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「いいね!」や「スキ」がなくても踊り続けるのだろうか?

お祭りの輪の中に入れない、というか入らずに外から見ているほうの人だ。熱狂の渦が外気に触れて湯気を立てているのは趣が深い。

べつに祭り全般が嫌いだったり苦手なわけではない。ややこしいな。

学園祭の実行委員とかやってたし、なんなら学校にずっと泊まり込んで祭りの仕込みとかするのも苦じゃなかった。大人になってからも数日間のイベントだけど準備に1年近く掛かるプロデューサーをしたこともある。

まあ、客とか演者より裏方体質なのかもしれないけど。

でも、裏方とか観客として好きなのは現実世界で行われる「祭り」のほうで、インターネッツの世界で日々、現れては消えていく祭りにはあまり興味がない。

今年の初めぐらい?(偶然知っただけなのでちゃんとは把握してない)に、Instagram上で「ただの卵の写真」が世界中で異様に盛り上がって数千万の「いいね!」世界記録を更新したとかあったらしい。

そういうのも「あったことは知ってる」ぐらいで、もちろん乗っかりもしないし「いいね!」もしない。

数千万の「いいね!」が純粋な「いいね!」であることもなく、その中にはポカンとするほどのミーム(利己的な遺伝子でドーキンスの唱えたものとは異なる)も含まれていて祭りが増殖していったのもわかりやすい。

で、ふと思うのは「結局、僕らは(あえて大きな主語を使うけど)何がしたいんだろう?」ということだ。

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ネットに意味なんて求めなくてもいいのかもしれないけど、「いいね!」や「スキ」で盛り上がったり盛り下がったりするネット世界の祭りが非日常の特別なものじゃなく、日常的になってしまってるから、つい考えてしまう。

最近、Instagramが「群衆心理的なユーザー行動を抑制すること」を狙って、「いいね!」数に注目するのではなく、フォローしている相手のコンテンツそのものに注意を払うような仕様変更(いいね!数を投稿した本人しか見れないようにする)を検討しているニュースが流れてた。

「いいね!」や「スキ」が消滅した世界でも、僕らは踊り続けるのだろうか。

それとも、ざわめく程度の「日常」に戻って、出会った人にその人の顔をちゃんと見てから、その日の気分で何か返すようになるのだろうか。