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矛盾がある人ほど残っていく話

これまでライターとして取材させてもらった人はトータルすると3000人ほどになる。多いのか少ないのかはわからん。

ちゃんと数えたわけでもスプレッドシートで記録してるわけでもないけど、名刺交換した数とか取材ノートの冊数とかから計算すると、だいたいそれぐらいだ。

取材させてもらった人のことはすべて覚えてる。と言えたらかっこいいんだけど、残念ながらそんなことはない。

たぶん記憶のハードディスクとかストレージ的なところにはちゃんと残ってるのだけど、インデックスまではされてないので現実的には「すぐには思い出せない」になる。

もちろん、それは僕のスペックの問題であって取材対象者の方々の魅力だとかそういうのとは関係ない。大変申し訳ありません。

それでも、ふとしたときに脳内で取材記憶が再生されるときもある。あー、そういえば、あの人もあんなふうに言ってたなとか、あれって結構本当の言葉だよなとか。

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だいたい脳内再生されるのは記事や原稿になってない部分が多い。

どうしてもその記事や原稿の文脈からは外れてしまったり、あきらかに「余白」の部分だったり、その言葉を使うと全体の構造上ちょっとした矛盾が発生したりするセンテンスだ。

文字数に余裕があれば、あるいは徒然なる雑文的な記事や原稿なら、そうした矛盾も伏線として回収したり、うまく構成する方法もあるのだけど目的性がはっきりしてるもの(ビジネス系の記事とか)だったりすると、そういう「余計」なものは削る。

そうして文字になったものより、削られてどこにも行き場所のなかった言葉を何年もたってふとしたときに思い出したりするのだ。

そもそも人間は矛盾した生き物だ。いまさら言うまでもないことだけど。

努力しないとと思いながら同時にどこかで楽できたらいいなと思ってるし、こっちが正しいとわかっていながらそっちだけじゃおもしろくないなと感じてたりする。

取材の中でも、何かをひどく愛しながら同時に壊していく話も聞くし、そこに愛はないけれど愛すべきものを創りだせてしまう人の話も聞いたりする。何でもスマートに話せてしまう人より「残る」ものがある。

なんでだろう? 人間がそうプログラムされてるからとしか言いようがない。とすれば何か矛盾にも効用があるのかもしれない。

たとえば「自分には矛盾なんて1ミリもないよ」と言い切れる人より「矛盾だらけさ」と堂々と言える人のほうがなぜかちょっと信用できたり。

自分にも他者にも矛盾がつきまとうことを認めて、それでもまあなんとかやってくさ、その中でも日々をちょっといいものにしたいんだという人の話を僕はずっと大切にしている。

なんでもないときに、そんな矛盾に励まされたり癒されたりするのだ。