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廃線跡という人生

廃線跡が好きだ。廃線跡とは主に路線が廃止されて使われなくなった鉄道跡のこと。といっても、いわゆる廃線マニアではない。藪を分けて遺構を探り当てたりまではしない。

廃線跡の位相というか世界観が好きなのだ。「跡」として現実にあるのに、現実から切り離されたどこでもない存在。そのどうにもならなさそのものが好きなのだ。なかなかめんどくさいなと自分でも思う。

どうしてマニアでもないのに廃線跡に惹かれるんだろうか。

なんだろう。廃線跡は誰かの人生そのものだからなのかもしれない。市井の人のどこにも属さない歴史。生々しくて、だけどひっそりと埋もれていて、ほとんど語られることのない乾いた物語。

辿っていくと、いまからは想像できない栄華に彩られた瞬間があったりする。祝福に満ちた時間が過ぎ去り、風が舞う中に佇むだけの静かな時間が訪れる。その人、いや、その鉄道に何か本質的な変化があったわけでもないのに。

人も鉄道も思いがけないことで軌道を外れることがある。まさに人生だ。

廃線跡は人生がうまくいったりうまくいかなかったりする象徴とも言える。僕にとってはだけど。

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写真は2012年に廃止された長野電鉄屋代線の跡。この電車に乗って通学していた人の話を聞かせてもらったことがある。

細かな話は省くけれど、その人にとっても鉄道が人生から切り離されたことが無意識レベルで何かを物語っていたように感じた。

安っぽい郷愁などではない何か。誰にも語られなかった想いは、黙って静かに運ばれていく電車の中に降り積もったままだ。

二度と開くことのない扉の向こうでは、今日も誰かが来ない人を待っている。