東口雨の夜

それは身体から出た言葉

どうしようもなく掴まれる言葉がある。言葉は整ってるのに自分をすり抜けていく言葉もある。引っかかりもなく。

何が違うんだろう。

もちろんいろんな要素が絡んでくるのだけど、相手との関係性、有名無名バイアスなどは抜きにして「言葉」そのものにフォーカスして考えてみる。

これ、ほんと簡単なようで難しい。いやもう、とっくに現代人は情報多すぎて言葉の摂取まともにできなくなってるから。

国語力とかリテラシーとかそういうのではなく、案外僕らは言葉と向き合ってるようで向き合ってない。

相手との関係性とか「誰が言うか」に引っ張られて、「言葉」そのものをちゃんと感じてないことが結構あるんじゃないか。

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誰かの言葉に掴まれるとき。そこには外せない要素として「身体」あるいは「身体性」がある。

「身体」とはまさに僕やあなたそのもの。「身体性」とは身体の性質とか特質、まあ身体の内部で行われている活動全般とそこから生まれる外部への出力と考えるといいんじゃないかと思う。

またややこしいこと言ってるけど、べつに変わった話ではなくこうしてnoteを読んだり書いたりしてる人なら誰もが行ってることだ。

たとえば、何か頼まれて「わかった」という言葉を発するとき。

身体が肉体的精神的に疲れてるときの返事だったら、そういう「わかった」が発信されるし、肉体的にも精神的にもフラットなら、軽い「わかった」が出力される。

言ってること伝わってたらいいんだけど。

何が言いたいのか。言葉はあたり前だけど「身体」から「身体性」を伴って生まれるってこと。noteに書く言葉も、リアルに誰かに話す言葉も、誰かに書く手紙の言葉、LINEのトークも。

身体をちゃんと使ってる言葉、身体を無視してない言葉には、テキスト以上の何かが宿ってる。言葉選びや文章的なテンションのことじゃない。静かに淡々と流れる言葉や文章でも「ひっ」とするものは宿る。だから掴まれる。油断しててもしてなくても。

そういう表現は好きじゃない人もいるかもしれないけど、そこはときには意識でどうこうの次元じゃなかったりする。


何を根拠に? 根拠は自分の身体だ。

誰かの言葉に脳だけでなく身体そのもので読めるときがあって、そういうとき言葉はただの言葉じゃなく人間そのものなんだなとすごく思うから。

最近も、ある人の文章を読ませてもらってそのことを感じた。どうしようもなく身体から掻き出された言葉。

まだ世に出てない文章だけど、言葉がちゃんと息をしていて、その冷たさも温もりも、どこか他の星に移り住んでもきっと思い出すだろうなというものだった。


きょうの気分