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自称一般人が高IQだった話

IQとは「知能指数」のことであり、頭の良さを測る尺度としてテレビなどでしばしば使われます。
実際はIQがその人の知性と直接結びつくわけではないのですが、そのように演出されることが多いように思います。
ロザンの宇治原さんのように、高IQであることを自身の特徴の一つとして積極的に活用されている方もいらっしゃいますよね。
そういった状況から、おそらく多くの方はこのように思うのではないでしょうか。

「IQは低いよりも高い方が良い」

これは本当にそうなのでしょうか?
私はつい最近、病院でWAIS-IVという知能検査をとある事情で受けたので、その件も踏まえながら私が思うことをお話してみようと思います。

1.一般人だと思っていたら実は少数派のグループだった

「なんだか自分は他の人と感覚がズレている気がする」
それが私のここ数年の悩みでした。
仕事以外で他人とプライベートで交流する機会が増えてから、私はこの感覚を顕著に感じたのです。
物事に対する捉え方や考え方が自分と他の人とでは明らかに違ったんですね。
私は中道を行く一般人としての人生をずっと歩いていたつもりでした。
今までの人生の中で、特に大学や会社においては私よりも優秀な人は山ほどいたからです。
だから、最近になって他の大多数の人たちとも感覚が合わないと感じたことで、「もしかして私は知能が低いのか?」という考えが頭をよぎりました。
そこでメンタルクリニックでWAIS-IVの知能検査を受けてみたというわけです。

結果としては、私は極めて少数派のグループに属することが分かりました。
私の全検査IQは139という結果で、これは全体の中でも上位0.5%です。
高IQ団体として有名なMENSAへの入会資格はIQ130以上と言われているそうなので、十分高いIQと言えそうです。
つまり、私が思っていたのとは裏腹に、私はIQが低いどころか高すぎたのです。

(なお、WAIS-IVの検査を受けるための費用も目玉が飛び出るくらい高かったです……)

検査結果の部分だけ抜粋

2.世の中は平均的な人に合わせて作られている

ではIQが高いことは良いことだと言えるでしょうか。
その話をする前に、ある事実を言っておく必要があります。
それは、「世の中(というか日本)は多数派の人が快適に過ごせるような社会を目指して作られている」ということです。
例えば、身長が2m近くもある人は色々なスポーツで活躍できる可能性があると思いますが、日本の住環境や公共交通機関は2mの身長の人を想定して作られていません。頭をぶつけることが多くなるでしょうし、タクシーに乗るのも大変でしょう。

IQも結局はその人の特徴の1つでしかないので、身長と同じく平均的な人に合わせて世の中は作られているのです。
身長が高い人は物理的に遠くを見渡すことが出来ますが、私は別の意味で他の人が見えないものが見えやすくなっています。
そのことで主に他人とのコミュニケーションという部分で軋轢が生まれてしまうと私は思っています。
例えが難しいですが、「私はラーメンが好きなので毎日食べたいです」と言っている人が全くラーメンを食べてないとか、「東京から大阪のUSJまで遊びに行きたいです」と言っている人が東京駅から東海道新幹線ではなく東北新幹線に乗ろうとするのが見えてしまうという感じです。
どういうことかというと、他人の言動の一貫性がない部分や矛盾している部分、おかしな部分というのが見えやすいのです。
そしてそれを馬鹿正直に指摘してしまえば相手から不評を買うので黙っていなければなりません。

他にも、普通の人が常識と思って疑わないようなルールや規則についても、そのおかしな部分に気がついてしまいます。
それを真正面から指摘しても徒労に終わるだけなので、何とかしてルールを変える方法を考えるか、あるいは渋々と納得できないルールに従うという選択を取ることになります。つまり、どう転んでも疲れるということです。
何度か真正面からルールのおかしな部分を指摘したこともありますが、「何いってんだコイツ」という目で見られた後、「いいから黙って従え」というお言葉をいただくことになります。正しさや理屈だけでは人は動かないので当たり前です。

こういった私の経験を考えると、高IQであることが必ずしも良いことだとは思えません。
気づかなくて良いことに気づいてしまう人まで考慮してこの社会は作られているわけではないからです。
つまり、IQというのは身長などと同じで単なるその人の特徴の1つでしかなく、それが極端に高かったり低かったりすると少数派ということになり、多数派が暮らしやすくなるように作られているこの社会では生きづらさを感じる場合もあるということです。
次の項からは私がこれまでに経験したことがある悩みのうち、「会話が難しい」というのと「気づかなくていいことに気がつく」という2つのことについて少し具体的に書いてみたいと思います。
そして、それらのことから私が思う結論を最後に書こうと思います。

3.会話が難しい

俗説なのかどうかは分かりませんが、「IQが20違うと会話が成り立たない」という話があるそうです。
さすがにこれは極端すぎると私は思いますが、会話が難しいと思うことは実際にあり、これはなかなか人に理解されにくい部分だと思います。
例を挙げると、私がある人とAという時事問題について世間話をしていた時のことです。
そのAという問題に対して私は以下のように頭の中で考えました。

このAという問題はおそらくCという結末で落ち着くはずだ。
というのも、過去にBという事例があったからだ。
しかし、私はこれが最良の結末だとは思わない。なぜならCという結末を許容するとDという問題が将来発生する可能性があるからだ。
このDという問題を発生させないために、Aという問題が顕在化した時にすぐにEという解決策を取るのも1つの手だったと私は考える。

分かりやすくモデル化すると上記のように書くことが出来ます。
このように書くと分かりやすいと思いますが、実際に会話しているとモデル化された状態で話をするわけではありません。
そして、過去に事例があったBというのは、Aの問題と一切何の関係もないというのがポイントです。結末に至るこれまでの過程に類似点があるというだけです。
私は無関係の2つの話を結びつけて考えることに違和感を持たないのですが、全く無関係の話が突然出てくることに戸惑う人もいるようで、このBの話をすると相手から「いや、私が話したかったこととは違う」などと言われてそこで会話が終わりになってしまうことがあります。
すると、Dという新たに発生する問題についての話や、最も私が話したかったEという解決策についての話が出来なくなります。
このように最後まで話が出来なくなることがあるので、気を使って相手の反応を見ながら話をするか、そもそも「Aという問題はCという結末で落ち着くと思う」だけで終わらせて、B、D、Eについては一切触れません。
話したいことがあっても敢えて話さないようにするわけですね。
その場合、相手からすると会話が成立していると感じると思いますが、私からすると会話が成立していないと感じてしまいます。表面的なことしか話せないからです。
もちろん、こんな小難しいことを毎回考えながら会話をしているわけではありませんが、こういうことは実際に起こることがあります(上記の例は実際にあったことをモデル化しただけです)。
これが私が思う「会話が難しい」ということです。

4.気づかなくていいことに気がつく

第2項でも少し書きましたが、私は人の話を聞いている時に気づかなくていいことに気がついてしまうということが度々あります。
例えばこんなことがありました。
とある病弱な人が1ヶ月近くツイートをしていなかったのですが、ある時ひさしぶりにこんな内容のツイートをしました。

「病気で1ヶ月ほど入院していました。とはいえ命に関わるような病気でもありませんし、もう大丈夫です。ただ、万全ではないので活動は少しずつ再開していきます」

これを見てどう思うでしょう。
おそらくですが、普通は特に何も疑問に思うことはなく、「大変だったんだな、体調には気をつけて頑張ってほしいな」と思うのではないでしょうか。
しかし、私の場合はそうではありません。読んだ瞬間にこの文章の中のほんの些細なおかしな部分に目が行きます。
そのおかしな部分というのは「1ヶ月ほど入院」という部分です。
コロナ禍のご時世において1ヶ月も入院する、しかもそれが命に関わるようなものではない、そんなことがあるのでしょうか。
内視鏡手術なら術後の経過が良ければ1週間もせずに退院となります(というか追い出されます)。
1ヶ月も入院というのは開腹手術のような大きな手術をする場合としか思えません。それどころか、開腹手術でももっと早く退院させられるのではないでしょうか。
もしかしたら私が知らないだけで、他にも長期入院するケースはあるのかもしれません。しかし、私の疑問が的を射ている可能性もあります。
そうだとすると、「この人は何か隠していることがある」という可能性に思い至ります。
隠し事をしている理由としては、「実際は命に関わるほどの重い病気なのかもしれないが、周囲に心配させないために嘘をついている」というものや、「読んだ人の同情を誘うことで、何か良からぬことを考えている」などが挙げられるでしょう。
他人に対して無闇に悪意を向けるような人ではないので、そうすると前者の可能性がある、と考えます。
しかしこれは、あくまで「ツイートの内容から」という視点だけの話であって、「このタイミングでこのツイートをしたのは何故か」という視点は考慮していません。そういった他の視点も含めるとさらに考えられる可能性は広がるでしょう。

こういったことを読んだ瞬間にロジックとして組み立てるわけです。
要は、他人の話をやたらと邪推する、ということですね。
しかも話の内容だけではなく、何故その話を今したのか等の周辺情報まで考えるわけです。
自分で言うのも何ですが、ただの面倒くさい人でしかありません。しかし、やりたくてやっているわけではないのです。
この例のように、人の話や行動のほんの些細なおかしな部分がとにかく目につくので、その人が本当は何を考えているのか理解できなくなることがあるのです。

5.結局のところ高IQは良いことなのか

私の学生時代の成績はかなり良い方だったと思います。
それが高IQに由来するものだったとすると、高IQであることは確かにメリットも多くあるでしょう。
しかし、社会人になってからはそのデメリットもかなり表面化してきています。
若い頃には知識や経験は自分が興味のあることにほぼ限られたものしかありませんでしたが、歳を取って興味が薄いものに対する知識や経験まで中途半端に身についたことで、そこにIQの高さが結びつきコミュニケーション上の問題が発生するようになってしまったのかもしれません。
3項と4項で述べたように、関係ないはずの話題が会話の中に急に現れたり、他人の言動の気づかなくて良い不自然さのようなものに気付いてしまうというのがその現れでしょう(それが良い場合もあるとは思います)。

高IQであることが良いか悪いかということを単純に言うことは現時点では出来ない、というのが私の結論です。上記のようにメリットとデメリットの両方を私は感じるからです。
しかし、高IQであるかどうかに関わらず、こういうことは皆が知っておいたほうが良い、と思うことはあります。
それは、2項で述べたように、「世の中は平均的な人に合わせて作られている」ということです。
その中で生きづらさのようなものを感じる場合は、自分を特徴づけている何かが少数派に属している可能性があるということです。
そしてそれはただそれだけのことでしかなく、その人の人間性や社会性が否定されているわけではありません。
そういう少数派に対して多数派が特別な配慮まですることはないと私は思いますが、少数派の人たちがいるという事実だけはそれぞれが理解しておくとみんなが暮らしやすい社会になるのではないでしょうか。
世の中は結局のところギブアンドテイクであり、少数派か多数派かは関係なく、みんなで配慮しあえればそれで良いのではないかと思います。
生きづらさを感じる人たちが1人でも多く心穏やかに過ごせる日が来るよう、私も日々取り組んでいけたらと思います。


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