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ネットの石ころに救われてきた

本もそうだけどネットの文章にもずいぶん助けられてきたなぁと思う。救われたというか。

インターネット老人会なので、どうしてもブログより昔のテキストサイトの匂いがするものに郷愁を覚える。まあ、いくつか管理人やってた初期のmixiも懐かしいんですけど。

といっても侍魂さんみたいな超メジャーなテキストサイトにはあまり寄り付かず、ひっそりと誰が誰に言葉を吐いてるのかわからないようなサイトをふらふら歩いては、たまに「こんなところにこんな酒場が!」みたいなところに立ち寄ったりしていた。

そこで「天才では?」と思う書き手を見つけて、うわぁと震えたりしても、次に訪れたら影も形もなくなってるなんてこともよくあった。

今ではメジャーになった作家さんの無名時代の文章(やっぱり上手い)に唐突に出会ったこともある。そのテキストはいまでもあるんだけど、もちろん出せない。

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こういうふうに書くと、ほんと2000年代のインターネッツってアンダーグラウンド感あるな。なんでだろう。

だけど、僕のこころにざらっと残ってるのは、そういうことじゃないんだ。

仕事で文章を書いていて、何が本当の言葉なのかわからなくなってしまったとき、文章も構成も破たんしてなくても「空っぽ」な感覚に襲われたとき、僕はネット宇宙に点在していた無数の名もなき文章に救われてきた。

その文章には、大勢のフォロワーの気配もバズの匂いもしないのだけど「衒いのない人間の言葉」だけが持つ、どうしようもない生々しさがあった。なんなら生きてる人間よりも人間を感じさせてくれるものさえあった。

そんな言葉を拾っては「あ、これなんだ」という確認作業のようなことをしていたのだ。大げさにいえば生き返った。

岸政彦先生の言葉を引用するなら

誰にも隠されていないが、誰の目にも触れない

無数の断片的な言葉たち。ここに私がいます、何かがあります的な主張もなく、ただ「在る」言葉。なんていうか路傍の石みたいなもの。

路に落ちている石ころに何の意味があるのかなんて誰も考えないし、考える必要もない。ただそこに在ることがすべてなのだ。

読ませたいみたいな書き手の変な欲がない。ただ「在る」文章。そんな文章に救われたなんて、きっと意味がわからない。

もう今は、そんな世界はネット宇宙からもほとんど消滅し「意味」と「目的」あるものたちに置き換わっている。もし、そうでないものがまだ存在していたとしても最適化の名のもとに、億万光年ぐらい向こう側に追いやられているだろう。

べつにそれでも石ころのような言葉たちは何とも思わない。それでいいんだと思う。僕にとっての価値も何も変わらないのだ。