トンチキ」と片付けてしまって見えてこない良さがあるが、事実、ハロプロファンは歌詞の解釈とかそういうの大得意ですから、歌詞の良さに関しては、ファンの間でも盛んに語られている印象を受ける。

では何が良いのか。
例えば、1番のAメロ、

どうしようか 不自由感
抱えている 四六時中
まじめちゃん?そうじゃないわ
朝昼夜 胸さわぐ
恋があたしのすべてじゃないけど
超矛盾 小宇宙の底で言うI miss you

このように、アッチャアッチャでは、端的に表現すると、恋愛が全てではないが真面目さが故に思うような恋愛ができないもどかしさを覚えるリアルな人間像が描かれていて、さらにそれを言葉数を多く費やさずにまとめているわけで、この点、作家・児玉雨子さんの歌詞の非凡さが際立っている。

と、ここまでがよく語られる歌詞の良さであるが、もう一つ、個人的に素晴らしいと思っているところがある。
(この記事の元記事でも取り立てて主張した)

その良さが最も現れているのが、大サビ前、

ぜいたく言わない 日々から逃げない
だけどつまらない人間じゃない
踊りたいの!

前の三つの「だけどつまらない人間じゃない」までは、既出の個人の恋愛と真面目さとのバランスに関するもどかしさを描いた部分であると言えるが、
大事なのは最後の「踊りたいの!」である。

この「踊りたいの!」の歌詞は、現実逃避の重要性を示しているのではなかろうか。
一見、真面目で良いように見えても、ある一方では恋愛がうまくいかん/そもそも始まらないみたいな感じで、現実はとっても厳しいんですよ。
だからこそ、「踊り」という現実の肉体的/精神的苦痛から第三の逃避場所へ逃げる手段を使って、現実逃避しちゃえば良いじゃないかと、そういうことを言っていて、ここに真理があるというか、個人的には首がもげるほどの共感があるというか、てか別にずっと逃避してれば良いんじゃん?ていうか。

よくある「歌詞でめっちゃ共感を誘う」だけでは止まらない、ネオな歌詞になっているのだ。

さらに先のサウンドとの関係で言えば、この「踊り」っていうのも良くて。コンセプトである「インド」にしてもレゲトンという音楽ジャンルにしても、特段「踊り」の要素が強いのだが、サウンド面との整合性がきちんと取られている。だから、ここで例えば、河島英五みたいに「飲んで飲んで」とはならないんですよ。
(アンジュが「飲んで」とは歌わないか、、)

音色がインド×レゲトンである時点で、真っ向勝負というか、真っ当な歌詞を当てようということにはおそらくならないはずで、一見すれば「変なサウンドには変な歌詞を」というような意図が感じられる歌詞の内容になっている。
でも、トンチキのその先に足を踏み込めば、今どき人間のリアルな描写と、それからさらに一歩進んだ「現実逃避」のススメにまで歌詞の内容が展開されている。

③アンジュルムという集団の当事者性

そして、アッチャアッチャにおけるアンジュルムの当事者性に関しても凄まじいものがある。
歌い手には、その当事者性があるかないかで歌の伝わり方が変わってくるということは自明である。
ここで、アッチャアッチャにはアンジュルムの集団としての当事者性があるのかを検討してみる。

アッチャアッチャ以前のアンジュルムには「既存のものを打破していく、人々のレベルアップの精神や気持ちをレペゼンしてくれる」というイメージがあった。
それを踏まえれば、先の一連の恋愛のもどかしさを代弁する詞については、確かにイメージ通りであったように思われる。
しかし、「踊りたいの!」に関する現実逃避を指南する詞はどうであろう。
おそらく発売当初の段階では、多くのファンがおそらく「イメージと違うな」と思ったのではなかろうか、つまりあんまり当事者性を感じないというか、今までと違うアンジュがとっぴなことをやっているとしか思えなかったのではなかろうか。

しかし後になってみれば、この「踊りたいの!」の部分にこそアンジュルムの当事者性を感じられる。

それまで「現実の厳しさを代弁し、打破していく」というイメージのあった集団が、アッチャアッチャで脈絡もなく急に「現実は厳しいけど踊って逃げろ」と言い始めて、急に背負っているものを放り投げる訳ですよ。
一方、アッチャアッチャは、アンジュルムとしての第1章の終焉の輪廻転生時代を形作る楽曲だったという事実もある。
これらを勘案して振り返ってみれば、発表当初は当事者性無くとっぴなものにしか感じられなかった桃奈のパートが、一時代の終わりに添えられ、元々のイメージを一度清算した楽曲という意味で、今になって、必然性、当事者性のあるものに感じられるようになるのだ。
(まあ2021年現在のアンジュも色々なものを背負っているような気がしますが、、)

狙ったのか、たまたまだったのか、とにかくこの印象の変容具合はスゴまじいし、アッチャアッチャを発売当初の印象で「トンチキで変な曲」と片付けてしまっていては、この当事者性の存在にはなかなか気づけない。

"Love is Accha Accha"のトンチキのその奥

これまで多用してきた「トンチキ」という言葉の意味を改めて考えてみると、「突拍子のなさ」や「脈絡・文脈の不連続性」、「突然さ」などを表した概念であるとまとめることができよう
(「え?なんでここで、シブがき隊が、ジャニーズが寿司?」みたいな感じが「トンチキ」)

しかし、主題のアッチャアッチャに関しては、その外見は明らかに変な曲なんだけど、一方のその外見の奥では
サウンド面では「コンセプトであるインドと踊りの共通点があって英語圏でも流行ってるレゲトンを持ってこよう」とか、
歌詞の部分は「踊りと関連の高い現実逃避をネタに書いてみて一時代を終えるアンジュの既存のイメージを清算するような歌詞にしてみよう」というように、
トンチキとは対極にある「合理性」や「脈絡・文脈」、「整合性」がたくさん存在し、それらが数珠繋ぎになっていることを確認してきた。

つまり、アッチャアッチャのトンチキの奥には、文脈や当事者性をもってファンを唸らせうる要素がたくさんあるのだ。

そして、このアッチャアッチャの奥の部分こそ、楽曲の真の部分であるように思われる。
実は超絶最先端なサウンドで、歌詞では人々の恋愛を代弁してくれてるのかと思ったらよく考えたら現実逃避してるだけ、それでいてアーティストとしての時代を区切る重大な曲、それが"恋はアッチャアッチャ"なのである。
めっちゃ面白くないですか?

だからこそ、「トンチキ」で片付けるだけでは入ってこないアッチャアッチャのメッセージや面白さが、より多くのファンに今からでも伝わることを望んでいる。
(まあここまで書いてきたことのほとんどが自分の妄想だけど)

全アンジュファン、いや全ハロプロファン、いや全人類が、アッチャアッチャから現実逃避の重要性のメッセージを受け取って、精神でも肉体でもない、第三の世界へ解放されれば良いのだと思います(結局こういうことばっかり言いたいのよね)。
(変な思想・信条はないので安心してください。)

[参考]

・星部ショウ オフィシャルサイト ライナーノーツ

・アンジュルム "恋はアッチャアッチャ" (2019)  歌詞


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