そろそろ友達の定義をアップデートしてもいいんじゃない?
深い話をなぜか会っていきなりできてしまう人がいる。なんならリアル初対面であっても。
お互いに自分の思考の畑を持っていて一年中休まず耕してる人。育てているテーマは違っても、まるで同じように畑を耕す者同士通じるものがあるみたいに話せる。
そういう人も「友達」と呼んでいいんじゃないか。幼馴染とか同級生、部活やバイトが一緒だったとか同じ職場、同じ趣味とかのくくりだけが友達じゃなくて。
もちろん、付き合いの年数でも共通体験の多さでもなくだ。
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ほとんどの人にはどうでもいいことだし、ネットで全世界に発信する意味もないのだけど、僕は友達が少ない。ほぼゼロと言ってもいい。
なのだけど話せる知り合いは無駄にいる。会えばなぜかお互いの黒歴史も交えて深いダークな話をし合う相手もいる。このnoteやツイッターでも、リアルに面識ないけどやりとりする人も増えた。じゃあそういう関係って「友達」なんだろうか。
わざわざの平田さんが『B面日記』に書かれてたのも、「ああ」と思った
詳しくは書かないけれど、自分が五感で感じたものをわりとストレートにぶつけられて、それが通じてお互いそこからいろんな話が広がる相手。
そういう人は「人間」として信じられる。そこって僕もすごく共鳴する。共感じゃなく共鳴。頭で考えるより早く自分の中の何かが震えて、魂レベルで相手に話したくなるのだ。なんか気持ちわるいこと言ってるけど。
思うのだけど、お互いの属性とかそういうのを全部取り払って「ただの人間」として存在したら、もう残るのは「何を見てるか」「何をどう感じるか」ぐらいしかないんじゃないか。すごく動物的だけど。
お互い「動物」として信頼できて大丈夫な相手なら一緒にいられる。だから僕は「五感」から入ってくるものを通じて深いところまで話せる相手を友達っぽく感じるのかもしれない。
で、そういう関係性の相手ほど、ふしぎに長い付き合いでも何でもなく、ましてや「友達」カテゴリじゃない場合が多い。
長らく、そんな関係性は友達じゃないと思っていた。いつの時代につくられたのかわからない「謎な友達定義」が幅を利かせていたからだ。
だけど、もうそういうのが面倒くさい。
なによりいまの時代に合ってない。面と向かって会わなくても、魂レベルで親近感を感じる相手とだって出会うことがあるし、リアルに会うのは数回ぐらいでも、いきなり「あれ、前々前世でお世話になってました?」と思ってしまうぐらい考えてることの距離が近い人もいるのだ。
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最近何やってる? とか無理に話題を探さなくてもいい存在。何かテーマ持って生きてる人。僕の場合はそういう人に会うと友達感が勝手に芽生える。
べつに、付き合いの長さや共通体験の多さとか、一緒にご飯とか遊びに行くとか、雑談をLINEでするとかが友達の定義じゃなくていい。
双方が認定しないと友達とは呼べないみたいなものからも離れて、友達の定義をアップデートしたほうが楽。なにしろ、「そういう友達ならいないこともないな」って思えるのだから。
そう考えるのは少数派なのだろうか。
#友達とは