見出し画像

音楽冒険記 『RAY』と自分

選択肢がないということは辛い。

そして、中学時代というのは自分で考えているようで思考の範囲には限りがあり、今思えば怒って良いこともヘラヘラ笑ってやり過ごしたりする。
気を病んでしまうこと。
メンヘラという言葉があるが、精神的に参ってしまう状況というのは、選択肢を見失った状況にあるのではないだろうか。それはテストには出題されることはない、考え方の知恵だとか、モノの見方というもので紐解いていくことが出来る。と、20歳を超え思うようになった。

当時の僕にとってBUMP OF CHICKENは、初心者の自分とうまく折り合いをつけて生きていく方法を一緒に探ってくれるようなバンドだった。

それまでの人生において、自分以外の価値観を取り入れて生きるということをしてこなかった。
小学生時代は、なにか軋轢が起きれば自分はそうゆう人だからと割り切れていたし、自分を否定する人間を健全な距離感で嫌うことも出来た。
その後、中学校に入学し、はっきりと明確な悪意を持って友だちがいなくなった。ニキビが多く積極的ではない性格を気持ち悪がられクラスでないものとされた感じがあった。実際に人を殴ったり、悪態をつくこともあった。
自覚的ではないにしろ不安定な時期に、たまたま観ていたMステでライブバージョンの「ray」が流れたことが僕の音楽の初期衝動となった。

「いつまでどこまでなんて 正常か異常かなんて 考える暇もない程 歩くのは大変だ」

初めて聴いた時、なんとなくただぼんやりと意味の羅列とは関係なしに腑に落ちる感覚があった。初めて音楽に心を開いた瞬間、自分がつらい状況だったんだということを初めて自覚でき、抑えていた感情の波が畝り出した。

『ロックンロールは鳴り止まないっ』の如く、TSUTAYAへ走り込み、自分の意志でアルバムを通してちゃんと聴いた。初めての経験だった。(初めては関ジャニのアルバムのだったかもしれない)

関ジャニといえば、関ジャムにBUMP OF CHICKENが出ていた際、「ray」でのテレビ出演は曲が求めていたから行ったといったような旨の話をしていた。本当にその声を拾ってくれてよかったと思った。

『RAY』は、インストの「WILL」から始まる多幸感溢れる音像や、自分の本当をわかってくれているような詞が詰まっている。まるで何処へもいけない少年が描く理想郷のようでもあり、閉ざされたコミュニティの中で唯一覗ける外の世界のようでもあった。僕は現実世界から目を背けるように音楽の沼にハマっていく。
当時の自分にとって選択肢がなく逃げ場もない中学校生活は、コテコテの10年代邦ロックのもつ明るさと、その裏にある生き方のレシピや共感によって支えられていた。
帰り道の夕景に美しさを感じること。冷たい風が切ないこと。人間関係の中で生まれる軋轢で生まれる表現があること。色々なことを教わった気がする。

音楽の初期衝動がビートルズやセックスピストルズにある人を羨ましく思ったこともあるが、自分の性格上その対象はBUMP OF CHICKENにしかなりえないのかもしれないと思うし、それを否定することは当時の自分を否定することに繋がる。
だからこそ、例え好きをバカにされたとしても、あのときのようにヘラヘラ笑って誤魔化したりせずに自分をしっかり持とうと思う。

「その時隣にいなくても 言ったでしょう 言えるんだよ いつもひとりじゃなかった」

アルバムの最後の曲、グッドラックの最後の一節。
ひとりじゃない クラスの大多数から存在を否定されていたからこそ響いたこのアルバムを通して得られる大切な感情。時々思い出して生きていたい。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?