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自分のイメージはつくれるけどつくらない

あえて、つくらなくていいや。と思ってしまう。

ライティングを通してブランディング(なんか手垢でべとべとするけど)とかグロースハック周辺に関わってたりもするのに、いいのか。

ダメだろう。イメージ大事。わかってます。だけどなぁ(心の声)。

なにを言うかよりも、だれが言うか。なにを書くかよりも、だれが書くかで世の中動いてるのは本当のことだし、だからなおさら「イメージ」をちゃんとつくれてないと、だれにも存在が認識されない。

それだけじゃない。みんな忙しくいろんなものに時間を奪われながら日々生きてる中では「イメージ」って、さらに重要だ。

相手のことをすごくわかってるわけじゃなくても、いやだからこそ「なんとなく、いいイメージがある」ものには時間を割いてもいいと思う。

時間がすごくあれば、ちゃんとその対象と向き合って魅力の源泉まで探るかもしれないけど、たいていの人はそんな余裕はないし、そこまでしたいとは思わない。

だから「イメージ」なのだ。なんとなくいいイメージが感じられればそれでいい。

じゃあ、自分は相手(メディアの読者とかフォロワーとか)に「どんなイメージ」をつくってるのか。

仕事なら、そこ全力で考えましょうというところだけど、正直なところ僕の場合、noteに関してはとくに考えてないのだ。←問題発言。


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たとえば、最近も、こんなことがあった。


「#ヨーグルトのある食卓」の投稿コンテスト(コンテスト応募という意識じゃなかったのだけど、その話はまたどこかで書きます)で僕が書いたのが【準グランプリ】になった。個人的には「準」がついてるのがなんかいい。準チョコのようなオルタナティブ感。

おかげでひっそり書いてるnoteをわざわざ読みに来てくれる人もいて、その中にはフォローまでしてくれる人もいる。ありがたい。

だけど、イメージ。いつもヨーグルトみたいに甘酸っぱい話を書いてるわけじゃない。

それでも、わーふみぐらさんてこういうの書く人なんだに寄せて、そういうのだけ書くようにすればイメージはつくれてしまう。

じゃあ、本当に毎日そういうの書きたいのかといえばそれはない。自分がそもそも読みたくない。読みたいことを、書けばいい。

だから僕のnoteは、イメージがとっ散らかってる。本当はそういうのよくない。「この人はこういうnoteのイメージ」が構築されてるほうが「読まれる」のだ。わかっていてやってない。

人は無意識に「この人はこういうの」というイメージを持つ。

この前もUXデザイン系の書籍で初めて一緒に仕事する編集者に、「ふみぐらさん、こういう分野得意そうですよね」と言われたけど、どこにそんなイメージがあるのかびっくりする。

そりゃまあ書籍として成立するように書けるけど、どう考えてもそんなふうにちゃんとデザインして生きてない。

だけど人の認識もイメージも非対称で、相手の持つイメージと自分の認識するイメージが一致することなんてなかなかない。そんなものだと思う。

それだったら、なんかすごいがんばってイメージつくってる人にならなくてもいいし、そもそもそんなの成立しないんじゃないのか。

べつにわざわざイメージつくらなくても、つくるつもりなくても、なにを書いたって自分の「根っこ」から繋がってるものは芽が出てしまうものだから。

そうやってどうしようもなく出た芽のような何かを「好きでごわす」と言ってくれる人もいる。それは逆説的だけど、どんなにがんばってつくったイメージよりも「イメージ」になってたりするのだ。