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「有名」にならないと物事は進まない。でもそういうことで「有名」には なりたくない問題

「企画はいいよ、わかった。で、その人、どれぐらいお客さん持ってるの?」

こういうくだりが、いつの間にか本の企画会議みたいな場所でも頻出するようになった。

まあ、これって本に限らずいろんなメディアやコンテンツでも同じでしょう。どれぐらい数字取れるの? どれぐらい動員できるの? 

そこがある程度読めないと(いろんな意味で)、渾身の企画であっても話が先に進まないのだ。

ストレートに言ってしまえば「無名な人の鬼すごい企画」を通すのはかなりの難易度で「有名な人のそこそこの企画」を通すほうが話が速い。

「有名」になればいろんな物事が動きやすくなる。それはもう炎天下のゾウガメと秋の夕暮れのリスぐらい違う。

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じゃあ「わかったよ。とりあえず有名になればいいんだろ」という話なのかというと、そういうことでもない。それをしたい人ばかりでもないのだ。

有名になれば物事が動く。それはわかる。でも、そのために「有名になる」というのは何かが違うのかもしれない。

その辺のことをBar Bossaの林さんが日記で少し書かれていたのが、「ああ」と思ったのだけど有料日記の中身なので気になる人は読んでみてください。

評価社会、レピュテーション社会。言い方はなんだっていいのだけど、どこかで何かをしようとすると、その対象物そのものの本質的な価値や魅力よりも、その外側の「評価」のほうが先に来るのがいまの世の中だ。

犬も歩けば棒に当たるように「評価」にぶち当たる。

べつに小難しい話ではなくて、食べログで店を探してもお店の中身(何をもって中身とするかもいろいろあるけど)よりも、まず目に飛び込んでくるのはお店の評価(点数)なのと同じ。実際、ページも点数がいちばん目立つように設計されている。

評価が高ければそれだけ多くの人が立ち止り、評価が低ければ立ち止まる人は少ない。

そんなの当たり前じゃんと思う人のほうが多いんだろう。なぜなら、「評価が高い=それだけ多くの人が支持している」「評価が低い=ほとんど支持されてない」という構造があるからだ。

だけど、そこにも落とし穴がある。評価が高くて多くの人が支持していることが、その対象となるお店やコンテンツの「質」を担保しているとは限らないのだ。これも当たり前すぎる話だ。

評価や知名度はつくることができる。いろんな手法を駆使したり、そこにコストとエネルギーをかければ。

もちろん最低限の質は必要だけど、逆に言えば質がそこそこあれば、そこからさらに質を追求するより、あるいは質を認めてもらうより「評価や知名度」を上げる戦略を取ったほうが経済合理性があるのがいまの世の中だから。

そう考えると、いい感じに話題になった山手線の新駅名「高輪ゲートウェイ」も経済合理性から見ればヒット作になる。実際、いろんな意味で「大人気」だし。

それでも、もし僕が山手線の新駅だったら「高輪ゲートウェイ」で有名になってうぇーいとは思わない。そういうことで有名にはなりたくない。ひっそりと「芝浜駅」と呼ばれていたい。夢でもいいから。