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身体に刻まれた切なさと幸せ

「ぎゆってしていい?」って彼が言った。

その言葉に私は一瞬固まった。

嬉しすぎて、夢じゃないのかと想いが巡ったけれど、気がついたら私は私から彼の首に腕を回していた。涙が次から次に溢れてきて、私より少し背の高い彼に、私はまるでしがみつくように抱きついていた。私の身体を包み込むように抱く彼の腕を感じながら、私は切なさと愛おしさと最大の幸福感の中にいた。

何も考えられず、何も言葉を交わさず、ただお互いの体温を感じる時間。

どのくらいの間そうしていたか分からないけれど、彼がふっと笑い「口紅つけないでね」と冗談を言って、私たちはお互いの腕をほどいた。
口紅なんてつけてないもん。私は照れ隠しに少しふてくされたような表情で、でもきっととても幸せそうに言葉を返した。

今この時間が、私にはまだ信じられなかった。彼が私の一人暮らしの小さなアパートに来ていて、くだらない話をしながら一緒にビールを飲んでいる。

幸せすぎて。夢なら覚めないで欲しいと心から願った。

半月ほど前、お酒の勢いも手伝って、ついポロっと私の気持ちを彼に伝えた時、彼は少しだけ申し訳なさそうに、そしてとても優しく、ごめんねと言った。彼にはもうずいぶん長く付き合っている婚約者がいて、半年後には結婚することをわたしは知っていた。出逢った時から知っていたから、一生懸命ブレーキをかけていたのだけれど、私の気持ちは止まれなかった。大切に扱ってくれる彼の態度と時折みせる彼の弱さに、吸い込まれるように私は恋に落ちた。

いつものなんでもないLINEのやり取りから、なぜか彼が私の部屋にくることになった。

今、同僚と飲んでるから帰りに家に寄るよ。ビール買っといてね。

婚約者と一緒に住んでいる彼の家は、私のアパートとは反対方向だ。だからついでに寄るではなく、いや、いつでに寄るでも十分嬉しいけれど、わざわざ来てくれるというのが、一層わたしを浮かれされた。

急いで彼の好きなビールを買いに、近くのスーパーへ走る。そして、お気に入りのグラスを用意して彼を待った。
それからどれくらいたったのか、インターホンが鳴った。私の心臓は飛び出そうなほどにドクドク言っていた。そんな私をよそに、彼は軽く酔っ払って楽しそうな様子で、部屋に入ってくるなりラグの上に寝転がった。

私はとてもとても嬉しかったのだけれど、ドギマギしすぎていて、震える声で「お水でも飲む?」と声をかけるのが精一杯だった。立っている足も水をコップに注いでいる手も震えていた。ふと気配を感じて後ろに振り向くと、すぐそばに彼は立っていてこう言った。

ぎゅってしていい?

触れば一瞬で壊れてしまいそうなガラス細工のように、とても繊細で透き通っていて、宝物のような時間。わたしは彼の言葉、仕草、全てをこぼさないようにひとつひとつ拾い集めて、私の心の中に貯めていった。

その日私たちは夜遅くまで話続け、そのまま寝てしまった。彼は私の手を握ってくれていて、その温かさが私をとても安心させた。

眩しさを感じて目を開けると、彼も起きていて彼の顔がそばにあった。ほんの少しだけ見つめ合って彼はそっと私にキスをした。唇が微かに触れるだけの優しいキス。
帰るね、彼は言って私の部屋を出ていった。

私はまだ半分寝ぼけていて、記憶を失った人のように頭の中は真っ白だった。

ただ朝の光を感じながら、朝がきてしまったことが悲しくて、小さい子供のように泣きじゃくった。散々泣くと記憶はちゃんと戻ってきて、私のなかに残っている彼のカケラを感じた。昨日、取りこぼしてしまわないように一生懸命あつめたカケラ。それらを抱いて、わたしはまた眠った。



***

もうずっと思い出していなかった、若かった頃の恋。

なんで急に出てきたんだろう。ふっと笑う。手元にあるグラスに注がれたビールを眺めた。めったにひとりでお酒なんて飲まないのに、今日は仕事帰りにふらっとバーに入った。

これが原因かな、ビール。


10年以上も前のことなのに、強烈に感じた幸福感と切なさは、体に刻み込まれているものらしい。体の感覚だけが当時にタイムスリップする。その感覚に身をまかせながら、今はどこで何をしているのか全く分からない彼のことを想った。

幸せでいてください。


さぁ、帰ろう。残っていたビールを飲み終わって席をたつ。

ちょうど携帯が振動してLINEがきたことを告げる。「仕事おわったよ。今から帰るね。」と婚約者からの連絡。


わたしは幸せです。

届かないかもしれないけど、思い出の彼に伝えた。

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あなたにとって素敵な日になりますように(o^^o)
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高松 文恵

スキマの読み物

いそがしい日常のちょっとしたスキマに、息抜きに飲むコーヒーのような、読み物になりたい。
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