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浅生鴨さんに会ってきたかも(その5)今のネットはクリーンすぎるから

迷子の秋に重版出来!浅生鴨さんの新刊『どこでもない場所』の周辺に漂っているものたちが気になって始まったインタビュー。今回はネット時代と世の中に必要なノイズについて。前回はこちら

あれはたしか2000年前後だった。インターネットの時代が本格的にやってきて、これからは誰もが発信者になることができ、これまでなら陽の目を見なかったニッチなものや人にもスポットが当たるようになり、きっと世の中は大きな力を持った企業やメディアだけが動かすものではなくなるだろう。

そんなユートピアな予言がまことしやかに流れていた。あれから約20年。素晴らしい福音のとおり――というわけにはいかなかった。

相変わらず、いやもしかしたらネット時代以前よりも世の中は混沌として、大きな力を持つものはネットでさらにその力を増幅させ、小さきものはますます情報の渦に呑み込まれている。

大きな力に乗ったもの勝ち。インフルエンサーとか、呼び方はなんだっていいのだけれど「影響力」というものがすべてにおいて先頭に立ち、世の中を動かしている。どこに向かうのかはわからないまま。


そうなのだ。もはやネットは福音の世界でもなんでもなく「現実」そのものである。2000年前後のネット黎明期(一般的な社会においてだけど)には、ネットリテラシーとは「ネットをうまく遊べる人」「ネットでのネタが通じる人」という意味も含まれていたのだ。

だから、いわゆる「くだらない発言」「下衆なこと」「よくわからない人」にも、そうそう目くじらを立てることなんてなかった。嘘とも本当ともつかないネタでも一緒に面白がって終わり。そういう意味ではネットはノイズだらけの世界だったかもしれない。

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「でも、今のネットってクリーンすぎて、ノイズが入り込まないじゃないですか。入るとしたら意図的なノイズなので。ネットのは本当のノイズじゃないから、そればかり見てると役に立たないものの良さがわからない

浅生鴨さんは言う。町の中に、よくわからない人がよくわからないまま存在するノイズが排除され、ネットの世界でもそうなっているんじゃない? と。

今のネットで紛れ込んでくるノイズは、言ってしまえば“ネタ”として狙って投下されているもののほうが多い。そうなってしまうと、もはやノイズすら「役に立つもの」になってしまう。むしろ、『どこでもない場所』の行間に潜んでいるもののほうが本来のノイズなのだろう。おかしな話ではあるけれど。

「ノイズって本来、情報ではないので。情報と情報の間に埋もれている隙間でしかない。だからノイズはたぶん言葉では伝わらないんだと思うんですよ」

僕もノイズは好き(一応、念のためだけど騒音や嫌がらせでしかないノイズのことではない)なので今回、浅生鴨さんとノイズについてこんなに話せたのは僥倖といってもいいぐらいだ。意味わかんないと言われるかもしれないけど。

なぜ、浅生さんは広い意味でのノイズをちゃんと拾えるのか。その理由の一つには音楽業界での経験があるのかもしれない。


「音楽もそうなんですけど、今ってレコードつくるとき、ドラム録って、ベース録ってギター、ボーカルって順番にトラッキングしていくじゃないですか。それで、ミキシングしてバランス調整して最後マスタリングして完成。なんですけど、今は、そこの工程に余計なノイズを消していく作業が入ってて。

たとえばギターも演奏してないときは待ってる。それで自分のパートが来たら弾きだす。演奏してないところは無音が続いてるからオフにしちゃうんですよね。あらゆるところで、そうやって音が鳴ってないところをオフにしていくと、不思議なんですけどグルーブがなくなるんですよ。

元もと音が鳴ってないからオフにしても関係ないはずなのに、無音を消すとグルーブがなくなるんですよ。無音っていうのは無音という状態で存在してるので、じつは音が無いのと無音は違うんですよね

無音という名の音。この話をしていて昔、ゴンチチさんから取材で聞いた話を思い出した。どんなにレベルの高い演奏でも微妙な不協和音(普通の人が聴いてもわからないぐらいのだ)が隠れているのだという。だけど、その微妙なピッチ(音程)のズレが全体としては音楽に艶を与えているという話だ。

もしピッチを修正して「完璧」な音にしたとしても、完成した音楽はどこかのっぺりとしたものになる。無音という音をオフにして消してしまった音楽からグルーブが失われるのも、きっと同じことなのだろう。

「昔の古いバンドのレコードをよく聴いてみると、奥のほうで譜面台が倒れたりとか、いろんな音が入ってるんですよ。それをひっくるめて音楽になってるので。今はそれを全部消してしまう。消し終わったときに音楽がいいものになってるかというと、そうではないんですよ」

人の会話も同じだと鴨さんは言う。「インタビューを録音したものをラジオ番組で放送する。そこで間を全部詰めちゃうと、もちろん話してる内容は変わらないし同じ情報量なんだけど、間を削ると何かが変わってしまうんですよね。その人じゃないものが存在してくる。上手なラジオディレクターとかは息を吸ったりする音も全部残してますよね。話し始める前、息を一瞬吸うんですけど、そういうのをちゃんと残してる」

たしかに、無音も息を吸う音も「情報」としてはなくてもいいものだ。ノイズといえばノイズだろう。だけど、そのノイズが本来伝えるべき意味ある情報をより豊かにしてくれている、あるいは支えているのだということを多くの人が「知らない」のである。もっと言えば「知らないことすら知らない」現実がある。

「でも何かが違うってずっと思い続けることになると思うんですよ。クリーンすぎる状態が本当は気持ち悪いんだってなってるけど、その何が気持ち悪いのかがわからない。

でも身の回りのものはノイズもなくて完璧で、これだけ完璧なのにどうして気持ち悪いんだろうっていう物足りなさ。本当はそこに無味無臭だけど必要な何かがあって、存在しないものをちゃんと存在させてあげるっていう作業をしなくちゃいけない。それがこの本でできてるとは思わないですけど」

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鴨さんはそう言うけれど『どこでもない場所』という本は、その中身もタイトルもまさにその通りだと思う。存在しないとされてるものを、ちゃんと存在させてあげているのだ。

個人的にもずっと持っていたい感覚になるこのタイトルはどこから出てきたのだろうか。

「僕が考えたんですけど、何にしようかなって話をしてるときにポロッと出てきたような気がする」

(装丁が)クラフト・エヴィング商會さんになったから、こういうのがってなった気がします。編集Mさんが補足してくれた。

「そうそう。だったらちょっと変な感じがいいよねって」

『どこでもない場所』という本のタイトルを口に出した時点で、その人の位相はちょっとズレることになる。僕はその感じがなんかいいなと思う。書店で「どこでもない場所ください」と、本当にフラットに書店員さんにたずねている状況をフェルメールの絵画にしたいぐらいだ。題名は「どこでもない場所をたずねる女」。

矛盾しているけれど、ノイズとはそういうもの。意図して生まれるのではなく勝手にどうしようもなく生まれるものなのだから。

そういう意味では僕がこうして書いているnoteだってノイズであってほしい。存在しないけれど本当は必要なものを存在させてあげたいという浅生鴨さんの想いというか静かな念の一部にでもなれればいいと思って書いている。

本来、新刊インタビュー的な記事の世界からは普通に逸脱してるし、とっ散らかってる。こんな体裁の記事に、普通は著者も編集者もOKを出さないだろう。というか、どこかで「直し」を入れたくなるかもしれない。だけど、鴨さんは原稿チェック的なことをしないのだという。

「本当にしないんですか?」と一応聞いてみると「しないですよ」と、あっさり言われる。

「面倒くさいじゃないですか。どうせ自分が言ったこともそんなに覚えてないし、自分が言ったこととして世に出ていく言葉も相手が捏造する必要もないじゃないですか。週刊誌のスクープとかなら別だけど、こういう原稿で何か意図的にどうこうしてやろうというのもないし。原稿チェックする必要性をあまり感じないというか」

まあ、その通りなのだ。原稿チェックするのが当たり前という業界の常識なのかルールなのかよくわからないけど、そもそものところで必要性のないものまでやってることもあるのかもしれない。だけど編集者としては正直どう思うのだろう。どう書かれるかわからないことの不確実さとか。編集Mさんにも聞いてみる。

「この本もそうなんですけど、私がこういう感じにしたいというので依頼してるから、こういうかたちになってるというのが他の作家さんより色濃く出るのかなと思ってて。もっとくだらない話を短くたくさん書いてくださいと鴨さんが言われてたら、全然違う本が全然違うスタイルで書ける作家さんだなってすごく思うし。

なんだろう自分のエゴの手放し方がすごいというか、こうじゃなきゃいけないというのがあまりないなぁというのがやりやすいところでもあり、やりにくい。あ、それは、いわゆるやりにくさじゃなくて自分がここに投影されてしまう度合いが他の本より大きい気がするんですよ。そこが気恥ずかしくもあるというか」

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編集者を気恥ずかしくさせてしまう作家。ここだけを切り取るとおかしなことになっているが、それぐらい本づくりでも鴨さんは自分からはこうしたいというものがないのだ。

「話の順番もとくに何も言われないし、帯の文言も何でもそうだし。節々にNOが来ないことによって作家さんをどう見せるか自分でできることの幅が広いから、こう見せてしまってはいけないんじゃないかという不安が他の人よりある気がします。でもそれを本当に気にされない。おもしろいというか、すごいなと」

だからこそ、全然違うところから出る浅生鴨さんのエッセイも読んでみたくなると編集Mさんがわりと真剣に言っていたのがおもしろい。なんなら鴨さんがまるで興味ないものについて延々と書いてるエッセイがあれば絶対読みたい。

「僕にとって原稿チェックって、ビルの前でガラスに映った自分見て髪の毛ちょっと直してる若者と同じようなもので、そんなところで直しても全体そんな変わらないんだからいいよっていう。それぐらいのもので、一つのインタビュー記事があって、ここの文言ちょっと変えたからって、そんなに細かいところみんな読んでないですからね。

みんな自分の読み方で読みたいように読むし、書く人も自分の書き方で書くから、本当に自分の言いたいことを100%がっちり言うのであれば自分でインタビュー記事書けばいいので。そこに人を介在させるっていうのは自分じゃないものが紛れ込んでくるおもしろさがあるわけじゃないですか。それこそがノイズなので。あ、こういうふうになるんだ!っていうおもしろさですよね」

ほんと、そうだと思う。だけど、この頃「自分はこうだ」というもの以外の誰かのノイズを許容できない人が増えている。他者がどう読み解くか、どう思うかなんて本来、自分のコントロール外のことであって、まして自分が発信したものを不特定多数がどう受け取るかなんてどうしようもない。そこを追いかけても仕方ないのだ。

それすら思い通りにならないと気が済まないという人が増え、どんどんノイズを消して「すべてが思い通りにきちんと伝わる」世界は、本当だったらおもしろくなったかもしれない可能性を消し去ってしまっている。完璧なはずなのに人を不安にさせたり、物足りなくさせるのはそうやってお互いに「自分の思い通りになるチェック」をし過ぎてるからかもしれない。

「原稿チェックもほんと、ノイズ取ってるのといっしょですから。自分が思うクリーンな社会をつくってるだけじゃないですか。自分では世の中にノイズあったほうがいいって言ってるのに、原稿チェックしてノイズ取ってたらおかしい。それは矛盾してる感じがしますよね」

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リアルもネットも「自分が思うクリーンな状態」でなければならないという謎の圧を受けている今の人たち。人生には目標がなければならないというのがクリーンな状態だとしたら「目標なんてあってもなくてもいいじゃん」というのは、クリーンさを邪魔するノイズなのだろう。

「誰しもが目標立てて、一つずつクリアして結果を出してってできるわけない。それはそれでありだよってなってないと苦しいですよ。僕も生産的な意味でのやりたいことなんてまったくないです。本を読むのと映画観るのはやりたいけど。本もつぎつぎ新しいもの取り込むというのでもなくて気に入ったものを何度も読むっていう。それも最近、みんなやらなくなってますよね。本も消費財になってる。映画もそうなんですけど。

今、あんまりレンタルって流行らないけど、ショップに行って何かおもしろい映画ないかなって探すんです。そしたらカップルが隣で「これ観よっか」って言ったら、もう一人が「それもう観たじゃん」っていう会話をしていて。べつに観たやつだってもう一回観てもいいんじゃないの? って僕は思うんですけど。それはなんんだかリストを端からつぶしていくような観方をしてるんだなと思って。好きな映画なら何度観てもいいのに。本も好きなページを何度も読んだりもするし」

好きな話、好きなくだりを何度も読む。『どこでもない場所』を読んだ人の感想でも「読み終わるのが惜しいから何度も戻って読んでしまう」というのがあって、まさにそれだと思った。

実際、今回の本の発売に際しては本の半分ぐらいの話はnoteで先に読めるように公開されている。それでも、またちゃんと本の体裁で読みたくなる本なのだ。そして、これはすごくふしぎなのだけれど、noteで事前公開されて読んだときとはまた違う匂いというか空気感がする。一度来たことのある場所なのに、何かが違って感じられるのだ。

「一回読んだからもう読めないネタバレするような類の本ではないですしね。役に立つものは役に立ったら終わりだけど、役に立たないものだから何回も読める」

浅生鴨さんはそう言って笑う。

「最初から使い方がわからない本なんです。砂漠に脚立が置いてあるみたいな状態。これどうしたらいいんだろう? という」

どうしたらいいかわからない。だけどすごく気になってしまう。コスパの人生からすればどうしたらいいかわからないものは盛大な無駄かもしれないけれど、そうでない人生を生きるなら砂漠の脚立を眺められるなんてすごく贅沢だし豊かだ。

正しいことだけ大事にして正しい目的地だけ目指してたら、そんな景色は見られないし、そんな人生は困る。

鴨さんの表現を借りるなら、こんなポイズンな世の中に「困った本が紛れ込むことで僕たちは困らなくなる」のである。

おしまい

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あ、ありがとうございます!
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ふみぐら社

村暮らしのライター/エディター Editing and Book Writing/人とことばと土を耕して生きてます。東京⇄信州。noteでは大事じゃないけど大事なことを。何をしてるかより「なぜしてるか」の深い話を聞いて書くひと→ https://fumigura.com/

『どこでもない場所』

9月上旬刊行のエッセイ集『どこでもない場所』(左右社)の案内やメイキングなどのあれこれをまとめるマガジンです。たぶん出版社の担当編集者もいろいろ書きます。書籍内容の無料公開もここで予定しています。また、いま絶賛募集中のインタビューのうち、noteに公開された記事はできればこ...
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コメント2件

当記事こそ、頭から尾まで、言葉にならないはずの、サンキャッチャーのようなノイズの光と影がちらちら興味深く何度もよみました。
tamamiazuma さんにそう言っていただけると、栗ごはんの栗が
いっぱい入ってたみたいにうれしいです!
ノイズの光と影が揺れ動いてるのをずっと見ていられるような
豊かさっていいですよね。
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