見出し画像

浅生鴨さんに会ってきたかも(その2)役に立たないでほしい

浅生鴨さんの新刊『どこでもない場所』の周辺に漂っているものたちが気になって始まったインタビュー。前回はこちら

悲劇と喜劇。人生は概ね、その狭間を行ったり来たりしている。

ある出版社の会議室で「組織に縛られない働き方のデザイン」という趣旨の企画で本の取材をしていたとき、斜め横の会議室では出版社の新入社員が集められ「正しい組織人の意識と行動を身につける」みたいな研修が行われていたこともあった。

ある程度、世の中を渡ってくると「まあ、そんなもんだよな」と温かい目で見つめることもできるけれど、それでも何かしら時空が歪んでるような気がした。

でもまあ、それはどちら側の世界も、お互いに自分の側の世界へと引き込もうとする力が働いているからだろう。組織に縛られないフリーな世界。組織という天体の法則性に満ちた世界。悲劇と喜劇。

浅生鴨さんの書く世界は悲劇なのか喜劇なのか。何かに縛られた世界なのか、縛られない世界なのか。それがよくわからないのである。わからないけれど、なぜか妙に馴染む。

『どこでもない場所』の帯にも「迷子でいいのだ」(浅生鴨さんの自筆だそうです)と書かれているけれど、それは迷ったままいつか答えが出るかもという感じでもどうやらないらしい。

         *

「ただ、自分はこうだったなというだけ。もしかしたらって思うのは、最近の“人生は成功させなきゃ意味ない”っていうのが嫌いで、何でもアクティブにとか、好きを仕事にだとかできっこないのに若い人を過剰に煽ってる風潮があまり好きではない。もっと僕らは這いずり回って生きてるんだってちゃんとわかったほうがいい。そう考えてるのは、どこかに入ってるかも」

浅生鴨さんのことばは、いつも正直だ。そのとき、そのときの「本当の自分」をちゃんと喋っている。『どこでもない場所』も、いつか書きたいと思っていたわけでもなく「発注されたから」「締め切りがあるから必死で」書いたんですと真顔で言われる。

「日々考えてたことをかたちにしたというより、(この本を)書いたら日々考えてたことが漏れたという感じ」

自分の中に、何かを書きたいというのはあまりないので、書いたものに結果的に混ざるというのが正しいみたいだ。

「でも、ものを書くってそういうことだと思う。必ず何か漏れて出てくるから」

ああ、それわかる! と思った。そうなのだ。何かを「書こう」と思って書くと、そういうものが漏れなくなるのだ。「書こう」とかあまり思わないで、結果的に書きたかったかもしれないものが「漏れ出てくる」文章のほうがリアルだし自然だし、本当のことばになる。

浅生さんは、自分ではべつに誰かに何か言いたいわけでもないのだと言う。何かに物申すみたいなのは向いてない。自分の日常だったり、過去の記憶を書く中になんとなく今感じていることが紛れ込むだけなのだ。だから、こんなことを本気で言う。

「むしろ読む人の役に立たないでほしい。役に立たないものを世に置きたいというか」

困るのだ。大正解すぎて困る。うっかりすると「うまいこと言ってる体」になってしまう。そうじゃない。逆説的にそういうもののほうが役に立つことがある(たまにだけど)のをわかってるから浅生さんはそう言うのだろう。

「そう。本当に役に立つものは、ふだんは役に立たないものなので。要らないものとして存在したいんですよね」

要らないものとして存在したい――。僕もその考え方というのか、アティチュードというか、そういうものがすごく好きだ。僕にそんなこと言われても困ると思うけど。僕自身も究極的にはそうありたい。

でも、なんでそう思うんだろう? 浅生さんになのか、自分自身になのか。僕の心の声が漏れる。

「なんですかね……」

一緒に考えてくれたのは浅生さんのやさしさなのかもしれない。

「一つは」と浅生さんが言う。「やっぱり責任がないっていう逃げ方もあると思うので。要らないものとして存在するっていうのは。そんな無責任な状態はないから楽。何でもそうなんですけど、遊びの部分がないとものごとがギクシャクしすぎちゃうから」

そうかもしれない。役に立たない、要らないものでありたいというのは壮大な“遊び”でもあるのだ。本来「遊び」にはいろんなものが含まれている。

落語の世界で言われる「フラがある」というのもそうだ。「フラ」とは芸人から滲み出る何とも言語では形容しがたいおかしみ。芸が巧いというだけでもなく、天性の資質というのでも言い表せない、ある種の“才”だ。

べつに笑わせようともしていないのに、その人がする何でもないことからおかしみが漏れ出てくる。そういう本物の芸人ほど、本当の意味で遊びを知っているのだろう。だからって浅生鴨さんが芸人だって言いたいわけじゃないよ。

たぶん、遊びはコストパフォーマンスということばの外側にあるものなので。今って、何でもコスパがって言っちゃう。人生のコスパとか。そんなのないのに」

言ってますね。恋愛はコスパが悪いとか、子育てのコスパとか。半分ネタだとしても、その文脈が通用してしまうところが怖い。

「ものごとには必ず対価が発生して、元を取れないとダメだみたいな発想で生きてるのがわりと不思議で。元なんて取れないし、そもそも何が元なのかもわからないし。たとえば本でも、まあ本に限らず企業はそれをやってるんですけど、絶対売れるものを短期間に安くパッとつくるのがコスパがいいとか。それで消費されるスピードがすごい。買う側も1円でも安くを追いかけて変なスパイラルに陥っちゃって。短期的に消費されるものしか残らないっていう」

        *

本当にその通りだった。消費されるものしかない日常は、どこか息苦しい。消費されないものがあると、なぜか変なものがそこにある感じになってしまう。

だけど、そもそも人はそんなに消費ばかりしたいのだろうか。逆説的だけど、本当は消費ばかりしたくないけど、消費されないものが見当たらないから余計に消費に走るんじゃないのか。不毛な恋愛をやめたい人が、不毛な恋愛をやめる苦しさから逃れたいから不毛な恋愛を続ける話と少し似ている。

「そこに気持ちって入ってないんですよね、コスパの中には」と浅生鴨さんは言う。

「100円払って100円以上のものを回収することだけが行われていて。100円払って超楽しい。100円払うこと自体が楽しかったらそれでもういいじゃないですか」

なのに。気持ちとか数字に表れないものとかが、どんどん切り捨てられている。100円払って楽しかったからそれでいい。そういうのってコスパでも何でもない。なんなら100円のものに1000円払ったって、楽しいものは楽しい。コスパなんて言ったら激しく割に合わないかもしれないけど。


でも人生ってそういうよくわからないものだと僕も思う。「コスパ保証安定コース」の人生と「コスパ保証なし不安定コース」の人生があったら、僕は後者を選ぶ。というか現にそうだ。

だからって、みんながそうすべきとも思わない。誰だって自分に合ってるほうを選んだほうがいい。ただそれだけの話だ。

コスパの生き方の話をしたとき、浅生鴨さんがポツリと言った。
「僕はそれが得意じゃないから」

=======

たとえばAということばにはBもCもDもKも含まれてる。人には依るけど。浅生鴨さんは含まれてるほうの人です。あえて、ことばのコスパで言ったらすごいと思う。

つづく